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第1628話

Author: 夏目八月
影森蘭。私の名はそう呼ばれる。

離縁を経験するまで、私の人生は、ただの笑い話でしかなかった。

幼い頃から、父上も母上も、私に口を酸っぱくして言い聞かせられたものだ。「目立つな。出しゃばるな。余計な揉め事には一切関わるな。己の名に泥を塗らず、常に慎ましくあれ」と。

周囲の誰もが、お二人を「度量が広く、謙虚で、お人柄も高潔な方だ」と称賛していた。

当時の私は、それを真実と信じて疑わなかった。

なにせ、父上は堂々たる淡嶋親王殿下、母妃は名門佐藤家の御息女。かくも尊い身分であられながら、決して人を困らせることもなく、言い争い一つせず、少々の不利益でさえ、ただ笑って受け入れていらしたのだから。

だが、物心つくにつれて、私は徐々に気づいていった。彼らが口にしたその賞賛こそが、実は痛烈な皮肉であり、お笑い草に他ならなかったのだと。

彼らの目に映っていたのは、腰抜けの私達一家だったのだ。

何よりも恐ろしいのは、私が幼少期からそんな教えのままに育ち、己が臆病者であることにも気づかず、その弱さを「優しさ」だと勘違いしていたことだった。

この過ちに、孝浩に嫁ぐその時まで、私は完全に目を瞑っていた。

その頃でさえ、私はまだ、父上と母妃はただただ善良なだけで、もしかすると、ほんの少しだけ自身の体面を守るために、人との衝突を避けたいだけなのだ、と都合良く解釈していたのだ。

だが、まさかこの永平姫君たる私が、嫁ぎ先でこれほどまでに虐げられようとは……それは、父上も母妃も、そして私自身も、一家揃って、とっくの昔に他者に弱点を握られ、巧みに利用されていた証左に他ならないのだと、今にして思えば明らかだった。

梁田孝浩、あの瀟洒で端麗な科挙第三位の青年の姿に、私は一瞬にして心を奪われたのだった。

都大路を颯爽と馬で駆ける孝浩に、思わず投げ入れた文香の袋。皆がしていたからと、ただ倣ってしたことなのに。まさか、あの方の目に留まるなんて、夢にも思わなかった。

やがて両家で縁談がまとまった時、私はただただ嬉しくて、嫁入り前の浮かれた心持ちに終日浸っていた。父上や母上が、外の出来事を私にあまり知らさないようにしていたこともあり、その頃、さくら姉さまがどんな苦境に立たされていたのか、私は全く知らなかったのだ。

後になって知ったことだが、さくら姉さまが私に祝儀の品を贈ってくださった時、母
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