「あなたに悪意がなかったことは分かってる。でも、蓮はあなたの一言で父親と決裂することになったの。だからこれからは、何か言う前に、それが他人にどんな影響を与えるか、ちゃんと考えてから口にしてほしい」学校を出た後、とわこは深く息を吐いた。結翔は、次に蓮と会ったときに謝ると約束してくれた。ひとまず、この件は穏便に解決したようだった。車に戻ったとわこは、スマホを取り出して奏の番号を見つけ、電話をかけた。すぐに繋がった。「奏、蓮の件はもう心配しなくて大丈夫。彼のクラスメイトにはちゃんと説明したから。明日は私が蓮を学校に連れて行くわ。結翔も謝ってくれるって」とわこは、朝、奏が立ち去るときに見せた寂しげな後ろ姿を思い出し、胸が締め付けられた。蓮のために、彼は学校に多額の支援金を出し、高い報酬で外国人教師を雇った。すべては、蓮への愛ゆえの行動だった。今の蓮にはまだその想いが理解できない。でも、自分が父親になったとき、きっと分かる日が来る。「うん」奏は静かに答えた。「今どこにいるの?あなたに会いたい」「まずは、子どもをちゃんとケアしてあげてくれ」奏の声には少し沈んだ響きがあった。とわこには悟られまいと気持ちを抑えているようだった。「わかった。じゃあ、明日あなたのところに行く」「明日は式場に行く予定なんだ」「なら、私も一緒に行くわ」少しの間を置いて、奏は了承した。翌朝、とわこは蓮を学校まで送り届けた。結翔が蓮に謝っている姿を見届けた後、とわこは学校を後にした。彼女と奏の結婚式は、とあるリゾート施設で行われる予定だった。とわこは車でリゾート地へ向かい、奏と合流した。「奏、なんだか元気がないみたい。もしかして、蓮のことで傷ついたの?」彼女は彼の前に立ち、大きな手をぎゅっと握った。奏は首を振った。「悟が黒介を連れ去った」その言葉に、とわこの顔が一瞬で凍りついた。握っていた彼の手も、思わず離してしまった。「どうして悟に黒介を渡したの?」彼女は眉をひそめた。「自分が何をしてるか分かってるの?悟が黒介を連れて行ったって、あの人が黒介を大事にしてくれると思うの?」「黒介は悟の実の弟だ」「そんなこと分かってる!でも、あの人が黒介を引き取ったのは、世話をしたいからじゃない」とわこの両手は強く握られ、身体が
奏は「誰を欲しいんだ?」などとは尋ねず、ただ一言、冷たく返した。「もし俺が渡さないって言ったら?」悟は苦笑を浮かべた。「もし母さんがまだ生きていたら、俺たち兄弟がこうやって争う姿を見て、何を思っただろうな」「母さんを引き合いに出して俺を責めるな!」奏は怒鳴った。「母さんを死に追いやったのは、お前とお前の息子だろう?どの面下げて母さんの名前を口にできるんだ!」「どの面下げて?それはこっちのセリフだ!」悟の胸が激しく上下する。「俺は少なくとも、あの人の実の息子だった。お前はどうだ?奏、お前はその嘘でいつまで逃げ続けるつもりなんだ?お前は弟の人生を奪っておいて、今度は彼をこの家に閉じ込め続けるつもりか?」「閉じ込める?」奏はその言葉に一瞬、言葉を失った。「俺が彼の人生を奪った?お前は母さんを無実だとでも思ってるのか?これは母さんが仕組んだことだ!」「たとえ母さんが奏と黒介を取り違えたとしても、母さんはもう亡くなったんだ!これ以上、間違いを繰り返すわけにはいかない!黒介を俺に返せ!あいつは俺の実の弟だ!俺が生きてるうちはあんたに好き勝手させるつもりはない」「ただの知的障害者に、何の価値がある?」奏は吐き捨てるように言った。「お前、今の生活で余裕あるのか?お前とお前の息子だって食うのに精一杯じゃないか。黒介を引き取ってどうする?俺を脅す道具にする気か?」悟の目が血走る。「奏、お前、自分の良心に問いかけてみろ!俺がこの人生でお前を一度でも傷つけたか?兄として、お前を虐げたことがあるか?ないだろう!俺が望んでるのは、ただ自分の弟を取り戻したいだけなんだ。それをお前が拒む権利なんてあるのか」「お前は常盤グループの社長だろ?そんなお前が、ただの一般人の俺を恐れるのか?黒介を家に戻さなかったとしても、俺が本気でお前を脅す気になれば、他にいくらでも手段はある」リビングに緊迫した空気が流れた。今にも爆発しそうなほど、張り詰めている。「奏として生き続けたいのなら、それでも構わない。でも黒介は俺に返してほしい。あいつを連れて帰りたいんだ」悟の声は少し落ち着き、どこか交渉めいた響きを持っていた。「この事実を知ったのは、つい最近だ。気持ちの整理がつかなくてな。他のことは今は考えたくない。ただ、俺の弟を家に連れて帰りたい、それだけなんだ」奏は悟のやつれた顔
「やっかいだな。この親子、どっちも短気で頑固!一番つらいのはあんたでしょ、間に挟まれてさ」マイクはとわこの肩を軽く叩いた。「いっそ奏のところに行ってみたら?」とわこは首を振った。「あの人、いくら怒ってたって、こんなことで自分を閉じ込めたりしない。まずは蓮を説得してからよ」「それもそうだな。じゃあとりあえず、あんたはちょっと休んでな。俺は後で予備の鍵で様子見てくるよ」常盤家。奏が家に戻ると、黒介が庭で剪定ばさみを持ち、枝の手入れをしていた。千代はジョウロで花や草に水をやっている。穏やかで温かみのある光景だった。千代は奏が帰ってきたのを見ると、すぐに黒介の手を引いて彼の前に連れてきた。そして黒介に目配せすると、黒介は素直に口を開いた。「兄さん」千代は奏が怒るのを恐れて、急いで言った。「旦那様、数日前に悟様がこちらにいらっしゃいました。電話が繋がらなかったって」奏は顎をぎゅっと引き締め、無言のままリビングへと歩いていった。「旦那様、まだお昼召し上がってませんよね?今すぐ用意します」千代はそう言ってリビングに入り、すぐさまキッチンへ向かった。奏はソファに腰を下ろし、黒介は二メートルほど離れた場所で落ち着かない様子で立ち、視線をちらりと奏に向けていた。「とわこが止めてなかったら、俺はお前をとっくに殺してた」その言葉が静寂を破った。黒介の顔色がサッと青ざめた。「怖いのか?逃げたいのか?」奏の目が冷たく光る。「なら、さっさと逃げろよ」黒介は怯えてキッチンに駆け込んだ。黒介が慌てて逃げる姿を見て、奏は喉の奥で冷笑を漏らした。みんな、俺を恐れる。だからこそ、俺は善人にはなれない。最初から、他人と距離を置いて生きてきた。誰にも近づかせなければ、傷つくこともない。奏の言葉に怯えた黒介は、その後もずっとキッチンに身を潜めていた。奏が昼食を終え、二階へ上がってからようやく姿を現した。「黒介、さっきのは旦那様がわざと脅しただけよ。あの人、本気であなたを殺すなんてこと、絶対にしないわ」千代は優しくなだめた。「本当に受け入れられなかったら、ここに住まわせたりしないから」黒介は目を伏せ、かすかに震えながら答えた。「でも、怖い」「怖がらなくていいの。あの人、たまにしか帰ってこないし、もうすぐとわこさんと
「蓮!危ない!」とわこは蓮の方へと全速力で駆け出した。蓮も突進してくるトラックに気づき、すぐさま足を止めた。「キキィィィーーーッ!」甲高いブレーキ音を立て、トラックは蓮の手前わずか半メートルの位置で急停止した。とわこは恐怖で顔面蒼白になりながら、蓮に駆け寄り、抱きしめた。そのまま一秒もためらわず、蓮を車道の真ん中から安全な場所へと連れていった。「蓮、いったん家に帰ろう?」とわこは彼の冷たい手を握りしめた。「ママは分かってる。辛かったよね。でもあなたは、パパの力なんかじゃなく、自分の実力で一位を取ったのよ」「そんなパパなんかいらない!」蓮は眉をひそめ、とわこの手を振り払った。「帰らない!」蓮にとって、館山エリアの家はとわこと奏の家だ。彼はとわこと奏の関係を壊すことはできない。だからこそ、あの家には戻らないと決めた。「帰らないなら、どこに行くつもりなの?教えて、ママも一緒に行くから」とわこの目には涙が浮かび、蓮の手を離さないよう必死に握り続けた。一度でも手を離せば、彼はまたどこかへ行ってしまう気がした。その時、一台の黒いロールスロイスが、母子の背後に静かに停まった。奏が車を降り、大股で二人のもとへ歩いてきた。彼の姿を見た瞬間、とわこの心には強い警戒心が走った。蓮は今、奏のことを心底憎んでいる。このまま二人が顔を合わせれば、衝突は避けられないだろう。「蓮、確かに俺は君たちの学校に寄付した。国際レベルの教育環境を整えてあげたかったからだ」奏は真剣な表情で語りかけた。「それに、先生にお前を気にかけてくれとは言ったが、点数を盛らせたりはしていない」だがその説明は、蓮の怒りに油を注ぐ結果となった。「金があれば何でもできるってか!」蓮は体を硬く緊張させ、怒りの目で奏をにらみつけた。「僕に構うな!お前なんか親じゃない!僕はお前の子どもじゃない!」蓮は、自分の人生に奏が介入してくることを受け入れられなかった。学校に金を出し、先生に口添えし、自分に特別な扱いをさせる。それは蓮にとって、屈辱でしかなかった。自分の力で、いつかこの男を超える。「蓮、パパはね、自分なりのやり方で、あなたのために良かれと思ってやったの」とわこは息子の激しい感情に胸を痛めながら、必死に取りなした。「いらない!パパのことがそんな
奏はその言葉を聞いた瞬間、目の色がわずかに暗くなった。「悟は、和夫に何の用だった?」「悟さん、あなたと和夫の関係を知ってしまったようです」いずれバレることは分かっていたが、まさかこんなにも早く知られるとは思っていなかった。悟がこの後どう動くかは読めない。奏のすべてを知っている悟が、もし本気で対立するつもりなら、それは想像以上に厄介なことになるだろう。電話を切るとすぐ、とわこからの着信が画面に表示された。奏はすぐさまかけ直した。「奏、今夜は夕飯、家で食べる?」とわこのやわらかな声が受話器から聞こえてきた。「うん。今、帰る途中だけど、少し渋滞してる。蓮はもう迎えに行った?」「うん、今一緒にいるよ」とわこは蓮に目をやって、笑顔で続けた。「ケーキ買ってきて。蓮、今日のテストすごくよかったの。前祝いしよと思って」「分かった。何味がいい?」「チョコレートで。あんまり大きくなくていいよ」通話を終え、とわこは蓮に向き直った。「パパにケーキ買ってきてもらうように頼んだからね」蓮は小さくうなずいただけだった。翌日、選抜テストの結果が発表された。蓮は結翔より3点高いスコアで一位となり、ハッカーズカップの出場資格を手にした。教室で結果が発表された瞬間、結翔は耐えきれず声をあげて泣き出した。蓮は結翔の隣に座っていたため、いたたまれない気持ちで固まってしまった。結翔の感情が教室の空気をかき乱したため、教師は彼を連れて職員室へと向かった。一方、クラスメイトたちは次々と蓮に祝福の声をかけた。蓮はすぐに気持ちを切り替え、表情も落ち着いていた。しばらくして結翔が教室に戻ってきた。もう泣いてはいなかったが、その瞳には怒りと嫉妬の色が浮かんでいた。「蓮!この前、自分のパパが奏じゃないって言ってたよな?でも、もう知ってるんだよ!お前のパパが奏じゃなかったら、先生だって贔屓しなかったはずだ!俺たちの操作はほぼ同じだったのに、なんでお前だけ3点も高いんだよ?それってつまり、お前のパパが奏だから、名簿に載ったってことじゃん」怒鳴り終えると、結翔は机に顔を伏せてまた泣き始めた。その言葉を聞いた蓮の顔色は一瞬にして青ざめた。自分は、実力で勝ち取ったんだ。奏の力なんか、借りていない!「奏の力なんか、使ってない」蓮は立
夕方。西京大学の校門前。今日はとわこが自ら蓮を迎えに来ていた。なぜなら、今日は蓮の選抜テストの日だったから。とわこは、蓮にあまり結果にとらわれないでほしかった。一位を取れたかどうかに関係なく、堂々と受け止めてほしいと願っていた。「蓮、テストどうだった?」教室から出てきた蓮に、結翔が声をかける。二人はクラスで一番の仲良しで、同時に成績もトップを争うライバルだった。蓮は結果に満足していたが、いつものように謙虚に答えた。「明日の点数を見てみないとね」「うん、でも僕は自信あるよ」結翔は濃い眉を上げて言った。「君も本当は行きたいんでしょ?僕に頼めば、出場枠を譲ってもいいけど。まあ、パパが許すかどうかは分からないけどね」蓮は即座に答えた。「自分の力で枠を勝ち取る。君に譲ってもらうつもりはない」「でもさ、実力は僕のほうが上だろ?友達とはいえ、事実は事実だよ。前回の期末テストだって、僕が一位だったじゃん」「文化科目の点数が少し低かっただけだよ。専門科目なら僕だって負けてない」「まあまあ、言い合いはやめよう。明日の結果を見ればわかるさ。やっぱり僕のほうがちょっと強いって」そう言って結翔は校門の方を見て、「あ、蓮、君のママが迎えに来てるよ。なんか、ますます綺麗になったね」蓮も校門の方を見た。とわこが彼を見つけて手を振っている。ママの笑顔を見た瞬間、胸に引っかかっていたモヤモヤが少し和らいだ。ママがどんな男を選ぶか、自分にはどうすることもできない。だからこそ奏を受け入れるしかなかった。ママと一緒に暮らしたいから。「おばさん、こんにちは!」結翔が先に駆け寄って挨拶した。「今日は予選テストがありました」「うん、知ってるよ。どうだった?」とわこがやさしく問いかける。「たぶん、僕が出場権をもらえると思います。さっきも蓮にそう言ったんです。とわこさん、蓮のことちゃんと慰めてあげてください。僕、蓮が落ち込むの見たくないんです。でも、パパの期待も裏切れない。僕がハッカーズカップで賞を取れば、将来の可能性が広がるから」結翔の自信満々な口調に、とわこは思わず「おめでとう」と言いたかった。けれど、口から出なかった。もし結翔の言う通りなら、蓮はきっと傷つくだろう。蓮は今回の大会に強い思い入れを持っていたのだ。「