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140:不思議の国のお話

last update 最終更新日: 2026-02-18 11:30:19

 5歳の樹は、今は東京の桐生の家で暮らしている。

 4歳までは海辺の町で母親の結菜と二人暮らしだった。

 突然現れた「おじさん」が実はパパだったと知らされて、最初は驚いたけど、ママが幸せそうに微笑んでいるのを見て、樹も受け入れたのだ。

 それからしばらくは、パパとママと樹の三人で海辺の町で暮らしていた。

 パパ――KIRYUホールディングスのCEOである智輝はいつも忙しそうだったが、少々無理をしてでも結菜と樹との時間を大事にしてくれた。

 そうしているうちに、結菜の妊娠が発覚。

 智輝の多忙さもあり、結菜は樹を連れて東京の桐生の家で暮らすことになった。

「ねえ、ひいおじいちゃん。今日もイギリスのお話、聞かせて?」

 結菜の出産が間近に迫ったある日、桐生邸のリビングで、樹は曽祖父に話しかけた。

 曽祖父のエドワードは微笑んで、車椅子の横に座ったひ孫の頭を撫でてやる。

「ああ、いいとも。何のお話をしようかな?」

「図書館で『不思議の国のアリス』っていう本を読んだんだ。おもしろそうだけど、むずかしくて」

 樹はぎゅっと眉を寄せた。

 彼はまだ5歳。5歳としては読書家なのだが、やはり字が
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  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   141

    「……さて。今日はここまで」 話の区切りをつけてエドワードが言うと、樹は急に現実に引き戻された気持ちになった。 車椅子の曽祖父の顔を見上げて、首をかしげる。「ひいおじいちゃん、もう終わりなの? それからイツキはどうなったの? もっと聞きたいよ」「終わりではないよ。続きはまた明日にしよう。さあ、そろそろ夕食の時間だ。しっかり食べて、大きくならないとね。お母さんを迎えにいってあげなさい」「ん、分かった! お話、明日また聞かせてね!」 樹は勢いよく立ち上がると、弾むような足取りでリビングを出ていった。「……お父様があんなにお話が上手とは、知りませんでしたわ」 残された鏡子がぽつりと言う。エドワードは苦笑した。「お前にも話したはずなんだが、もっとたくさん聞かせてやればよかったね。当時は仕事が忙しくて、お前のための時間をあまり取ってやれなかった。後悔先に立たずとはこのことだ」 若い頃のエドワードは単身で戦後の日本に渡り、KIRYUホールディングスを立ち上げた。 結婚した後も多忙を極めて、家族との時間が少なかったのは事実だ。 鏡子は首を振った。「もう50年以上前のことです。私も大人どころか、高齢になりました。お父様に感謝以外はありません」「そうかい? いくつになっても、親にとっては可愛い娘だ。樹のお話の次は鏡子の話をしようじゃないか」「またそのようなことを……」 鏡子は呆れ顔だが、少しだけ嬉しそうでもある。長年を仕事の責務に費やしてきた彼女にとって、今の家族の団らんは新鮮で、心が温まるものでもあった。「不思議の国のアリスの続編は、鏡の国のアリス。鏡子の鏡の字だよ。ぴったりじゃないか。どんなお話にしようか、今から腕が鳴るね」 楽しげなエドワードに、鏡子も少しだけ笑った。「……そうですね。では樹くんと一緒に聞かせてください」「ああ、そうしてくれ。可愛い娘と孫とひ孫に囲まれて、私は幸せ者だ」 エドワードはひざ掛けの下の手を握り直した。そこには1つの古びた鍵がある。 この屋敷の地下にある、エドワードの書庫の鍵だ。 普段は鍵がかけられているそこは、エドワードにとっての不思議の国。長年かけて収集した貴重な本が山ほど収められている。(鏡子は読書に興味を示さない子だった。智輝は本が好きだったようだが、途中で心を閉ざしてしまった。樹はまっすぐな目で

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   140:不思議の国のお話

     5歳の樹は、今は東京の桐生の家で暮らしている。 4歳までは海辺の町で母親の結菜と二人暮らしだった。 突然現れた「おじさん」が実はパパだったと知らされて、最初は驚いたけど、ママが幸せそうに微笑んでいるのを見て、樹も受け入れたのだ。 それからしばらくは、パパとママと樹の三人で海辺の町で暮らしていた。 パパ――KIRYUホールディングスのCEOである智輝はいつも忙しそうだったが、少々無理をしてでも結菜と樹との時間を大事にしてくれた。 そうしているうちに、結菜の妊娠が発覚。 智輝の多忙さもあり、結菜は樹を連れて東京の桐生の家で暮らすことになった。◇「ねえ、ひいおじいちゃん。今日もイギリスのお話、聞かせて?」 結菜の出産が間近に迫ったある日、桐生邸のリビングで、樹は曽祖父に話しかけた。 曽祖父のエドワードは微笑んで、車椅子の横に座ったひ孫の頭を撫でてやる。「ああ、いいとも。何のお話をしようかな?」「図書館で『不思議の国のアリス』っていう本を読んだんだ。おもしろそうだけど、むずかしくて」 樹はぎゅっと眉を寄せた。 彼はまだ5歳。5歳としては読書家なのだが、やはり字がメインの本は年齢的に難しい。「まえがきに、イギリスのお話だと書いてあったよ。イギリスには、不思議の国があるの?」「そうだねぇ……」 エドワードは少しとぼけるように言った。「確かにある。イギリスは妖精たちが住まう国だ。森のウサギの巣穴は、時々不思議の国に繋がっている。アリスのような女の子が、巣穴に落ちて不思議の国に入ってしまうことも、たまにはあるね」「……へぇぇ!」 樹は目を輝かせたが、同じくリビングのソファに座っていた鏡子――エドワードの娘で樹の祖母――は、眉をひそめた。「お父様。いくら子供相手の物語とはいえ、嘘をつくのはどうなのですか?」 現実主義者の鏡子としては、そこが気になってしまうらしい。 エドワードはにやりと笑った。「嘘ではないよ。小さい頃のお前にも話してあげただろう。覚えていないかな?」「覚えていませんね」「それは残念。私の膝の上で、夢中になって話を聞いてくれたのに」「はぁ……」「ではお前も、樹と一緒に話を聞くといい。『不思議の国のイツキ』、さあ始まるよ」「えっ、ぼく!?」 樹は驚いて曽祖父を見上げた。「そうとも。人は誰しも、人生という物語

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   139

     兄妹がそこまで話した時、祖父である雅臣が通りかかった。「おや、2人とも。お茶の時間かい? おじいちゃんも混ぜてもらおうかな」「もちろん! こっち座って!」 柚葉がソファの席を詰める。樹はティーカップをもう1セット持ってきて、ポットから紅茶を注いだ。「ありがとう。樹は紅茶を淹れるのが上手だよね」「うん、ひいおじいちゃん直伝だからね。……ねえ、おじいちゃん。聞きたいんだけど、パパとママは若い頃に何かあったの?」「……何か、とは?」 雅臣は慎重な目で孫を見た。  樹は自分の古い記憶を語ってみせる。  雅臣はふうと息を吐いて、カップを置いた。「まあ、色々あったねえ。楽しい話も、そうでない話もある。僕の口から言うのではなく、智輝と結菜さんから聞くべきだろうね」 祖父の思いのほか重い口調に、孫たちは目を丸くした。 ◇  そうして兄妹は、両親の秘密の過去を聞き出そうと決意した。  なかなか話したがらない父と母を説き伏せて、とうとう聞き出したのだ。  ただし結菜は、智輝が彼女を手酷く傷つけたのは黙っていた。今の智輝は良き父で、子供たちもパパが大好きだったから。  勘違いですれ違った、と言うに留めた。「ええーっ。じゃあママは5年も1人でお兄ちゃんを育てたの? 凄すぎる」 柚葉が目を丸くしている。「父さんは何やってたんだ。会社の力もあるんだし、調べようと思えば調べられただろ」 樹は不満そうだ。結菜が苦笑した。「樹が生まれたと知らせなかったから。知らなければ、調べようもないでしょ」「でも、図書館で偶然再会しなければ、ずっとすれ違ったままだったってこと?」「そういえば、そうね」「その場合、私は生まれなかったってこと!?」 柚葉が愕然としている。智輝が深いため息をついた。「そう思うとぞっとするな。あの時、もう一度結菜に出会えて本当に良かったよ」「ええ。私も心からそう思うわ」 結菜と智輝は微笑みを交わす。深い信頼と愛情で結ばれた眼差しに、柚葉が叫んだ。「出た、ラブラブ夫婦! すれ違っていたなんて、信じられないよね」 明るい笑い声が弾ける。  辛い過去はもう遠い記憶の向こう。 大きくなった子供たちと、変わらず愛する智輝に囲まれて、結菜は幸福な笑みを浮かべた。 ※これにて番外編も終了です。最後までありがとうございました。※といい

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   138:遠い過去の記憶

     月日は流れて、樹は18歳になっていた。 今の彼は、東京の桐生邸で暮らしながら大学に通っている。 母親の結菜と6歳年下の妹・柚葉も一緒だ。 結菜は柚葉の誕生を機に海辺の町から東京へ引っ越して、智輝たちと共に生活していた。 そんなある日のこと。樹は柚葉と一緒に、紅茶とお菓子を食べていた。 エドワードは10年ほど前に亡くなっているが、本場イギリスの紅茶を飲む習慣は今でも残っている。 樹はエドワードが好きだった。イギリスの昔話を聞いたり、KIRYUホールディングスの創業当時の話もよく聞いた。 愛情深く懐深い曽祖父が亡くなった時、樹は小学生。初めて触れる大事な人の死に、何日も泣き続けたものだ。 だから樹は曽祖父の影響で、コーヒーよりも紅茶が好きだった。きっと今後も変わらないだろう。「柚葉。お前は覚えていないだろうけど、俺、変な記憶があるんだよ」 何となく言い始めた兄に、妹は怪訝そうな視線を向ける。「変なって、どんな?」「うんと小さい頃、海辺の町で暮らしていた記憶。ほら、父さんと母さんのプロジェクトの図書館。あそこの町だよ」 図書館のプロジェクトが成功を収めたのは、もうずいぶん前のこと。 今でもあの図書館は、地域再生とITインフラ整備の成功例として賑わいを見せている。 樹と柚葉も両親に連れられて、何度も訪れていた。「ママはあの町で司書をしていたんだっけ? じゃあ、住んでいても不思議じゃないんじゃない?」「そうだけど。そこからして変じゃないか? 父さんはKIRYUホールディングスのCEOだぞ。どうして妻の母さんが、小さい図書館で働く必要があるんだ」 今の結菜は図書館を退職して、別の仕事をしている。KIRYUホールディングスが立ち上げた、児童書の読み聞かせの活動をする財団のトップに就任し、彼女本人も全国で読み聞かせの活動をしている。「それに俺がうんと小さい頃は、母さんはシングルマザーだった気がする。父さんは一緒に住んでいなかった」「まさかー! あのラブラブ夫婦が離れて暮らすとか、ありえないで

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   137

    「……そう。それは……おめでとうございます、結菜さん。くれぐれも、無理はなさらないように」 その声には、以前のような冷たさはない。母として、祖母としての温かな感情が感じられた。  そこへ樹が画面に飛び込んできた。元気いっぱいに宣言する。「おじいちゃん、おばあちゃん! ぼく、お兄ちゃんだよ! 赤ちゃんまもるんだ!」 画面の向こうで、鏡子、雅臣、エドワードが、孫(と曾孫)の言葉に、心からの笑顔を見せている。「しかし結菜さん。働きながら、樹くんの世話をしながら過ごすのは大変だろう。智輝がきちんと力になれるといいが」 雅臣の言葉に、智輝は少し気まずそうにした。彼は仮にも大企業のCEOである。それもこの1年は、結菜と樹との時間を確保するために少し無理をしていた。 仕事はかなり押しており、これからはあまり時間の余裕がなくなってしまうかもしれない。「では、こうしましょう」 真顔に戻った鏡子が言う。「わたくしが泊まり込みで手伝いに行きます。本当はこの家で過ごしてほしいけれど、住み慣れた町の方が良いでしょう?」「えっ」「えっ」 予想外の展開に、鏡子と樹以外の全員が固まった。 鏡子は周囲の様子に眉をひそめ、次いで思い当たったように頷いた。「そういえば、世間では姑は嫁に嫌われるものでしたね。わたくしは家事が得意ではありませんが、一流の家政婦を連れていきます。泊まる場所も結菜さんの家ではなく、きちんとホテルを取ります。それならば構わないでしょう」「いえいえ! お義母さまもお忙しいのに!」 結菜が慌てて言うが、鏡子は首を振った。「暇ではありませんが、あなたたちのためです。そのくらいはどうということはありません」「お義母さま……」 結菜は心が温まるのを感じた。とはいえ、本当に甘えてしまうのは難しい。 結菜は一つ思いついて言った。「あの、それでは、臨月と産後を桐生のお家で過ごさ

  • 氷のCEOは、愛の在処をもう知らない   136

    「やったー!」 樹は、ぴょんっと飛び上がって歓声を上げた。「ぼく、お兄ちゃんになるの!?」 興奮した様子で智輝と結菜の周りをぐるぐる回りながら、矢継ぎ早に質問を始める。「ねぇ、いつお腹から出てくるの? あした? あさって? おとこのこ? おんなのこ? いっしょにきょうりゅうごっこできる?」 そして、思いついた! というように、小さな手をポンと叩いた。「パパ、ママ、あのね! ぼく、お兄ちゃんだから、きょうりゅうのおもちゃ、ぜんぶかしてあげるんだ! それからね、えほんもよんであげる! ママみたいにじょうずに!」 すっかりお兄ちゃん気取りの息子の様子に、智輝と結菜は顔を見合わせ、たまらず吹き出した。智輝は、そんな樹をひょいと抱き上げる。「はは、そうか。頼もしいお兄ちゃんだな。でも、赤ちゃんが出てくるのは、まだもう少し先だよ。それまで、ママのお腹を優しく撫でてあげてくれるか?」「うん!」 樹は元気よく頷くと、智輝の腕の中から身を乗り出し、結菜のお腹をそっと撫でた。「お兄ちゃんだよ。はやく会いたいな!」 その光景を、智輝と結菜は、言葉にならないほどの幸せな気持ちで見つめていた。◇ その週末、智輝と結菜、樹は、リビングのソファに3人で並んで座り、桐生本邸へとビデオ通話をつないだ。画面には、本邸の応接室にいる鏡子、雅臣、エドワードの3人の姿が映し出されている。「やあ、智輝、結菜さん、樹くん。元気そうで何よりだ」 雅臣が、いつものように穏やかな笑顔で手を振る。エドワードは優しく微笑み、鏡子もぎこちないながらも笑みを見せている。 智輝は隣に座る結菜の手をそっと握る。少し照れたように、誇らしげに切り出した。「父さん、母さん、お祖父さん。今日は、報告があって……」 彼は一度息を吸い込んでから告げた。「結菜が……俺たちの2人目の子供を授かったんだ」 その言葉に、画面の向こうの

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