最終ラップ、小林美月(こばやし みつき)はハンドルを強く握り、視線をゴールラインに固定した。大きくリードしている彼女には、陽光の下で輝く優勝トロフィーが、手を伸ばせば届きそうに見えた。そのとき、ヘッドセットから突然、恋人の北村辰朗(きたむら たつろう)の声が響いた。その声は切迫しており、彼女がこれまで聞いたことのないほどの緊張を帯びていた。「美月、減速しろ!左の前輪に問題がある。このまま突っ込めば横転するぞ!」彼女の心臓がぎゅっと縮んだ。マシンに異常はまったく感じられず、そのままアクセルを踏み続けたかったが……辰朗が彼女のレース中に、これほど取り乱したことは一度もなかった。信頼が本能に勝った。美月はアクセルを緩めた。その一瞬、バックミラーの中で、ピンクとホワイトのカラーリングのマシンが猛然と加速した。ドン!左側から凄まじい衝撃が襲ってきた。美月は反応する間もなく、慣性に引きずられて右へ激しく投げ出された。ヘルメットがロールケージに強く打ちつけられた。耳をつんざく金属が擦れる音と砕ける音が、瞬時にあたりを覆い尽くした。激しい眩暈が、頭を揺さぶるように襲ってきた。意識を失う直前の最後の瞬間、美月は朦朧としながら、コース脇で自分の方へ走ってくる辰朗の姿を見た。……消毒液の匂いが鼻腔に入り込む。美月はかろうじて目を開けた。視界に映ったのは見知らぬ真っ白な天井だ。「目が覚めましたか?」看護師が近づいて、医療機器を確認しながら言った。「左耳は一時的な失聴です。頭蓋内に軽い内出血もあります。運が良かったですね。植物状態にならずに済みました」左耳……失聴?美月は手を上げて左耳に触れた。一面の静寂だ。右耳だけが、機器の規則正しい電子音と、自分の荒い心拍を拾っていた。「治療が間に合わなければ、右耳も失聴します」医師がドアを押して入り、診断書を差し出した。「手術をするかどうか、早めに決断してください」美月は診断書を受け取らず、視線を病室の隅にあるテレビへ向けた。ニュースでは、昨日のレースの映像が再放送されていた。「……レース前に大きな期待を集めていた『三連覇』の小林美月さんは、最終ラップでまさかのリタイアしました。新人選手の隈元芽依(くまもと めい)さんが後方か
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