ANMELDEN紛争地特派員として海外に赴任して三年目、私、北原紗月(きたはら さつき)は砲撃による爆発に巻き込まれ、記憶を失った。 重度のPTSDを発症し、その後の二年間を海外の専門医療施設で過ごした。 そして二か月前、ようやく自分が何者なのかを思い出した。 帰国した日、空港には、親友と夫がそろって迎えに来ていた。二人とも、帰国した私以上に泣いていた。 久世直哉(くぜ なおや)は目を真っ赤にしながらも、以前と変わらない優しい口調で言った。 「新しい部屋はもう使えるようにしてある。今日はひとまず、そこで休んでくれ。仕事が片づいたら、夜に顔を出す」 けれど私は、以前暮らしていた家へ戻った。 玄関の扉を開けた瞬間、壁に飾られた結婚写真が目に飛び込んできた。 花嫁は私ではなく、親友の高瀬彩香(たかせ あやか)だった。 背後で、鍵が回る音がした。 仕事に戻ったはずの直哉が、彩香と指を絡めながら入ってくる。 しかも直哉の腕には、息子の久世颯太(くぜ そうた)が抱かれていて、その子はあどけない声で彼を「パパ」と呼んだ。 私はその場に立ち尽くし、息をすることさえ忘れた。 私が行方不明になっていたのは、2年だけだ。 なのに、目の前の子はどう見ても3歳くらいだった。
Mehr anzeigen直哉はしばらくためらった末、ようやく手を離した。「紗月、彩香と離婚すれば、俺を許してくれるのか?」私は何も答えず、背を向けて歩き出した。彼はいまだにわかっていない。離婚しようがしまいが、私はもう二度と振り返らない。直哉が去って間もなく、今度は両親がやって来た。二人は私のマンションの玄関先で、10分近くもインターホンを鳴らし続けた。ようやく私が扉を開けると、母は飛びつくように私を抱きしめ、声を上げて泣きだした。「紗月、お願いだからお母さんと一緒に帰って。これからは、あなたが何をしたいと言っても、もう反対しないから……」父も隣で言葉を重ねた。「紗月、俺たちは本当に心配しているんだ。お前が一人で海外にいると思うと、気が気じゃない」私は身じろぎもせず、母がひとしきり泣くのを待ってから、そっとその体を押し離した。「紗月、一緒に帰りましょう。お願いよ。私たちの娘は、あなただけなの」「会見で私の診療記録を公表して、みんなの前で親不孝な娘だと言い、精神がおかしいと決めつけたときは、私が自分たちの娘だということを忘れていたの?」そう言った途端、両親の顔から血の気が引いた。母はまた泣きだした。「紗月、ごめんなさい。本当にごめんなさい……」父が手を伸ばして私を引き止めようとしたが、私はそのまま扉を閉めた。扉の向こうでは、母が必死に扉を叩きながら、引き裂かれるような声で私の名前を呼び続けていた。私はノイズキャンセリングイヤホンをつけ、パソコンの前に座って仕事を再開した。キーボードを強く叩いているうちに、また涙がこぼれた。これから先、私にはもう帰る家がない。そして、あの人たちにも娘はいない。それから半年後、私たちのチームが新たに企画したドキュメンタリーが公開された。私は以前撮影した素材をあらためて構成し直し、さらに仲間たちといくつもの国を回って新たな映像を撮影した。そうしてようやく、その作品を完成させた。今度こそ、監督の欄には私の名前があった。公開されるやいなや、ドキュメンタリーは各国の視聴者から高い評価を受け、国内での上映も連日満席となった。その一方で、国内では直哉と彩香の離婚騒動が世間をにぎわせていた。直哉は彩香との離婚を求め、颯太の親権も自分が持つと主張した。彩香はそ
記者仲間が、こちらでの生活に必要なものをすべて整えてくれていた。ひとまず身の回りを落ち着かせると、私はすぐに新しいチームへ顔を出した。そこには見覚えのある顔が何人もいた。かつてD国で、私と肩を並べて働いた仲間たちだった。同僚たちは私を力いっぱい抱きしめ、英語で「おかえり」と言ってくれた。ここへ来て最初に取りかかったのは、新しい企画ではなかった。何より先に、さらに確かな証拠を示し、自分の潔白を証明しなければならなかった。一人のカメラマンが、USBメモリを差し出してくれた。中には、私がD国で働いていた頃のオフショットが収められていた。自分では気にも留めていなかった日々の姿を、仲間たちが何気なく記録してくれていたのだ。必要なら、いつでも証言すると全員が言ってくれた。私はUSBメモリを受け取り、礼を言った。一週間後、ある国際報道局の公式アカウントが声明を発表し、私がD国で取材していた際の未編集映像を公開した。映像の中で、私は廃墟となった建物の屋上に立ち、現地からリポートしていた。背後では炎が空を赤く染め、銃声と砲撃音が絶え間なく響き、その衝撃でカメラが何度も大きく揺れていた。それでも私は微動だにせず、はっきりと力強い声で状況を伝えていた。背後に砲弾が着弾しても、瞬きひとつしなかった。ほかにも、普段の仕事ぶりを収めた映像が数多く残っていた。どのように取材を進め、どのように写真を撮り、どのように企画書を書いていたのか。その一つひとつが、克明に記録されていた。D国で共に働いていた同僚たちは全員、その動画を拡散し、私のために声を上げてくれた。同時に、私は集めた証拠をすべてまとめ、放送倫理審査委員会と関係機関へ提出した。二日後、彩香は停職処分となり、正式な調査が始まった。国内外のSNSや掲示板は、たちまち騒然となった。【じゃあ、高瀬彩香は本当に人の作品を盗んでたってこと?】【国際報道局が公式に証拠を出したんだぞ。もう言い逃れできないだろ】【でも、前の会見は何だったんだ?実の両親まで、北原紗月は精神を病んでるって言ってたよな?】【娘婿と養女を守るために、実の娘を切り捨てたんだろ。名家って、本当に恐ろしいな】私はコメント欄を閉じ、自分の動画に「いいね」を一つ押した。電話は相変わ
退院の日、直哉は朝早くから迎えに来ていた。荷物をまとめ終えたところで、彼のスマホが鳴った。電話の向こうから、彩香の声が聞こえてくる。「直哉、今日は颯太の誕生日なの。パパに会いたいって泣いてるから、少しだけ帰ってきてくれない?」直哉は眠っている私をちらりと見て、声を潜めた。「少し一人で遊ばせておいてくれ。すぐに戻る」そう言って、彼は病室を出ていった。扉が閉まった瞬間、私は目を開けた。本当はとっくに目を覚ましていた。ただ、彼と顔を合わせたくなかっただけだ。私はボディガードたちに、少し外の空気を吸いたいからついてこないでほしいと告げた。それからタクシーを拾い、新しい家へ戻った。必要なものをすべてまとめると、最も早く出発する便を予約し、そのまま空港へ向かった。搭乗口を通る直前、スマホが震えた。画面を見ると、直哉からメッセージが届いていた。【紗月、病院で待っていてくれ。すぐ迎えに行く】私は返信せず、そのまま電源を切った。飛行機が離陸すると、窓の外の街が少しずつ小さくなっていった。眼下に広がる雲海を見つめながら、私は両手で顔を覆った。そのときになって、ようやく涙がこぼれ落ちた。それはまるで、声のない別れだった。直哉とは、幼い頃からずっと一緒に育ってきた。彩香は父の親友の娘で、幼くして両親を亡くし、北原家に引き取られていた。18歳のとき、私は夢を追うため、誰にも相談せず、志望校をメディア系の大学に変更した。母は怒りのあまり倒れかけ、父は親子の縁を切るとまで言った。そんな中、私の味方をしてくれたのは、彩香と直哉だけだった。直哉は海外の大学への進学を諦め、私と同じ北央市の大学へ進んだ。そして皆の前で私の手を取り、堂々と言い切った。「俺は紗月と一緒に北央市へ行く。紗月がいるところに、俺もいる」彩香も、私と同じ大学を受験した。私が一番の親友だから、これからもずっと一緒にいたいと言ってくれた。その後、私が海外へ派遣されるようになってからも、出発のたびに二人は空港まで見送りに来てくれた。直哉は、やりたいことがあるなら迷わずやればいい、自分はいつでも私の味方だと言ってくれた。彩香も、いつも私を励ましてくれた。「紗月なら絶対にできる。私はいつだって応援してるから」二
再び目を覚ましたとき、鼻をついたのは、どこか懐かしい消毒薬の匂いだった。私は手の甲に刺さっていた点滴の針を引き抜き、必死にベッドから降りようとした。頭を抱えたまま、喉が張り裂けるほど叫び続ける。次の瞬間、誰かに強く抱きしめられた。「紗月、俺はここにいる。もう大丈夫だ。大丈夫だから……」少しずつ意識がはっきりしてきた。ここは精神科病院ではない。普通の病院だった。直哉は私の背中を優しくさすりながら、根気強くなだめ続けた。私がどれだけ彼を叩いても、決して腕を離さなかった。やがて私は少しずつ落ち着きを取り戻し、周囲を見回した。母がベッドの足元に立っていた。泣き腫らした目は、ひどく赤くなっている。「紗月、お母さんが悪かったわ」声はすっかりかすれていた。「記憶を失っていたなんて知らなかった。あんなに大きなけがをして、ずっと苦しんでいたことも……」父も苦痛に満ちた表情で口を開いた。「紗月、これまでのことは全部、俺たちが悪かった。腕のいい医者を探して、できる限りの治療を受けさせる。きっとよくなるから」私は顔を背け、反対側を向いたまま、長いあいだ黙っていた。直哉はすぐに水を用意し、少しずつ私の口元へ運んだ。私は彼の手から半分ほど飲むと、再びベッドに横になった。顔には何の感情も浮かんでいなかった。直哉はコップを置き、もう一度私の手を握った。「紗月、君があんな目に遭っていたなんて知らなかった。病気がそこまで深刻だとも思っていなかった。本当にすまない。俺は、君が芝居をしているんだと……」私は目を閉じたまま、何も答えなかった。「必ず償う。最高の医者を探して、できる限りの治療を受けさせる。欲しいものがあるなら、何でも用意する」その言葉を聞いて、私はわずかに口元をゆがめた。嘲るような笑みだった。「なら、彩香と離婚して。私が望むのは、それだけ」「それはできない」直哉は即座に拒んだ。「それ以外なら、何でも言うことを聞く。紗月、子どもに罪はない。俺には、彩香と子どもに対する責任があるんだ」彼は私の手を強く握りしめ、必死な目で見つめた。「紗月、信じてくれ。俺と彩香が関係を持ったのは、あの一度だけだ。まさか子どもができるとは思っていなかった……」「一度でも、裏切りは裏切りよ」