LOGIN雅彦は一瞬、息をのんだ。――佐俊の母親?以前、佐俊が美穂に連れ去られ、監禁されたあげく不明な死を遂げたとき、事が外に漏れるのを避けるため、雅彦は徹底した調査をしなかった。菊池家としても、それが美穂の口封じによるものだと暗黙のうちに認め、そのまま闇に葬った。だが美穂は、どうしても自分の仕業ではないと主張し、濡れ衣を着せられた悔しさから大病を患った。まさか、こんな形で事態が動くとは……「今すぐ警察へ行く。いったい誰が彼女に殺しを命じたのか、はっきりさせるんだ。麗子の遺品は引き続き捜索させろ。何か見つかったらすぐに報告しろ」雅彦は冷静さを取り戻し、まず佐俊の母親・昌代に会って話を聞くことにした。海はうなずき、部下たちに麗子が暮らしていた場所の再捜索を指示した。何か思いがけない手がかりが見つかるかもしれない。……警察署に着いた雅彦は事情を説明し、拘束されている昌代と対面した。ガラス越しに座る彼女の顔は驚くほど穏やかで、とても人を殺したばかりの人間には見えなかった。「麗子を殺したのは誰の指示だ?もし故意殺人で死刑になりたくないなら、知っていることを全部話すんだ。そうでなければ、お前の命は助からない」雅彦は遠回しな言い方をせず、単刀直入に切り込んだ。昌代は静かに彼を見つめ、淡々と言った。「もう全部認めたわ。今さら死を恐れると思う?この世に未練なんてないの。死んだって構わないわ」すべての願いを果たした彼女にとって、もはや生きる意味はなかった。たとえ生き延びたとしても、待っているのは刑務所での余生。それなら、いっそ早く終わらせたい。――天国でも地獄でもいい。そこに行けば、愛しい息子にまた会えるかもしれない。「じゃあ、どうして間違ってないと言い切れる?その人の言葉を信じて、本当に復讐の相手が正しかったと?もし利用されていただけだとしたら?」雅彦は彼女の頑なな態度に苛立ちを覚えながらも、どうにかして口を割らせようとした。昌代は、まるで哀れむような目で彼を見て、くすりと笑った。「ふん、たとえ利用されたって構わないわ。あんたが偉そうに言える立場?私と息子が麗子に脅され、命令通りに動くしかなかったとき、あんたはどこにいた?助けてくれたことなんて一度もない。今さら綺麗ごとを言わないで。利用されていようが、私はどっちでも
電話は桃に直接かけられた。少し待ってから、ようやく相手が出た。「会社でちょっとトラブルがあって、一度帰国しなきゃならない。君たちにはここでしばらく待っていてもらうことになるが大丈夫か?」「大丈夫」桃は少し驚いたが、会社のことであれば不思議でもないと納得し、それ以上は聞かなかった。菊池グループのことなど、彼女には関心もなければ知る由もない。「ほかに何か?」桃の声は淡々として冷ややかだった。雅彦は思わず苦笑した。さっきまで彼女が自分のことを心配するんじゃないかなんて思っていたが、今となってはただの思い上がりだった。彼女の自分への嫌悪ぶりからして、いなくなると聞いたらむしろ喜ぶに違いない。「もう何もない。ただ、気をつけて過ごしてくれ。ボディーガードをつけておいたけど、できれば一人では行動しないでくれ。夜は治安があまり良くないらしい」桃が煩わしく思うだろうとわかっていても、雅彦は一つひとつ丁寧に注意を促したあと、ようやく電話を切った。永名はすでに待ちくたびれていた。 彼が戻るのを見るなり、すぐに機長に出発を命じた。プライベートジェットがゆっくりと上昇し、雲の中へ消えていく。だが機内の二人の男の心は、どこまでも重く沈んでいた。……電話を切ったあと、二人の子どもたちが不思議そうにこちらを見た。「ママ、今の電話、雅彦から?」子どもたちの耳は鋭い。遠くからでも雅彦の声だと気づいたのだ。「うん。会社で急ぎの用があるって。しばらくは私たちだけでここにいるようにって」「そっか」翔吾はうなずいたが、何か引っかかるような違和感を覚え、けれどその理由はわからなかった。……数時間後。飛行機は滑らかに空港へ着陸した。海はすでに車を走らせ、出迎えのために待機していた。菊池家の専用機が到着すると、すぐに彼は駆け寄ってきた。雅彦は彼の姿を見ると、すぐに聞きたいことが山ほどあったが、永名が同席している手前、ぐっとこらえた。まずは永名を本宅へ送り届け、執事と今後のことを話し合ってもらう。そのあとようやく、雅彦と海は二人だけで車を出した。「どうだ、麗子が死んだあと、関係する資料や証拠はちゃんと保管できたか? 何か手がかりは見つかった?」海は渋い顔をした。「報告を受けた直後に、すぐ証拠保全の手配をしました。けど……見つけはしたも
永名の言葉どおり、雅彦はそのまま階下へ降り、車を待つことにした。出かける前に鏡の前に立ち、顔の傷をもう一度確かめる。冷やしたおかげと薬の効果で、今はほとんど目立たなくなっている。もしこれがまだ残っていたら――永名に見られて、桃に対して余計な誤解を抱かせてしまうかもしれない。そんなことを考えていると、突然、甲高いクラクションの音が響いて、思考が途切れた。永名が車の窓を下げ、雅彦の姿を見つけると、「乗れ」とだけ言った。雅彦は軽くうなずき、後部座席に乗り込む。しばしの沈黙ののち、永名が低い声で切り出した。「雅彦……麗子が死んだ。この件にお前は関わっているのか。もしそうなら、どの程度だ?」時間がなかった。永名は回りくどい言い方をするつもりはなく、運転席のドライバーも腹心の部下なので、聞かれて困ることもない。とにかく今はっきりさせねばならなかった。雅彦が事件に関与しているのかどうかを。もし関わっているのなら、すぐに手を打たねばならない。そうでなければ、「殺人」という罪が雅彦にかかる。自ら育て上げてきた後継者を、失うことになってしまう。「麗子が……死んだ?そんなはずはない、どうして急に……?」雅彦はあまりの衝撃に、永名の疑念に怒る余裕すらなかった。頭が真っ白になった。彼の計画は、麗子の弱みを握って、ウイルスの出所を白状させることだった。だが彼女が死んでしまったとなれば、それもすべて水の泡だ。ウイルスの発生源を追う手がかりは、またしても途切れてしまう。そうなれば、桃はどうなる?永名は雅彦の動揺を見て、少し意外そうな表情を浮かべた。どうやら彼は本当に何も知らないらしい。「どうして死ぬんだ……?死ぬにしても、ウイルスの出所を話してからにしてもらわなきゃ困る!」雅彦は拳を握りしめ、堪えきれずに前の座席を思いきり殴った。「つまり、お前も状況を知らないということか?」永名が眉をひそめて問う。「知るわけないだろ。そんなことになるくらいなら……」途中で言葉を詰まらせる。もし分かっていたなら、あの女を直接捕まえて拷問してでも、知っていることを吐かせていたはずだ。少なくとも、今みたいに手詰まりにはならなかった。「……」永名は無言で雅彦を見つめたあと、深く息を吐いた。その反応で、だいたいの察しはついた。――この件には、やはり
永名は一瞬、何を言われたのか理解できずに固まっていた。しばらくしてようやく口を開く。「……今、どういう状態なんだ?」執事の表情に深い悲しみが浮かぶ。「現場で即死でした。犯人はすでに警察に拘束されています」永名はスマホを握ったまま、長い間言葉を失っていた。麗子はこれまでに数えきれないほどの問題を起こしてきた。永名にとって彼女は、期待よりも失望の方がずっと大きい存在だった。それでも、長いあいだ菊池家の人間として暮らしてきたのだ。犬でさえ長く飼えば情が湧く。息子を亡くし、親としてこれ以上ない悲しみを味わった彼女に、永名は少なからず同情していた。多少のわがままには目をつぶり、せめて余生は穏やかに過ごせるようにと考えていた。まさか、こんな形でいなくなるとは。永名の顔から見る見るうちに力が抜けていく。「……飛行機の手配を。すぐに戻る」これほどの事態を、放っておくわけにはいかなかった。家をまとめる者が必要だ。執事はすぐに頷き、プライベートジェットの手配をし、永名を空港まで送る車も用意した。傍らでそのやり取りを聞いていた美穂は眉をひそめる。ここ最近ずっと彼が付き添い、細やかに世話をしてくれていたのに、急に帰るなんて、何が起きたの?「どうしたんですか、急に帰るなんて」「麗子が……事故で亡くなった。葬儀を取り仕切らなければならない」永名は少し迷ったあとで、正直に話した。「悪いが、しばらくは国内に戻らなくてはならん。こっちは一人で大丈夫か?」美穂は小さく頷いた。永名は何度か念を押すように言葉をかけ、車が目の前に止まると、名残惜しそうにその場を離れた。美穂はしばらく呆然としていた――死んだのは麗子。あの、憎くてたまらなかった女が、とうとうこの世からいなくなった。永名の存在があったからこそ、今まで手を出せずにいたのに。それがこんなにも突然、あっけなく。あの女さえいなければ、私の子どもが行方不明になることも、あのまま生死もわからぬまま消えることもなかったのに。「……よく死んだわ。あんたなんか、もっと早く死ねばよかったのよ」美穂の口元がわずかに歪み、抑えきれず笑いがこみ上げた。高笑いがこだまする。周囲にいた通行人たちは、東洋人の上品な女性が突然見知らぬ言葉で笑い出したのを見て、ぎょっとして距離を取った。関わったら面倒なことになる
しばらくして、ほかの使用人たちが部屋から出てきたが、鼻をつくようなひどい悪臭が漂っていた。どこか鉄のような、生臭い血の匂いも混じっていて、思わず吐き気を催すほどだった。「どうしたの、なんでこんなに臭いの?」メイドの一人が訝しげに声を上げた瞬間、ようやく臭いの元に気づいた。それは麗子だった。彼女はソファに仰向けに倒れており、大きく見開かれた目は天井を虚ろに見つめたまま。唇の端にはうっすらと血が滲み、その顔は苦悶に歪んで、見るも無惨な姿をしていた。「きゃあーっ!」メイドは悲鳴を上げ、思わず後ずさる。逃げようとしたその瞬間、彼女は見てしまった。麗子の遺体の傍らに、血の跡をつけたまま静かに座り込んでいる女を。その顔に怯えの色はなく、ただ淡々とした表情をしていた。その姿を見て、メイドはすべてを悟ったように息を呑む。「あなたが……やったの?」そう問いかけながら、メイドの脳裏にはこの数日の出来事がよぎる。この女が連れてこられてからというもの、麗子は彼女を侮辱し、虐げ、使用人たちも一緒になって面白半分に彼女をからかっていた。――そう、彼女には動機があった。メイドの心臓がどくんと跳ねる。目の前の女が、今にも報復として自分に襲いかかってくるかもしれない。そんな想像が頭をよぎり、恐怖が一気に全身を駆け抜けた。彼女は我を忘れて逃げ出した。あまりの動揺で足をもつれさせ、床に転げる。それでも、痛みなど構っていられない。命の危険を感じた彼女は、ほとんど錯乱したように走り出し、叫んだ。「警察!誰か警察呼んで!人が殺された!」昌代はその様子をただ静かに見つめていた。もとより逃げるつもりなどなかった。ここから逃げ出す術もない。やがて、メイドは泣きながら他の使用人たちに事情を話した。皆、青ざめた顔で震え上がり、慌てて警察に通報する。「殺人事件が起きて、しかも犯人が現場にいる」――その報せを受けた警察はただちに動いた。数十分後、サイレンの音を響かせてパトカーが到着した。銃を手にした警官たちが慎重に室内へ踏み込む。凶器をまだ持っているかもしれない――全員が緊張で息を呑む。そのとき、昌代はふっと肩の力を抜いた。どこか、長い悪夢がようやく終わったような気がした。彼女はゆっくりと立ち上がり、空いた両手を高く掲げた。「もう誰も傷つけるつもりはありません……連れて行
昌代は内心で冷笑した。これから先、あの女がこの日を迎えることは二度とないだろう──そう確信していた。さっき彼女がコーヒーに混ぜた毒は、わずかな量で人を死に至らしめるものだった。しかも彼女は躊躇なく全部入れた。麗子はすでに飲んでしまっている。たった一口でも命を奪うには十分だった。ただ、昌代はあまり興奮を露わにできなかった。もし変に挙動不審になれば、麗子が何かを察して医者に行ってしまうかもしれないからだ。「まだぼーっとしてるの?さっさと床を拭きなさい!」麗子は昌代が自分をぼんやり見ているのを見て、また威張りながら命じた。「はい、はい、すぐ行きます」昌代はそう言うと、慌てて布巾を取り、床にひざまずいて一生懸命に拭き始めた。かつて自分の夫を奪った女が、今こうして卑屈に身を低くしているのを見て、麗子の気分はよくなり、また一口コーヒーを飲んだ。数分後、麗子は突如として激しい腹痛に襲われた。その痛みは食あたりのようなものではなく、内臓の奥で何かがかき回されているかのような烈しい痛みだった。麗子はたちまち動転した。もしかしてこの食べ合わせがまずかったのか?「早く、救急車を……呼んで!」言い終わらないうちに、麗子はソファに伏して起き上がれなくなり、声は弱々しく、さっきまでの威圧的な態度はどこにもない。か細い声は周囲の者たちの注意を引かなかった。唯一、ずっとこの場の様子をうかがっていた昌代だけが異変に気づき、近づいてみると、麗子の顔はひどく歪み、口からは血の混じった嘔吐物が絶え間なく出ていて、その様子は見るに耐えないほど惨めだった。気持ち悪く恐ろしい光景だったが、昌代はじっと見つめ続けた。以前に写真で見た、佐俊が無残に死に、解剖されたときの姿が脳裏に浮かんだからだ。あのとき、息子もこんなふうに恐怖と痛みにのたうっていたのだろう。「佐俊、私はもうあなたの仇を取ったわ!」昌代は拳を握りしめてゆっくりと腰を下ろし、冷たい目で麗子を見据えた。「どう?この感じ、辛いでしょう?私もね、息子がいなくなったと知ったとき、こんなにも苦しかった。すぐにでも一緒に逝きたかった。でも、それはできない。私は彼のために復讐しなければならないの」麗子は意識がもうろうとしながら、前にいる人の服の裾を掴み、救急車を呼んで自分を助けてほしいと必死に願っていた。だ







