Masuk想像するまでもなく、彼は良い日々を送っていない。「入院棟はあっちだ。行こう」ボディーガードの健剛が、二人がその場に立ち尽くしたまま動かないのを見て、沈黙を破る。三人は入院棟へ向かう。神経内科に着くと、とわこは奏に言う。「ボディーガードの人に支払いをさせて」奏はすぐにカードを取り出し、ボディーガードに手渡す。ボディーガードが去ると、とわこは奏の手を引き、医師の診察室へ入る。室内には医師が二人座っていて、二人が入ってきたのを見て少し驚いた様子を見せる。とわこはそのまま奏を診察室奥の洗面所へ引き込み、扉を閉める。「断れって言っただろう。どうして俺の言うことを聞かない」奏が先に口を開き、とわこを問い詰める。「どうして私が剛の診察を断らなきゃいけないの」とわこには自分なりの考えがある。「三郎さんが言ってた。剛が死ねば、あなたが彼にした約束は果たさなくてよくなるって」奏は彼女の大胆すぎる発想に言葉を失う。「この機会に、剛を殺すつもりか」「だめなの?」彼女は眉をつり上げる。「誰にも気づかれないようにできる。私がやったって、絶対に分からないように」「……あの連中が、理屈の通じる紳士だと思うのか」彼女は言葉に詰まる。「剛が万が一死んだら、お前が手を下していなくても、あいつの手下たちはお前を八つ裂きにする。ましてやお前が殺したとなれば、なおさらだ」奏はきっぱりと否定する。「じゃあ、殺さなきゃ、私が治療するしかないってこと?冗談じゃない……」「その病衣はどうした」奏は彼女の服装に目を向ける。「具合が悪いのか?」彼女は慌てて顔を赤らめる。マイクについた嘘を思い出し、とっさに言い繕う。「婦人科系。ちょっとした手術を受けるだけ」彼の瞳に一瞬、ぎこちない色が走る。「あとで連中が来たら、腹が痛いふりをしろ。治療はできないと言えばいい。剛が目を覚ましてお前を見たら、大貴の死を思い出す。感謝なんてするはずがない。分かってるな」「うん……」とわこは俯くが、すぐに顔を上げて彼を見る。「あなたが剛に、これから先ずっとY国を離れないって約束したことも、真帆と子どもを作るって言ったことも、本心じゃないよね」彼女は、彼の喉仏が色気を帯びて上下するのを見つめる。聞きたくない答えが返ってくる気がして、急に怖くなる。「奏。私に剛を殺させ
「とわこ、ボスはお前のことが大嫌いだが、もしボスを治せたら、俺が代わりに取り成してやる!」ポリーがしゃがれた声で言い放った。「とわこ、あなたって本当にそんなにすごいの?」真帆は疑わしげに眉をひそめる。「でも、もしお父さんを治してくれるなら、私もお父さんの前であなたを庇ってあげる」奏は体を少し横に向け、スマホを取り出して一通のメッセージを送った。とわこの手にしていたスマホが、かすかに震える。画面を開くと、奏からのメッセージが表示された。拒否。たった二文字。剛の治療を断れ、という意味だった。とわこはスマホを握ったまま、淡々と真帆に言った。「まずは彼の状態を見せて。それからでないと、答えられない」彼女がそう言い終えると同時に、救急室の扉が開いた。とわこが迷いなく大股で中へ入っていく姿を見て、奏は拳を強く握りしめた。彼女は確かに、あのメッセージを見ていた。それなのに、なぜ言うことを聞かない?剛がどんな人間か、この短期間で嫌というほど思い知ったはずだ。彼本人は言うまでもなく、腹心のポリーも同じく、冷酷で残忍な男だ。もしとわこが治療を引き受け、そして万が一治せなかったら、ポリーは間違いなく、彼女の命を奪う。だからこそ拒否しろと伝えた。火の中へ飛び込ませたくなかった。たとえ治せたとしても、剛が彼女に感謝することなど、あり得ないのだから。約三十分後、救急室の扉が再び開き、剛がストレッチャーで運び出されてきた。「先生、父はどうなんですか?」真帆が、先に出てきた医師に駆け寄る。医師は言った。「三千院先生が、高橋さんの治療を担当されるとのことで……」「とわこ、父の治療を引き受けてくれたの?」真帆は驚き、次々と質問を浴びせる。「重症なの?手術は必要?いつ意識が戻るの?」「どうして怪我を?」とわこが問い返す。「使用人とボディーガードの話では、階段を降りるときに足を踏み外したらしい」真帆は目を赤くする。「兄の死で、精神的に不安定だったのかも……」「脳出血は、それほど重くない」とわこは冷静に言った。「でも、さらに詳しい検査が必要よ」彼女は周囲を取り囲むボディーガードたちを一瞥し、続ける。「これだけ人がいると、ほかの患者さんの迷惑になる。数人だけ残して、あとは下がって」ポリーはすぐに真帆へ向き直った。「お嬢
その瞬間、とわこは電話をかけた本来の目的である、手術を受ける予定のことをすっかり忘れてしまう。「え、知らなかったのか。誰かから会社の件を聞いて、俺を問い詰めに来たのかと思ってた」マイクは気まずそうに口を開く。「だから最近、電話をくれなかったのね。会社で問題が起きていたんだ」とわこは深く息を吸う。「もしかして、倒産寸前なの?」「まあ、ほぼそんな感じだな」マイクは大きくため息をつく。「ごめん、とわこ。本当に俺のせいだ。前に、捨てられたって話しただろ。その相手が戻ってきたんだ。しかも俺に直接じゃなく、気づかれないように会社の中核技術を盗み出して、すみれに渡した。金は一円も受け取っていない。ただ俺の気を引くためだけだ。あのクソ野郎」「元恋人なの?」「そうだ。言い忘れてたけど、あいつもハッカーで……しかも俺より腕が上だ。だから何日も徹夜して、ようやく犯人があいつだと突き止めた」とわこは言葉を失い、呆然とする。「もう追い払った。でも、肝心の技術はほとんど盗まれてしまった」「……」とわこは、どう返せばいいのか分からない。あまりにも唐突で、現実味がなく、理解の範囲を超えている。「とわこ、罵ってくれ。グループは君の心血だって分かってるから、怖くて電話できなかった」マイクは自責の念に沈む。「大丈夫よ……そんなに落ち込まないで」とわこは優しく言う。「確かに大事だけど、あなたほど大事じゃない。怒ってない。本当に」「どうして怒らないんだ?」「急に、健康な体以上に大切なものはないって気づいたの」「それって……病気なのか?」マイクは疑う。「そんなこと言うのは、病気の人くらいだ」「うん。電話したのはね、近々小さな手術を受けるって伝えたかったからなの。数日は子ども達とビデオ通話できない」「子どもは俺が見てる。心配するな」マイクはさらに聞く。「どんな手術だ?」今の彼の自責の気持ちを思い、とわこは心配させたくなかった。「ちょっとした婦人科の手術よ」マイクはそれ以上、追及しなかった。午後。とわこがうとうとしていると、耳元で慌ただしい足音が聞こえてくる。彼女ははっと目を開ける。ほどなくして、俊平が病室のドアを押して入ってくる。「とわこ、起きてたか。明日の検査を入れておいた。手術前に、もう一度詳しく調べる」「う
一方、別荘では。奏と真帆はダイニングに座り、夕食を取っている。「奏、今朝はどうしてあんなに早く出かけたの」真帆が慎重に口を開き、沈黙を破る。「君の父親に頼まれて、兄嫁の家まで一緒に行った」奏は淡々と答え、話題を切り替える。「昨夜話した件、どう考えた?」「もう決めたわ」真帆は言う。「あなたを無理に縛るつもりはない。でも、あなたのボディーガードとああいう関係になることもできない。奏、私はあなたの妻よ。あなた以外の男性と、そんなことはしない」あまりに頑なな口調に、奏は思わず眉をひそめる。「もし一生、君に触れないとしたら?」「それなら……父には言わない」真帆は胸を締めつけられる思いで続ける。「今日は病院に行ってきたの。体外受精なら可能だって、医師に言われた」奏の瞳が、ふっと明るくなる。「それでいい。ただし、君の父親には気づかれるな」「分かってる。十分注意する」彼の声が少し柔らいだことに、真帆はかすかな希望を抱く。「一緒に精子バンクに行って選んでくれる?」「一人で行け」奏は即答する。「これからしばらく忙しい」少し間を置き、彼女を哀れに思ったのか、付け加える。「一緒に病院に行けば、怪しまれるかもしれない」「そうね。それなら私一人で行くわ」説明をもらえただけで、真帆の心は満たされる。「奏、もしこのまま、ずっと距離を保った夫婦でいられるなら、それも悪くないと思うの」「本気でそう思っているのか」「ええ。実は、ああいうことにそこまで執着はないの」彼女は照れたように言う。「ただ、あなたがそばにいてくれればいい。兄は亡くなってしまったし、今の私には、あなたと父しかいないの」「やれることはたくさんある」奏は食事を終え、箸を置く。「まだ卒業していないだろう。もう一度学校に通えばいい。友人も増える」真帆は彼の背中を見送りながら、言葉の裏にある意味を理解する。彼は、自分を重荷だと思っている。彼が好むのは、とわこのように、自立して力のある女性なのだ。翌日。俊平とボディーガードは、とわこを病院へ送り届ける。俊平が手配したのはVIP病室だ。一人部屋で、中には付き添い用の簡易ベッドもある。そのベッドを見て、とわこは少し気まずそうな表情を浮かべる。俊平は彼女を病室まで案内すると、手術室の手配に向かう。ボディガードは付き添
「俺は病院で真帆に会った。彼女は妊娠のことで悩んでいる。奏が彼女に触れようとせず、子どもを作ろうとしないからだ。俺は、奏の心の中に君がいるのだと思った。だから彼女に触れない。その瞬間、はっきり理解した。君が命の危険を顧みず、Y国まで彼を追ってきた理由を。君たちは運命で結ばれた二人だ。どんなことが起きても、引き離されることはない。このメールを書いている今も、最終的には君たちが一緒になると信じている。なぜなら、真実の愛を信じているからだ。この先に何が起きたのか、君はきっと察しているだろう。俺は君の体内にあった胚を、真帆に移植した。その代わりに、真帆は俺たちをY国から出すと約束した。このメールを書いた理由は二つある。一つは、自分の過ちを打ち明け、君の許しを乞うため。もう一つは、真帆と奏の子どもだと思われているその子が、実は君と奏の血を引く子だと伝えるためだ。もしその子を取り戻したいと思うなら、今すぐY国へ向かってほしい。男の子か女の子かは分からない。ただ、真帆はきっと大切に育てているはずだ」……一気に書き終えると、俊平は読み返すことなく送信を押す。画面にはすぐに表示が出る。「送信は完了している」その下には、十八年後に送信予定という案内が添えられている。ノートパソコンを閉じ、俊平は部屋を出る。とわこは丸一日眠り続けている。夕方、空が暗くなり始めた頃、ボディガードが責任者を呼び、カードキーで部屋の扉を開ける。様子がおかしいのではと心配した。扉が開く音で、とわこはすぐに目を覚ます。「大丈夫ですか」ボディガードは頭をかく。「一日中眠っていたから、心配で」彼女はすぐにベッドから起き上がる。「今、何時?」「夕方の六時過ぎです」「そう……だからお腹がこんなに空いているんだ」「早く支度してください。菊丸さんと一緒にレストランで待っています」そう言い残し、ボディガードは大股で部屋を出る。夕食の席で、俊平は翌日すぐに入院する提案をする。彼女は食事をしながら、何かを考えている様子だ。「明日、入院して問題ないですよね」ボディガードが念を押す。彼女ははっと我に返る。「もう明日から?」俊平が穏やかに返す。「いつがいい?」「じゃあ明日でいい。どうせ今は動けないし。ただ、手術を考えると少し怖い」彼女は水
俊平がそう言ったものの、真帆の胸は希望で満ちている。もし成功すれば、奏を引き留めることができる。奏が子どもの実の母親がとわこだと永遠に知らなければ、その子は自分の子になる。俊平は入院手続きを済ませたあと、すぐにはホテルへ戻らなかった。とわこに無断で、彼女の子を真帆へ移す決断をした以上、知られたら間違いなく激怒される。だが、そうしなければ、彼女の腹の中の命は失われる。生と死の選択の前で、俊平は迷わず生を選ぶ。蓮の顔が、何度も脳裏に浮かぶ。もしあの子が生まれてきて、蓮のように賢く力強い子だったらどうする。たとえ母のそばで育たなくても、いずれ真実を伝えれば、どこで生きるかは本人が選べる。考えれば考えるほど、この計画への確信は強まる。彼らは今、ここに閉じ込められている。だが子どもを真帆に移せば、ここを離れられる。今すべきことは、とわこの手術と、この場所からの脱出だ。ホテルへ戻り、俊平は自分の部屋に入る。覚悟は固まっているものの、不安が消えることはない。これが初めてのことだからだ。俊平は机に向かい、ノートパソコンを開く。とわこの手術計画を表示し、細部まで確認する。問題がないことを確かめたあと、彼は眉をひそめてメールを開いた。将来、自分の口からこの事実をとわこに告げる勇気はない。だから文章で伝えることにする。もちろん、すぐに送るわけではない。送信予約を選び、日時を指定しようとして手が止まる。一年後か、三年後か、五年後か。それとも、あの子が成人してからか。しばらく悩んだ末、十八年後を選ぶ。その頃には子どもも大人だ。とわこが真実を告げに行くとき、どちらと生きるかは本人に選ばせればいい。水を一口飲み、彼はメール本文を書き始める。「とわここのメールを読んでいるとき、君の意識を十八年前、Y国にいた頃へ戻してほしい。この文章は、十八年前の俺が、ホテルで書いているものだ。どうか最後まで読んでから、俺に連絡してほしい。恨まれても、理解されても、そのすべてを受け止める。一週間ほど前、君は生理が遅れていると言った。俺は君を病院へ連れて行った。検査中、君は診察台の上で眠ってしまった。医師から超音波検査の結果を受け取ったとき、俺は言葉を失った。君の頭の中には腫瘍があり、それが神経を圧迫し