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第1160話

Auteur: 夏目八月
さくらたちは楽章と紫乃が戻ってくるのを待っていた。二人が西平大名邸を訪れ、すべてを打ち明けたと聞いて、さくらは眉間に不安の色を浮かべた。

今の西平大名家の状況は、実に不透明だった。

「心配するな」楽章はさくらの肩を軽く叩き、穏やかな笑みを浮かべた。「親子の縁は結ばなかったよ。最初は感動したが、後になって偽善的に感じられてな」

帰り道で老夫人との会話を振り返るうちに、思考が一層冴えてきた。

鉄将の見せた純粋な感情とは対照的に、老夫人の言葉の一つ一つが、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。

だからこそ、老夫人は楽章の暮らしぶりを尋ねもしなかった。彼女の関心は、自分の話を楽章と三姫子が信じてくれるかどうかだけで、楽章のことなど眼中になかったのだ。

さくらは首を傾げ、紫乃に視線を向けたが、紫乃も首を振るばかりだった。

「さて、俺は寝るとするか。疲れたしな」楽章は両手を背中で組んで部屋へ向かった。その軽やかな様子に、この件で悩んでいる様子は微塵も感じられず、皆も安堵の表情を見せた。

紫乃は残って説明を続けた。鉄将も老夫人も激しく取り乱し、ずっと涙を流していたこと。ただし、なぜ楽章が偽善的と感じたのかまでは分からないと付け加えた。

「三姫子様も同席なさっていたそうですね」さくらは静かに言った。「後ほど、お話を伺ってみましょう」

これまで尋ねなかったのは、五郎師兄が心を開いていなかったから。今は違う。もう何を聞いても構わないはずだ。

翌日、さくらが三姫子を訪ねる前に、三姫子の方から先に来訪した。

三姫子は単刀直入に、二つの件を切り出した。

一つ目は、西平大名家の資産の一部を楽章に「売却」する件について、さくらから説得してほしいということ。

二つ目は、老夫人の話を信用せず、親子の縁を結ばないこと。さらに、挨拶などの付き合いも避けてほしいということだった。

この二件について、三姫子は前後の事情を包み隠さず打ち明けた。

今、本当に信頼できるのはさくらだけだと分かっていた。だから邪馬台の状況についても、知っていることをすべて話した。

「椎名青舞のところへ、頻繁に訪ねてくる者がいるのです。元帥邸の裏門で会っているようで、文書の交換はせず、口頭での伝言だけ。ですから私は……青舞は影森茨子の件では罪を免れましたが、今度は影森茨子の背後にいる者とつな
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