Mag-log in午前7時45分、新宿へ向かう満員電車の車内。 本来弱者が座るべき「優先席」でふんぞり返っていた男が、突如として爆死した。 焼け焦げた残骸の下に残されていたのは、一枚の不気味なシール。 『椅子に座りますか』 次の生贄を決めるのは、安全圏から他人の死を娯楽として消費するネット大衆の「多数決」。 数十万人の悪意が暴走し、次々と特等席が業火に包まれていく中、警察組織の腐敗に絶望しながらも「目の前の命を救う」という信念を貫くはぐれ刑事・真下は、見えない狂気に立ち向かう。 現代ネット社会の闇と人間の業を徹底的に抉り出す、予測不能のノンストップ・社会派サスペンス! さあ、次は誰の椅子が火を噴くのか。
view more人の肉と肉が軋む音が聞こえる。
酸欠寸前のむせ返るような熱気。生乾きの服と汗が混じった匂い。そして、どこかから響く不機嫌そうな舌打ち。 午前七時四十五分。 新宿へ向かう埼京線の車内は、今日も変わらず「地獄」だった。 窓ガラスは乗客の顔や肩で押し潰され、何百人もの吐息が作る結露で白く濁っている。私――真下は吊り革に掴まることすらできず、見知らぬサラリーマンの背中と、分厚いコートを着た老人の間に挟まれたまま、車両の揺れに合わせて波のように身体を揺らすしかなかった。 足を踏まれても、肘が脇腹に食い込んでも、文句を言う余裕など誰にもない。誰もがスマートフォンの液晶画面か、何もない虚空だけを見つめ、心を無にして、この耐え難い苦痛が過ぎ去るのを待っている。 だが、この圧倒的な不平等の中で、たった一つだけ「特等席」が存在する。 椅子だ。 私の視線の先にある七人掛けのシート。そして、その横に設けられた優先席。そこには、この過酷な圧縮空間とは無縁であるかのように、選ばれた者たちが鎮座している。 優先席。 本来ならば、高齢者や身体の不自由な者、内部疾患を抱える人、妊婦、乳幼児を連れた乗客など、その席を本当に必要としている者が最優先で座るべき場所だ。 だが、その一角に陣取っているのは、お世辞にも身体が不自由とは思えない三十代半ばの男だった。 男は足を浅く組み、ワイヤレスイヤホンで両耳を塞ぎながら、スマートフォンで動画を見ている。時折、画面を眺めながらニヤリと口角を上げる。 その目の前には、膨らんだ腹を庇いながら苦しそうに顔を歪める妊婦が立っていた。少し離れた場所では、白髪の老人が震える腕で手すりにしがみついている。 それでも、男は一度も顔を上げなかった。 『俺は座れた。お前らは立って苦労しろ』 決して、男がそんな言葉を口にしたわけではない。だが、深く座席に身体を沈めたその勝ち誇ったような横顔には、ありありとそう書かれているように見えた。 満員電車という異常空間において、その傲慢さは何よりも醜く、私の神経を深く逆撫でした。 ……かつて、私の父は、この狂気のような混雑の中で命を落とした。 助けを求めても、誰一人として手を差し伸べる余裕などなかった。 それなのに、こいつらは――。 ドスッ、と鈍い音がした。 揺れに耐えきれなくなった老人がよろめき、優先席に座る男の革靴を踏んでしまったのだ。 男は露骨に顔をしかめた。 「チッ」 あからさまな舌打ち。 謝ろうとする老人へ視線を向けることすらなく、男は汚された靴から何か不潔なものでも払い落とすように足を組み直し、さらに深く座席へ身体を沈み込ませた。 その直後だった。 鼓膜を突き破るような轟音が、狭い車内を震わせた。 だが、爆風は車内全体へ無差別に拡散しなかった。 男が座っていた優先席の真下から、凄まじい爆発エネルギーが一本の柱のように真上へ噴き上がったのだ。 悲鳴を上げる間すらない。 指向性を持った爆発が、優先席に座っていた男の身体を下から一気に貫いた。次の瞬間、男の身体は原型を失い、赤い飛沫となって天井へ弾け飛んだ。 「きゃあああああっ!」 遅れて、車内を悲鳴が満たした。 周囲の乗客たちは衝撃波でドミノ倒しのように次々となぎ倒されたが、不思議なことに致命傷を負った者はいなかった。 爆発の殺傷力は、恐ろしいほど正確に、優先席へ座っていた男一人だけに集中していたのだ。 周囲の乗客たちは、ほんの数秒前まで男だったものの温かい血と肉片を、頭から全身へ土砂降りの雨のように浴びただけだった。 キィィィィッ――! 急ブレーキの甲高い摩擦音が鳴り響き、車両全体が激しく揺れた。 照明が落ちる。 車内は完全な暗闇に包まれ、非常灯の赤い光だけが、血まみれになった乗客たちと、床に転がる荷物、そして焼け焦げた座席を不気味に照らし出していた。 まるで、地獄の底だった。 床へ叩きつけられた私は、べっとりと顔に張り付いた血糊を手の甲で拭いながら、這いつくばるような姿勢で焼け焦げた優先席を見つめた。 そこにはもう、先ほどまでふんぞり返っていた男の姿はない。 黒い煙を上げる椅子の残骸と、男が持っていた鞄の切れ端だけが散乱している。 その時だった。 床すれすれまで落ちた私の視線の先――ひしゃげた座席の下の床面に、一枚のシールが貼られていることに気づいた。 爆風の死角になったのだろうか。周囲が煤で真っ黒に焼け焦げているにもかかわらず、そのシールだけが異様なほど綺麗な状態で残されている。 まるで、最初から誰かに見つけられることを想定していたかのように。 そこには、白い文字で、不気味なほど無機質にこう印字されていた。 『椅子に座りますか』 背中を、冷たいものが這った。 偶然じゃない。 そう直感した。 この爆弾は、ただ車両を吹き飛ばすために仕掛けられたものではない。 あの男が、あの場所に、あの優先席へ座ることを待っていた。 誰かが、人を選んでいる。 「……動かないでください! 警察です!」 私は喉の奥から血の味のする唾を吐き捨て、胸ポケットから警察手帳を引き抜いた。 自分のひび割れた声が、驚くほど遠く聞こえる。耳鳴りが酷かった。 無傷だった乗客たちは完全なパニック状態に陥り、非常用ドアコックをこじ開けようと殺到している。 「押さないでください! 勝手に線路へ降りるな! 怪我人を優先してください!」 私はふらつく足で立ち上がり、生存者を安全な場所へ誘導しながら、同時にできる限り現場を荒らさせないよう声を張り上げた。 警察官として、やるべきことは分かっている。それでも。網膜に焼き付いた、 『椅子に座りますか』という文字だけが、どうしても頭から離れなかった。 * * * 数時間後。 新宿署の一室に急遽設けられた特別捜査本部。その「中核(コア)会議」は、かつてないほど重苦しい焦燥感に包まれていた。 集まっているのは二十名ほど。警視庁捜査一課の管理官をはじめ、テロを管轄する公安部のトップ、サイバー犯罪対策課の班長、新宿署の署長クラスなど、いずれも今回の初動捜査を牽引するエリート幹部たちばかりだ。 私は署へ戻ってすぐにシャワーを浴び、全身に付着していた返り血を洗い流した。 それでも鼻の奥には、まだあの悍ましい鉄と血の匂いがこびりついている。 真新しいワイシャツへ着替えた私は、会議室の最後尾――パイプ椅子すら用意されていない扉のすぐ脇に、一人だけポツンと立っていた。あとがき最後まで『椅子に座りますか』を読んでくださり、本当にありがとうございました。 この物語を書き終えた今、改めて見返すと、『椅子に座りますか』という言葉は、私が最初に考えていた以上に、たくさんの意味を持つ言葉になったように思います。物語の始まりにあったのは、満員電車の中にある、たった一つの優先席でした。 「疲れている」「座りたい」という誰にでもある感情のすぐ隣に、「それでも、この席をもっと必要としている人がいるかもしれない」という、ほんの少しの想像力を持てるか。 自分が少しだけ損をして、誰かに席を譲る。その小さな行為の中に、人間の優しさの原点があるのではないか。そんな思いから、この物語は始まりました。そして物語が進むにつれ、「椅子」は少しずつ姿を変えていきます。 誰かより上に立つための椅子。権力者だけが座ることのできる特等席。 そして、匿名という壁に守られ、安全な場所から他人の人生へ石を投げる「観客席」という名の椅子。問題なのは、椅子に座ることそのものではありません。 一度手に入れたその「心地よい席」を、必要な時に手放せるのか。そこから立ち上がれるのか。誰かへ譲ることができるのか。 それを根底に置きながら、私はこの物語を紡いできました。そして本作を通して、サスペンスの奥でもう一つ描きたかったテーマがあります。 それは、「人は、誰かのために変わることができるのか」ということです。物語の終盤、ジョウの義父である真下修造が遺した手紙に、その答えがあります。 修造は、最初から強い人間でも、立派なヒーローでもありませんでした。かつての彼は、組織の事なかれ主義という泥沼の中で、自分が正しいと思うことよりも、立場や命令を優先してしまう弱さを抱えた警察官でした。そんな修造を、命を懸けて市民を救う「本物の刑事」へと変えたのは、一人の少年の存在でした。 理不尽な現実へ放り出されたジョウが、いつか憎しみに呑まれ、悪へ染まってしまうのではないか。そう危惧した修造は、言葉で「正しく生きろ」と説教するのではなく、自分自身の生き方を変える道を選びました。役職が上か下か、相手が権力者か否か、自分が損をするか。 そんなことは関係ない。目の前に助けを求める命があるなら、泥水をすすってでも守り抜く。 修造が変わったのは自分のためではありません。ジョウという一人の少年を、暗闇から守る
* * * 密室の電子ロックが解除されたのは、あの日から二日後だった。「……ユウ! いるか、ユウ!」 パスワードのタイマーが切れ、開錠音が響いた直後。私は重い鉄扉を押し開け、アジトの中へ飛び出した。 しかし、弟も、カラスたちもいない。 乱雑に散らかった機材と、死んだような静寂だけが残されていた。 息を切らしながら部屋を見回したその時、部屋の奥でつけっぱなしになっていたテレビへ目が止まった。 画面には、国会議事堂前に集まった大量の報道陣と、ブルーシートに覆われたおぞましい血だまりの映像が映し出されていた。それは真昼の惨劇を報じる、繰り返しのニュース映像だった。『――国会議事堂前のテロ主犯死亡事件から、今日で二日が経過しました。死亡した主犯の男は、なんと久我幹事長の息子である久我晃生氏であると見られており、政界には激震が走っています』 アナウンサーの沈痛な声と共に、別の映像へ切り替わる。 『また、起爆を試みるテロリストに単身飛びかかり、身を挺して惨劇を阻止しようとした結果、やむを得ない制圧射撃に巻き込まれて殉職した日下部巡査の遺体は、本日無言の帰宅を果たし――』「……は?」 私はテレビへ釘付けになったまま、全身から一気に血の気が引いていくのを感じた。 心臓が鷲掴みにされたように痛む。 死んだ? ユウが? 日下部が、殉職? 馬鹿な。そんなはずはない。「なんでだ……どういうことだよッ!!」 私はモニターへすがりつき、叫んだ。画面を両手で叩き、信じられない現実を否定しようと声を振り絞った。 「お前たち、議事堂を爆破するって言ってたじゃないか!! なんでユウが議事堂の前に立ってるんだよ!! なんで日下部が、一緒に死んでるんだよ!!」 混乱する頭で、ニュースが伝える断片的な情報と、現場の映像を必死に繋ぎ合わせた。 ユウはあの残酷な国会議事堂爆破計画を中止した。 奴隷たちを解放し、代わりにたった一人で白日の下、マスコミの前へ現れ、久我家の闇を告発した。 そして現場に駆けつけた日下部の目前で、隠していた起爆装置を操作しようとしたため、警察の指示により射殺されたという。「……違う」 私は震える両手で頭を抱え込んだ。 あいつが、ユウが、日下部の前でそんなことをするはずがない。 ユウが日下部を傷つけるはずがない
画面を覗き込んだ久我晃一郎の目が、限界まで見開かれた。 そこには、無数のマスコミのカメラに囲まれ、拡声器を構える『死んだはずの息子』の姿が生中継で映し出されていた。 「……馬鹿なッ!」 久我は椅子を蹴り倒すようにして立ち上がった。 顔面は怒りと焦燥で土気色に染まっている。彼は周囲のどよめきを完全に無視し、議場を飛び出してエントランスへと向かって猛然と歩き出した。 「久我幹事長! いかがなされましたか!」 議場の隅で警備に当たっていた郷田管理官が異変を察知し、完全武装したSPたちを引き連れて慌ててその後を追う。 分厚いガラス張りのエントランスに辿り着き、外の広場を見下ろした彼らの耳に、絶望的な声が飛び込んできた。 「俺は久我晃生。一連のテロ事件のすべてを、俺一人でやった!」 ユウの声が白日の下へ響き渡った瞬間、包囲していた報道陣から割れんばかりの絶叫が上がった。 死んだはずの次期総理候補のご子息がテロの主犯であったという、国家の根底を覆す異常事態。全国のテレビ画面にその顔がハッキリと映し出される中、ユウは持っていた鞄を高々と掲げた。「そして、これが久我家が今まで裏で手を染めてきた、すべての汚職、脅迫、そして殺人の証拠だ!!」 ユウが鞄を逆さに振ると、大量の書類とUSBメモリが空へ向かって放り出された。 白い紙片が、まるで真昼に降る雪のように、国会議事堂前の青空を美しく、そして残酷に舞っていく。「証拠書類だ! 一枚でも多く回収しろ!!」 「カメラ、あの書類の束をズームしろ!!」 群がってきた記者たちが、我先にと地面に散らばった紙の束を拾い集め始めた。 それは、特等席に座り続けてきた権力者たちを社会的に引きずり下ろすために、ユウの最初で最後の告発だった。「ふざけるなッ! 貴様、何をしている!!」 ガラス越しにその光景を見た久我幹事長は、エントランスの扉を押し開けて外へ転がり出るように飛び出した。 自分たちの隠蔽してきた最大の汚点が公衆の面前に晒され、あろうことか報道陣がその証拠を全国中継のカメラの前で拾い集めている。 すべてが手遅れになりかけていると悟った久我は、蒼白な顔で背後に続く郷田管理官を振り返った。 その狂気と焦燥に満ちた目配せで、何かを伝えた。 郷田は忌々しそうに舌打ちし、凄まじい殺気を放ちながら完
全員が息を呑み、画面の中で国会議事堂に鋭い警報が鳴り響き、あの残酷な地獄の幕が上がるのを、身を乗り出して待った。 しかし、何も起こらなかった。 数秒が過ぎても、さらに重苦しい時間が経っても、国会議事堂は死んだような静寂を保ったままだった。 爆炎の兆しとなる煙も上がらなければ、地を揺るがす轟音も聞こえない。警報も鳴らなければ、システムが作動した痕跡すらない。 真昼の眩い光にすっぽりと包まれた議事堂は、澄み切った青空の下で、ただ冷たい威容を誇っているだけだった。「どういうことだ!? なぜ作動しない!」 門別が激情に駆られ、パイプ椅子を乱暴に蹴り倒して立ち上がった。 「馬鹿な、タイマープログラムが走らない……ッ!」 カラスも血相を変え、喰らいつくようにキーボードへ向かった。凄まじい勢いで指を走らせ、何度も、何度も手動での起爆システムへのアクセスを試みる。 しかし、黒い画面に無慈悲に叩きつけられるのは、赤い警告文字と、システムからの完全な拒絶を示すエラー表示ばかりだった。 「ダメだ……起爆システムへのアクセスが完全に弾かれてる! 誰かがマスターパスワードを書き換えて、俺たち全員をシステムから締め出してる……ッ!」 その直後だった。 ガチャンッ!! という、まるで断頭台の刃が落ちたかのような重苦しい金属音が、アジト中に響き渡った。 「な、なに!?」 深川が悲痛な声を上げて叫ぶ。 それは、アジトの唯一の出入り口である頑丈な防音扉の電子ロックが、外側から強制的に、そして開かないよう施錠された音だった。 「扉が開かない! 閉じ込められたぞ!」 門別が扉にすがりつき、ノブを乱暴にガチャガチャと回すが、分厚い鉄の扉はびくともしない。「嘘でしょ……そんなことできるの、ユウ以外にいないじゃない!」 相田が悲鳴に近い悲痛な声を上げ、震える指でスマートフォンを取り出した。画面をタップし、何度もリダイヤルを押すが、耳に届くのは無機質で冷たい呼び出し音が繰り返されるだけで、ユウが電話に出ることは決しなかった。 「お願い……電話に出てよ、ユウ……! なんで、どうして……!」 全員が理解の及ばない事態に陥り、完全な混乱と焦燥の濁流に呑み込まれかけた、まさにその時だった。 壁一面を占めていたアジトのメインモニターが、前触れもなく突然暗転し