ANMELDEN桐山涼真(きりやま りょうま)がどん底の貧乏だった頃。40度近い猛暑のなか、彼は私・安藤夏帆(あんどう かほ)に会うためだけに五、六時間も歩いてやってきた。 焦げつくような日差しのもと、けたたましい蝉時雨が降り注いでいた。 暑さで溶けてしまいそうなほど汗だくの涼真は、両手を膝について荒い息を吐き、その長いまつ毛から汗の雫がぽたぽたと滴り落ちていた。 のちに彼と結ばれ、幾度となく夜通し喧嘩を繰り返すたび、私は決まってあの時の彼の濡れたまつ毛を思い出した。 その記憶があったからこそ、私は未練なく仕事を辞め、見知らぬ土地へ嫁ぎ、心から彼との子供を望んで辛い妊活すら耐えてきたのだ。 ――ついさっき、私のワイヤレスイヤホンが偶然、彼のスマホに繋がってしまうまでは。 イヤホン越しに聞こえてきたのは、彼の親友である片倉拓也(かたくら たくや)の嘲笑うような声だった。 「夏帆ちゃんってけっこう純粋だよな。いまだに気付いてないんだろ? お前があの夜、昔の女を抱いたのは、たまたま店で再会したあいつが、タダでヤレる『安全な女』として向こうから転がり込んできたからだってことにさ」
Mehr anzeigen引っ越しの日、荷造りのために部屋中を駆け回っていたのは涼真だった。私は普段着ている数着の服以外、家にあるものは何一つ持っていく気がなかった。荷物を整理していた涼真の手がふと止まった。彼は小さな箱を手に持ち、戸惑ったように私を見た。「夏帆、これ……」私は肩越しにちらりと視線を向け、淡々と答えた。「ああ、あなたの昔の日記帳ね。あの頃は私が毎日ホコリを拭いてたけど、最近はこの家に戻ってきてなかったから、随分ホコリを被っちゃったみたい。もう捨てていいわよ」涼真の顔色が変わった。彼は指先が白くなるほど拳を強く握りしめ、やがて、弱々しい笑い声を漏らした。「……俺、こんなの、すっかり忘れてたよ」あの頃は、お互いの愛を記録に残すのが二人の流行りだった。涼真の字はとても綺麗だった。毎日ではないけれど、記念日や誕生日、お正月など、特別な日には必ず日記をつけていた。その内容は、すべて私に関することばかり。中でも一番私の記憶に残っていたのは、日記の最後のページだった。【絶対にたくさん稼いで、一日でも早く夏帆と結婚するんだ】そう書かれていた。だが、結婚してからはその日記帳は放置され、彼は二度とペンを執ることはなかった。そして、その思い出の品自体の存在すら忘れてしまったのだ。涼真の表情が、呆然としたものから、激しいショックを受けたものへと変わった。彼は震える手でページをめくり、やがて声を上げて泣き崩れた。「ごめん……夏帆。俺、一番大事な気持ちを忘れてた……全部俺が悪いんだ、本当にごめん……」「謝らなくていいのよ」私は優しく微笑み、ティッシュを二枚抜き取って彼に手渡した。「ね、こうして今、お互いに心穏やかに話せているでしょ。もう全部、終わったことなんだから。愛も憎しみも、すべて過去のことよ。涼真、もう前を向きなさい」そう言い残すと、私はきびすを返し、二度と振り返ることなくその家を後にした。……アトリエは今まで通り営業を続けているが、経営者は私の信頼するスタッフへと引き継いだ。柑奈の話によれば、私が姿を消した直後、涼真はアトリエにやって来て、店内のものをすべて叩き壊しそうな勢いだったらしい。「夏帆さん、あの時の旦那さん、本当に怖かったんですよ。夏帆さんが何の手がかりも残さずにいなくなっち
夏の暑さが和らぎ、秋の気配が近づく頃、母は息を引き取った。人は死期が近づくと、心が恐ろしいほど澄み渡るものらしい。亡くなる数日前、母は突然、父のお墓参りに行きたいと言い出した。「夏帆、ごめんね……お母さんが身勝手だったわ。あなたの気持ちも考えずに、勝手に涼真くんを許すなんて言って。ただ……あなたにしっかり生きてほしかったの。誰かに守ってもらいたかったのよ。私とお父さんは、人生の大半を喧嘩と嘘に費やしてきたわ。最後には愛情なんて欠片も残っていなくて、私はあの人が死ねばいいと願い、あの人は私に事故でも起きればいいと願っていた」母は荒い息を吐きながら、私が手渡した花束を受け取り、父の墓前にそっと供えた。「あんな人生、本当に何の意味もなかった。ただ疲れるだけだったわ。こんな大切なこと、死ぬ間際になってようやく気づくなんて……遅すぎたわね。長く生きてきたくせに、お母さんはあなたほど物事をちゃんと見えていなかったわ」吹き抜ける風が、肌寒く感じる。私は母を乗せた車椅子をゆっくりと押し、家への帰路についた。その途中、母は車椅子からふらふらと立ち上がり、私が小さかった頃のように、私の手をそっと握った。「夏帆、あそこの公園に行きましょう。あなたが小さい頃、あそこにある小さなメリーゴーランドに乗るのが大好きでね。一度乗ったら一日中遊んでた。あの頃は人も少なくて、時間なんて誰も気にしていなかったわ。……本当に、あなたがずっと子供のままでいてくれたらって思うわ。そうしたら、お母さんがずっと面倒を見てあげられるのに」私はぎゅっと目を閉じ、後ろから母の細い体を抱きしめた。声が出なかった。手の甲に、温かい涙が何滴もこぼれ落ちる。「夏帆、自分らしく生きなさい。あなたが幸せなら、どんな生き方でもいいのよ」「……うん」私はなんとか微笑みを作った。ひどく苦い笑顔だったけれど。夕陽に照らされた私たちの影は、どこまでも長く、長く伸びていた。……「もしこのまま離婚に合意いただけない場合は、裁判へ移行し、法的な解決を図ることになります。涼真さん、裁判になればあなたにとって圧倒的に不利です。大げさに言えば、不貞行為にあたるわけですから。夏帆さん側は『財産分与は五分五分でよい』と、すでに大きく譲歩した条件を提示
結局、離婚は保留になった。母が「離婚するなら死んでやる」と泣いて脅したからだ。私も、母の残されたわずかな時間に、余計な心労をかけたくなかった。あの日から数日後、涼真と拓也が私の目の前で殴り合いの喧嘩になったことがあった。涼真は「お前が毎日あんなキャバクラや風俗に連れ回さなきゃ、俺は浮気なんか絶対にしなかったんだ!」と怒鳴り散らしていた。それが私に本気を見せるための茶番だったのか、それとも本心だったのかは分からない。でも、もうどうでもよかった。これからの私の人生の計画に全く必要のない男のために、これ以上頭や心を使うのも馬鹿らしい。私が退院できたのは、1ヶ月後のことだった。その間、涼真は毎日病室に寝泊まりしていた。専門の料理人を雇っているのに、彼は会社を放り出して、三食すべてを私のために手作りしていた。病室はVIPルームで、いくつか部屋が分かれており、備え付けのベッドも家のものと遜色ない立派なものだった。それなのに彼は、毎晩私のベッドの脇の床で丸くなって寝ていた。一晩に10回もアラームをかけ、その度に起きては私の布団を掛け直したり、ただ床に座って私の寝顔を無言で見つめたりしていた。入院中、母は何度も私の病室を訪れ、私を説得しようとした。「夏帆、女が一人で生きていくのがどれだけ大変か、あなたには分からないのよ。パートナーがいないなんてあり得ないわ。年をとったら誰があなたの面倒を見るの?男なんて、一度や二度は間違いを犯す生き物なのよ。あなたのお父さんだって、平社員のくせに下半身のコントロールすらできなかったじゃない。涼真くんは社長よ? お金も地位もある人が、こんなに反省して尽くしてくれているなんて、本当にすごいことなのよ。夏帆……」母が身を乗り出して話すたび、その白髪交じりの頭が私の目の前で揺れた。「お母さんの言うことを聞いて、彼を許してあげなさい。私のお願いはそれだけよ。あなたが彼と離婚したままなら、私は死んでも死にきれないわ」深く息を吸い込むと、胸が苦しくなり、頭も割れるように痛んだ。入り口のドアのところに立っていた涼真は、私が長い間何も答えずにいるのを見て、部屋に入ってくると母を支えてリビングへと連れ出した。「夏帆、お義母さんに無理やり説得してもらったわけじゃないんだ」戻ってき
結局、その夜遅く、涼真は病室を出て行った。私の母に、末期の胃がんが見つかったのだ。残された時間はもう長くない。電話がかかってきたのは深夜過ぎ。こんな時間にかかってくる電話は、いつだって緊急で、そして絶望的な知らせばかりだ。涼真は知り合いに頼んで直近の航空券を手配すると、逃げるように、あるいは解放されたように空港へと向かった。私はその夜、一睡もできなかった。ただベッドに座り、夜が白み始めるのをじっと待っていた。やがて、早朝の冷たい霧の匂いとともに、二人の足音が病室に入ってきた。その瞬間、私は急激な疲労感に襲われ、ゆっくりと目を閉じて寝たふりをした。病室は静まり返っていた。私は浅い眠りと覚醒の狭間を漂っていた。ふいに、ドスンという音がした。涼真が母の前にひざまずき、涙ながらに何かを訴え始めたのだ。彼が浮気をしたあの夜。大きな契約をまとめた彼は、半ば酔っ払った状態で個室を出たらしい。ネクタイを緩めながらエレベーターに乗り込んだ。その瞬間、中にスタイルの良い一人の女性が立っているのに気づいた。――当時の光景が、私の頭の中にも容易に想像できた。涼真はきっと、驚きのあまり「麗佳……?」とその名前を呼んだのだろう。そして二人の視線が絡み合い、かつての感情が堰を切ったように溢れ出したのだ。「俺が『久しぶりだな』って声かけたら、彼女も『久しぶり』って微笑んでくれて。夏帆が昔、言ってたんです。『どんな形であれ、再会ってすごく素敵な言葉だよね』って。だから俺……魔が差して、取り返しのつかない過ちを犯してしまいました」彼は深くうつむき、息を殺すように懺悔を続けた。母は、ほんの一瞬だけ沈黙した。そして、こう尋ねた。「自分が悪いことをしたって分かってるのね。……夏帆には、もう話したの?」「……いいえ」涼真は深く息を吸い込んだ。「分かりません。なんて説明すればいいか分からないんです。彼女は絶対に俺を許してくれない。全部俺が悪いんです。夏帆の父親が、あんな風に裏切ったって知っていたのに……」「だったら、夏帆には絶対に言ってはダメよ」――その言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。私は慌てて目を覚まそうとしたが、なぜか体に全く力が入らない。指一本、動かすことすらできなかった。途端に、恐