LOGIN氷室様の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。
その変化を目の当たりにして、私の心臓が激しく跳ねた。
まさか──本当なのだろうか。
いや、そんなはずはない。でも、この動揺は一体……。
私が知っている彼は、いつだって冷静で……。
それなのに、今の彼は、まるで足元が崩れていくのを必死に堪えている子供のように見えた。
「氷室様……?」
小さく呼びかけると、氷室様はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、普段決して見せることのない戸惑いが浮かんでいる。
「これは……どこで手に入れた」
声が、震えていた。
あの氷室蓮が、声を震わせている。それだけで、この写真がどれほど彼の心を揺さぶったのかが分かった。
「今日の午後、匿名のメッセージで送られてきました」
私は、正直に答えるしかなかった。
「『隠し子がいる』と……そう書かれていて。この写真も一緒に」
氷室様は、スマホの画面を見つめたまま、何も言わなか
部屋に戻った私は畳の上に正座をして、封筒をそっと開いた。便箋を取り出すと、不器用な文字が並んでいる。『咲希へ明日、お前は蓮さんの妻になる。父として、嬉しくもあり、寂しくもある。お前が生まれた日のことを、今でも覚えている。小さくて、か弱くて、一生懸命泣いていた。その時、父さんは誓ったんだ。この子を、絶対に守ると。お前が小学生の頃、父さんと一緒に庭の手入れをしたな。お前はまだ小さいのに、熊手を一生懸命動かして、落ち葉を集めてくれた。「お父さん、旅館のお庭、きれいにしようね」そう言って笑ったお前の顔を、父さんは一生忘れない。あの頃から、お前はもうこの旅館を、自分の場所だと思ってくれていたんだな。でも、父さんは何もできなかった。お前が苦しんでいる時も、助けてやれなかった。情けない父親だ。ホテルで仕事を失った時、お前がどれだけ辛かったか。父さんには、分かっていた。なのに、何も言えなかった。ただ、お前が諦めずに前を向いている姿を見て、父さんは誇りに思った。強い子に育ってくれて、ありがとう。そして──蓮さんと出会ってくれて、ありがとう。蓮さんは、お前を本当に愛している。きっとお前のことを守ってくれる。だから、父さんは安心してお前を託せる。咲希、幸せになれよ。ずっと、ずっと愛してる。父より』手紙を読み終えた時、私はしばらく動けなかった。便箋を胸に抱きしめる。便箋の端に、乾いた波打ちがあった。お父さん、泣きながら書いたんだ。厳格で、自分にも厳しく、甘えることを許さなかった背中。その裏側にあった、痛いほどの後悔と愛情。「……ありがとう、お父さん。私、お父さんの娘でよかった」誰もいない部屋で、その不器用な文字を、そっとなぞった。この手紙は一生、大切にしよう。◇しばらくして、スマホが振動した。蓮さんからのメッセージだった。
4月11日、金曜日。結婚式前日。私は萌花と一緒に、実家の旅館へ向かう車の中にいた。母が『最後に家族でゆっくり過ごしましょう』と言ってくれ、蓮さんも「ご両親と、大切な時間を過ごしてきて」と、背中を押してくれた。窓の外を流れるのは、何度も通ったはずの田舎道。山々、田んぼ、小さな商店街。子供の頃から見慣れた風景。けれど、今日だけは少し違って見えた。「この景色を『森川咲希』として見るのは、これが最後なんだね……」助手席から漏れた私の呟きに、萌花が優しく、だけど力強くハンドルを叩いた。「そうだよ。次に来る時は、かっこいい旦那様の奥様として、だね」萌花の言葉に、口元がゆるんだ。シートベルトの下で、心臓がやけにうるさく鳴り続けている。緊張なのか、期待なのか、もう自分でも分からなかった。やがて、車は実家の旅館に着いた。玄関の前で、両親が待っていてくれた。「咲希、おかえり」「ただいま」私は母の方へ歩み寄った。父も、穏やかな表情で私を見ていた。「ついに明日だな」「うん……楽しみで、ちょっと怖いくらい」父が、静かに笑った。「そりゃそうだ」それだけ言って、父は大きな手を私の頭に乗せた。旅館を切り盛りしてきた、固くて少しざらついた、父の手。「泣くな。明日、もっと泣くんだから」そう言った父の目が、少しだけ赤くなっているのを私は見逃さなかった。◇その夜。私は母と萌花と三人で、旅館の温泉に入った。貸し切りの露天風呂に浸かると、白く立ち上る湯気が夜の冷たい空気と混ざり合い、肩を優しく包み込む。「咲希、明日は思いっきり楽しみなさいね」母が、私の手を取った。お湯の中で触れ合う母の手は、子供の頃から変わらない。「お母さんも、お父さんと結婚した日のこと、今でも覚えてるわ。緊張したけど、幸せだった。きっと咲希も、明日のことを一生忘れないわよ」その言葉が、静かに胸に落ちた。
次にやって来たのは、ダイニングテーブルのコーナー。私は、小ぶりな二人掛けのテーブルの前で立ち止まった。「これで十分ですよね、二人なら」蓮さんが、テーブルを見た。「……いや、こっちにしよう」そう言って蓮さんが指さしたのは、四人掛けのテーブルだった。「え?でも、二人なのに」「今は二人だが」蓮さんが、窓の外の春の空を見た。「将来、賑やかになるかもしれない」「賑やかに……?」蓮さんが、私を見た。その目が、少し遠くを映しているような気がした。「君に似た子が、このテーブルで笑っている姿が……想像できるんだ」頬が、一気に熱くなった。「れ、蓮さん……」「変なことを言ったか?」「変じゃないですけど、急に……」私が言葉を失っていると、蓮さんが軽く咳払いをした。「……まあ、そういうことだ。頼む」私は蓮さんのシャツの袖を、そっと掴んで下を向いた。──四人掛けのテーブル。蓮さんが思い描いた未来の食卓。その景色が、私の胸の中でじわりと広がった。私も、同じ未来を見たいと思った。◇食器のコーナーで、私はあるカップの前で立ち止まった。シンプルで素朴な佇まいの、ペアのマグカップ。手に取った瞬間、しっくりきた。「これ……すごく持ちやすいです。蓮さんの大きな手でも、持ちやすそうで」蓮さんが、もう一方を手に取った。しばらく、黙って手の中で確かめていた。「ああ、いいな」「明日からのコーヒーが楽しみになります」「俺もだ」「蓮さんはブラックですよね。私は少しだけミルクを入れて……このカップが並んでいるところを想像すると、なんだか不思議な気持ちになります」「不思議?」「こんなに当たり前の毎日が、私には夢みたいで」蓮さんが、私を見た。何かを言いかけて、やめた。代わりに、カップを静かにトレーに置いた。
4月4日、土曜日。結婚式まで、あと7日。朝食を片付けていると、蓮さんのスマートフォンが鳴った。画面を確認した彼は、短く「祖父上からだ」と告げて通話ボタンを押した。「はい」しばらく聞いていた蓮さんの眉が、わずかに上がった。「……言われなくても、そのつもりです」また聞いている。「分かりました。では、そのように」電話を切った蓮さんが、少し呆れた顔で私を見た。「祖父上から指令が出た」「指令?」「今日、買い物に付き合ってくれ。新居……いや、今の部屋を、君が使いやすいように整えたい」「私が選んでいいんですか?」「それが指令だ」蓮さんが、少し間を置いてから付け加えた。「俺も、そうしたいと思っていた」それだけだった。多くを語らない。でも、その一言の重さを、私はちゃんと受け取った。◇青山にある家具店は、ショールームというより美術館のようだった。吹き抜けの天井、柔らかい照明、どこを見ても洗練されたものばかり。入った瞬間、足がすくんだ。「どうした」「少し、圧倒されてしまって」蓮さんが、私の隣に並んだ。「値段は見なくていい。君の心が動くものを選んでくれ。これから一生使うものだから」その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。スタッフの方に案内されながら、広い店内を歩く。洗練された家具が並ぶ中、リビングコーナーの一角に、ひときわ目を引く大きなソファがあった。チャコールグレーの落ち着いた色味に、ふかふかとした厚みのあるクッション。蓮さんが、その前で立ち止まった。「座ってみよう」五人は掛けられそうな、ゆったりとしたサイズ。私が端に座ろうとした、その時だった。「咲希、こっちだ」蓮さんが、自分のすぐ隣をぽんぽんと叩いた。広いソフ
応接室には、二人の姿があった。エレガントなスーツを着た女性──レイラちゃんのお母様。そして、その隣で。「咲希さん!」小さな女の子が、私の方を向いて笑顔になった。あの時より少し大きくなったレイラちゃんが、そこにいた。流暢な日本語で、私の名を呼んでくれた。「レイラちゃん……!」「咲希さん、会いたかった!」レイラちゃんが駆け寄ってきて、私に抱きついた。温かくて、柔らかくて──生きている。この子が生きている。それだけで、もう十分だった。「大きくなったね」「うん、もう9歳だよ!」レイラちゃんは、誇らしげに笑った。お母様が、優雅に立ち上がった。「森川さん、お久しぶりです」流暢な日本語だった。「お久しぶりです。本日は、お時間をいただきありがとうございます」私は深く頭を下げた。「こちらこそ。どうぞ、お座りください」ソファに腰をおろすと、レイラちゃんが私の隣にぴたりとくっついた。「森川さん、あの時は本当にありがとうございました」お母様の言葉に、私は顔を上げた。怒っていない。責めてもいない。その目は、穏やかだった。「あなたが何度も確認してくださったこと、すべて見ていました。伝達メモを3部作成して、口頭でも何度も確認してくださった」「でも……私が、もっとちゃんと……」「いいえ」お母様が、首を横に振った。「あなたの細やかな配慮があったおかげで、厨房の他のスタッフがすぐに気づき、エピペンも用意できていた。あなたがいてくれたから、レイラは助かったんです」鼻の奥が、ツンとした。「実は……退院した後のレイラが、毎晩あなたの話をしていたんです」お母様の表情が、柔らかくなる。
4月2日、木曜日。春の柔らかな日差しが差し込む前に、私は目を覚ました。今日──レイラちゃんのお母様に会う日。隣で蓮さんが、静かに寝息を立てていた。私はそっとベッドから抜け出し、キッチンへ向かった。朝食を作りながら、ぼんやりと考える。総支配人から、お母様が私を認めてくださっていると聞いた。でも、直接会うのは別だ。救急車のサイレン。母親の悲鳴。あの事故の夜、倒れた娘を抱きしめていたお母様の顔が、ちらりと過ぎった。ちゃんと、彼女の顔を見て話せるだろうか。手に力が入らず、卵を割り損ねそうになった。「……ふう」深く息を吸って、なんとか気持ちを落ち着ける。「咲希」振り返ると、蓮さんが立っていた。「おはようございます」「おはよう。早いな」蓮さんが私のそばに来る。「眠れなくて……」蓮さんが背後から包み込むように、私の肩を抱いた。「今日は俺がいる。それだけ覚えておいてくれ」その言葉に、少しだけ心が落ち着いた。◇朝食を食べた後、私たちは支度を始めた。鏡の前に立ち、久しぶりに黒のスーツに袖を通す。そして、髪を丁寧にまとめ上げる。かつて、毎日繰り返したルーティンだけれど。ホテルを辞めてからは、いつもエプロン姿だったから。なんだか変な感じ。胸元には、蓮さんから贈られた雪の結晶のネックレス。冷たいシルバーが、今日は不思議と温かく感じられた。鏡の中の私は──あの田中くんたちと会った時よりも、少しだけ顔が違う気がした。怯えていない、とは言えない。でも、逃げようとも思っていなかった。「……よし」小さく呟いて、自分に気合を入れる。「咲希、行こう」蓮さんの呼びかけに、私は静かに頷いた。◇午前10時、車はホテル・グランシエル東京の前に停まった。車を降りると、春風が頬
『契約書を作り直そう』そう言って、氷室様は書斎へ向かった。私は、その背中を見つめた。氷室様の肩が、少し震えているように見えた。3年前のことを思い出して、苦しんでいる。私は、拳を握りしめた。大丈夫。私がそばにいる。氷室様は、一人じゃない。◇しばらくして、氷室様が新しい契約書を持って戻ってきた。それをテーブルに置く。「読んでくれ」私は、契約書を手に取った。***【婚約者契約書】期間:本日
「氷室様の秘密を、全て教えてください」「……なに?」氷室様の声が、低くなった。明らかに警戒している。今まで見せてくれていた穏やかな空気は一瞬で消え去り、そこには氷室グループを率いる冷徹な若き首領の顔があった。「好きな食べ物、嫌いなもの、趣味、過去……」私は、氷室様の鋭い目を見据えた。ここで引いてはいけない。「そして、3年前のアメリカでのこと。あのスキャンダルの、本当の真相も」瞬間、氷室様の顔色が変わった。氷室様の瞳の奥に、触れられたくない過去への鋭い拒絶が走る。
その夜、私は自室のベッドで天井を見つめていた。おせち料理を囲んで笑い合った時間。氷室様の「変わりたい」という言葉。そして、『君がいてくれて、よかった』という温かな声。幸せな一日だった――はずなのに。午後に盗み聞いてしまった、あの会話がすべてを掻き消していく。『婚約者を、近々紹介します』氷室様の声が、何度も頭の中で響く。無意識に、首元のネックレスに触れた。クリスマスに彼がくれた雪の結晶。「君に似合うと思って」あの時、私はこのペンダン
ペントハウスに戻った時、窓の向こうはすっかり暗くなっていた。東京の夜景が輝いている。いつもなら美しいと思えるのに、今日は何も心に響かなかった。『本当の、契約内容』氷室様の言葉が、頭の中で繰り返される。リビングに入ると、氷室様はコートを脱いでキッチンへ向かった。「コーヒーを淹れる」「あの、私が……」「いい。俺がやる」その声は、いつもより重い。私は、ただ黙って頷いた。コーヒーメーカーが動き出す。豆を挽く音が、静寂を埋めてい