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月の色が霞んでいく
月の色が霞んでいく
Author: 真夏

第1話

Author: 真夏
最終ラップ、小林美月(こばやし みつき)はハンドルを強く握り、視線をゴールラインに固定した。

大きくリードしている彼女には、陽光の下で輝く優勝トロフィーが、手を伸ばせば届きそうに見えた。

そのとき、ヘッドセットから突然、恋人の北村辰朗(きたむら たつろう)の声が響いた。

その声は切迫しており、彼女がこれまで聞いたことのないほどの緊張を帯びていた。

「美月、減速しろ!左の前輪に問題がある。このまま突っ込めば横転するぞ!」

彼女の心臓がぎゅっと縮んだ。

マシンに異常はまったく感じられず、そのままアクセルを踏み続けたかったが……

辰朗が彼女のレース中に、これほど取り乱したことは一度もなかった。

信頼が本能に勝った。

美月はアクセルを緩めた。

その一瞬、バックミラーの中で、ピンクとホワイトのカラーリングのマシンが猛然と加速した。

ドン!

左側から凄まじい衝撃が襲ってきた。

美月は反応する間もなく、慣性に引きずられて右へ激しく投げ出された。

ヘルメットがロールケージに強く打ちつけられた。耳をつんざく金属が擦れる音と砕ける音が、瞬時にあたりを覆い尽くした。

激しい眩暈が、頭を揺さぶるように襲ってきた。

意識を失う直前の最後の瞬間、美月は朦朧としながら、コース脇で自分の方へ走ってくる辰朗の姿を見た。

……

消毒液の匂いが鼻腔に入り込む。

美月はかろうじて目を開けた。視界に映ったのは見知らぬ真っ白な天井だ。

「目が覚めましたか?」

看護師が近づいて、医療機器を確認しながら言った。

「左耳は一時的な失聴です。頭蓋内に軽い内出血もあります。運が良かったですね。植物状態にならずに済みました」

左耳……失聴?

美月は手を上げて左耳に触れた。

一面の静寂だ。

右耳だけが、機器の規則正しい電子音と、自分の荒い心拍を拾っていた。

「治療が間に合わなければ、右耳も失聴します」

医師がドアを押して入り、診断書を差し出した。

「手術をするかどうか、早めに決断してください」

美月は診断書を受け取らず、視線を病室の隅にあるテレビへ向けた。

ニュースでは、昨日のレースの映像が再放送されていた。

「……レース前に大きな期待を集めていた『三連覇』の小林美月さんは、最終ラップでまさかのリタイアしました。新人選手の隈元芽依(くまもと めい)さんが後方から追い上げ、番狂わせで今大会のチャンピオンに輝きました!」

画面が切り替わった。

表彰台の上で、芽依はトロフィーを抱え、明るく眩しい笑顔を見せていた。

「これが私のキャリア初の金メダルです!レースでは、常に新鋭が台頭してきます。すべての選手を尊敬していますし、次の大会で私を倒してくれる選手が現れるのも歓迎します!」

さらに映像が切り替わった。

辰朗が、ステージ下で待っていた。

顔を上げ、芽依を真剣に見つめるその瞳には、深い優しさが宿っていた。

芽依が階段を下りると、彼はすぐに歩み寄り、自分の上着を彼女の肩に掛けた。

あまりに自然で親密な様子に、美月の心が痛んだ。

その光景を見た記者が、笑いながら伝えた。

「関係者によりますと、隈元家と北村家は以前から縁談の意向があり、二人は幼なじみでもあるとのことです。今回の優勝では、北村辰朗さんが終始付き添っており、結婚も間近かもしれません……」

スマホにメッセージの着信音が鳴った。

美月は車両検査報告書を読むと、胸がざわつき、まるで世界の一部が唐突に崩れ落ちたかのような気持ちになった。

なぜ?

なぜ左の前輪に問題がないのに、辰朗は減速しろと言ったの?

まさか、わざと……いや、そんなはずない!

美月は勢いよく手の甲の点滴針を引き抜いた。

血が滲んだが、痛みは感じなかった。

「小林さん!だめです」

彼女は看護師を突き放し、よろめきながら病室を飛び出した。

冷たい廊下の光が身体を照らす。

彼女は薄手の病衣だけを身にまとい、素足で冷たいタイルの床を踏む。歩くたびに、まるで刃の上を踏んでいるかのようだ。

だが、足裏よりも冷たいのは、心だ。

自分の口で、辰朗に問いたださなければならなかった。

あの減速の指示が、本当に自分の安全のためだったのか?

それとも、芽依に道を譲るためだったのか?

……

夜の闇の中、レーシングクラブのビルは煌々と灯っていた。

壁には、美月の巨大なポスターがまだ掲げられている。

【天才少女・小林美月、国内レース界の伝説】

心臓に鋭い痛みが走り、美月はまっすぐ2階のオフィスへ向かった。

ドアは半開きで、暖かな黄色い光が隙間から漏れている。

押そうとしたそのとき、中から男の笑い声が聞こえた。

「辰朗、その一手は本当に見事だな!今じゃネット中が、美月の時代は終わった、未来は芽依だって言ってる!」

足立家の御曹司である足立啓人(あだち けいと)の声だった。

美月の足が、その場に止まった。

辰朗の声が響いた。

落ち着いていて、どこか誇らしげですらあった。

「芽依は子どもの頃から、ずっとチャンピオンを取りたがっていた。それが彼女の夢だ」

「芽依のためとはいえ、本当によく手を尽くしたな」

啓人が舌打ちした。

「今日の一撃のために、2年間も美月に深い愛情を見せかけてきた。割に合うのか?」

時間が凍りついた。

美月はドアの外に釘付けにされたようで、息をすることさえ忘れていた。

彼女もまた、辰朗の答えを待っている。心の奥には、最後のわずかな望みを抱いている。

「違う、愛してるんだ。そのすべては事故だ」と言ってくれるのを、ただ待っている……

辰朗は数秒沈黙した。

彼の声は軽々しいのに、美月の耳には重くのしかかるように響いた。

「割に合うさ。

美月は、目障りすぎた」
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