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第322話
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植物人間の社長がパパになった 第1159話
それでも雅彦は冷静だった。車の速度を落とし、周囲を一通り探してみたが、あの車の痕跡はどこにも見当たらない。仕方なく、再び現場へと戻った。車を降りた雅彦は懐中電灯を取り出し、欄干に残された跡を丹念に調べた。願うように――これは今日ついたものではなく、ずっと前からあった跡であってほしい、と。だが断面はあまりに新しかった。その希望はあっけなく打ち砕かれる。思い返せば、海が言っていた。あの車はここにしばらく停まっていたと。だが、どう探しても車が存在した痕跡は残されていない。残された可能性はただ一つ。桃の乗った車は、ここから突っ込み、谷底へと落ちた。胸を何かに強く締めつけられるようで、雅彦は息が詰まる感覚に襲われた。桃を見つけられなかったときには、ただ怒りだけがあった。だが彼女が谷に落ち、命を失ったかもしれないと悟った瞬間、憎しみも怒りも一気に消え去り、残ったのは途方もない空虚と、どうしようもない無力感だけだった。桃は――本当に、ここで死んでしまったのか？その思いがよぎっただけで、雅彦の体は小刻みに震えた。「桃……そこにいるのか？返事をしてくれ！」突如、狂ったように声を張り上げ、桃の名を叫び続ける。だが返ってきたのは沈黙だった。死を思わせるほどの、重い沈黙。雅彦は拳を握りしめ、額に青筋を浮かべながら足元の斜面を見下ろした。傾斜は急だが、降りられないわけではない……強い確信があった。桃はきっと、この下にいる。どうやって降りるか考えていたそのとき、ようやく莉子が駆けつけた。雅彦が危険な場所に足を踏み入れようとしているのを見て、我を忘れ、運転手に車椅子を押させて慌てて飛び込んできた。「雅彦、落ち着いて！こんな暗闇の中でどうやって降りるの？下がどんな状況かもわからないのに、無謀に動いたら危険すぎるよ！」制止され、雅彦の表情はすっと冷えた。莉子を見据えるその瞳には一片の温度もなく、背筋が凍るほどだった。莉子の胸に、理由のない後ろめたさがよぎった。心の奥では叫びたかった。――桃はもう死んでいる、完全に。雅彦が降りても無駄だ、と。だが口にはできなかった。表向き、莉子は相変わらず「雅彦のため」を装った。「雅彦、気持ちは痛いほどわかる。でも、桃さんが本当にここにいるかは確かめようがない。それに、一人で降りても砂漠で砂粒を探
植物人間の社長がパパになった 第1158話
莉子は雅彦に乱暴に突き飛ばされ、危うく車椅子から落ちそうになった。それでもなお彼の袖をつかみ、放そうとはしなかった。「……放せ」雅彦の声は冷ややかだったが、その奥には怒りがはっきりとにじんでいた。「雅彦、彼女の心は最初からあなたのものじゃない。どうしてそこまで追いかけるの？いっそ手放したほうが、お互いにとってもいいことじゃない」「俺のことに、部外者が口を出す必要はない」そう言い放った雅彦の表情はさらに険しくなり、莉子の手を乱暴に振り払うと、一度も振り返らず病室を出ていった。突き飛ばされた勢いで車椅子が揺れ、莉子は思わず立ち上がって追いかけようとした。だが理性がその衝動を押しとどめる。消えていく背中を見つめるしかなく、悔しさのままに車椅子の肘掛けを強く叩きつけた。……雅彦は病室を出ると、すぐに海へ電話をかけた。雅彦が目を覚ましたと知り、海はようやく胸をなで下ろす。「それで、結局どういうことだったんだ？」雅彦の声は淡々としていたが、海には爆発寸前であることがはっきり分かった。「監視カメラの映像を調べました。今回の逃亡を仕組んだのは心音のようです。彼女は女の使用人を桃さんの身代わりにして、変装させた桃さんを連れ出しました。今、心音と運転手は行方不明です。おそらく責任を追及されるのを恐れて逃げたのでしょう」雅彦の顔色はまったく変わらなかった。「その二人の行方を全力で探せ。それから……桃は？足取りはつかめたか」「まだです。ただ、彼女が乗った車には以前仕込んだ位置情報システムが残っていて、確認したところ、長いあいだ同じ場所に停まっていました。そこで何が起きているのかは不明です」雅彦は目を細める。「位置を送れ。俺が直接行く」「雅彦、ここは他の人に任せて。起きたばかりなんだから、まずは自分の体を大事にして」ちょうど病室を出てきた莉子は、雅彦が出発しようとしているのを耳にした。せっかく二人きりになれる機会だったのに、ここで行かれてしまうのは耐えられない。思わず声をあげ、必死に止めようとした。しかし雅彦は彼女の言葉など聞こえていないかのように、海に位置を送るよう命じると、そのまま迷いなく病院を後にした。今の彼に莉子を相手にする余裕などない。彼女に口を挟まれる筋合いもなかった。完全に空気のように無視され――その態度が莉子
植物人間の社長がパパになった 第1157話
「雅彦、どうしたの？体調でも悪いの？」莉子は本当の理由を知っていながらも、心配しているふりをした。「体に大きな問題はない。心配はいらない」「そっか……」そう言って、莉子は住所を聞き出すとすぐに人を呼び、自分を送り届けさせた。病院に着くと、海が簡単に事情を説明した。「この件は早急に調べなければならない。その内通者を雅彦様のそばに置いておくわけにはいかない。さもなければ、後で大きな問題になる」「わかったわ。あなたは先に行って。ここは私が見ているから大丈夫」海は莉子を心から信用していたため、うなずくとすぐに外へ出て、監視カメラの確認や、桃を連れ出した心音の素性を調べさせた。海が出て行ったあと、莉子は病室のベッド脇に座り、雅彦の手を取った。彼は眠っていたが、その手は確かに温かかった。莉子はその手を強く握りしめ、夢の中で幾度も見てきた完璧な顔をじっと見つめる。この顔は幼いころから彼女の夢に何度も現れてきたものだ。今こそ、誰よりも近くにいる――一瞬、莉子は「このまま永遠に目を覚まさなければいい」とさえ願った。時間は一秒一秒と過ぎていった。やがて三十分ほど経った頃、雅彦の目がわずかに動き、指先がぴくりと震えた。莉子はそれに気づき、慌てて彼を見つめた。「雅彦……目が覚めたの？」雅彦の体は極度の眠気に覆われていた。薬の作用もあり、全身が深い眠りに慣れきっている。兆しは見えても、まだ眠気の方が勝っていた。意識が少しずつ戻ると、雅彦は眠る前のことを思い出した。――桃がコーヒーを運んできて、それを口にした途端、意識が闇に沈んだ。そして、桃はそのまま去っていった……その記憶がよみがえると、雅彦は一気に目を見開き、ベッドから飛び起きた。莉子はその唐突な動きに驚いたが、それでも手を離さず、しっかり握り続けた。「雅彦、どうしたの？体調が……」女性の声を耳にした瞬間、雅彦は桃がまだ逃げていないのではという錯覚に襲われた。隣にいる莉子を見つめ、その瞳にかすかな失望の色を宿す。さらに、二人が手を握り合っていることに気づくと、ためらうことなく手を振り払った。「……どうして、君が？」莉子はその一瞬の失望と、拒むような動作に気づいていた。まるであからさまに嫌われているかのような態度――。彼はいまだに、桃がそばにいることを望んでいるのだ
植物人間の社長がパパになった 第1156話
彼女の叫び声を聞きつけて、他の人たちも慌てて駆けつけた。雅彦が意識を失っているのを確認すると、すぐに家庭医を呼んだ。医者は簡単に診察をし、異常は見当たらないと告げた。どうやら眠っているだけらしい。ただし普通の眠りではなく、どれだけ揺さぶっても雅彦は目を覚まさなかった。医者はしばらく様子を見たあと、ふと横に置かれたカップに目をとめる。中には半分ほどコーヒーが残っていた。「このコーヒーは誰が淹れたのですか？」「たしか桃さんです。さっきキッチンで忙しそうにしているのを見ました」「なら、彼女が薬を混ぜて雅彦を眠らせ、そのまま逃げたのでしょう」医者はすぐにそう推測し、考えを巡らせた。「まず病院へ運んで検査しましょう。この薬に副作用があるかもしれない。それから海さんにも連絡を。この件は私たちだけでは対処できません」皆も同意し、雅彦はすぐ病院へ運ばれた。知らせを受けた海は、急いで駆けつけた。検査の結果、使われたのは強力な睡眠薬で、毒性や深刻な副作用はなかった。解毒薬が投与され、医者からは「およそ三十分で目を覚ます」と伝えられる。海は待つあいだに、事の経緯を一つずつ確認した。雅彦が桃を連れ帰って別荘に匿っていたこと。そして桃が薬を盛って逃げ出したこと。その事実に、海は言葉を失った。二人の縁は、まさに断ち切れないものだった。しかし疑問が残る。これだけ大勢で桃を監視していたのに、どうして逃げられたのか。もしや内部に通じている者がいたのだろうか。海は、桃がもう二度と戻ってこないことを願った。余計な騒動を避けたい一心だった。だがもし内通者が本当にいるなら、桃を逃がしただけで済むとは限らない。次に盛られるのが今回のような無害な睡眠薬ではなく、毒だったとしたら、その結末は恐ろしく、想像すらしたくなかった。そう考えると、海は雅彦のそばを離れるわけにはいかなかった。内通者を見逃すわけにもいかない。しばらく悩んだ末、彼は直接莉子に電話をかけ、雅彦の見守りを頼んだ。莉子の脚はリハビリのおかげで以前よりずっと良くなり、物に手をつけば数歩は歩けるようになっていた。まだ完全ではないが、回復の兆しは確かにあった。何よりも、海が信頼できる人の多くは今、国外で永名の事務を手伝っている。他人に任せるのは不安が大きい。自然と頼れるのは莉子だけだった。
植物人間の社長がパパになった 第1155話
桃の脳裏に浮かんだのは雅彦の姿だった。この状況を打ち破れるのは、どうやら彼しかいない。けれど……彼の性格を考えれば、自分が逃げ出したと知ったとき、きっと自分を殺そうとするに違いない……そう思うと、桃の頭はますます重くなった。必死に意識を保とうとしたが、もう限界だった。失血と疲労でまぶたは落ち、身体がぐらりと揺れて、そのまま床に崩れ落ちた。意識は完全に途切れた。……その頃、菊池家。すでに寝ていた子どもたちが、何かに突き動かされるように同時に飛び起きた。翔吾と太郎は暗闇の中で顔を見合わせる。「ママが大変なことになった夢を見た！」「僕も……」二人の顔に驚きと不安が入り混じる。偶然にしては出来すぎていて、まるで何かの知らせのようだった。二人はもう眠る気にはなれず、慌ててベッドを降りた。考えた末に決めたのは、雅彦へ電話をかけることだった。桃の居場所も分からない。自分たちではどうにもできない。頼れるのは雅彦の力しかなかった。だが電話をかけても、長い呼び出し音のあとに応答はない。翔吾と太郎は諦めず、何度もかけ直した。けれど、やはり誰も出なかった。翔吾の幼い顔に、一瞬で陰りが差した。……雅彦のスマホの着信音が別荘に響き渡り、使用人たちもすぐに気づいた。あれほど大きな音を無視するのは難しい。けれど雅彦は、仕事中に邪魔されるのを何より嫌う。勝手に部屋を覗くなど、誰にもできなかった。「桃さんに出てもらえばいいんじゃない？」一人がそう提案する。ここで長く仕えていれば、雅彦が桃に特別な感情を抱いていることぐらい察せられる。桃なら怒りを買うこともないはずだ。「そうですね。じゃあ、桃さんを呼んできます」一人が慌てて桃の部屋へ向かい、ノックした。だが返事はない。扉を開けると、ベッドには誰かが横たわっていた。足音に気づいたその人物は、体をねじりながらうめき声を漏らす。どうやら縛られ、口を塞がれていたらしく、声も出せずに身をよじって助けを求めているのだった。使用人は慌てて駆け寄り、布団をめくる。そこにいたのは桃ではなく、両手を背中で縛られた女の使用人だった。一瞬、息をのむ。だがすぐに口の詰め物を外した。「桃さんが……逃げました！」その言葉に、使用人の胸は驚きと恐怖でいっぱいになった。ためらわず書斎へ
植物人間の社長がパパになった 第1154話
けれども桃は、それでも希望を捨てきれなかった。ついに、一本の太い枝が彼女の身体を受け止め、落下の勢いを止めてくれた。九死に一生を得たようなほっとした気持ちが胸をよぎるが、息を整える間もなく、頭上から銃声が次々と響いた。どうやら、あの殺し屋は自分がためらわず崖に飛び降りたことで腹を立て、冷静さを失って引き金を引いたらしい。銃声を聞いた瞬間、桃の身体は思わず震えた。手や傷の痛みも気にせず、必死に枝を抱えながらさらに下へ飛び降りる。立ち止まれば、死を待つしかないのだから。地面に着いたとき、左足をひどく捻り、鋭い痛みが全身を走った。息を呑むが、それでも足を引きずり、ふらつく身体を奮い立たせて別の方向へ急ぐ。あの男がさらに狂った行動に出るかもしれない。桃は痛みに耐え、全力で走り続ける。しばらくすると、頭上から大きな音が響いた。しかし、茂みの間からは何も見えない。ただ、走るしかない。次の瞬間、さっきまで桃が乗っていた車が、ものすごい音を立てて崖から転げ落ち、彼女の落下地点に叩きつけられた。桃の目が大きく見開かれ、心臓が止まりそうになる。もしあの場に長く留まっていたら……今ごろは車に押し潰され、命を落としていただろう。かろうじて助かったという安堵が胸をよぎるが、それでも気を緩めることはできない。爆発の危険を考え、桃はさらに遠くへと走った。幸い、最悪の事態は起こらなかった。十分に距離を取った後も、車が燃えたり爆発したりする気配はなかった。ようやく胸をなで下ろすと、力が抜け、その場に座り込む。俯いて、自分の身体についた無数の傷を見つめ、思わず苦笑した。これまで生きてきて、それなりに危険な場面も経験したつもりだった。だが結局は罠にかかり、自ら足を踏み入れ、命まで落としかけたのだ。心音と少し会話を交わしただけで、簡単に信じてしまった。彼女が助けてくれると信じ込み、裏切られるはずがないと思っていた――なんて愚かなことだろう。あの時に戻れるなら、迷わず自分を叩いてでも目を覚まさせたい。こんな行き止まりに追い込まれる前に。だが、ここまで来てしまった以上、悔やんでも意味はない。桃は深く息を吸い、無理やり心を落ち着かせた。森の中で狼に襲われかけた恐怖は、まだ鮮明に残っている。桃は歯を食いしばり、乾いた枝を集めて火を起こす。小さな焚き火
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