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第1293話

作者: 夏目八月
小林御典医は容態の急変に備え、夜通しの看病を予定していたが、亥の刻頃、丹治先生が戻ってきた。言葉少なに雪心丸を一粒差し出す。

服用後、玄武は胸の痛みが和らいだと告げた。小林御典医が脈を診ると、確かに自分の処方した薬よりも効果が著しかった。

御典医とはいえ、丹治先生の名声は聞き及んでいた。先生がここにいるなら、もはや自分が付き添う必要もない。王妃も二日間の献身的な治療を労い、薄謝の礼を添えて家人に送り届けさせた。

小林が去ると、丹治先生は新たな処方を書き、薬王堂に使いを立てて薬を調合させた。それを服用した玄武は、胸を押さえつけていた重石が取れたかのように、大きく息をついた。

「小林御典医は明日もまた来るでしょう。都を発つのは明日の夕暮れまで待つべきですな」丹治先生が告げた。

「でも明日、小林御典医が脈を診れば、すぐに気付かれてしまいませんか?」さくらは心配そうに尋ねた。

「門前で見張りを立てておけば、来訪時に親王様にまた……」

「まだ服用するんですか?」さくらは目を丸くした。「それは絶対にダメよ!」

丹治先生はさくらを一瞥した。「そこまで心配なら、最初からあの半粒も飲ませるべきではなかったな」

さくらの後悔の表情を見て、丹治先生は説明を加えた。「あの薬の残り半分ではない。玄氷丸という薬を使う。これは寒性の薬で、体内の熱を鎮める効能がある。服用後に親王様に気を巡らせていただければ、脈は依然として乱れたままとなる」

「ああ」さくらは納得したように頷いたが、すぐに別の懸念を口にした。「でも、先ほどの薬で心脈は既に損なわれています。この状態で気を巡らせ、玄氷丸と相克すれば、体力を更に消耗してしまわないでしょうか」

「心配はいらん。これだけの薬があるのだから、後で補えばよい」丹治先生は淡々と答えた。

「最初からこの玄氷丸を使えば良かったのに」傍らで棒太郎が呟いた。「親王様が二日も胸を痛める必要はなかったはず」

丹治先生は鋭い視線を投げかけた。「同じだと思うのか?本物の心疾でなければ、御典医が見抜かぬはずがない。脈が乱れているだけでは足りん。小林御典医は既に心疾発作と認識している。明日の診察で脈の乱れを確認すれば、さらなる静養の必要性を裏付けることになる」

棒太郎は慌てて口を噤んだ。普段の丹治先生はこれほど厳しくない。今日は随分と気が立っているようだっ
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