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月の色が霞んでいく のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

22 チャプター

第1話

最終ラップ、小林美月(こばやし みつき)はハンドルを強く握り、視線をゴールラインに固定した。大きくリードしている彼女には、陽光の下で輝く優勝トロフィーが、手を伸ばせば届きそうに見えた。そのとき、ヘッドセットから突然、恋人の北村辰朗(きたむら たつろう)の声が響いた。その声は切迫しており、彼女がこれまで聞いたことのないほどの緊張を帯びていた。「美月、減速しろ!左の前輪に問題がある。このまま突っ込めば横転するぞ!」彼女の心臓がぎゅっと縮んだ。マシンに異常はまったく感じられず、そのままアクセルを踏み続けたかったが……辰朗が彼女のレース中に、これほど取り乱したことは一度もなかった。信頼が本能に勝った。美月はアクセルを緩めた。その一瞬、バックミラーの中で、ピンクとホワイトのカラーリングのマシンが猛然と加速した。ドン!左側から凄まじい衝撃が襲ってきた。美月は反応する間もなく、慣性に引きずられて右へ激しく投げ出された。ヘルメットがロールケージに強く打ちつけられた。耳をつんざく金属が擦れる音と砕ける音が、瞬時にあたりを覆い尽くした。激しい眩暈が、頭を揺さぶるように襲ってきた。意識を失う直前の最後の瞬間、美月は朦朧としながら、コース脇で自分の方へ走ってくる辰朗の姿を見た。……消毒液の匂いが鼻腔に入り込む。美月はかろうじて目を開けた。視界に映ったのは見知らぬ真っ白な天井だ。「目が覚めましたか?」看護師が近づいて、医療機器を確認しながら言った。「左耳は一時的な失聴です。頭蓋内に軽い内出血もあります。運が良かったですね。植物状態にならずに済みました」左耳……失聴?美月は手を上げて左耳に触れた。一面の静寂だ。右耳だけが、機器の規則正しい電子音と、自分の荒い心拍を拾っていた。「治療が間に合わなければ、右耳も失聴します」医師がドアを押して入り、診断書を差し出した。「手術をするかどうか、早めに決断してください」美月は診断書を受け取らず、視線を病室の隅にあるテレビへ向けた。ニュースでは、昨日のレースの映像が再放送されていた。「……レース前に大きな期待を集めていた『三連覇』の小林美月さんは、最終ラップでまさかのリタイアしました。新人選手の隈元芽依(くまもと めい)さんが後方か
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第2話

「ただの一般家庭の子が、少しの才能を頼りにすべての注目をさらった。美月がいる限り、芽依は永遠に2位だ」その言葉の端々が、氷の錐のように、容赦なく美月の鼓膜を突き刺した。「だから事故に遭うよう仕組んだわけか?」啓人が笑って言った。「美月って、今でもお前がタイヤを心配して減速させたって信じてるんじゃないか?」「あの指示は、タイミングを計算して出した」辰朗の声には、わずかな感情の揺れもなかった。「美月は俺を信じているから、必ず減速する。少しでも遅くなれば、芽依が追い越せる」美月は口を必死に押さえ、爪が頬の肉に深く食い込んだ。自分の命を奪いかねなかったあの事故は、最初から計算されたものだったのだ。あのロマンチックなアプローチも、心打たれる告白も、辛抱強い気遣いも、すべては自分を罠に誘い込むための演技にすぎなかった。「俺にとって、お前は眩い真珠だ」という言葉は、嘘だった。実際には、自分は芽依の優勝を邪魔する「目障りな存在」にすぎなかった。「それにしても、お前は本当にえげつないな」啓人は続けた。「あの衝突は冗談じゃない。万が一、本当に死んでたら……」「死なないさ」辰朗は遮り、日常会話でもするかのように軽い口調で言った。「角度も速度も計算済みだから、せいぜい重傷だ。リタイアならちょうどいい。それで、一件落着さ」美月の身体は震え始め、奈落の底に突き落とされたようだ。長年の信頼と愛情が、この瞬間、辰朗の最も鋭い刃となり、美月の心の奥深くに突き刺さった。「この先はどうするつもりだ?」啓人が尋ねた。「美月は今回は重傷だし、もう二度とサーキットには戻れないだろうな?その人生はおしまいだ」「俺が彼女と結婚する」辰朗は、何でもないことのように言った。「何だって?!」啓人は信じられないという叫び声を上げた。「北村夫人の座を補償として与えるさ。北村家が養ってやる」辰朗の声には、施しを与えるような哀れみが滲んでいた。「結婚後、貴婦人になった美月は、安心して家にとどまれるさ。そして、良妻賢母として日々を送れば、それで十分だ。そうなれば、芽依のレーサー人生にもう障害はない」「さすがだな!厄介者を片付けただけじゃなく、情に厚いって評判まで手に入れた!」二人がグラスを合わせる音が、
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第3話

美月は目を閉じ、涙が頬を伝って激しく流れ落ちた。「来月、蘇市に戻る。お父さんが決めた相手と結婚する」「うん……分かった!美月、帰ってくればいい。帰ってくればいいさ……」明雄の声は震えていた。失っていたものを取り戻した歓喜だ。「すぐに手配する!」美月は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。そして最後に、あのドアを一度だけ振り返った。裸足のまま、冷たい夜の闇へと踏み出した。世間は、彼女をレース界に彗星のごとく現れた天才少女としてしか知らない。だが彼女が、蘇市の辰月グループ唯一の後継者だということは、誰も知らない。今、夢は覚めた。家に帰るべきだ。美月は病院に3日間入院した。その3日間、辰朗は一度だけ慌ただしく顔を出したきりで、滞在は10分にも満たなかった。お見舞いの品とバラの花束を置き、「会社に急用がある」と言って去っていった。去るまで、彼女の耳の具合を一言も気にすることはなかった。医師は静養を勧め、手術をするか早急に決めるよう告げた。だが彼女には、耳よりも急ぐべきことがあった。自分のものであるトロフィーと金メダルを、必ず取り戻さなければならない。それは汗と青春を注ぎ込んで手にした栄誉だ。芽依の元に残すわけにはいかなかった。退院手続きは、すべて美月一人で済ませた。病院を出るとき、クラブのアシスタントの内山(うちやま)からメッセージが届いた。【小林さん、今日ご退院されたと聞きました。クラブでサプライズを用意してるから、必ず来てほしいと、北村さんが言ってました】サプライズ?美月はただ【うん】と返した。タクシーでクラブへ向かう途中、美月は車窓の外を眺めた。この道は、あまりにも馴染み深い。かつて、辰朗は毎日自分をクラブに送っていた。自分は助手席に座り、彼は片手を伸ばして自分の手を握った。「美月、お前は夢だけを追えばいい。俺はいつでも、お前の一番強い後ろ盾だ」今になって、彼女は理解した。彼は確かに「後ろ盾」だった。しかし、その後ろ盾は芽依のためのものだった。そして、美月の無防備な背後から、最も致命的な一撃を与えた。夕陽がクラブのガラス張りの外壁を紅く染めていた。ここは、辰朗が美月のために「一から作り上げた」王国であり、二人の夢の始まりだと言っていた場所
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第4話

「お前が大事にしているのは分かってるから、先にメンテナンスに出しておいたんだ」辰朗は優しく微笑み、美月の肩を抱いた。「戻ってきたら、専用の展示ケースを作らせるよ。新居に置こう……」言い終わらないうちに、スマホが鳴った。辰朗は画面を一瞥し、眉をわずかにひそめた。「会社の急用だ」彼は申し訳なさそうに彼女の額にキスを落とした。「戻ったら、結婚式のことをゆっくり話そう」そう言って、彼は慌ただしく背を向けて去っていった。足取りはどこか落ち着きがなかった。美月はその場に立ち尽くし、彼の背中がドアの向こうに消えるのを見送った。チームメイトたちが祝福に集まってきたが、彼女は淡くうなずいただけで、まっすぐ倉庫へ向かった。予備の鍵を持っている。辰朗は、ここにあるすべてが彼女のものだと言っていた。ドアを開けると、埃が舞い上がった。トロフィーを保管していた棚は、空っぽだ。棚のドアには、埃をかぶった紙切れが一枚貼られていた。洒落な筆跡は辰朗の字だ。【美月、トロフィーは専門のメンテナンスに出した。数日後に戻す】数日後?彼は、私をだますことにすらいい加減なんだね。美月はその紙を見つめ、ふっと笑った。笑っているうちに、涙がこぼれ落ちた。……アパートに戻るころには、すっかり夜になっていた。ここは辰朗が美月に買い与えた「愛の巣」だ。都心の最上階で、街の夜景を一望できる。彼は、ここは二人だけの場所だと言っていた。美月はソファに崩れ落ち、スマホを開く。芽依がインスタに投稿していた。祝勝会の写真だ。シャンパンタワーがきらめき、芽依はトロフィーを掲げて輝くように笑っている。最後の一枚は、隅のゴミ箱の中に転がっていた金メダルだ。その金メダルは果物の皮と紙くずに半分埋もれ、汚れきっている。それは、自分のキャリアで初めて手にした全国大会の金メダルだ。そして、こういう言葉が添えられた。【いらないものは捨てるべき。『障害を片づけてくれた』すべての人に感謝!】その投稿の下で、辰朗が「いいね」を押していた。さらにコメントまで書いた。【お前にふさわしいものが一番いい】美月は画面を見つめ、指先が冷たくなった。これは彼が言う「専門メンテナンス」か。彼女は立ち上がり
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第5話

「疲れたの」美月は辰朗の視線を避けた。「先に寝るわ」「俺も一緒に……」「一人で寝たい」彼女は寝室に入り、内側から鍵をかけた。ドアにもたれかかると、部屋が静寂に包まれた。彼女はようやく息をつけた瞬間、涙が無意識に頬を滑り落ち、胸に詰まった息は吐き出せないままだ。ドアの外で、辰朗は長い間立ち尽くしていた。やがて足音が遠ざかり、ゲストルームのドアが開いて、閉まる音がした。美月は窓辺に座り、膝を抱えながら、高く昇った月を静かに見つめた。左耳は相変わらず何も聞こえないままだ。右耳には、街の喧騒と心がゆっくり砕けていく音だけが聞こえている。一睡もできない夜だった。空が白み始めたころ、目玉焼きの香りとコーヒーの匂いが漂ってきた。辰朗はそれを「家の味」だと言っていた。朝の光がカーテンの隙間から差し込み、美月はベッドの縁に腰かけた。視線は指先に留まった。ダイヤモンドが陽光を受け、刺すような光を放っていた。まるで嘲笑うかのようだ。「美月、起きた?」辰朗が静かにドアを押し開け、トレイを手に入ってきた。彼は部屋着姿で、髪は少し乱れ、穏やかで家庭的に見える。「お前の好きな半熟目玉焼きを作った」彼はベッドに腰を下ろし、一口分を箸でつまんで彼女の口元へ差し出した。「食べてみる?」美月は顔を背けた。「お腹空いてない」辰朗の手が宙で固まった。やがて彼は箸を置き、彼女の手を握った。「まだ怒ってる?これからはなるべく残業を減らして、お前と過ごす時間を増やす」彼は彼女の指の指輪を撫で、深い愛情を宿した目で見つめた。「式場はもう考えた?モルディブはどうだ?それとも……ずっと行きたがってたフィンランドでオーロラを見る?」美月は手を引き抜いた。「どこでもいい」辰朗は笑い、彼女の鼻先を軽くつついた。「俺たちの結婚式だ。唯一無二にしよう」そして、少し間を置いてから慎重に尋ねた。「耳は……まだ痛む?医者は何て言ってた?」美月は立ち上がった。「会社に行く時間よ」「今日は行かない」辰朗は慌てたように立ち上がり、後を追った。「家でお前に付き添うさ」彼の目に浮かぶ、理由の分からない焦りを見て、美月は可笑しくなった。彼は何に怯えているのだろう?計画が
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第6話

美月は辰朗の言葉を受けず、聞こえなかったふりをした。芽依はそばで涙を拭いながら言った。「ごめんなさい……美月さんを怪我させてしまって。怒ってるなら、私にぶつけていい。でも、この件でクラブに迷惑はかけられないの……」辰朗は有無を言わせず、書類を美月の手に押し込んだ。「署名して。そして、持病の再発が原因で、芽依とは無関係だって、声明を出してくれ。そうすれば、炎上は収まる」美月は書類を開いた。条項は明確だ。事故の責任はすべて自分にあり、芽依には一切の非がないと認める内容だ。「補償」として、辰朗が【すべての医療費を負担する】と記されている。美月は顔を上げた。「私が署名しなかったら?」辰朗は眉をひそめた。「美月、わがまま言うな」「わがまま?」美月は書類を彼の顔に投げつけた。「辰朗!芽依はサーキットで私を殺しかけたのよ。それでこれに署名しろって?」「その言う方はやめろ!ただの事故だ!」辰朗は怒鳴って遮った。「芽依に何の関係がある?わざとじゃないだろ!理不尽な言いがかりはやめろ!」彼が美月の前で、これほど露骨に荒い感情を見せたのは初めてだ。それは芽依のためだ。「そう?」美月は芽依を見た。「あなた、わざとぶつかったんじゃないの?」芽依の顔色が一瞬で青ざめ、後ろめたさを隠しきれず、辰朗の背後に身を隠した。「美月!」辰朗は完全に怒り狂った。「もういいだろ!お前がもう走れないからって、芽依まで潰す気か?なんて性悪なんだ!」美月は目の前の辰朗をまるで他人を見るかのような目で見つめた。2年間彼を愛し、共に一生を過ごすと思っていた。彼が今、別の女のために、自分に屈辱的な「自白書」への署名を迫っている。胸の奥はもう痛みすら感じなかった。残っているのは、麻痺したような冷たさだけだ。「署名しない」美月ははっきりと意思を示した。そして迷いなく背を向けて2階へ上がり、部屋のドアに鍵をかけた。薄いドア越しに、芽依のすすり泣きと辰朗の宥める声が丸聞こえだ。うるさくて神経に障る。美月は顔を枕に埋めた。左耳は相変わらず何も聞こえないままだ。右耳の音も、途切れ途切れになり、はっきり聞こえなくなっていった。……どれほど時間が経ったのか、朦朧とする
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第7話

美月は口を開こうとしたが、濃煙にむせて声が出なかった。辰朗は芽依を抱き上げ、振り返りもせずに外へ駆け出した。炎がドア枠を飲み込んだ。濃煙にむせて、美月は激しく咳き込んだ。彼女は炎に包まれたドアを見つめた。自嘲するように笑ったあと、血を咳き吐いた。身体はゆっくりと崩れ落ち、瓦礫だらけの床に座り込んだ。炎が周囲から迫り、熱波が肌を焼いた。意識が散る直前、最後に見た光景は去っていく辰朗の背中と、床に残された指輪だ。……鼻腔に消毒液の刺激臭が入り込んだ。美月ははっと目を開き、荒く息を吸い込むと、肺がヒリヒリ痛んだ。それは濃煙が残した後遺症だ。私は……生きている?では、意識が途切れる直前に聞こえた消防車の音は、死の間際の幻覚ではなく、本当に助けられたということだ。それは同時に、辰朗が本当に自分を見捨てたことも意味していた……すべてがあまりにも荒唐無稽だった。手の甲に点滴の針が刺さっていなければ、悪夢を見ただけだと思ったに違いない。「美月?」明雄は肘掛け椅子に座っていた。2年ぶりに見る父のこめかみには白髪が増えていた。「お父さん……」声は古びたふいごのようにかすれていた。明雄はすぐに立ち上がり、そっとストローを彼女の唇元に運んだ。「ゆっくりしてて。まずは水を飲もう。怖がらなくていい、父さんがついている」涙が前触れもなくこぼれ落ちた。美月は機械的に水を飲み込みながら、明雄の目の下の赤い血管や、いつの間にか増えた白髪を見た。そこには責める色は一切なく、ただひたすらな心配だけがあった。胸が締めつけられ、彼女はか細く口を開いた。「お父さん……ごめな……」嗚咽して、最後まで言えなかった。だが明雄はすべてを悟ったように、コップを置き、点滴の刺さっていない方の手をざらついた大きな手で強く握った。「馬鹿な子だ。父さんに謝る必要なんてない。帰ってきてくれればそれでいい、帰ってきてくれれば……」帰る。その言葉は鍵のように、感情の堰を一気に開いた。美月は号泣したい衝動を必死でこらえた。「耳の手術はとても成功した」明雄は落ち着いた声で、慎重な優しさを込めて言った。「医者によれば、左耳の聴力は八割まで回復する見込みだ。右耳も、きちんと静養すれば問題ない」
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第8話

浩行は口を開いた。声は低く耳に心地よく、まるでチェロの弦の音のようだ。「小林おじさんから、君が目を覚ましたと聞いて、喉にいい薬草茶を持ってきた。声帯の回復に役立つ」彼の口調は事務的なものだが、細部に至るまで行き届いた配慮が感じられた。美月は彼を見つめ、口を開かなかった。今の彼女は少しみすぼらしく、どう切り出せばいいか分からなかった。浩行も催促せず、ただ静かに立っていて、彼女に十分な空間と時間を与えた。明雄はそれを察して、そっと部屋を後にした。美月は目を伏せ、差し出された薬草茶を手に取った。温度はちょうどよかった。「ありがとう」彼女は言った。「どういたしまして」浩行は軽くうなずき、礼儀正しく温和だ。彼は真っ黒な名刺を差し出した。表には金箔で二文字「草薙」と刻まれ、電話番号が一行だけ書かれていた。美月は名刺を受け取り、指先が彼の指に触れた。冷たかった。「あなたなら、選択肢はいくらでもあるのに、なぜ私を助けた?」彼女は顔を上げ、彼の目を真っ直ぐ見つめた。浩行は目をそらさず答えた。「小林おじさんと俺の父は親友だ。理屈としても感情としても、手助けするのは当然のことだ……」「じゃあ、私に同情してるの?」「いいえ」浩行は首を横に振った。「尊重だ。君のレースはとてもクリーンだ」美月の心臓がぎゅっと跳ねた。浩行は続けて真剣に答えた。「草薙家と辰月グループは、共同で『星躔』(せいてん)クラブを買収した。新しい舵取りが必要だ。君こそが最適の選択だ」星躔は国内トップクラスのレーシングクラブの一つだ。業界の伝説であり、無数のレーサーが夢見る聖地だ。「なぜ私が?」美月は布団をぎゅっと握り、声に少し落胆が混じった。「耳もまだ治ってないし、もしかしたら二度とレーサーとして走れないかもしれない。私は……衝動的で、自信過剰で、適任じゃない……」「クラブの舵取りとしては、自らレースに出る必要はない。もちろん、将来またレースに戻りたいなら、いつでも可能だ」浩行の声にはごくわずか、ほとんど気づかない程度の感情が混じっていた。「自信があるのは、君に実力があるからだ。明確な目標があり、それに迷わず全力で取り組む。これは衝動ではなく、勇気だ」彼の声は穏やかで、慰めの調子はなく
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第9話

3か月後、蘇市の辰月グループ本社ビルの最上階に、美月は掃出窓の前に立ち、足元に広がる街を俯瞰している。左耳の聴力は七割ほど回復し、日常会話に支障はない。右耳は完全に正常だ。「社長、会議はあと5分で始まります」東山(ひがしやま)秘書がオフィスのドアを軽くノックし、丁寧に知らせた。この3か月、美月は毎日わずか4時間しか眠っていない。日中は辰月グループ本社で運営を学び、夜は星躔クラブの資料を研究していた。「行こう」美月は机の上の厚さ50ページにも及ぶ【星躔クラブ再編案】を手に取り、オフィスを出た。廊下の両側の社員たちは目を向け、敬意を込めて頭を下げた。「お疲れ様です」3か月前、明雄が美月の正式な復帰と星躔クラブの引き継ぎを発表したとき、社内には疑問の声もあった。だが美月は自分の腕で全員の口を塞いだ。初めての幹部会議で、彼女はわずか20分で過去3年間のクラブ運営における七つの致命的な欠陥を指摘し、五つの革新的な改革案を提案した。データは正確で、論理は緻密だ。視点は鋭く、ベテランたちもひそかに驚いた。……会議室には星躔クラブのコア管理層が揃っていた。美月は主座に座り、穏やかな目で場にいる全員をじっと見渡した。「始めましょう」挨拶もなく、直接本題に入った。オペレーション部の尾崎(おざき)部長が立ち上がり、次シーズンの準備状況を報告した。「ご指示の通り、国内トップレベルのレーサー6名に接触済みです。そのうち3名は加入に前向きですが……」尾崎部長は一瞬言葉を止め、難しい表情を浮かべた。「北村グループの『極速クラブ』も同じ選手たちに接触しており、提示額も高いです」また辰朗だ。美月は顔色を変えずに言った。「リストを出して」目がある名前で止まった。「赤坂奈々(あかさか なな)」「はい、赤坂奈々は国内で最も有望な女性レーサーです。昨年世界選手権で準優勝しました。我々も極速も彼女を狙っています」「彼女の契約はあとどれくらい残っている?」「2か月です」美月は書類を閉じた。「会談の手配を」「でも社長、赤坂は今、極速クラブの育成キャンプにいます。北村は手放さないでしょう……」「なら、奪えばいい」美月は目を上げ、平静だが疑う余地のない口調で言った。「レーサーが求めるのは高額
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第10話

「辰朗……」芽依の声には不安が混ざり、そっと辰朗の袖を引っ張った。しかし辰朗は、破天荒にも彼女を無視し、袖をそっと引き離すと、美月に向かって低い声で真剣に説明した。「美月、もういい加減にしてくれ。俺は本当にお前を放っておいたわけじゃない。病院にも行ったんだ。こんなに長く逃げ回って、もう怒りは収めるべきだろう」美月は信じられない表情で彼を見た。自分がこんなに長く姿を消していたのに、辰朗はまだ自分が拗ねているだけだと思っているのか?美月は冷笑し、頭をそらした。もう一秒でも目を向けていたら、その顔を引っぱたきたくなる衝動を抑えきれなくなりそうだ。芽依は歯を噛み、わざとらしく気遣うふりをした。「そうだよ、美月さん。辰朗は心配してたんだよ。ちゃんと話した方がいいよ」美月は目を細め、グラスのシャンパンを揺らしながら、さっと背を向けて去ろうとした。だが、誰かが手首をつかんだ。「美月、言うことを聞いて。戻ろう。俺たちの結婚式はこのままできるんだ」辰朗の胸の焦りはますます大きくなり、美月を引こうと手を伸ばした。その瞬間、鳥肌が立った美月は、吐き気をもよおし、手を抜きたくなった。しかし辰朗はさらに強く引っ張った。周囲の人間も次第に集まってきた……「放して!」美月は耐えきれず、声に怒気を帯びさせた。「北村社長、ご自重してください!」その時、聞き慣れた声が美月の振りかぶった平手を止めた。宴会場の反対側から、浩行が美月に向かって歩いてきた。浩行は自然に、ダークグレーのスーツジャケットを美月の肩にかけた。動作は熟練していて、何度も繰り返したかのようだ。「夜は冷える。風邪をひかないで」浩行は低く耳元でささやいた。口調は、他人には聞かせたことのない穏やかさだった。そして彼は辰朗を見上げた。その目は瞬時に冷たくなった。「北村社長……」浩行は辰朗を見据えて口を開いた。声は小さいが、宴会場の隅々まで届くほどはっきりしていた。「俺の婚約者を知ってるのか?なら結婚式のときは、ぜひ北村社長も顔を出してください」婚約者という三文字はまるで爆弾のように宴会場で轟いた。「草薙家の縁談相手?じゃあ、彼女は姿を隠してた小林令嬢じゃないか?」「最近星躔を引き継いだんだろう?ってことは……北村社長とラ
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