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月が落ちる昏い霧の夜
月が落ちる昏い霧の夜
Author: 六月の猫

第1話

Author: 六月の猫
【もし結婚してなかったら、私のこと、好きになってくれますか?】

村田美羽(むらた みう)と名乗る女の子から、真夜中に山崎梨花(やまざき りか)の夫へメッセージが届いた。彼の返事は、たった一言だけ。【ああ】

そのやり取りのスクリーンショットが届いたとき、梨花は夫の山崎翼(やまざき つばさ)と一緒にパーティーに出ていた。彼女の表情は一瞬こわばったけど、すぐにいつもの微笑みに戻った。

挨拶に来た人とにこやかに話してから、梨花はそのメッセージの送り主に返事をした。

【分かった】

こんなの、見るからに加工された画像だわ。梨花は、まったく気にしなかった。

夫は、この東都で誰よりも気高く、自分自身に厳しい人として知られている。

彼は自分にとても厳しく、スケジュールは分刻み。食事も生活も、すべて計画通りに進める。何があっても、その予定が狂うことは絶対にない。

身持ちもとても堅い。クラブで遊ぶなんてありえないし、お金持ちの息子たちが好むような遊びにも一切興味がない。悪い趣味というものが、何一つない人だった。

感情をあまり表に出さず、自制心も強い。ベッドの上で深く求めあっているときでさえ、彼の深い瞳に余計な感情が浮かぶことはなかった。

結婚するとき、翼は言った。「梨花は、俺の生涯でたった一人の妻です」

梨花は、その言葉を信じて疑わなかった。

梨花が15歳のとき、母親が事故で亡くなった。すると継母が、梨花より1歳年下の男女の双子を連れて家に乗り込んできて、彼女のすべてを奪っていった。

継母に何度も陥れられ、ひどい暴力を受けた。そんな梨花を救ってくれたのが、翼だった。

ゴミ箱に突っ込まれた梨花を、翼は優しく引っ張り出してくれた。そして、体についた汚れをそっと拭ってくれたんだ。

彼の顔には嫌悪感も、上辺だけの優しさもなかった。まるで一筋の光が、梨花の心に差し込んだようだった。

その瞬間、梨花はもうどうしようもなく、翼を好きになった。

彼と過ごし始めたころ、梨花はまだありのままの性格で振る舞っていた。

一日中、翼の後ろをついて回ってはおしゃべりをした。ありとあらゆる手を使って彼の気を引こうとしたけど、翼は嫌な顔ひとつせず、ただ黙っていた。

ある日、翼が山崎家に代々伝わるお守りを梨花の手に握らせた。星のように輝く瞳で、彼は言った。「今日から、自分を磨け。お前は、俺の生涯でたった一人の妻になる人だから」

その日から、翼は梨花のために厳しい計画表を作った。彼に見守られながら、梨花は少しずつ変わり、成長し、やがて品のある本物の令嬢へと生まれ変わった。

22歳のとき、翼は梨花を連れて、離婚ができないと定められている国へ行った。そこで、二人だけの特別な結婚式を挙げた。

彼は梨花の薬指に指輪をはめながら言った。「おめでとう、今日からお前は俺の妻だ」

そのときの翼も、やっぱり感情を表に出さず、余計なことは何も言わなかった。

思い出に浸っていると、梨花はなんだか訳もなく寂しい気持ちになった。

すると、ふと肩があたたかくなった。いつの間にか隣にいた翼が、自分のジャケットを梨花にかけてくれたのだ。

「冷えるといけないから」彼の声は低く穏やかで、さりげない優しさがこもっていた。

「ありがとう」梨花は目を細めて、心が満たされていくのを感じた。

翼の一番の長所は、その細やかな優しさだ。いつも何気ない行動で、梨花の心を温めてくれる。

周りからは、すぐに羨むような声が聞こえてきた。「奥さんは本当に幸せですね。山崎社長にあんなに愛されて」

「二人は、本当にお似合いの夫婦ですね!」

翼は表情を変えず、まるで自分には関係ないというような顔をしていた。

一方、梨花はワイングラスを手に、一人ひとりと挨拶を交わしていく。その立ち居振る舞いは、非の打ちどころがなかった。

パーティーも半ば、梨花が隅の席で休んでいるときだった。頭上のシャンデリアが緩んでいることに、誰も気づいていなかった。

シャンデリアが落ち、周りは一瞬でパニックになり、彼女も慌てて身をかわそうとした。

そのとき、翼が人混みをかき分けて走ってくるのが見えた。でも彼は梨花を通り過ぎて、そばにいたウェイトレスの腕を掴んだのだ。

その場にいた誰もが、あっけにとられた。

シャンデリアは梨花の腕をかすめて落下した。腕はぱっくりと裂け、鮮やかな血が流れ出した。

一方、そのウェイトレスは翼の腕の中に守られ、かすり傷ひとつ負っていなかった。

梨花は、驚きと気まずさでいっぱいになった。

でも翼はすぐに我に返ると、腕の中の女性を離した。そして何事もなかったかのように梨花を抱き上げ、病院へ運んだ。

梨花は、彼の腕の中で痛みのあまり気を失った。

目を覚ますと、そこにはいつもと変わらない翼の穏やかな瞳があった。まるで、何も起こらなかったかのように。

でも梨花は割り切れなかった。さっきの一瞬、確かに翼の瞳に焦りと不安の色が見えた気がしたのだ。

「翼、あの女と知り合いなの?」

翼は表情を変えず、静かに口を開いた。「家のルールをもう一度覚え直したいのか?」

梨花の体は、びくっと硬直した。胸に分厚い綿でも詰められたように、息苦しくて痛い。

山崎家の家のルール、第9条。根拠もなく相手を疑うべからず。

でも彼は、危険な目に遭っている妻を人前で見捨てて、他の女を助けたのだ。それを聞くことさえ許されないの?

梨花はうつむいた。「翼、説明くらいしてくれてもいいでしょ」

「事故だ」翼の声は低く平坦で、それ以上説明する気はまったくないようだった。

一瞬、空気が凍りついた。

次の瞬間、翼の秘書・阿部亮太(あべ りょうた)が数人の警察官を連れて、病室の入口に現れた。

亮太が翼に、何か耳打ちした。

翼の瞳がすっと鋭くなった。いつも氷のように変わらない表情が、一瞬だけ変わった。そして彼は立ち上がり、入口へと向かった。

「少し用事ができた。出てくる」

翼のわずかな感情の揺れに気づき、梨花の心臓が跳ねた。思わず口を開く。「何があったの?私も一緒に行く」

翼はちらりと彼女を振り返り、静かに言った。「いい子だから、騒がないで」

梨花の瞳から光が消えた。昔、彼女がまだ自分を抑えることを知らなかったころ、翼が一番よく口にした言葉だった。

でも今は違う。騒いでなんかない。ただ彼を心配して、そばにいたいだけなのに。

「翼……あなたのことが心配なの……」

「ここで休んでいろ。余計なことに首を突っ込むな」翼は梨花の言葉を遮り、振り返らずに部屋を出ていった。

いつもと違うことが立て続けに起こり、彼女は胸騒ぎと不安でいっぱいだった。

梨花は初めて翼の言うことを聞かなかった。こっそりと、彼の後を追いかけたのだ。

翼が向かったのは警察署だった。それも、一人の女性のために。

あのウェイトレスは、女の子に絡んでいた酔っ払いを助けようとして、相手に怪我をさせてしまったらしい。相手は少し権力のある人間で、彼女を傷害罪で訴えると言ってきかないそうだ。

ウェイトレスはどうしようもなくなって、翼に助けを求めたのだった。

翼が着いたとき、彼女は顔を真っ赤にして反論していた。殴られて腫れた頬には、正義感がみなぎっている。「そんなの不公平です!私は悪い人を懲らしめただけなのに、どうしてわざとやったなんて言われなきゃいけないのですか?

私は絶対に罪なんて認めません!悪いのは向こうなのに!」

「美羽!」翼は女を強く抱きしめた。表情はいつも通り冷静だったが、その瞳の奥には痛々しそうな色が浮かんでいる。彼は手を伸ばし、傷ついた女の頬に触れた。「どうしてまた、あんなところに行ったんだ?」

「お金を稼ぐために、バーでバイトしてたんです。そんなことより翼さん、聞いてくださいよ、この人たちが……」

翼が来たからか、女の強気な態度は少し和らいだ。話しているうちに悔しさで目が赤くなる。「あなたはすごい方だから、悪い人たちを野放しにしないでください!」

そう言うと、彼女は急いで涙を拭った。自分の弱いところを、誰にも見せたくないようだった。

「わかった」翼は、女をぎゅっと抱きしめた。

美羽。

やっぱり、この女が美羽だったんだ。

梨花の体はぐらりと揺れ、全身が凍りつくような感覚に襲われた。

梨花は翼を見た。その瞬間、胸に鋭い痛みが走る。彼の瞳には、今まで見たことのない感情が渦巻いていた。いたわり、愛おしさ、抑えきれない怒り、そして……隠しきれないほどの深い愛情が。

そうか。翼は感情のない、氷みたいな人なんかじゃなかったんだ。彼も心を痛め、怒り、嵐のように激しい感情を抱くことがあったんだ。

そして、翼が本当に好きだったのは、明るくて、正義感が強くて、太陽みたいに元気な女の子だったんだ。

梨花は、ふっと笑ってしまった。じゃあ、これまでの自分の努力は、一体なんだったの?

感情を殺して、性格まで変えて。翼が求める完璧な女性になろうとした、あの時間は何だったの?

梨花の体は震えていた。心の中で何かがガラガラと崩れ落ち、胸がずたずたに引き裂かれるようだった。

翼自ら圧力をかけ、美羽が「悪い人」と呼んだ連中を片付けた。美羽は憧れのまなざしで彼に拍手を送り、何度も親指を立てて褒め称えた。

翼は、それを面倒くさがるどころか、かすかに口角を上げていた。はしゃぐ彼女を、心から愛おしそうに見つめた。

そのかすかな微笑みが、梨花の胸を深く突き刺した。切なさで胸が締め付けられ、息もできなくなりそうだった。

この瞬間、心の中にあったすべての疑問が、解けてしまった。
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