それなのに、結局彼は自分を置いて行ってしまった。会社が立ち上げ期で忙しいのはわかっていた。だがせめて今日くらいは付き添ってほしかった……イライラが募る中、海が早めに仕事を切り上げて訪ねてきた。莉子はさっと海の背後を見たが、一人きりだと知りがっかりした。その表情を見た海は察しがついた。「社長は会社で大忙しだ。プロジェクトのことで動き回っている。今回の事件で虎視眈々と狙っている連中もいる。お前のことを気にかけていないわけじゃない」莉子の傷は雅彦をかばった結果だ。幼なじみである二人が些細なことで溝を作らないよう、海は気を遣って説明した。「……そう、なのね」仕事が理由と聞き、莉子は不満を抑え込んだ。海は彼女が落ち着いているのを見てほっとした。今は大変だが、菊池グループの人脈を使えば最高の医者を手配できる。莉子が前向きに治療に取り組めば、回復の可能性はあると信じていた。しばらく付き添い、問題ないのを確認すると海も帰宅した。海が去ると、里美が身体を拭かせてほしいと申し出た。莉子は即座に拒否した。足が不自由なふりをしていても、近距離で接触すればバレる恐れがあった。この女は危険だ。桃の手下なら、足に異常がないことを見抜いて通報するかもしれない。考えた末、莉子は眠いと言って里美を追い出した。……夜になった。雅彦はこの数日、桃の家に泊まっていた。子供たちと過ごせる貴重な時間を逃すわけにはいかない。二人の子供をお風呂に入れ、寝かしつけると、ようやく桃の部屋に戻ってきた。額に浮かんだ汗を見て、桃はからかった。「どう?子育ての大変さ、わかった?」雅彦は苦笑した。太郎は大人しく本を読んでいて、そのまま寝落ちした。しかし、翔吾は落ち着きがなく、風呂場で水遊びを始めようとする。体格差で押さえつけなければ、まだ終わっていなかっただろう。「わかったよ、お母さんは大変だったね」そう言いながらベッドに座り、本を読む桃の肩を揉んだ。まだ湿った手の感触が首筋に伝わり、桃はくすぐったそうに身をよじった。「やめてよ、服が濡れちゃう」もぞもぞと逃げる桃の手が、偶然雅彦の浴衣の帯に引っかかった。ゆるんだ帯が解け、鍛え上げられた胸板が露わになる。彼女と同じボディソープの香りが漂っている。しかし、その香りは男らしさを損なう
かつて桃が突然消えた時、雅彦はまるで生きる屍のように五年間を過ごした。そしてようやく見つけた太郎を加え、四人揃って迎えたこの平穏な日々を手に入れた今、雅彦は再び別れの可能性など聞きたくはなかった。珍しく不安そうな雅彦の様子に、桃は自然と態度が柔らかくなった。「ごめん、言い過ぎたわ。私は突然消えたりしない。二人の子供も私たちの元で健やかに育つ。そして私たちは年老いて、孫の世話をするのよ……」雅彦の手が桃の肩をさらに強く握った。「ああ、この家族はもう二度と離れ離れにならない」二人は寄り添いながら会社に戻った。到着すると、雅彦はいつもの冷たい態度に戻り、桃も仕事モードの表情に切り替わった。莉子の件は彼らの仕事の進捗を乱すどころか、むしろこのプロジェクトを成功させようという意欲をかき立てた。多くの犠牲の上に成り立っているのだから。……病院では鎮静剤の効果が切れ、莉子がゆっくりと目を覚ました。目を開けて辺りを見回すが、雅彦の姿はない。不安が込み上げる。「雅彦……いないの?」介護士の中村里美(なかむら さとみ)は掃除をしていた。高額の報酬をもらっている以上、仕事は完璧にこなすつもりだ。「莉子さん、お目覚めですか?社長は会社にお戻りになりました。私がしっかりお世話しますので、何かあれば遠慮なくお申し付けください」莉子には介護士など不要だった。あれほどの犠牲を払ったのは、雅彦の関心を引きつけるためだった。なのに、一人きりで放置されるとは。「あなた誰?知らない人に世話されるのはごめんよ」莉子は冷たい声で言い放った。里美は気まずそうだったが、若い娘が不自由になるかもしれないという状況で、気が立っているのも無理はないと理解した。「私は以前、桃さんのご家族のお世話をしておりました。マッサージも少しできますので、どこか痛むところがあれば……」「桃」という名前を聞いた途端、莉子の嫌悪感はさらに増した。里美の笑顔は偽善にしか見えない。こんなに冷たくされても笑っていられるなんて、よほど腹黒い女に違いない。もしかすると、桃が監視役として送り込んだのでは?実は莉子の足に異常はなかった。ただ、銃弾を受けた自分を放っておき、桃の些細な火傷ばかり気にする雅彦に腹が立ち、感覚を失ったふりをしただけだった。雅彦の罪悪感を煽り、もっと
「うん、そうだね」桃は頷き、ひとまずその話題を終わらせた。ベッドに横たわる莉子を見ながら、雅彦は考えた。とりあえず介護人を雇うことにしよう。自分と海も面倒を見られるが、男二人で女性の世話をするのは不便だ。それに仕事もあるので、十分な時間が取れない。雅彦がそう言うと、桃は以前母の世話をしてくれた介護士を思い出した。あの方は信頼できる人だ。莉子の世話なら、自分たちがよく知ってる人にお願いするのが安心だ。桃はすぐにそのことを雅彦に伝えた。雅彦も適任者に悩んでいたところだった。この地域に来て日が浅く、莉子の状態も不安定なため、信頼できる人物を見つけるのが難しかった。「長く知っている人なら安心だ。ぜひ来てもらおう」桃は早速その介護士に電話した。以前香蘭の世話をしてくれた時、家族全員と良い関係を築いていた。雅彦が相場の倍の報酬を提示したこともあり、その介護士はすぐに承諾した。しばらくして介護士が到着すると、プロの介護士として手際よく準備を始めた。簡単なマッサージもできると言った。雅彦は彼女の迅速な対応を見て、ようやく安心した。時計を見ると、そろそろ会社に戻る時間だった。「じゃあここはお願いします。私たちは一度会社に戻ります」「お任せください。きちんとお世話しますから」そう言い残し、雅彦と桃は会社へ向かった。車中、二人とも疲れていた。直接的な労働はしていないが、病人の世話は心身ともに消耗する。雅彦は腕を伸ばし、桃を自分の胸に引き寄せた。彼女の目の下にできたクマに指を滑らせながら、「昨夜はよく眠れなかったのか?」と尋ねた。さっきまで莉子のことで頭がいっぱいで、こんな細かいことに気づかなかった。「うん」桃はあくびをした。一晩中悪夢にうなされていた。雅彦が莉子と逃げていく夢ばかりで、まともに眠れるはずがない。「あの日のことが怖かったのか?」雅彦は、銃撃事件の生々しい光景がトラウマになったのかと思った。「違うわ」桃はふんっと鼻を鳴らした。「あなたが莉子を抱いて逃げていく夢を見たの。いくら呼んでも振り向いてくれなくて」雅彦は思わず笑った。どうりで今日の桃は妙にピリピリしていると思った。原因はそこだったのか。「夢は逆だって聞いたことがないか?そんな夢を見るなんて、現実では俺がお前にべた惚れで、どんなに追い払おうと
「俺がいつ彼女とそんな関係になった?」雅彦は眉を深くひそめ、桃を見つめて言った。「さっきじゃないの?」桃は言いたくなかった。嫉妬深い女だと思われたくなかったから。でも我慢できなかった。「あんな風に抱きしめて、指切りまでして……」「お前も見ただろう?ベッドから転げ落ちたんだ。傷が開くのを放っておけるか?彼女を落ち着かせるためだった。それ以上の意味はない」雅彦は必死に説明した。桃もそれが真実だとわかっていた。でもあの光景を思い出すと、やはり胸がざわつく。一度きりならまだしも、これから毎日こんなことが続いたら耐えられない。自分の夫が他の女とあんなに親密にするのを見て、平気でいられる女がいるだろうか。「とにかく、これからは気をつけてよね。簡単にそんな重大な約束しないで。じゃないと、あなたの人生を共にする相手は私じゃなくて彼女なのかと思っちゃう」桃はぶつぶつ言いながら、頬を膨らませた。その様子が面白くて、雅彦は彼女の頬をつついた。「ん?この辺り、変な匂いがしないか?」桃は混乱し、同時に腹が立った。真剣に話しているのに、雅彦は変な匂いだなんて言い出す。話をそらそうとしているのだろうか?それとも、莉子と距離を置くことを約束するのが、そんなに難しいのだろうか?桃は突然むっとし、雅彦の膝から足を下ろして立ち上がろうとした。しかし雅彦は彼女の手首をつかみ、ぐいと引っ張った。桃はバランスを崩し、雅彦の太ももの上に座る羽目になった。「離して!」桃は怒って身をよじったが、雅彦が本気で抑えれば力では敵わない。ただ無駄に体をくねらせるだけだった。「桃、この病室、焼きもちの匂いでいっぱいじゃないか? もう焼け焦げそうだよ」雅彦は桃の嫉妬深い様子を面白がっていた。からかわれていると気づいた桃はさらに激怒した。真剣に話し合おうとしているのに、雅彦はまったく取り合わない。今にも爆発しそうな桃を見て、雅彦はからかうのをやめ、後ろから彼女の腰を抱いた。「言っただろう?あれはその場限りのことだ。彼女の治療のためだ。確かに世話はするが、俺にも分別はある。ましてや俺は医者でもリハビリの専門家でもない。24時間つきっきりになったところで、彼女の回復に何の役に立つ?」ようやく真面目に答えてくれた雅彦に、桃も少しずつ落ち着いていった。彼女の怒り
「分かった」雅彦は頷いて医者を見送った。莉子が深く眠っており、すぐに目を覚ましそうにないのを見て、雅彦は海に言った。「お前も一晩中付き添っていただろう。一旦帰って休め。ここは俺がいるから大丈夫だ」海も徹夜の疲れがピークに達していた。莉子のことが心配でなければ、とっくに倒れていただろう。雅彦の言葉に素直に従い、家に帰った。部屋には桃と雅彦だけが残された。ようやく雅彦は桃の足の火傷に目を向け、眉をひそめた。この女は、どうしてここまで意地を張るんだ……「彼女はもう大丈夫だ。お前の薬を塗ってやる」雅彦は自分の横のスペースを軽く叩き、桃を招き寄せた。桃は近づき、足を椅子の上に乗せようとした。すると雅彦は何の躊躇いもなく、彼女の足首をつかんで自分の膝の上に載せた。この姿勢で急に二人の距離が縮まり、桃の頬が赤くなった。「何するのよ!」「薬を塗るに決まってるだろ!」雅彦は特に深い意味はなく、ふと見上げると桃の耳まで赤くなっているのに気づいた。「どうやらお前、最近だいぶ変なことを考えるようになったな。そんなに足を離されちゃ、薬も塗れないのに、勝手に変な想像をして……」そう言われると、桃の顔は真っ赤になり、恥ずかしさのあまり怒りを覚えた。「じゃあ自分で塗るから、いいわ!」雅彦は桃が逃げようとするのを制し、お尻をパンと叩いた。「じっとしてろ。そんなに動いたら、誰かに見られて余計に誤解されるぞ」桃はこの行動にますます顔を赤らめたが、確かにこれ以上動けばさらに恥ずかしい状況になると思い、大人しくなった。ようやく桃が落ち着くと、雅彦は火傷の状態を確認した。よく見ると、桃の火傷には水ぶくれができ始めていた。このまま放っておけば、破れた時に激しい痛みを伴うだろう。雅彦は慎重に薬を絞り出し、桃の傷に塗った。薬はひんやりとしているが、塗られた瞬間はやはり痛く、桃は思わず「ひっ」と声を漏らした。雅彦は足首を握る手に力を込めた。「今さら痛いとか?さっき処置を受けに行けばよかったんだ」「だって彼女の状態が気になったんだもん」桃は雅彦を睨み、下唇を噛んだ。「彼女の足……きっと治るよね?もし本当に歩けなくなったら、どうするの……」雅彦は眉を上げた。桃の言葉には単なる心配以上の感情が込められているのがわかった。「お前、心配なのはそれだけじ
莉子のその言葉は、まるで助けを求める幼子のようだった。雅彦は彼女にとって最後の頼みの綱だ。雅彦は頷き、彼女の小指に自分の指を絡めた。「ああ、約束する」その様子を見ていた桃は、胸に鋭い痛みを感じた。まるで針で刺されたかのように、じわじわと広がっていく。なぜか、雅彦が莉子に約束する姿は、昨夜見た悪夢が現実になりつつあるように思えた。雅彦が莉子を落ち着かせている間に、海は医師を呼びに行った。莉子の傷の手当てが必要だ。医師は莉子の興奮を鎮めるため、鎮静剤を注射した。薬液が血管に流れ込むと、莉子のまぶたは重くなっていった。しかし、彼女の手はなおも雅彦の手を強く握りしめ、離そうとしない。「雅彦……私を置いていかないで……」「大丈夫だ」雅彦はそう言いながら、医師の助けを借りて莉子をベッドに寝かせた。医師が傷の状態を確認すると、激しく暴れたせいで傷が開いていた。再処置が必要だという。莉子の傷は胸の下あたり。男として見るべきではないと思い、雅彦はすぐに視線を逸らし、立ち去ろうとした。その時、ふと桃がずっと傍で見ていたことに気づいた。彼女の表情には喜怒がなく、ただ複雑な陰りが浮かんでいた。雅彦は胸に疚しさを覚え、桃の手を取った。「ここは医者に任せよう。まずはお前のやけどの手当てだ」桃は無表情に連れられていく。部屋を出る時、彼女は言いたかった――「莉子のそばにいてあげて」と。さっきのあの約束は、まるで自分が存在しないかのようだったから。しかし、口に出さずに飲み込んだ。桃は嫉妬深い女になりたくなかった。「いいわ、医師の処置が終わってからで」一度意地になると、桃は誰の言うことも聞かない。仕方なく雅彦は看護師から薬をもらい、その場で塗布した。しばらくして病室に戻ると、莉子は静かに眠っていた。医師は海に状況を説明しているところだった。莉子が足の感覚を失ったことでパニックを起こしたと聞き、医師は首を振った。「これは……良くないですね。やはり神経を損傷した可能性が高い」桃の胸が締め付けられた。一方では、若く美しい莉子がこんな目に遭うのは忍びなかった。もう一方では、自分勝手な思いもあった。莉子が無事でいてほしい――もし本当に足が不自由になったら……雅彦の性格からして、きっと傍を離れないだろう。それに、さっき治るまで