登入真琴の社会的価値は、とうの昔に自分や光雅、貴博といった男たちを遥かに凌駕していた。彼らのような人間は社会に出ればいくらでも代わりがいるが、真琴という存在は唯一無二だ。いつまでも専門誌の論文を見つめ続けている信行の様子を窺い、祐斗が恐る恐る口を開いた。「真琴様は本当に素晴らしいですね。おそらく今頃、ありとあらゆる所が真琴様の争奪戦に乗り出しているはずです」その言葉を聞いて、信行はようやく顔を上げ、祐斗を見た。「武井……俺は本当に、取り返しのつかないものを手放してしまったのか?」あんなにも純粋で、自分のことを深く愛してくれていて、その上、誰よりも優れた頭脳を持っていたというのに。それなのに、自分は一体何という馬鹿な真似をしてしまったんだ。後悔を滲ませる信行を、祐斗が慰めるように言う。「社長、真琴様とはまだやり直せるチャンスがありますよ。何しろ幼い頃から一緒に育ってきた仲ではありませんか。真琴様だって、社長に全く情がないわけではないはずです」しかし今の信行にとって、そんな言葉は何の気休めにもならない。単なる戯言に過ぎなかった。ただ軽く手を振って、祐斗を退室させる。執務室のドアが静かに閉まる。信行がパソコンのブラウザを開くと、どのニュースサイトを見ても、今は真琴の話題で持ちきりだった。中には、彼女を二年前に死んだとされる「辻本真琴」と比べ、どちらも天才だと評する書き込みまである。そうしたネットの反応を目にして、信行は思わず口角を上げて自嘲気味に笑った。ああ、確かに真琴は紛れもない天才だ。一方、論文が巻き起こした大反響もネット上の喧騒も、当の真琴自身はごく冷静に受け止めていた。いや、気にも留めていないと言ったほうが正しい。これまでずっと、彼女の関心は研究開発と実験の二つだけに向けられていた。ただ、今はさすがに着信が多すぎる。左手で車のハンドルを握り、右手に持ったスマートフォンを耳に当てて電話口からの祝辞を聞きながら、真琴は笑みを浮かべて応じた。「ありがとうございます。これも森谷さんのご指導があったおかげです」「はい、森谷さん。分かりました」淳史との通話を切った後も、彼女を祝う着信は立て続けに鳴り響いた。「西脇博士、おめでとうございます」「西脇博士、おめでとう」LINEの
「小型ロボットの機動力と既存の防御システムを統合させて、空も飛べて地にも潜れるだと?一体どうやってあのスケールダウンで実証データまでこぎ着けたんだ」「少し前まで、金とコネで名声を買ったエセ学者だなんて陰口を叩かれていたがな。あれを吹聴していた連中、今頃は見事に赤っ恥をかいて息もしてないだろうぜ」「西脇茉琴……あの名前を聞くと、どうしても昔の『辻本真琴』を思い出しちまう。あの子も天の申し子というか、百年に一人の天才だった。若くして亡くなったのが本当に悔やまれるよ」「辻本さんの専門も産業用ロボットだったな。彼女が初めて手掛けたホームロボット、未だにどこの企業もあの技術の壁を越えられていない」「しかも辻本さんのあの基幹技術、高校生の時に取った特許だぜ?」「まったく、信じられない話だ。こんな短期間に、二度も稀代の天才女性エンジニアが現れるなんてな」論文の発表から三日目。真琴の名前は各種メディアのヘッドラインを完全に席巻していた。ネットニュースも各テレビ局も、こぞって彼女の論文を大々的に取り上げ、熱狂的な解説を繰り広げている。つい先日まで彼女を蹴落とそうと画策していた由美は、見事に顔を潰された形となった。そしてこの熱狂は、光雅の元へもダイレクトに押し寄せていた。押し寄せる提携オファーの対応で、息をつく暇すらない。執務室のデスクで一本の電話を終え、受話器を置いた途端、すぐにまた甲高いコール音が鳴り響く。「いやはや西脇社長、妹さんには度肝を抜かれましたよ!もしあのプロジェクトが実用化されれば、東央システムズは今後、国際市場で向かうところ敵なしですな」光雅が返事をするより早く、相手は食い気味に続ける。「これは途方もないビッグプロジェクトになりますぞ。もし本格的に立ち上げるおつもりなら、ぜひ弊社にも一口噛ませていただきたい」茉琴が論文で示した技術は、単なる商業利用の枠には到底収まらない。このプロジェクトに少しでも食い込むことができれば、将来的には各国の軍需市場への巨大なパイプラインが開ける。だからこそ、光雅と少しでもコネのある企業トップたちは、先を争って彼に擦り寄ってきている。デスクの椅子に深く腰掛け、光雅は受話器越しに余裕の笑みを浮かべて応じた。「ご安心ください。もしプロジェクトを立ち上げる運びとなれば、必
すがるように引き留める信行。真琴はゆっくりと振り返り、彼を見つめ返した。ほんの数秒、視線が交差する。やがて真琴は、自分の腕を掴む信行の手を、淡々とした動作で外した。一言も発することなく、再び背を向けて歩き出す。それが、最終的な答えだった。彼に与えるチャンスなど、もうどこにも残されてはいない。遠ざかる真琴の背中を見送り、信行はふいと横を向くと、片手で額を強く押さえた。手放そうと努力した。だが、どうしても手放すことができない。不意に、途方もない孤独な戦いを強いられているような感覚が彼を襲う。背中を車のボディに預け、夜空に浮かぶ明月を見上げながら、信行は長く重い息を吐き出した。どうしようもない無力感が、ただ胸の奥を蝕んでいく。……自宅のマンション。シャワーを浴び終えた真琴が、タオルで濡れた髪を拭きながらバスルームから出てくると、デスクの上に置いたスマートフォンが振動していた。髪を拭きながら歩み寄り、画面を覗き込む。海外からの着信だ。通話ボタンをタップして耳に当てると、少し訛りのある言葉がすぐに飛び込んできた。「西脇博士、こんにちは。あなたが新しく投稿された論文ですが、なんとジャーナルの巻頭を飾ることが決定しました。オンラインでの配信に加え、今回は紙媒体での特別発刊も行われます。間違いなく、世界中に凄まじい反響を巻き起こすでしょう。まずは西脇博士に、心からのお祝いを申し上げます」その言葉に、真琴はタオルを動かす手を止め、ふっと笑みをこぼした。「ありがとうございます。これもルー教授のサポートがあったおかげです。今後、ぜひ共同研究でご一緒できれば嬉しいですね」真琴が口にしたルー教授――本名ルー・ヴィッチは、ユナイティアにおける知能ロボット研究の科学者だ。現在の真琴はシステム制御のプロジェクトを主導しているが、彼女の本来の専門領域は産業用ロボットだった。二年前、アークライトで初めて手掛けたプロジェクトこそが、スマートホームロボットの開発だった。その機体は今なお世界のホームロボット市場でトップシェアを独走しており、絶大な評価を獲得し続けていた。真琴は自身の原点を決して忘れることなく、常に技術革新の最前線で研究を続けてきた。今回発表した論文のテーマは、『重工業用ロボット技術はい
またしても信行が姿を現したことに、真琴はもはや何の驚きも感じなかった。ただ、エントランスへ向かって歩みを進めながらも、結局は彼の目の前で足を止める。マンションの下に佇む信行を見据え、真琴は冷ややかに告げた。「いい加減にして。私の生活をかき乱さないで」迷惑だとはっきり突きつけられ、信行は微かに眉間を寄せる。何か言い返そうと口を開きかけた矢先、真琴が畳み掛けた。「どうして他の人たちみたいに、言葉が通じないの。あなただけよ」貴博や光雅なら、それとなく意思を伝えるだけで適度な距離を保ってくれた。それなのに信行は、自分から身を引くと言っておきながら、平然と前言を撤回してつきまとってくる。真琴の苛立ちを受け止め、信行は伏し目がちに彼女を見下ろした。「俺のほうが、お前を気に掛けているからだ」その答えを聞いて、真琴は顔を上げたままじっと彼を凝視した。やがて、静かな声で言い放つ。「あなたの気遣いなんて、ただの迷惑よ」気に掛けている?そんなものは、彼の身勝手と傲慢さにすぎない。とはいえ、わざわざ反論して口論に発展させるのも面倒だった。今の真琴にとって、信行はすでにどうでもいい人間なのだ。その言葉に、信行の顔色があからさまに変わった。無言のまま真琴をしばらく見つめた後、信行はふいと視線を横へ逸らす。ポケットからタバコとライターを取り出し、一本咥えて火をつけようとした。だが、すぐにここが適切な場所ではないと思い直し、口元からタバコを離す。再び真琴へと顔を向け、どこか探るような口調で尋ねてきた。「爺さんから、成瀬の令嬢と一緒になれと言われている……この件についてどう思う」晩秋の夜風が肌寒い。真琴は眉をひそめて信行を見つめ、大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと長く息を吐き出した。「それはあなた自身の問題でしょ。自分で決めればいいわ。わざわざ私に聞くことじゃない」信行は手にしていたタバコを箱にしまい込み、どこか寂しげな色を帯びた瞳で真琴を見つめ返した。「これだけ長い付き合いだっていうのに、そこまで冷酷にならなきゃいけないのか」信行の言い分に、真琴は怒る気力すら根こそぎ奪い取られてしまった。それでも、少しも感情を波立たせることなく静かに言い放った。「私が冷酷?今の私の態度なん
祖父はそう思っているなら、随分と舐められたものだ。信行が目を通したファイルを机に放り投げると、祐斗はビクッと体を強張らせ、身動き一つできなくなる。しばらく重苦しい沈黙が降りたが、信行からそれ以上の指示はない。それを確認し、祐斗はようやく一礼して静かに執務室を後にした。ドアが閉まるのと同時に、信行の胸の内にふつふつと怒りが沸き上がってきた。いくら一族の長とはいえ、自分の領域に踏み込みすぎだ。これ以上オフィスでくすぶっている気にはなれず、信行は祐斗が持ってきた調査資料を鷲掴みにすると、そのまま片桐家の本邸へと向かった。*四十分後。本邸の裏庭に車が滑り込んだ。ドアを開けて降り立つと、祖父である由紀夫が、のんびりと盆栽の手入れをしている姿が目に入った。信行は暗い顔つきで祖父に歩み寄るなり、手にした証拠を遠慮会釈もなく石のテーブルにバサッと叩きつけ、唐突に口を開いた。「……これは、どういう腹積もりですか。少々、干渉しすぎじゃないですかね」由紀夫が口を開くよりも早く、信行は言葉を続ける。「世間の圧力でも掛ければ、俺が大人しく首を縦に振るとでも?随分と事態を甘く見ているようですが」目の前に証拠を突きつけられても、由紀夫は顔色一つ変えなかった。ゆっくりと信行へ顔を向け、事も無げに言い放つ。「でなければ、お前は他に何を考えているというんだ?真琴のことは、もう諦めろ。お前がこれ以上あの子を煩わせることを、この家の者は誰一人として望んじゃおらん。だいたい、自分が過去にしてきた行いを胸に手を当てて振り返ってみろ。どの面下げて、あの子に会いに行こうなどと思えるんだ」反論の隙を与えず、由紀夫はたたみかける。「成瀬家の嬢ちゃんなら、お前の妻として釣り合いも取れるだろう。週末、成瀬の爺さんと孫娘を食事に招いてある。予定を空けて戻ってこい」信行が口にする真琴への感情など、由紀夫はとうの昔に見限っていた。だからこそ、信行を思い通りに動かせるなら、どんな強引な手でも使う構えだった。どこまでも独断専行を貫く祖父を前に、信行は両手をズボンのポケットに突っ込み、その顔を真っ直ぐに睨みつけた。どれだけ鋭い視線を浴びせても、由紀夫は意に介する様子もなく、再び盆栽へと視線を戻す。その悠然とした背中へ向けて、信行は吐き捨てるように
執務デスクの前に由美が姿を現した。信行は冷ややかな視線を向けただけで、すぐに手元の書類へ目を落とし、作業を再開した。あからさまに歓迎されていないと分かっても、由美は気にする素振りも見せない。いつものように愛想の良い笑みを浮かべて声をかけた。「信行」企画書に目を通したまま、信行は一切応じない。無視された由美は、勝手にデスクの向かいの椅子を引いて腰を下ろした。ここでようやく、信行が口を開いた。「用件だけ言え」容赦のない物言いに由美の顔色が一瞬変わったが、すぐに笑みを取り繕う。「東央の件なんだけど、間に入って話をつけてくれないかしら?西脇社長ったら、本当に理不尽なの。彼が誤解している件なんて、私には全く関係ないのに。信行なら東央と提携しているし、西脇……」由美が言い終わるよりも早く、信行は手元の資料を机に放り投げた。顔を上げ、鋭い視線で射抜く。「自分で仕掛けたんだ、どんな結末になろうと甘受しろ。代償を払う覚悟もないくせに、火遊びなどするな」光雅と一言一句違わぬその指摘に、由美は即座に首を振った。「違うわ。あの件に私は一切関わっていない」頑なに非を認めない由美を、信行はただ静かに見据えた。しばらく沈黙が落ちた後、底冷えのする声で告げる。「しらばっくれて、何になると思っている?何年経っても、お前は少しも成長しないな」その一言に、由美は完全に言葉を失った。まさか信行までもが、少しも自分の味方をしてくれないなんて。成美という存在は、もはや彼の心の中でいささかの価値も持っていない。「成美」という切り札に縋っても、この局面は到底打開できない。成美が真琴のように、死の淵から蘇りでもしない限り。由美は信行の顔をじっと見つめ続け、やがて酷く疲れた声で口を開いた。「……あなたって、一度失ってみないと大事さに気づけないの?だとしたら、もし成美が生き返ったなら、あなたはようやく昔のことを思い出すのかしら。少しは私に情をかけてくれるわけ?」そんな戯言のような問いかけに対し、信行は氷のように冷たい視線を向けるだけで、一言も発しようとはしなかった。その冷ややかな態度を見て、由美は苦々しく笑みをこぼした。「そんな目で見ないでちょうだい。私はただ、あなたの本心を推し量ってみただけよ」そう言い







