雅彦は、莉子が全速力で逃げ去る背中をじっと見つめていた。漆黒の瞳には揺らぎ一つなく、そのまま踵を返すと病室へと戻っていった。莉子は病院を飛び出した。車椅子に座ったままなのに、驚くほどの速さで出口へ向かう姿は、道行く人の目を引かずにはいられなかった。けれど、そんな視線に構う余裕は彼女にはなかった。送迎の車にたどり着くと、運転手が慌てて彼女を抱え上げ、車内に乗せた。蒼白な顔を見て、ただならぬ事態だと悟る。「莉子さん、どうなさったんですか?」莉子は夢から覚めたように、かすれた声を返した。「……少し一人にして。静かにしていたいの」瞳に張りつめた異様な光を見て、運転手はそれ以上何も言えず、そそくさと車を離れた。ひとり残された車内で、莉子は抑えきれなくなった感情を吐き出すように、頭を抱えて鋭い悲鳴をあげた。――なぜ。どうして雅彦は自分にこんなことを……あのとき逃げなければ、本当に彼の脚に一突きさせて、二人の間に残ったわずかな情さえ断ち切ろうとしたのだろうか。莉子の体を、底冷えのような寒さが包む。必死に積み重ねてきた努力が、一瞬で打ち消されたように感じられた。命さえ差し出す覚悟があったのに――その思いは、何ひとつ届いてはいなかった。ならば、自分がしてきたことは、いったい何の意味があるというのだろう。混乱の渦に沈む莉子のもとに、突然スマホが鳴った。なんと、雅彦からの着信だった。藁にもすがる思いで通話を取ったが、返ってきた言葉は彼女の望みを粉々に砕いた。「さっき言ったことは本気だ。いつか君がその気になったら、いつでも会いに来てくれ。俺は決して後悔しない」ツー、ツー、ツー……冷たく響く電子音に、莉子の全身は氷水に沈められたように凍りついた。スマホを力任せに投げつけ、車内の手に触れるものを次々と引き裂き、もはや体裁も忘れて荒れ狂った。……通話を切った雅彦は、再び桃のベッドの傍らに腰を下ろした。静かな時間がゆっくり流れ、夜が訪れる。雅彦は、桃の好きだった料理を運ばせた。海外にいた頃、彼女が「帰国したら絶対に食べたい」と言っていた品々だ。だが今、その料理が桃の口に入ることはない。雅彦はそれに気づかないふりをしながら、一つ一つ丁寧にテーブルに並べていった。「桃、見てみろ。君の好きなものばかりだ。向こうで『帰ったらまた食べた
もし相手が看護師でなければ、雅彦はとっくに人を呼んで追い出していただろう。看護師は一瞬ぽかんとしたが、やがて状況を理解した――この男性は妻に付き添って入院しているのか。では、この女が弱々しい様子で現れたのは、まさか下心があってのこと?そう思うと、自分が余計な口を出した気がして、慌てて頭を下げた。「すみません、事情を知らなくて」そう言い残してくるりと背を向ける。去り際には、冷ややかで蔑むような視線を莉子に投げることも忘れなかった。見た目は哀れを装いながら、実際には人の妻が病で伏している隙に入り込む女だったなんて……車椅子に乗っていながら裏でこんな真似をしているなんて。人は見かけでは分からないものだ。世の中には本当にいろんなことがある。帰ったら、同僚にぜひ話してやらなくちゃ。莉子ほどの頭の回転の速さなら、雅彦の一言で、自分が看護師に「家庭を壊す女」と思われたのを気づかないはずがない。胸が詰まり、屈辱感が込み上げてきた。これまで女の子たちにちやほやされてきた自分が、今ではこんなふうに見下されるなんて。納得できなかった。自分は雅彦を助けるために怪我を負ったのに、彼は少しの情けも示してくれないのか。「雅彦、私は何を間違えたの?どうしてそんなに私を嫌うの?私はただ桃さんのことを心配して、雅彦が無理しないようにと思っただけ。それも許されないの?雅彦のためなら何でも差し出す覚悟でいるのに……まだ分かってくれないの?」言葉が続いたその時、雅彦が突然ドアを開けて現れた。莉子の声は、彼にはもはや拷問のように響いていた。かつては気にも留めなかったが、今は違う。もし桃のそばに「命の恩人」を名乗る男が居座り、何かあるたびに生活に口を出して、「心配だ」と言い訳しながらまとわりついたら――とても耐えられない。ようやく理解した。桃がこれまで莉子のことで何度も衝突してきた理由を。彼女が理不尽だったのではない。存在そのものが、喉に刺さった小骨のように息苦しく、不快で、けれど言葉にできないものだったのだ。「一度だけ命を救ってくれたことには感謝している。だからこそ、俺はできる限りの物的な支援をして、回復を手助けしてきた。しかも、理学療法士の話では、もうすぐ普通に歩けるようになるらしい」雅彦は深く息を吸い込んだ。「だが、それでも足りないと思うなら
「それなら……彼女の様子を見に行ってもいい?前からの知り合いだし、無事だと分かれば安心できるから」「そういうことは雅彦に聞いて。私には決められない」海は苛立ったようにそう言うと、莉子に異常がないと確かめただけで、足早に立ち去ってしまった。――莉子が怪我をして以来、彼女はどこか別人のように見えた。会うたびに、自分は居心地の悪ささえ感じていた。これからは、やはり雅彦たちのことに首を突っ込むのはやめよう。そんなややこしい世界は、自分には似合わない。……海の冷ややかな態度に、莉子は一瞬戸惑った。だがそれより気がかりなのは桃のことだった。――雅彦はどうやら、あの裏切りに疑いを抱き始めている。もし桃が目を覚まし、怪我で弱っているのをいいことに涙ながらに訴えでもしたら、彼の心はきっと揺らぐだろう。そうなれば、自分がこれまで積み上げてきたものがすべて無駄になる。莉子は黙って待ってはいられないと悟った。むしろ先に動くべきだ。そう決めて、病院へ向かうよう人に命じた。病院に着くと、少し尋ねただけで桃の病室を知ることができた。車椅子を自分で押している莉子を見かねて、看護師が病室の前まで付き添い、扉を軽くノックする。「誰?」病室では、雅彦が桃の点滴を見守り、ときおり綿棒で唇を湿らせていた。今の彼にできるのは、そんな小さな世話だけだった。けれど、それを自分の手でしてやることで、どうにか気持ちを保っていた。だからこそ、ノックの音に眉をひそめ、短く返した。「私よ、雅彦……桃さんの容態が心配で、お見舞いに来たの」「必要ない。帰ってくれ」考えるまでもなく、即座に拒んだ。桃の怪我に莉子が直接関わったわけではない。だが、彼女がいたせいで何度も争いが起きたことを思えば、桃はもう、莉子にこれ以上邪魔されるのを望んでいないはずだ。そして今の雅彦は、もうこれ以上莉子と関わるべきではないと分かっていた。彼女が何を考えていようと、もはや確かめる意味もない。桃を煩わせないためには、徹底して拒絶するしかなかった。あいまいにするより、はっきり言い切った方がいい。さらに、この病室に入れるのは海や清墨、美乃梨に限られていて、それ以外は立ち入りを許していない。誰かがまた危険なことを仕掛けるのを防ぐためだ。用心深すぎると思われても構わない。今の桃は、風
「俺がそんな卑怯な真似をする人間に見えるのか?」清墨はわけもなく苛立ち、問い詰めるような言い方になった。「今はそうじゃないかもしれない。でも、未来のことなんて誰にも分からないでしょ。私だって、あなたを全部理解してるわけじゃないし」美乃梨は小首をかしげ、じっと彼を見上げた。二人は夫婦という名目上、最も近い関係のはずだった。けれど清墨は一度たりとも心を開いたことがない。だからこそ、この先どう向き合ってくれるのか――美乃梨には自信がなかった。清墨は何か言い返そうと唇を動かしたが、結局は言葉にならなかった。その様子を見て、美乃梨は自分の言葉を認めたのだと受け取った。ただ、彼女は知らなかった。いつか本当に、この不安が現実になることを。……皆が帰ったあと、雅彦は桃のベッドの脇に腰を下ろした。彼女は変わらず静かに眠っていた。かつてはふっくらしていた頬も、今ではこけてしまい、顔全体が掌ほどに見える。小さな傷痕がいくつも残り、その姿は痛々しかった。雅彦は手を伸ばし、頬に触れようとした。けれど指先は空中で止まり、どうしても落とせなかった。結局、椅子に身を預け、ただ遠くから桃を見守る。それだけのことさえ、雅彦には贅沢に思えた。――この贅沢は、あとどれほど続くだろう。桃はいつ目を覚ましてもおかしくない。だから雅彦は病院を離れず、会社の書類をすべてここへ運ばせて、病室で仕事をこなした。どんなときでも、桃が目を開けた瞬間に傍にいられるように。たとえ彼女が望まなくても――もう二度と離れないと、心に決めていた。……一方その頃。莉子はずっと桃の様子を探っていた。けれど海はあまりに忙しく、莉子を相手にする余裕はない。麗子もまた、過去の行いを隠すのに必死だった。その日、莉子は仮病を使って、ようやく海を呼び出すことに成功した。長い労働に疲れ切っていた海だったが、莉子を無視することもできず、重い足を運んだ。「莉子、リハビリは順調か?」会うなり、海は真っ先に莉子の体を気遣った。だが莉子はそれどころではない。「私は大丈夫。でも……桃さんが入院してるって聞いたの。今どうなってるの?」少し急ぎすぎたことに気づき、慌てて言い直す。「この前、雅彦があんなに慌てて連れて行ったでしょ?心配で……もし何かあったら、雅彦だって辛いだろうから
「佐俊は……見つけた。だが……もう死んでいた」雅彦はやりきれない声音でそう告げた。美乃梨は呆然とし、しばらく反応できなかった。ようやく、雅彦がでたらめを言っているわけではないと理解した。佐俊が、死んだ?誰にも知られぬ場所で、音もなく命を落としたというの?美乃梨の背筋にひやりと寒気が走った。「じゃあ、どうするの?これまでのこと、すべて闇に葬られてしまうじゃない?」「もう調べた。桃はあの時、嵌められたんだ。俺が……彼女を誤解していた」「今さらそんなことを言って、何の意味があるの?」美乃梨は怒りをあらわにして雅彦をにらみつけた。後出しの言い訳など誰にでもできる。桃がいちばん彼を必要とした時、彼はいったい何をしていたのか。「これからは、できる限りのことをして償う。彼女に背負わせた傷を、少しでも癒す」そう言って雅彦は病床へ歩み寄り、横たわる桃を見下ろした。「もう二度と、彼女にこんな思いはさせない」美乃梨の顔色は刻一刻と変わり、今にも爆発しそうだった。清墨は二人が再び激しい口論に発展する気配を感じ、慌てて美乃梨の腕を引いた。「ここには雅彦がいる。俺たちは帰ろう。おばあさんが君に会いたいと言ってる」美乃梨は必死に戻ろうとしたが、清墨の力は強く、振りほどくことはできなかった。結局、そのまま彼に半ば引きずられるように連れ出される。車へ押し込まれ、ドアがロックされるのを見て、美乃梨は逃げ場がないと悟り、抵抗を諦めた。「佐俊が死んだ……それを理由に雅彦が追及をやめるなんて、きっと犯人は彼にとって大切な存在だったのね」冷静さを取り戻すと、美乃梨はようやく真相の影を察した。別の人なら、雅彦の性格からしてすぐさま報復の手を下したはずだ。だが彼はそうしなかった。これまでの経緯を踏まえれば――その相手は、彼の母以外に考えられない。ふん、さすがは菊池家。たとえ人を殺めても、何事もなかったかのように揉み消してしまう。「もうやめろ、美乃梨。君だって巻き込まれたくはないだろ」清墨は慌てて彼女の口を押さえた。こういう話は彼と二人きりならまだしも、もし永名の耳に入れば、美穂を守ろうとして取り返しのつかない行動に出かねない。なにより、菊池家が当主の妻を「殺人犯」として差し出すはずがない。清墨の力をもってしても守りきれない可能性は十分にあ
桃が受け入れてくれるかどうか、雅彦には断言できなかった。けれど少なくとも、これまでの過ちを償うために、できる限りのことをしようと心に決めていた。そう考えながら病室に戻ると、美乃梨が清潔なタオルで桃の体を拭いていた。ひとつひとつの動作が丁寧で、思いやりにあふれている。雅彦はほっと息をつき、桃にこうした友人がいてくれることをありがたく思った。もし他人に任せろと言われても、ここまで安心できるかどうかは分からない。清墨もそばにいた。彼にできることはなかったが、美乃梨が慌てて取り返しのつかないことをしないかと心配で、結局付き添っていたのだ。美乃梨が桃を世話する姿を見ているうちに、清墨は思わず目を奪われた。真剣な顔をしているとき、女性は一段と魅力的に見える。今の彼女からは優しさと強さが同時に伝わってきて、胸に響いた。桃のことで自分と激しく言い合ったときの、生き生きとした姿までよみがえる。その瞬間、清墨の中で彼女の印象が少し変わった。美乃梨はただ弱いだけの存在ではない。触れてはならない部分に触れられたときには、普段にはない芯の強さと勇気を見せるのだ。ドアの開く音に気づき、清墨ははっと我に返った。自分が美乃梨を見つめすぎていたことに気づき、気まずさがこみ上げる。取り繕うように声をかけた。「雅彦、戻ったのか?」「うん」雅彦はうなずき、桃のほうへ目を向ける。「彼女の様子は?」「落ち着いてる。医者からも聞いただろう?脳に血の塊が残ってなくて、本当に不幸中の幸いだった」「たしかに」雅彦も深くうなずいた。二人の会話を耳にした美乃梨は、顔を上げて雅彦を見た途端、理由もなく胸の奥に苛立ちが込み上げた。――不幸中の幸い?自分から見れば、桃にとって最大の不幸は雅彦と出会ったことだ。何度も危険にさらされ、命を落としかけたことも一度や二度ではない。よくもまあ、そんな口をきけるものだと、見てるこっちが恥ずかしくなるほどだった。「話すなら外でやってくれない?ここで騒がないで」美乃梨は冷たい声音で言い放った。「美乃梨、そんな言い方しなくてもいいだろ。雅彦だって桃を心配してるんだ」清墨は二人の間に立ち、必死になだめる。彼としては、雅彦が美乃梨に手を上げる場面など見たくなかった。「かまわない。彼女が俺を恨むのは当然だ」雅彦は静かに答えた。美乃