LOGIN「夕食の準備が整いました」そう言われてきたダイニングには誰もいなかった。「楓様はお風呂で汚れを落としてから来られます。奥様はお客様をお見送りしてからになりますので、少々お時間をいただくかと」「そうか」楓の顔に付着していた絵の具を思い出して冬弥は納得する。あれは着替えだけでは済まない。風呂に放り込まなければ、全力で遊んだ汚れは落ちないだろう。席について室内を見る。広々とした空間。磨き上げられた床。柔らかな照明。そして目の前に鎮座する大きなダイニングテーブル。十人以上が座れる特注品で、来客の多い神崎家には必要な家具だ。合理的に考えれば何も問題はないが、今この瞬間だけは違った。誰も座っていない長い机がやけに空虚に見える。「……テーブルを買い替えるか」言葉にした瞬間、自分で苦笑した。昔も同じことを考えたことがあったからだ。あれは結婚する前日、あやめを連れてきた最初の夕食の席。向かい合わせに座る二人の間にはこの大きなテーブルがあった。◇◇◇ 過去回想 ◇◇◇「私は、この距離感に苦痛を感じます」食事をしている最中、突然そう言われた。冬弥は視線を上げる。そしてテーブルを見た。「テーブルを、もう少し小さいものにするか?」当然の提案だった。距離が問題なら距離を縮めればいい。単純な話だが、あやめは驚いた顔をした。どこか呆れたような、まるで冬弥が何か根本的な勘違いをしているような。数秒後、その表情は諦めたようなものへ変わる。肩から力が抜けたのが見ていて分かった。「冬弥さん、とお呼びしてもよろしいですか?」その言葉に、冬弥は少しだけ目を見開いた。名前を久しく呼ばれていなかった。組では若だし、神崎様や社長が一
屋敷へ戻ると早苗が冬弥を出迎えた。「お帰りなさいませ」「ああ」上着を脱ぎながら冬弥は廊下の奥を見た。普段なら帰宅の気配を聞きつけたあやめが顔を出すことも多いが、今日は姿も気配もない。「あやめは?」「奥様はまだ来客対応中でございます」「まだ女子会中か」「大変盛り上がっておられます」冬弥は小さく息を吐く。龍神会にとって宝であるあやめがいるこの屋敷は、保安上の関係で来ることができる者を限っている。そしてその限られた者たちの中に冬弥の愛人たちがいる。あやめを屋敷の奥に置いておくため、公の場で冬弥の隣に立つのはその愛人たち。だが冬弥の愛人というのはあくまでも名目、実際はあやめが冬弥に貸し与えている彼女の手足である。だからこそ夫の愛人たちとの女子会で盛り上がれる。名目とはいえ【愛人】なので冬弥としては少々複雑であるが、悪いことではないと思っている。むしろ歓迎すべきことだとも思っている。神崎家へ嫁いだ女性たちが最初に失うものの一つが友人関係だからだ。「楓は?」「雪兎と一緒に遊んでいらっしゃいます」「そうか」ならば先に息子たちの顔を見ることにしよう。そう決めて、冬弥は廊下を歩き始めた。屋敷の奥へ向かうにつれ、静かな空気が少しずつ変わっていく。やがて聞こえてきたのは子どもたちの声。「待てー!」「やだー!」楽し気な笑い声。ドタドタと走り回る足音。何かが転がる音。それら音を聞いた瞬間、冬弥は自然と足を緩めた。向かっているのは子ども部屋、正確には遊戯室だが、屋敷の最奥にあるこの大部屋はかつては冬弥の母親の部屋だった。冬弥にとっては長いあいだ決して近づきたい場所ではなかった。子どもの頃の記憶が今も残っている。閉ざされた扉。中から聞こえる女の笑い声と男の囁く声。冬弥は母親に育てられたという経験はない。冬弥の記憶にある限り、母親は常に愛人を部屋に連れ込み、昼も夜も享楽に耽っていた。幼い冬弥はその部屋の前に立ち、扉の向こうにいる母親を待ったことがある。「ちょっと待っていなさい」と言われたから。だが結局は呼ばれることはなかった。母親は男の名前を呼ぶばかりで、冬弥を呼ぶことはなかった。だから冬弥にとって、母親と紐づくこの部屋は軽蔑の象徴だった。(だが――)冬弥は静かに苦笑する。人間というのは勝手なものだ。以前
そんなことを話しながら駐車場に出て、冬弥は車が変わっていることに気づいた。足を止めて警戒の視線を向けると運転席から鷹見が出てくる。「あやめはどうした?」「今日は女子会だから早苗に交代しろと、若の迎えにいくようにと屋敷を追い出されました」「札束ではち切れそうな財布では危険だからな」冬弥は肩を竦めて応えてみせたが、鷹見が乗ってくることはなかった。再び緊張が走る。「いつもの帰り道に『障り』があるそうです」「……どこの者だ?」「大迫が若にメッセージを送ると」「……メッセージ?」遠回りなやり方に冬弥は眉間にしわを寄せつつもスマートフォンを確認する。「……至れり尽くせりだな」届いたメッセージ添付されていたのは【安全な帰宅ルート】。今だけが安全なだけでなく、今後の安全も考慮して『鉄砲玉』である実行犯を捕らえる方法から、主犯を追い詰める手はずまで懇切丁寧に書かれている。「大迫に連絡して愛人たちに礼を届けるように言っておけ」「樹、組員にこの資料を送れ。鉄砲玉は捕らえて……西にいる主犯については赤羽組に任せる」了承したように鷹見は頭を下げると、冬弥が乗るために車の扉を開けた。「……鷹見に扉を開けられるのは随分と久しぶりだな」「若が結婚された日から、私は姐さんの専属でしたからね」そうだったと思いながら車へ乗り込もうとして、冬弥はふっと笑いを漏らした。「……若?」怪訝そうに樹が見る。「あのときは、ただの箱入りのお嬢さんだと思ったんだけどな」◇◇◇【過去回想】議員会館を歩きながら、冬弥は自分の手を見ていた。先ほど婚姻届に記入をしたものの結婚した実感は何もなく、何かの変化を求めるように冬弥は手を握ったり開いたりしてみた。(俺でこうなのだから、この女は……)父親の仕事部屋に呼び出されて、結婚相手として初対面の男を紹介される。そして婚姻届を書けと迫られ、提出は明日すると聞かされた上に、今夜から嫁ぎ先で暮らせと言えヲ追い出される。(まともな女なら泣き叫んでもおかしくない状況だよな)だが、あやめは泣かなかった。女の涙など面倒でしかない冬弥にとってはいいことだが、冬弥の半歩後ろを遅れることなくついてくるあやめは静か過ぎた。ヒールをはいた足音すら静かだった。(よくグレなかったな、この女)そんな感想が冬弥の脳裏に浮かぶ。龍神会には神
『ご利用ありがとうございました』無機質な音声がATMコーナーに響いた。開いた機械の口から札束を取り出し、新札特有の張り付くような感触がに冬弥は露骨に眉を寄せた。それを無理やり飲み込むように札束を無造作に財布へ押し込みながら冬弥は深くため息を吐いた。手の中の財布が分厚い。「なぜこの時代に財布を現金で膨らませなきゃならない」「地味に嫌なところが姐さんらしいですよね」隣で樹が苦笑する。樹も普段なら胸元の内ポケットに収まるほど薄い財布を手に持っている。こちらも札束を無理やり押し込んだせいか、財布の形は悲しいほど崩れてしまっている。「ガキの頃に使っていた財布を持ってくるべきだったか」「最近の財布はどれも薄型ですからね」あやめによる冬弥たちへの制裁はクレジットカードの停止だった。普段はカード決済で済ませている冬弥たちにとって現金生活は不便極まりない。「思ったんですが、これって俺たちが狙われる確率を上げますよね」カツアゲしてくれと言っているようなものだと、樹が膨らんだ財布をひらひら揺らしながら言う。「それも含めてお仕置きなのだろう」「達観してますね」「結婚してから、かなり経ったからな」冬弥は指を折りかけ、途中でやめた。月日で言えばそこまで長くないが、その一日一日の密度がとても濃いため『時間』の定義が本気で分からなくなっていた。「失礼ですが、こんなに姐さんと続くとは思いませんでしたよ」樹の言葉に冬弥は怪訝そうに首を傾げた。「離婚する気はなかったが?」「離婚はなくても……別れ方は、あるじゃないですか」樹の言葉を冬弥は否定しなかった。神崎家の結婚は昔からそういうものだった。神崎家の跡取りは“組に必要な女”を娶るため、夫婦間の何かは必要としない。必要なのは組のための価値。血筋、家柄、政治的価値。求める価値は時代によって違うが、いつの時代も組の戦略に不可欠な女を選んできた。そして選ばれた女たちの多くは神崎家の奥で静かに死んでいった。外敵から守るために屋敷の奥に閉じ込められ、閉ざされた世界で外に出れば死ぬのだと聞かされて過ごす。死と隣合わせの息苦しい空気を吸って生きる上に、組長の妻というトップの立場は常に孤独。唯一妻の孤独を癒せる夫は「組に必要だから」と外で愛人を堂々と侍らせる。愛人は妻を守るための盾、そう言われてし
【現在】「とーしゃまは、かーしゃまと、けっこんしてない?」楓がとんでもないことを言い出した瞬間、冬弥は思わず目を見開いた。「それは違――」即座に訂正しようとしたが、一歩遅かった。 楓はぱあっと顔を明るくし、期待に満ちた瞳で続ける。「じゃあ、ぼく、かーしゃまとけっこんしゅりゅ」「……なんだって?」あまりにも堂々とした宣言に、冬弥は一瞬本気で聞き返してしまった。一方で、楓は小さな指を立てながら、得意げに理論を展開する。「けっこんしてるひと、けっこんだめ。でも、かーしゃまは、けっこんしてない」「ちょっと待て、楓。俺とあやめは結婚している」冬弥の言葉に楓は膨れる。「してない」「している」「ちてない!」癇癪寸前の言葉足らずな口調で即答され、冬弥は額を押さえた。 どうやら楓の中では、「父親が母親の父に正式な挨拶をして許可を得る」という一連の流れこそが“結婚”らしい。確かに方向性としては間違っていない。問題は、それを基準にすると冬弥が完全に未婚扱いされてしまうことだった。 楓は父親に結婚の許可をもらわなければ結婚できないと思っている。そして、その“父親への挨拶”を冬弥があやめの父――柊謙一にしていないことを話した数分前の自分を冬弥は深く責めた。(……いや、俺たちは政略結婚だったし、最初から許可は下りていたようなものだからな。しかし、これをどう説明する?)「ううむ……」珍しく真剣に悩み始めた冬弥を、楓はじっと見上げる。 そして、ぽつりと言った。「とーしゃま、もーそーなの?」「……妄想なんて言葉をどこで覚えた」幼い顔で小首を傾げる仕草は愛らしい。だが発言内容は全く可愛くない。 冬弥が半眼になると、楓は悪びれもせず答えた。「わかいしゅー」「あいつらか……」龍神会の若い衆は、跡目である楓をそれはそれは可愛がっている。抱き上げ、肩車し、菓子を与え、何かあれば「わかわか」と呼んで大騒ぎする。これはいい。問題は、男所帯ゆえに会話の品が時々壊滅的なことだった。あやめの前では、彼女の纏う圧と威厳に押されて多少は大人しくなる。しかし楓たち相手だと、「まだ小さいから分からないだろう」という油断が出るのだ。あとで知ったことだが、楓のこの『妄想』発言も、若い衆の一人が推しているアニメキャラクターを指して「俺の嫁」と熱弁していたことが始まりだった。それに対
冬弥は自分を見たあやめの目に、落ち着かなくなった。普段の冬弥なら、特に何も思わない。極道の世界で育った自分が『普通ではないこと』は承知していたし、その『普通ではない』ゆえに態度に出てしまう粗野な威圧感に周りにはいつも委縮されることは当然とも思っていた。あやめも同じ反応すれば、それまでだっただろう。あやめは違った。恐怖より先に分析が来ていた。その姿に、柊謙一が手元に置きたがる理由は「駒だから」ではないことが分かった。柊あやめは『優秀な駒』だった。同時に、冬弥は気づいてしまった。この女は、ここに呼ばれた理由をまだ知らない。いや、知りたくないと思っていた。薄っすらと気づいて緊張しているくせに、“仕事の呼び出し”だと思おうとしていた。冬弥の胸の奥が少しだけ重くなった気がした。彼女の期待を裏切る存在が自分だと感じていた。「紹介しよう」それと同時に向けられたあやめの目は、深い色の瞳をしていた。理性的で、静かな目。だが、その奥にあるものは脆い。無理に硬く固めた硝子のようだと冬弥は感じた。「神崎冬弥君だ」それに気づいているのか、いないのか。柊謙一は紹介を続ける。「龍神会の若き組長、と言ったほうが分かりやすいな」その瞬間だった。あやめの呼吸が変わった。わずかに肩が強張る。けれど、崩れない。すぐに立て直した。強い女だ、と冬弥は思った。だが、同時に痛々しいとも感じた。自分が今から何を告げられるか、理解したのだろう。それでも、逃げない。いや、逃げられないことを知っている顔だった。あやめは静かに頭を下げた。「柊あやめ、です」無駄のない名乗り。まるで面接のようだった。「さくらの妹だ」柊謙一の言葉に、冬弥はわずかに眉を動かした。その紹介を聞いた瞬間だけ、あやめの笑顔が崩れかけたからだ。ほんの一瞬。だが、確かに傷ついた顔だった。(……そういうことか)姉と比較され続けてきたのだろう。先日冬弥が参加したパーティーに柊さくらも参加していた。それを知っていたからゆえに、柊謙一の言葉だろう。でもそれは、事情が分かっていれば分かる表現。(何も知らなければ、姉の付属品のような紹介だ)付属品の扱いを受けてきたことは、あやめの態度ですぐに察した。そして、父親からの愛情を知らないことも。だから、あやめは「役に立つこと」でしか自分の価値を保てないようだった。逆に言えば







