佐俊は赤くなった目で、桃の苦しそうな顔を見つめていた。少し咳き込んでから、声にならない声で「ごめん」と口を動かし、それからようやく口を開いた。「桃……もし、私たちが生きてここを出られたら……ちゃんと償うよ」その言葉は、あまりにも曖昧で、何とでも取れるものだった。だからこそ、余計に疑われることもなかった。彼にとっては今の状況で言える、唯一の慰めのつもりだった。けれど、桃の耳にはそれがまるで皮肉のように聞こえた。桃は怒りで我を忘れ、檻を開けようと必死になった。この恥知らずな男と、一緒に死んでもいいと思うほどに。でも、檻にはしっかりと鍵がかかっていて、どう頑張っても中には入れなかった。……地下室の外、雅彦は、真っ青な顔で階段を上ってきた。あんな血の気のない顔、今まで一度も見たことがない。それを見た海も胸が締めつけられるような思いだった。雅彦は、いつも堂々としていて、気高い人だった。彼がこんなふうに崩れるのを見たのは、昔、桃が死んだと思われた時くらいだろうか……でも今の彼は、それよりももっと深く、傷ついているように見えた。おそらく、訊き出した結果は、やはり桃が雅彦を裏切っていたということだろう。そう思うと、雅彦のこれまで一番つらい出来事は、どれも桃と関係していたことに気づく。そしてふと海は考えた。――もしかしたら、この裏切りは、彼にとって執着を断ち切るきっかけになるのかもしれない。「雅彦様……これから彼らをどうしますか?」海は、静かに聞いた。もし本気で復讐するつもりなら、あの夫婦の時のように、アフリカの何もない土地へ送り込めばいい。そこは人も住まず、逃げることもできない。働かされて、死ぬよりつらい日々が待っている。「……」雅彦は答えなかった。しばらくの沈黙のあと、ようやく顔を上げて言った。「……桃を、連れてきてくれ」海は眉をひそめた。連れてくる?……それからどうするつもりなのか。こんな状況でも、まだ彼女を側に置いておくつもりなのか?「どうするかは……まだ決められない。少し休ませてくれ」雅彦はそう言って、頭を押さえながらフラフラと歩き出した。頭の中がごちゃごちゃで、何も考えられない。こんな感覚は生まれて初めてだった。海はそれ以上何も言わず、使用人に手伝わせて、雅彦を部屋へと連れていった。そして、海は再
「証拠を見せろ」雅彦は歯を食いしばりながら、ようやくその言葉を絞り出した。佐俊は雅彦にスマホを投げて言った。「全部ここにあるよ。自分で見ればいい」雅彦はスマホを受け取り、画面を開いて、佐俊と桃のチャットを確認しはじめた。二人が知り合った時期は、自分が思っていたよりずっと早かった。その事実に、一瞬手が止まりそうになったが、それでも最後まで読み続けた。そこには、桃が莉子と自分が仲良くしていることに不満を言い、次第に佐和への思いを語り出していた。チャットの内容はだんだん親しげになっていき、やがて、桃の私生活の写真もたくさん送られていた。その中には、かつて自分にも送ってくれたものがいくつも混ざっていた。雅彦はそれを見て、笑うしかなかった。彼女は、自分だけに共有していると思っていた。だが、それは勘違いだった。彼はさらに読み進め、桃が莉子を追い出そうとしていたやり取りを見つけた。それだけではない。そこには彼女の署名が入った契約書の写しもあり、その内容は、彼女の多くの資産を佐俊に託し、起業の支援をするというものだった。まさかここまで深い想いを抱いていたとは。自分のすべてを預けてもいいと思えるほど、あの男を信じていたのか。雅彦に対しては、そんな素直な気持ちを一度も見せたことがなかったのに。桃は、契約書の内容を見て、体から力が抜けていくのを感じた。これはあの日、車の事故の保険金の手続きだと思っていた書類だ。その時は、佐俊を信じきっていたから、ろくに確認もせずに、前半だけ読んでサインしてしまった。それも――すべて罠だった。「あああああっ!!」桃は、頭を抱えて、叫んだ。髪をぐしゃぐしゃにかきむしりながら。悔しさと怒りで心が張り裂けそうだった。どうして、自分はあんなにも簡単に人を信じてしまったのか。どうして、顔がちょっと似ているだけで、何も疑わずに心を許してしまったのか。そして、どうしてこんな理不尽な目にばかり遭わなければならないのか……そんな彼女を見つめる雅彦は、もはや何の言葉も出なかった。助けようとも、問い詰めようとも思えない。なぜなら――今この瞬間、彼は桃に近づくだけで、自分の手でその首を締めてしまいそうだった。彼女に与えられるものは、もう何一つ残っていなかった。ありったけの愛も、信頼も、未来も――全てを捧げたはずな
「何を言ってるの? 代わり? そんなことするわけない。私のことをバカにするだけじゃなくて、佐和のことも侮辱してるの!」桃は目を大きく見開き、信じられないという表情で佐俊を見つめた。この世界は本当に……もう完全に狂ってる。完全に、おかしくなってる。「桃、私たちの過去を全部なかったことにするつもりか? 君が前に送ってきたボイスメッセージ、まだスマホに残ってるよ……」すると雅彦がピクリと反応し、すぐに人を呼んで佐俊から取り上げたスマホを持ってこさせ、それを彼の顔に投げつけた。「出せ」スマホが顔にぶつかり、佐俊は目を回しそうになり、鼻から血も出た。でも彼は痛みを感じないかのように、スマホを操作し始めた。そして、すぐに1つの音声ファイルを見つけて、再生した。「私はずっと……佐和のこと、忘れたことなんてなかった……」桃の声だった。はっきりと、真剣で、心からのように聞こえた。その瞬間、桃の足がガクンと崩れそうになった。たしかに、それは彼女の声だった。でも――そんな意味じゃなかった!その言葉を言ったのは事実だ。でも、それはあの日、麗子に聞かせるためにわざと言ったものだった。彼女を動揺させて、そのすきに逃げる時間を作るため。佐俊には、一度もそんな話をしたことなんてなかった。……そのとき、桃はすべてに気づいた。佐俊は、最初から麗子側の人間だった。初めて会ったときから、全部が罠だったんだ。たとえ事故を避けるきっかけがなかったとしても、佐俊は他の手を使って自分に近づいてきただろう。しかも、あの顔だったから、桃が少し気にしてしまうのは当然だった。つまり、これは最初から仕掛けられていた罠。どんなにがんばっても、最初から負ける定めだったのだ。「違う、違うの、これは絶対に編集されてる。雅彦、お願い、専門家に調べさせて……いや、私が自分で人を雇って調べる。きっと編集の痕跡があるはずだから……」桃はパニックになって、佐俊のスマホを奪おうとした。でも彼は鉄の檻の中にいて、桃は中に入れない。手も届かなかった。雅彦はその姿を見て、彼女の腕をつかみ、冷たい目で佐俊を見下ろした。「話は終わってない。続けろ」佐俊はゆっくり言った。「どうせ……もう私も長くないだろうし、隠しても意味ないよ。菊池グループの情報が漏れたときも、桃から一部を聞き出して、彼女の
雅彦は背が高くて脚も長いので、歩くのもすごく早い。彼がスピードを落とさなければ、体調がいいときの桃でもついていくのは大変だ。今みたいに具合が悪い時なんて、もう引きずられているようなものだった。桃から見えるのは、冷たくてきつい顔つきをした雅彦の横顔。その表情には、まるで他人を拒絶するかのような冷たさがあった。桃の胸の中には、なんとも言えない気持ちが渦巻いていた。もしかしたら――本当に、二人の間で何かが変わってしまったのかもしれない。たとえ誤解が解けても、もう前のようには戻れない、そんな気がした。雅彦は前だけを見て、無言でどんどん歩いていく。桃も、何も言わずについていった。そうして二人は、佐俊が閉じ込められている地下室に着いた。中に入ったとたん、きつい血のにおいと地下特有の湿った空気が鼻をついた。桃は気分が悪くなり、口を押さえて、ゴホゴホと咳をした。その音を聞いて、床に倒れていた佐俊がゆっくり目を開けた。桃の姿が見えると、彼は拳をギュッと握りしめた。桃の顔色は悪く、きっと辛い目にあっていたのだろうと佐俊は思った。あらかじめ予想していたことだ。心の中でそっと謝った。でも彼には、もう引き返す道はなかった。この芝居を始めた以上、最後まで演じきらなければならない。「全員そろったな。話があるなら、早くしろ」雅彦が手を放すと、桃はよろけて倒れそうになった。しかし、すぐに近くの壁につかまり、体を支えた。「佐俊、私たちが会ったのは、たったの二回だけ。一回目は、私が道路を横切ってたとき、あなたがそれを避けようとしてケガをして、私が病院まで送った。二回目は、保険の手続きが終わったって言われて、サインしに行っただけ。それだけの関係なのに、どうしてあんなことをしたの?」桃は怒りをこらえて、なんとか冷静な声で問いかけた。佐俊は桃の目を見ようとせず、目をそらしたまま答えた。「桃……今はつらいと思うけど、もう全部バレてるんだ。隠しても意味ないよ。それなら、あの暴力男とはきっぱり別れちまえばいい。君が離れても、私はずっと君を愛してる」「……何言ってるの?!」桃はもう限界だった。どうして佐俊は、平気な顔でウソをつけるのか。どうして雅彦の前で、こんな挑発をしてくるのか。「君は前に言ってただろ? 乱暴な雅彦が嫌だって。毎日、亡くなった佐和のことを思い出して
佐俊はもちろん、そんなことはしたくなかった。だが、麗子から送られてきた動画には、縛られた母親とその周囲に立つ複数の男たちが映っていた。麗子は彼を脅した。もし自分の言う通りに動かなければ、エイズに感染している男たちに母親を襲わせてやると。それは、かつて家庭を壊した復讐でもあった。佐俊は、そんな恐ろしいことを黙って見過ごせるはずがなかった。母親に近づく男たちの姿を目にし、心が張り裂けそうになり、彼は麗子の要求を飲むほかなかった。彼は麗子の命令に従い、桃に接近し、少しずつ信頼を得ていった。そして最後には、この抜け出せない罠へと彼女を誘い込んだのだ。自分のしたことが桃に対してどれだけひどい裏切りか、彼はわかっていた。まったく無実の彼女を、逃れられぬ渦中に引きずり込んでしまった。何より、この数日の接触で彼は確信していた。桃は決して悪い人間ではない。むしろ、優しくて心の温かい女性だということを。もしできるなら、自分は彼女を傷つけたくなかった。だが、どうすることもできなかった。もし従わなければ、母親は戻ってこない。だから、心を捨ててでも、彼はこの道を選ばざるを得なかったのだ。彼は考えていた――もし最終的に、桃が雅彦に捨てられ、貧しく孤独な生活を送ることになったら、自分が彼女を受け入れて償おう。これもすべて、自分のせいなのだから…………桃が目を覚ましたとき、全身が痛くてたまらなかった。皮膚は火で焼かれたようにヒリヒリし、雅彦が強く擦りつけた跡が残っていた。体の奥の方に走る鋭い痛みは、昨夜の出来事がどれほど乱暴だったかを物語っていた。首筋に走る痛みも、彼女に過去の記憶を呼び起こさせた。そう、彼女は雅彦に手で強くたたかれて気絶させられたのだ。では、彼は今何をしようとしているのか?桃は周囲を見回した。全てが見知らぬ場所だった。ゆっくりと起き上がり、窓の外を見ると、そこには見たことのない広大な森と湖が広がっていた。外へ通じる道も見当たらない。ここは、一体どこなのだろうか?雅彦は一体何を考えて、こんな隔絶された場所に連れてきたのか?こんな場所では、何をされても抵抗できないのではないだろうか。その時、ドアノブを回す音が聞こえ、振り返ると雅彦が入ってきた。彼女の目覚めに気づくと、雅彦は疲れた様子で静かに言った。「起きたか」そ
子どもの頃から、佐俊は一度も父親に会ったことがなかった。けれど周りの子どもたちは、「隠し子」「母親は既婚者に手を出した女」「恥知らずな母子」などと、彼をからかってばかりだった。十八歳になったとき、母親はようやく真実を打ち明けた。佐俊の父は正成という名の男で、菊池家の血を引く人物だったという。彼女が若かった頃、その男にすでに家庭があることを知らず、ただ恋に落ちたのだと思い込んでいた。そして妊娠し、子どもを授かった。だが妊娠六ヶ月、お腹も大きくなった頃、突然麗子という女が現れた。彼女は、母親が人の夫に手を出し、しかも子どもを産もうとしているというスキャンダルを広め、母親を社会的に追い詰めた。進学をあきらめ、ひとりで子どもを産む決意をした母親。一度は中絶も考えたが、すでに月齢が進んでいて、命や将来の妊娠に影響が出るかもしれないと知った。なによりも、自分の子どもをどうしても手放せなかった。だが、父親不明の子を抱えて生きる母子には、苦しい生活しか待っていなかった。結局、どの男とも再婚できず、母親は一人で必死に佐俊を育てた。自分の出生を知ったとき、佐俊はただ一言だけ言った。「その男は……死んだことにしておこう。私が必死に勉強して、母さんを幸せにするから」そうして、彼の人生はその言葉通りに進んでいた――はずだった。だが、数か月前。突然、正成が人を使って、彼ら母子を訪ねてきた。正成はアフリカでの苦しい生活の末、すっかり体が壊れ、まともに動けない状態だった。息子の佐和も、事故で亡くなっていた。そんな中、ふと「昔、麗子に追い出された女が、実は子どもを産んでいたらしい」という話を耳にし、正成は最後の希望に賭けるように、佐俊を探させたのだった。彼は、自分が何もできなくなった今でも、菊池家のすべてを雅彦に渡す気にはなれなかった。だから、佐俊を菊池グループに入れ、経験を積ませて、将来は重要なポジションに就けるよう、菊池家の当主に頼むつもりだった。しかし、佐俊はその話をきっぱりと断った。自分にはそんな野心もないし、何よりも、無責任に自分たちを捨てた男に、何の感情もなかった。普通の人間が、いきなり大財閥の中に巻き込まれたらどうなるかなんて、目に見えている。利用され、食い尽くされ、捨てられるだけだ。佐俊は、母と静かに暮らせる人生だけを望んでいた。――と