Share

第6話

Author: アカリ
その瞬間、心臓をぎゅっと握り潰されたような痛みが走る。

付き合い始めた頃、私は一度、壁紙を自分の写真にしてほしいと慎也に頼んだことがある。けれど彼は即座に断る。

理由は、指導教員が厳格で、恋人の写真を壁紙にすることを禁止しているから、気が散るのを恐れているというものだった。

当時は少し不思議に思いながらも、私は彼の考えを尊重し、それ以上は求めなかった。

卒業すれば、ようやく普通のカップルのように、お互いの写真を壁紙にして、手をつないで街を歩き、仲のいい写真を撮れる。そう思っていたのに、今度は社内恋愛禁止を理由に、またしても私の願いは封じられる。

そして今、壁紙に映る遥香の花のような笑顔を見て、私はようやく思い知る。人は本気で好きになった相手のためなら、どんなルールでも簡単に破るものだということを。

彼は遥香のためなら、自分で決めた制約さえも平然と踏み越え、生き生きとした姿を見せる。

それなのに、私の前ではどうだろう。私の行動が彼の「許せないライン」から遥かに遠くても、彼は時折、無言の圧力で私を抑え込む。

これが、愛しているかどうかの違いなのだろう。

思い出に沈みかけたところで、スマホの振動が現実へと引き戻す。

通知を見た瞬間、私はすぐベッドへ駆け寄り、自分のスマホを取り出して退職申請を送る。

この二年で私はいくつもの大型案件をまとめ上げ、星和グループを絶好調に押し上げてきた。マルセイユのプロジェクトが動き出せば、慎也が新興の有力者になるのも時間の問題だ。

でも、そのために尽くす気はもうない。

申請を送った後、私は彼のスマホをロック解除して、自分の申請を承認しようとする。

だが、パスコードが違うと表示される。

入力ミスかと思い、もう一度試すが、やはり違う。

変更されている。

残り三回と表示される中、私は静かに二秒考え、遥香の誕生日を入力する。

ロックが解除される。

私は思わず冷笑が漏れ、すぐに業務アプリを開き、承認待ちの一覧を確認する。

いくらスクロールしても、自分の退職申請が見つからない。

不審に思い、更新しようとしたその時、通知がポップアップする。

【須藤遥香があなたの退職申請を承認しました】

同時に、LINEにも彼女からメッセージが届く。

【汐里さん、気分が落ちていると思うので、しばらくお休みを取ってください。落ち着いたら、また再入社の手続きをしてあげます】

「落ち着いたら」だなんて。

即座に承認した時点で、この日をずっと待っていたのは明らかだ。

私は返信せず、慎也のスマホを元に戻し、ホテルのフロントに電話して遺失物として回収に来てもらう。

フロントは私が陸斗と知り合いだと知っている上、額の傷にも気づき、こっそり彼に連絡を入れる。

額の傷は小さいが、やや深い。

私はタクシーで病院へ向かい、縫合を受ける。医師は麻酔は勧めないが痛みは強いと言い、我慢してほしいと告げる。

鋭い針が肉に刺さる感覚も、この数日で味わった痛みに比べればどうということもない。

無表情のまま三針を縫い終え、立ち上がった瞬間、遠くから息を切らして走ってくる陸斗の姿が目に入る。

額の縫合跡を見るなり、彼は怒りと焦りを露わにする。

「何かあったら連絡しろって言っただろ。橘に呼ばれたのに、どうして俺に言わないんだ」

私は乱れた前髪を軽く整え、話題を逸らす。

「あなたのお姉さん、有名な離婚弁護士なんでしょう。紹介してもらえる?」

陸斗は一息ついて言う。「橘と離婚するだけだろ。そこまでトップクラスの弁護士が必要か」

私は小さく鼻で笑い、訂正する。「誰がただの離婚だって言ったの?

私は離婚するだけじゃない。星和グループも私のものにする」

彼がかつての約束を守る気がないなら、こちらも遠慮する必要はない。

星和グループの八割の案件は私が取ってきたものだ。ここまで尽くして、何もかも手放す理由なんてない。

「善は急げだ。今から連れて行く」

陸斗の方が、むしろ私よりも気が急いている。

けれど、早く離婚の手続きを進めて、この男から離れるのは確かに悪くない。

その日の昼、彼に連れられて事務所へ行き、彼の姉である宇佐美乃愛(うさみ のあ)と会う。

私は慎也の所業と、自分の要求を一つ残らず説明する。

話を聞き終えた乃愛は、安心しろという視線を向ける。

「それほど難しい案件ではありません。必要な書類をそろえてください。今日中に離婚協議書を用意します」

私は感謝してうなずき、会計をしようと立ち上がりかけたその時、また遥香からLINEが届く。

何を言ってくるのかと軽く開くと、目に飛び込んできたのは二人のウェディングフォトだった。

写真の中で、慎也は片膝をつき、遥香の手を大切そうに包み込む。

その表情は春風のように柔らかく、あの冷たい目が嘘のように優しさに満ちている。

露骨な挑発のその写真を、隣の姉弟も目にする。

乃愛は証拠として保存しておくべきだと言う。財産分与で有利になるからだ。

だが隣の陸斗は、歯を食いしばり、私以上に怒りを露わにしている。

「姉さん、あのクズ二人、絶対に丸裸にしてやれ。そうでもしないと汐里の気が済まない」

突然の一言に、乃愛は少し驚いた様子を見せる。

彼女が私にちらりと視線を送り、笑って言う。「依頼人でもないのに注文は受けないわ」

陸斗は黙り込み、私を見つめる。その目は、まるで何かを求めているようだ。

私は視線を外し、乃愛に軽くうなずく。「可能なら、二人とも一文無しにしたいです」

本当は、それだけでは足りない。遥香が大学四年間で受けた援助金も、全部返してもらいたい。

けれど今は、まず離婚が最優先だ。遥香については……

彼女が愛しているのが慎也という人間なのか、それとも彼の金と地位なのか、すぐにわかる。

それ以上は話さず、陸斗は私をホテルまで送る。

荷物を探しているうちに、婚姻届受理証明書を持ってきていないことに気づく。

下に降りてタクシーを呼ぶと、彼はまだ帰っていない。

事情を話すと、そのまま車に乗せられる。

家に戻ると、私はまっすぐ書斎へ向かう。

証明書を受け取った時、私はそれを大切に箱へしまい、鍵までかけて保管していた。

その時、慎也は笑って言う。ただの証明書だけなのに、何がそんなに大事なんだと。

だが今、引き出しを開けると、証明書はいつの間にか箱から取り出され、隅に無造作に放り込まれている。

私は自分の分だけ取り、箱を持ってその場を離れる。

階下に降りたところで、急いでいた配達員とぶつかり、箱を落としてしまう。

中身が床に散らばる。

拾い集めようとして、ふと気づく。箱に入った、もう一枚の証明書。

慎也の証明書は、さっき引き出しにあったはずなのに。

胸の奥から、嫌な予感が一気に広がる。

震える指で、それが違うものであってほしいと祈りながら開く。

現実は容赦ない。

そこに記されていたのは、慎也と遥香の名前。

証明書を開くと、中に挟まれていた二人の結婚写真が目に入った。写真の中で、二人は眩しいほどに笑っている。まるで私の愚かさを嘲笑うかのように。

その時、見知らぬ番号から電話がかかってくる。

反射的に出ると、受話口の向こうから怒声が叩きつけられる。

「瀬戸、お前はそこまで性格が歪んでいるのか?遥香を中傷する記事をばらまいたのはお前だろう。彼女を死ぬまで追い詰める気か!」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 月はかつて、君を想う   第28話

    わずか数日のうちに、慎也の父は息子を失い、孫を失い、さらに妻までも失う。肩には息子が破産して残した借金までのしかかり、生きていく希望を一気に失ってしまう。彼は毒物を買い、自殺しようとする。だがその毒物は粗悪な偽物で、飲んだあと三日も五日も吐き続けたのに、結局死にきれない。もう一度死のうとする勇気もなく、ただ苦しみながら生き延びるしかない。借金取りに追われ、長年働いていなかった彼は、昼は警備員として働き、夜はゴミ拾いをして、息子の尻拭いに奔走する。遥香は無事に慎也と離婚する。あのとき、慎也に頼んで地元にいくつも家を買わせておいた自分の判断に、彼女は心から安堵する。これで地元に戻り、家賃収入だけでそれなりの暮らしができるはずだった。だが現実は、彼女に容赦なく叩きつけられる。慎也が買った家は、すべて伯父一家に占拠されていた。怒りに震えながら、遥香は家を返すよう求める。しかし、すでに慎也と離婚したと知った伯父は、鼻で笑う。「女のくせに家なんて何に使う。さっさと再婚するのが先だろ。それに忘れるな。あのときお前が飢え死にしかけてたのは、うちが飯を食わせてやったからだ。じゃなきゃ今ここにいないだろうが」むき出しの醜悪な本性を見せる伯父一家を前に、遥香は完全に崩れ落ちる。逃げ出したくても、行くあてがない。結局、屈辱をこらえながら伯父に頼み込み、部屋を貸してもらう。だがその日の夜、伯父は見知らぬ男を彼女の部屋に入れる。こうして遥香は、本当に伯父に無理やり結婚させられる。相手の男は見るに堪えないほど醜く、体は肥え太り、遥香を見るなり下卑た笑いを浮かべる。逃げ出そうとする遥香だったが、伯父に捕まえられ、両脚を折られる。スマホも取り上げられ、豚小屋に閉じ込められる。「もう一度でも逃げたら、殺すぞ」両脚に突き刺さるような痛み。彼女は本気で恐怖を覚え、泣き叫びながらもう逃げないと訴える。闇に沈む冷たい夜。彼女は這いながらスマホを盗み出し、通報しようとする。だが発信する前に、男に引きずられて部屋へと連れ戻される。これらのことを知るのは、ずっと後になってから。その年の年末前、家の改装がようやく終わる。ただし入居するには、しばらく換気が必要になる。そのため、乃愛と陸斗に新年を一緒に過ごそうと誘われ

  • 月はかつて、君を想う   第27話

    慎也が収監される日、彼からメッセージが届く。私に会いたいという内容だ。そこでようやく、ブロックを解除したままだったことに気づく。直接会えないと分かると、彼は弁護士を通して伝言を寄越してくる。「瀬戸さん、橘さんはこれまでのことを深く後悔しています。収監中に一度でいいので面会に来てほしい、直接謝罪したいとおっしゃっています」私はきっぱりと断る。すでに判決は出ているし、これで完全に縁は切れている。もう関わる理由はない。それに、あんな縁起でもない相手、わざわざ会いたいとも思わない。私は気持ちをすべて仕事に向け、陸斗とともに次々と案件をまとめていく。業界では私たちのことを「最悪コンビ」などと呼び、私たちが動くと案件を持っていかれると警戒されるほどになる。努力はちゃんと報われる。陸斗は気前がよく、わずか半年で私は4千万円ものボーナスを手にする。ある日の退勤後、私が不動産情報を見ていると、陸斗が隣の空き物件を勧めてくる。「俺と姉さんの隣に住むの、悪くないだろ」この間、乃愛とはすっかり意気投合し、何でも話せる親友になっている。私が暇さえあれば乃愛と一緒にいるものだから、陸斗はどこか拗ねたような口ぶりになる。「どうせ恋人みたいに仲いいんだから、近くに住んだほうがいいだろ」冗談めかして言うが、正直なところ、二人が住んでいるあの邸宅は本当に魅力的だ。景色は美しく、環境も整っている。庭も広く、ちょっとした家庭菜園ができそうなくらいだ。私は彼が言っていた空き物件を見に行く。実際に見ても、やはり申し分ない。迷わず半額を頭金として支払い、残りの手続きや内装の手配は陸斗が手伝ってくれる。施工チームが入り、工事が始まるのを見ながら、私は陽の光の中でしばらくぼんやりと立ち尽くす。遠くの田舎で生まれ育った私にとって、これまではこの街で小さいマンションを買えたら十分だと思っていた。それが今では、自分の力でこの一等地に一軒の邸宅を手に入れている。胸の奥から、じわりと誇らしさが込み上げる。この瞬間、A市の冬もそれほど厳しいものには感じなくなる。内装に追われる日々の中で、星和グループは完全に崩壊していく。慎也が収監されたことで、社内は混乱の極みに陥る。給料も支払えず、社員たちはオフィスの物を奪い合い、

  • 月はかつて、君を想う   第26話

    「でもあれはもともと星和グループのために進めていた案件だろ!フランスに行く費用だって会社が出してる!それで裏切りじゃないって言えるのか」そこまで聞いて、私は思わず笑ってしまう。これまで何年も、出張のたびに慎也は私に航空券もホテルもすべて立て替えさせていた。帰ってきたらまとめて精算すると言いながら、十回のうち八回は申請書にサインすらしない。そのうち私も請求する気をなくしていた。まさかそれが、ここで決定的な証拠になるとは思わなかった。私が提示した支払い履歴を前に、慎也は力なく肩を落とす。その後、双方の弁護士が何を言っているのか、彼の耳にはまったく入っていない。頭の中にあるのは、ただ一つの疑問だけ。なぜあの時、もう少し私を大切にしなかったのか。最初からただの社員として扱っていれば、結果は違っていたのではないか。だが、過去はやり直せない。判決はその日のうちに下る。慎也は、私に対する経済的損失、労務損失、さらに精神的損害のすべてを賠償するよう命じられ、その総額は2億4千万円にのぼる。後日、慎也側の代理人が私のもとを訪ねてくる。「瀬戸さん、橘さんは星和グループの株式30%をもって賠償に充てたいとお考えですが、いかがでしょうか」だがこの頃の星和グループは、トラブル続きで評判は地に落ち、株価も暴落している。30%の株式など、現金2億4千万円には到底及ばない。私はその提案を断り、代わりに早急な支払いを促すよう伝える。お金を受け取る前に、彼が破綻でもされたらたまらない。その懸念は的中する。わずか数日後、星和グループのプロジェクトで重大事故が発生する。現場の安全対策が不十分だったため、高所からの落下物が作業員二人の頭部に直撃し、一人が死亡、もう一人が重傷を負う。遺族は賠償を要求し、現場側は事態を隠そうとする。だが、そんなものは長くは持たない。結局、事件は大きく報じられる。二つの家族は連携し、星和グループのビル前で横断幕を掲げ、拡声器で「橘慎也は責任を取れ、賠償しろ」と繰り返し訴える。だが当時の会社の口座には、ほとんど資金が残っていない。遺族側は合計1億6千万円の賠償を求める。慎也はできるだけ支払いを引き延ばそうとする。新たに獲得した案件に着手できなくなるからだ。もっとも、その悩

  • 月はかつて、君を想う   第25話

    「最初に私をその気にさせて、立場を利用して関係を迫ってきたのはあんたでしょそれに、ちゃんと大事にするって約束したのもあんたじゃない!今さら私が気に入らなくなったっていうの?」遥香は泣き叫びながら、慎也に掴みかかり、引っかいて叩きつける。そのヒステリックな振る舞いに、慎也は完全に怒りを爆発させ、力任せに彼女を突き飛ばす。足を滑らせた遥香は、そのまま割れたガラスの灰皿の上へ倒れ込む。悲鳴と同時に、頬の半分が鋭く切り裂かれる。血が噴き出し、頬を伝って一瞬で服の胸元を真っ赤に染め上げる。「痛い……」割れたガラス片がまだ傷口に刺さっている。口を開くだけで、血がさらに溢れ出す。その光景に、慎也も一瞬で青ざめる。だが怖くて手を出せず、ガラスを取り除くこともできない。その場に立ち尽くし、何もできずにいる。結局、遥香は自分でガラス片を引き抜くしかなかった。泣きながら救急に電話をかけ、同時に警察にも通報し、慎也の暴力を訴える。だが、その訴えは軽い注意で済まされる。一方で、遥香の顔には二十八針もの縫合が必要となる。腹の子どもへの影響を恐れ、麻酔は使わない。そのため、彼女は二十八針をすべて生身で耐え抜く。手のひらに爪が食い込み、血が滲むほど強く握りしめながら。手術台の上で、彼女は泣きながら医師に頼み込む。少しでもきれいに縫ってほしいと。ここで顔に傷が残れば、慎也の心を取り戻すことはもうできないと分かっているからだ。だが、どれほど腕のいい医師でも、傷跡は避けられない。頬から顎にかけて、はっきりとした一本の傷が残る。鏡を見つめた遥香の胸に、強い恐怖が湧き上がる。顔を押さえて泣き崩れ、ついには病院の鏡まで叩き割る。その間、慎也は一度も見舞いに来ない。彼は私が会社の機密を売ったという証拠集めに追われているのだ。再び法廷に立ったとき、彼は自信に満ちた表情を浮かべている。今度は先手を打ち、私が機密を漏らした証拠を突きつける。その中には、成林建設の案件とマルセイユのプロジェクトが含まれている。在職中に裏で動き、会社に莫大な損害を与えたと主張する。だが、彼がそう出てくることは予想済みだ。陸斗はすでに成林建設の中村社長に連絡を取り、証人として法廷に立ってもらう手配をしている。中村社長は

  • 月はかつて、君を想う   第24話

    法廷での慎也は、序盤こそ気勢を張っていたが、最後には椅子に崩れ落ちるように座り込む。その目は次第に焦点を失い、私へ向ける視線には恨みがにじんでいる。何に対して恨んでいるのかは分かる。だが、乃愛の言う通り、彼が私に与えた搾取と傷は計り知れない。私はその視線を意識的に無視し、静かに乃愛と相手弁護士の応酬に耳を傾ける。この裁判は、乃愛の言葉通り、勝敗はほぼ決まっている。それでも慎也は、最後に私を不快にさせる手を打ってくる。彼は休廷を申請する。審理は半月後へと引き延ばされる。その間に、星和グループは慎也が案件を次々と切り捨てたせいで機能不全に陥る。流れるように支払われていく違約金に、彼は頭を抱える。会議を開き、社員に新規案件の獲得を命じる。だが、その多くは惰性で働いている者ばかりで、仮に案件を取れても、慎也の目には小さすぎるものしかない。私に鍛えられたせいで、彼の基準は完全に狂っている。数百万円程度の案件など、目を通すことすらなく却下する。社員たちは陰で不満を漏らす。身の程知らずだとか、会社の現状を見ろとか、あれもこれも選り好みしている場合かと。その圧力の中で、退職を申し出る者も増えていく。慎也は手に負えなくなり、追い詰められていく。かつてのチームメンバーを呼び戻そうとも考えるが、結局はプライドが邪魔をして動けない。そんな中、さらに彼を苛立たせる事実が突きつけられる。遥香が本当に妊娠しているのだ。彼女は検査結果の紙をそのまま慎也の顔に叩きつけ、好き勝手に要求を並べ立てる。「私、あなたの子どもを妊娠してるのよ。逃げられると思わないで。それと、育児基金として4億円、先に振り込んで。産後ケア施設も今のうちに予約しておいて。あと、子どもができたんだから、それなりの誠意は見せてよ。多くは言わないわ、1億でいい。妊娠中は働けないし、その後も一年は授乳があるんだから」かつては鈴の音のように心地よく感じていたその声が、今ではひどく耳障りに響く。慎也は頭が割れそうになり、ついに爆発する。手にしていた検査結果を引き裂く。「金、金、金って、そればっかりだな!遥香、お前は俺が好きなのか、それとも金が好きなのか!育児基金で4億?何を産むつもりだ、どこの国の大統領だ!子どもを産むだけでそ

  • 月はかつて、君を想う   第23話

    【橘社長、どうして早く瀬戸さんが辞めたって教えてくれなかったんですか。契約更新はいったん打ち切らせてください】【橘社長、瀬戸さんって今どこの会社にいるんですか……】次々と届くメッセージ。そのほとんどすべてに汐里の名前が出てくるのを見て、慎也は怒りで目の奥が焼けるようになる。汐里、汐里。汐里がいなくなったくらいで、星和グループが回らなくなるはずがない。こんな取引先、いらないなら切ればいい。市場はいくらでも広い。新しい相手はいくらでも見つかる。意地になった慎也は、私がこれまでまとめてきた案件をすべて打ち切る。そして、会社から完全に私の影を消すと決める。徹底的に汐里を排除するつもりで動き出す。私の案件だけではない。以前のチームメンバーにまで手を伸ばす。プロジェクトチームの十人は、午前中までは給湯室で雑談しながらのんびりしている。だが昼になると、全員に解雇通知が届く。相当の補償が出るとはいえ、突然職を失うなんて到底受け入れられない。補償が少ないと不満を口にし、慎也を訴えると言い出す者もいる。その発言を聞いた慎也は、その場で厳しく警告する。だが、彼らにとって本当の地獄はそこから始まる。その日の夜、彼らのもとに裁判所からの呼び出しが届く。以前、私について根も葉もない噂を流した件が、ついに審理に入る。証拠は揃っている。負けは確実だ。それでも彼らは法廷で言い逃れを試みる。録音は偽物だとか、声なんていくらでも真似できるとか、あれが自分たちだとどう証明するのかと言い張る。最後までしらを切る彼らを見て、私は会社フォーラムに投稿された匿名書き込みのスクリーンショットを提示する。削除したはずの投稿が保存されていたと知り、彼らは一気に顔色を変える。この証拠については、ある意味で遥香に感謝しないといけない。彼女は私の退職申請を通したものの、フォーラムアカウントの権限を停止し忘れていた。そのおかげで、裏で私を貶める書き込みを確認できた。そしてスクリーンショットを取った直後、私はすぐに乃愛へ送り、公証と記録の手続きをしてもらっている。警察も投稿者の情報を特定しており、もはや言い逃れは通用しない。結局、彼らは敗訴する。手にしたばかりの補償金は、あっという間に私のもとへ渡る。しかも賠償だけで

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status