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第4話

Author: 月影
凌央は唇を軽く引き結び、深い黒い瞳で紗希を見つめた。

「彼女、本当に事故に遭ったのか?」

ふと、昨日の夜に乃亜からかかってきた電話を思い出した。

もしそれが本当だったら......

ちょうどその時、病室の扉が開き、冷ややかな雰囲気をまとった乃亜が中に入ってきた。

美咲は彼女の姿を見ると、ほんの一瞬、冷たい光を目に浮かべたが、すぐに柔らかな表情に切り替え、慌てた様子で声をかけた。

「乃亜さん、事故に遭ったって聞いたけど、大丈夫なの?どこか怪我してない?ひどくない?」

まるで本当に心配しているかのような口調だった。

凌央の視線が鋭くなった。

どうやら彼女と紗希が組んで、自分を騙そうとしているらしい。

乃亜は一歩前に進み、紗希を背中に隠すようにして立つと、静かな声で言った。

「ここは私に任せて。先に帰って」

紗希は慌てて反論するように言った。

「本当に何もしてない!彼女が自分で自分を叩いただけなの!」

しかし乃亜はそれを遮るように、「分かってるから、先に帰って」と冷静に答えた。

凌央が何を考えているのかまだ掴めない以上、ここに紗希がいるのは危険だった。

紗希は唇を噛みしめ、涙を浮かべながらも病室を出て行った。

祐史も凌央を一瞥してから病室を後にした。

病室にはすぐに3人だけが残された。

乃亜はベッドのそばに歩み寄り、美咲を見下ろすと、冷たい声で言った。

「叩かれたって聞いたけど、怪我はどれくらいひどいの?ちゃんと診断は受けた?」

美咲の顔にはうっすらと指の跡が残っていたが、診断書を取るほどではなかった。

美咲は唇を噛みしめ、困ったような表情を浮かべながら、弱々しい声で答えた。

「見えないところを叩かれたから、診断なんてできないの。乃亜が信じてくれないなら、それでいいわ......」

「お前、バカなのか?叩かれたなら叩かれたって言え!万が一、何かあったらどうするんだ!」凌央は声を荒げて美咲を叱った。

美咲の目に涙が浮かび、すぐにぽろぽろとこぼれそうになった。

「だって、私のことであなたと乃亜が喧嘩するのが嫌だったの。それに、特に体に異常がなかったから言わなかっただけよ」

凌央の顔がさらに険しくなった。

「自分のこともちゃんと把握できないくせに、人のことに口を挟むな。お前、本当にどうかしてる」

言葉は冷たかったが、どこか親しげなニュアンスがあった。

乃亜はその場に立ち尽くしたままだった。

本来なら自分が彼と最も近い存在であるはずなのに、この瞬間、自分がただの傍観者でしかないように感じられた。

まるで、彼女がかつて久遠家で感じた疎外感と同じだった。

胸の奥が少しだけ痛んだ。

美咲は凌央を軽く睨むと、ふてくされたように言った。

「あなたと乃亜の仲が悪いから、私だって気分が悪くなるのよ!あなたが機嫌悪そうにしてたら、こっちだって気分悪くなる!だから私が気にするのは当然でしょ?」

「相変わらず屁理屈ばっかりだな」凌央は不機嫌そうに顔をしかめ、「俺のことはもう放っておけ」と低い声で言い放った。

「誰が放っておくもんですか!」美咲はぷいっと顔を背け、そっぽを向いた。

凌央は彼女を一瞥すると、「医者を呼んで診てもらえ」と言い、呼び出しボタンを押した。

乃亜は心の中で深呼吸し、胸に押し寄せる痛みを必死で押し殺した。

彼女は今年の初め、重い病気を患い、半月も入院していたが、その間、凌央が一度も見舞いに来ることはなかった。

その時は彼が仕事で忙しいからだと、自分に言い聞かせていた。

しかし、今目の前にあるこの光景を見て、もはや自分を騙すことなどできなかった。

凌央に時間がなかったわけではない。ただ、相手が美咲でなければ、彼は気にも留めないだけだったのだ。

医者が美咲の診察を始めた頃、凌央は乃亜の手を掴み、病室の外へと連れ出した。

美咲は彼らの背中を見つめながら、布団の下で拳を固く握りしめていた。

病室の外に出たところで、乃亜は凌央の手を振り払い、正面から彼を睨むように立ち、「凌央、話がある」と言った。

「いいだろう。じゃあ、まずは昨日の夜のトレンド報道についてだ」凌央の視線には冷たい光しか宿っていなかった。

3年前に乃亜と結婚したのは仕方なくのことだった。

3年間同じベッドで眠ったとしても、彼女に対して何の感情も芽生えなかった。

乃亜が嫉妬するのは構わない。だが、嫉妬心から美咲を中傷するためにトレンド報道を仕掛けるなど、絶対に許せなかった。

乃亜は美しい眉をきつく寄せ、冷たい声で言い放った。

「何度も言ったよね。あのトレンド報道は私じゃない!やってもいないことを認めるなんて、絶対にできない!」

トレンド報道はすでに抑え込まれ、今ではネットで関連キーワードを検索しても何も出てこない。

それなのに、凌央はまだその話を蒸し返している。

いくらなんでも理不尽じゃないだろうか。

「俺が決めたことは絶対に変えない。お前に半日やる。今日の仕事が終わるまでに、答えを出せ」

凌央の口調は冷たく断固としていた。同時に、その言葉には「お前が従わなかったとしても、結果は同じだ」という無言の圧力が込められていた。

乃亜は彼の冷たい視線を見つめ返しながら、体中が冷え切るような感覚を覚えた。

「証拠もないのに、私に罪を着せるなんて、さすがにひどすぎない?」

一言一言、乃亜は冷たく言い放ち、その表情は鋭く凍りついていた。

凌央は、なんて冷酷な人なんだろう――そう思わずにはいられなかった。

「美咲はつい最近賞を取ったばかりだ。どんな悪いニュースでも彼女にとっては致命的だ。この件はもう決まった」

乃亜は突然笑みを浮かべた。

「美咲を守るために、私を犠牲にするのね。凌央、あなたは私がどうなるか考えたことはある?」

彼がそんなことを考えたことなど、一度もないに違いない。

そうでなければ、こんなことを口にするはずがない。

凌央は唇をきつく引き結び、「毎月200万円の小遣いを渡してるのに、それでも足りないのか?それなのに外で働きたがる理由は何だ。この機会に仕事を辞めて、家で俺の世話をしてくれ」

その言葉に、乃亜の顔が少し青ざめた。しかし、すぐにしっかりとした声で言い返した。

「あなたがくれる200万円は、全て家の出費に使っている。私自身はあなたのお金を使ったことなんてない。それに、私は今の仕事が好きで、辞めるつもりなんて全くない。もし、私の仕事のせいであなたの世話が足りないと感じるなら、家政婦をもっと雇えばいいだけ」

凌央が毎月渡してくる200万円。それがあるのは確かだ。だが、家の維持費は高額で、その額では到底足りない。

さらに、彼女の給料の大半は祖母の入院費に消えている。

もし仕事を辞めてしまえば、月200万円の家計費では祖母の治療費すら支払えなくなる。

そんな状況で、どうして仕事を辞めるなんて選択肢があるだろうか。

凌央は彼女を壁際に追い詰め、顔を近づけながら冷たく言い放った。

「俺が結婚したのは、全力で俺の世話をしてもらうためだ。家政婦に任せるくらいなら、お前を嫁に迎えたりしない。小遣いが足りないなら、今月もう200万円渡してやる」

その言葉は、乃亜にとって、まるで施しのように聞こえた。

彼女の心には、言いようのない悲しみが広がった。

結婚して3年。凌央は一度たりとも彼女を妻として見てくれたことがなかったのではないだろうか。

彼女はこの家の一員ではなく、ただの付属品。

彼にとって、単なるストレス発散の相手でしかないのだろう。

「仕事を辞めたら、暇な時間に他の奥様たちとお茶でもして、仲良くなればいい。それで今後の付き合いも楽になるだろう」

凌央の中では、上流階級の奥様たちは皆そんな風に時間を過ごしているというイメージがあった。

だから乃亜もその輪に加わるべきだと、彼は考えているのだろう。

乃亜は深く息を吸い込み、ゆっくりとした声で問いかけた。

「どうして美咲には、蓮見家の兄嫁として家でじっとしていろと言わないの?」

美咲は凌央の兄と結婚している。それでも彼女は外で活動を続け、いろいろな大会に出場している。

目立つのがいけないなら、美咲の方がその典型ではないのか。

「お前と美咲は違う」

凌央は彼女をじっと見つめ、冷たく言葉を続けた。

「美咲には彼女だけの舞台がある。彼女はステージで輝ける人間だ。でも、お前の仕事なんてただの仕事だ。やってもやらなくても、何も変わらない。だから、お前は蓮見家の妻としての役割に専念するべきだ」

彼は乃亜の顎を掴み、少し持ち上げると、彼女の瞳をまっすぐに見据えた。

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    乃亜は立ち上がり、決意を込めて遠くを見つめた。まるでこれから歩む新たな道をすでに見ているかのようだった。 祖父は黙ってその背中を見送った。心の中には、別れの寂しさとともに、孫娘の未来への無限の期待が込められていた。夜が深まり、蓮見家の庭は静けさを取り戻した。しかし、この夜の決断は、静かな湖面に投げ込まれた石のように波紋を広げ、乃亜の新しい人生が始まることを予感させた。乃亜は御臨湾に戻ると、小林がすぐに駆け寄った。「奥様、何か食べたいものはありますか?すぐに作りますよ!」 乃亜は微笑んで首を振った。「ありがとう。でもお腹は空いてないわ。まだ食べたくないの」 「わかりました。食べたくなったら、教えてくださいね」小林はそう言って、温かく見守った。 「うん、私は先に上がるわ」乃亜はそう言って、階段を上がった。小林はその背中を見送ると、深いため息をついた。 奥様、どんどん痩せていく......顔が小さくなったわ。本当に心配だ。 小林はそのことがとても気がかりだった。乃亜は部屋に入ると、すぐに荷物をまとめ始めた。 ここでの生活は3年。持っているものは全部、スーツケース一つに収まる。 スーツケースを引きずりながら、部屋を振り返った。 「これが最後」心の中で呟き、家を後にした。下に降りると、小林が彼女の荷物を見て驚いた。「奥様、どこに行くんですか?」 乃亜は微笑んで答えた。「引っ越すの」 「え?どうして急に......」小林は目を赤くして、手を伸ばして乃亜を引き止めた。「行かないでください!」 乃亜は小林の手を振り払うと、しっかりとスーツケースを握りしめ、一歩一歩外に向かって歩き始めた。 その足取りは、まるで何か重いものを背負っているようだった。スーツケースの車輪が床に擦れる音が、彼女の決意を静かに響かせる。その時、凌央が突然現れた。 凌央は急いで錦城から帰ってきたばかりで、まだ疲れが顔に残っていた。しかし、乃亜が持っているスーツケースを見た瞬間、彼の目は驚きと焦りで輝いた。 「乃亜、お前......」彼の声は少し震えていたが、乃亜の表情から何かを読み取ろうとして、彼女の決然とした顔を見つめるだけだった。乃亜は足を止めたが、振

  • 永遠の毒薬   第276話

    美咲は裕之の胸に顔をうずめ、その鼓動を感じていた。この瞬間、彼女の心は少しだけ温かくなった。 無意識に目頭が熱くなった。 もし凌央を好きになっていなければ、裕之の言葉を聞いた時、すぐにでも彼に答えていたはずだ。 でも、彼女にはそれができなかった。美咲の沈黙に、裕之の心は痛んだ。 彼は最初から分かっていた。でも、少しだけ希望を抱いていた。 もしかしたら、彼女が急に気持ちを変えて、俺と一緒になってくれるかもしれない。 でも、それはただの思い過ごしだった。「裕之お兄さん.....私......」美咲は裕之が苦しそうにしているのを感じ、言葉がうまく出なかった。 「言わなくていい。分かってるよ」裕之はため息をついて、優しく言った。「美咲さん、無理しなくていい。自分の心に従えばいいんだよ」 結果が分かってしまった以上、彼もそれを受け入れるしかない。「でも、これからはあまり会えなくなるかもしれない」 結婚して家庭を持ったら、当然、家族を大切にしなければならないから。「裕之お兄さん、もう私を無視するの?」美咲は小さく尋ねた。 「美咲さん、ごめん。もう、期待しないようにしたいんだ」 安藤家が最近忙しく、裕之は美咲を慰める余裕がなかった。 美咲は唇を噛んで涙を堪えながら言った。「分かった」 美咲は心の中で、もう二度と裕之のような人には出会えないと感じていた。裕之が去った後、凌央がすぐに来た。 美咲が泣き腫らした目をしているのを見て、凌央はまた無駄に悩んでいるのだと思った。 「言っただろ?お前は流産したばかりなんだから、もう泣くな!目が腫れるぞ」凌央は少し苛立ちながらも、彼女を慰めようとした。美咲は裕之の優しさを思い出し、ますます泣き声を上げた。夜が深くなる頃、蓮見家の旧宅。 乃亜はシンプルなドレスを身にまとい、静かに歩きながら祖父の前に膝をついた。 彼女の目には複雑な感情がこもっていた。罪悪感、決意、そして少しの解放感。「おじい様」乃亜の声は低く、はっきりとした響きがあった。その一言一言が、心に重く響くようだった。「ごめんなさい。この言葉では、私があなたの期待を裏切ったことを補うことはできません。おじい様は私を孫娘のよ

  • 永遠の毒薬   第275話

    帰ってきてから自分で気づかせるか...... 山本はそう考え、しばらく黙っていた。 「山本、言ってくれ!一体何があったんだ?」 凌央の声には、いつになく強い口調が混じっていた。山本はため息をつき、仕方なく話し始めた。 乃亜の祖母が亡くなったという話を聞くと、凌央は驚きの表情を浮かべた。乃亜があの日、美咲に謝れと言っていた時、確か『祖母が亡くなった』って言ってたよな......その時、凌央はどう反応したんだ? 凌央は乃亜が嘘をついていると思い込んでいた。 ここ数日乃亜から連絡が来なかったのは、彼女が自分を避けているからだと考えていた。美咲に謝るのを拒んでいるのだと。 でも、乃亜の本当の理由は、彼女の祖母が亡くなったからだった。こんな大きな出来事があったのに、乃亜は何も言わず、連絡もしてこなかった。 きっと彼女は悲しみに沈んでいて、それを彼に知らせたくなかったのだろう。 凌央は胸が痛んだ。 「蓮見社長......」山本が声をかけるが、凌央はそのまま黙っていた。 「わかった、もういい」 電話を切ると、凌央は窓の外をぼんやりと見つめながら、乃亜が一人で祖母の前で跪いている姿を思い浮かべた。 その姿を想像すると、胸が締め付けられる。 そして、自分という夫が何も知らずに、彼女を一人にしていたことに、申し訳なさが込み上げてきた。さっきの祖父からの電話も、乃亜の祖母が亡くなったことを知らせたかったのだろう。しかし、怒っていたため、電話はすぐに切られてしまった。祖父はきっと、失望しているのだろう。しばらくそのままでいたが、美咲から再度電話がかかってきた。 凌央はその音を聞いてすぐに電話を取る。 「またどうしたんだ?」 淡々とした声で問いかけた。 今の彼の気持ちは、少し沈んでいた。「凌央、怖いの」美咲の声には、少しだけ本気と冗談が混じっていた。 「わかった、今すぐ行くよ!」凌央は即答した。「凌央、私、仕事の邪魔してない?」美咲は心配そうに尋ねた。 「いや、そんなことない。すぐ行く」凌央はそう言うと、電話を切って支度を始めた。その頃、美咲の病室では、裕之がベッドの横に座って、美咲にバナナを剥いてあげていた。

  • 永遠の毒薬   第274話

    凌央は少し考えた後、再びその番号に電話をかけた。 だが、次の瞬間マイクからブザー音が鳴り響いた。 凌央は眉をひそめ、もう一度かけ直す。 それでも、またブザー音が鳴った。凌央はふと笑みを浮かべた。 乃亜は、本当にいつもやるな。 間違っているのに、あんなに堂々としているなんて。 乃亜が自分の番号をブロックしたのなら、もう構わない。 帰ったらきっちりと文句を言ってやろう。その時、突然携帯が鳴った。 凌央は画面を見ると、祖父の番号だ。思わず唇を噛んだ。 またあの女が祖父に告げ口したのか? 祖父は怒って、自分を叱るつもりなのだろうか。前回、鞭で叩かれてから、最近忙しくて傷の手入れをしていなかった。傷が化膿していて、ここ数日はとても痛い。 少し後、凌央が電話を取る。「おじい様、どうしました?」 「凌央、ここ数日、どこに行っていたんだ?どうして電話がずっと通じなかったんだ?」 祖父は怒鳴るように言った。その怒りが電話越しに伝わってくる。「この数日間、錦城で出張していました。電話はずっとオンにしていたはずです」 凌央は疑うことなく答えた。 確かに携帯はずっとオンにしていた。「それなら、もうずっと向こうにでもいろ!二度と帰ってくるな!」 祖父は激しく叫び、電話をガチャッと切った。たかが出張で電話が通じないなんて、何か裏があるのでは? 凌央はその意味がわからなかった。 自分ほど賢い人間が、どうしてこんなことに気づかないのか。その後、美咲から電話がかかってきた。 電話を取ると、温かい声が響いた。「どうしたの?」 「凌央、今どこにいるの?病室に一人でいて、すごく怖いのよ。来て、私を一緒にいてくれる?」 美咲の声はかすかに震えていて、本当に怖がっているのが伝わってきた。「わかった、すぐに行くよ」 凌央は一切拒否せずに答えた。美咲は流産して手術を受けた後、非常に動揺していており自殺しようとしたこともあった。 医師は彼女が強いショックを受けたことを分析し、元の病室にいると危険だと言った。 だから、美咲を別の病院に転院させることになった。 ちょうどそのタイミングで錦城で急な仕事があったので、凌央は美咲を一緒

  • 永遠の毒薬   第273話

    「じゃあ、あなたの言う通りにするよ」 直人は母親に逆らいたくなかった。母親が言うことは、すべて渡辺家のためを思ってのことだからだ。 母親が言った通り、渡辺家の栄光を享受する以上、自分の幸せを犠牲にしなければならない。 自分たちは生まれる場所を選べないから、それは仕方のないことだ。「まずは桜坂さんに連絡して、また決まったら電話をくれ。今夜の食事会はキャンセルしておく」 「わかったわ!」 直人は電話を切り、タバコに火をつけた。 煙が立ち上る中、あの女の魅力的な顔が浮かんだ。 タバコを吸い終わると、その顔も消えていった。 軽く笑いながら助手に舞衣の番号を調べさせ、電話をかけた。すぐに、電話の向こうから傲慢な声が響いた。 「誰?」「あなたのお見合い相手、直人です」 「何か?」 冷たい声が返ってきた。 直人は眉をひそめた。 この態度はなんだ? 俺を見下してるのか?「用がないなら、切るよ。私は忙しいの」 「お見合い相手なんだから、一緒に食事くらいしよう。どこにいる?昼に迎えに行くよ」 直人は淡々とした口調で、感情を一切込めずに言った。「研究所に来て」 彼女はあっさりと答えた。直人は思わず眉を上げた。 さすが豪族の娘、あれほど冷たく命令できるんだな。「用事があるから、もう切るわ」 そう言って、電話を切った。直人は冷笑を浮かべた。 なかなか、いい態度だ。その時、凌央から電話がかかってきた。 直人は急救室にいる乃亜のことを思い出し、少し躊躇したが、電話を取った。「下町の住民は引っ越しに同意したから、今すぐ契約をしに来てくれ」 凌央の声は疲れ切っていて、少し沈んでいる。「明日じゃダメか?」 今日はすでに予定が詰まっている。「無理だ!今夜、桜華市に戻らなきゃいけないんだ!」 凌央は思わず声を荒げた。「それなら、契約だけして、後で追加契約を交わそう」 紗希が夜ご飯を作ってくれるって言ってた。それは逃したくない。「ダメだ!絶対に来い!」 直人は少し考えてから言った。 「じゃあ、誰か一緒に連れて行ってもいいか?」「誰でも好きにしろ。お前が来ればそれでいい」 直人は電話を

  • 永遠の毒薬   第272話

    直人は、紗希の顔が急に赤くなったのを見て、目を細めた。そして、ふと頭にひとつの考えがよぎる。「紗希、お前、何を考えてるんだ?」まさか、この女はここでそういうことをしようと思ってるか? この病院が自分のものであっても、そんなことはしない。 けれどもしここでやったら、まるで隠れて不倫しているような刺激を感じるんだろうな。 そう思うと、確かに忘れられない経験になりそうだ。「今夜、あなたの家に行くべきか、それとも私の家に行くべきか考えてたの」 紗希はすっかり嘘をつくのが得意になっていて、すぐに口から出た。 実際、男は本当のことを言っても、あまり気にしないだろう。 本当のことを言うと、傷つけてしまうことになるから。「お前に家を買ってあげたんだ。仕事が終わったら一緒に見に行こう」 直人は怒っている様子もなく、むしろ穏やかに言った。 「買わないって言っただろ?」紗希は直人の贈り物を欲しがらなかった。 なぜならまるで自分が売られているような気がしたから。「お前の家は狭すぎるだろ。あそこじゃ、思うように動けない」 直人は紗希を引き寄せ、彼女の目をじっと見つめながら言った。 「助手に大きなソファとベッドを取り換えさせたんだ。今夜、そこで試してみよう」 その言葉にからかいを込めながらも、心の中には不思議と少しの期待が湧いていた。紗希の顔は瞬時に真っ赤になった。 この男はまったく、いつもそんなことばかり考えている。「お前、俺に料理作るって言ってたよな?ちょうど、あそこには広いキッチンがあって、コンロも広いんだ......」 その最後の言葉は耳元で囁かれた。 紗希は顔が真っ赤になり、恥ずかしさを感じた。 この男、なんて悪い奴なんだ! 言葉一つでこんなにも恥ずかしく感じる。その時、ちょうど携帯の着信音が鳴った。紗希はその音にほっとし、彼から解放された。 直人は携帯を取り出し、番号を確認してから紗希に言った。 「先に帰ってくれ。ちょっと電話を取るから」紗希は直人のことに興味がなく、早くその場を離れたかった。 彼の言葉通り、すぐに背を向けて歩き出した。紗希が急いで去る姿を見送りながら、直人は少し眉をひそめた。その後、電話を受け取った

  • 永遠の毒薬   第271話

    紗希は深く息をつきながら、拓海に言った。 「ちょっと行ってくるから、ここで乃亜を待ってて」直人はあまり忍耐強くない。長く待たせると、きっと怒るだろう。拓海はただ頷くだけで、何も尋ねなかった。他人のことには関心がない。紗希は一瞬拓海を見つめ、すぐに背を向けて去っていった。彼女と拓海には、もう何の可能性もない。実際に彼女はとっくに諦めていた。通路で、直人は手すりに寄りかかり、煙草をくわえながらぼんやりと煙を吐いていた。紗希はその姿を見つめ、思わず見入ってしまった。正直、彼の顔はとても美しい。その瞬間、直人が彼女の方を見て、少し眉をひそめて言った。「どうして来ないんだ?俺が何をするのが怖いのか?」紗希はすぐに目を逸らし、ゆっくりと歩きながら直人のもとへ向かう。その心の中には不安が渦巻いていた。直人の表情が一瞬で険しくなった。そんなに、一緒にいたくないのだろうか?紗希は直人の前に立つと、少し躊躇いながらも手を伸ばし、彼を抱きしめた。優しく声をかけて説明した。「乃亜が倒れて、拓海と一緒に病院に連れてきたの」直人はその話を聞きながら、蓮見家で見た女性のことを思い出した。乃亜は本当に美しくて気品があり、声も柔らかく魅力的だった。桜華市には、あんなに美しい女性は他にいないだろう。しかしあんなにに美しいのに、凌央は乃亜を愛していなかった。多分、彼のようなタイプの男は、誰かを本当に愛することはないのだろう。「乃亜のおばあちゃんが三日前に亡くなったの。彼女は一人で三日間も見守っていたわ。今日の朝、おばあちゃんを葬った後倒れたの」紗希は直人に誤解されないように説明した。拓海と何かあるのではないかと心配されたくなかったからだ。直人は目を細め、昨日、錦城で凌央と会ったことを思い出した。凌央の様子を見る限り、どうやら乃亜のおばあちゃんが亡くなったことを知らないようだった。凌央と乃亜は夫婦なのに、乃亜のおばあちゃんが亡くなったことを知らないなんて、どういうことだろう?何か勘違いがあるのだろうか?直人は黙っていた。紗希も彼の考えがどう進んでいるのかはわからない。ただ、抱きしめながら静かに待った。「拓海はここ三日間、ずっと一緒にいたのか?」直人が突然質問した。「うん」紗希は答えながら、心の中で不

  • 永遠の毒薬   第270話

    紗希は慌てて手を引っ込め、振り返ると男の陰鬱な瞳と視線が合った。ここ数日彼の電話に出ていなかったことを思い出し、紗希の胸が騒いだ。この男、まさかここで何かするつもりか?拓海がすぐそこにいるのに……直人は紗希の青ざめた顔を見て、怒りが爆発しそうになった。彼を見てそんなに怯えると言うことは、彼女にとって彼はそれほどまでに恐ろしい存在だと言うことなのだろうか?紗希は男から放たれる冷気を感じ、次の瞬間に怒りが爆発するのを恐れ、急いで彼の前に進み出ると、満面の笑みで尋ねた。「どうしてここに?」「ここは渡辺家の病院だ。視察に来たんだ。なにか問題か?」男の声はとげとげしく、明らかに不機嫌だった。紗希は躊躇いながら、恐る恐る彼を引っ張り、小さく言った。「今夜私が手料理を作るから、食べに来ない?」直人が事前に手配していたため、乃亜の妊娠情報は漏れないよう厳重に管理されていた。だからこそ紗希は乃亜をこの病院に連れてきたのだが、まさか直人と遭遇するとは思ってもみなかった。ただただ驚いた。「夜はミシュランのシェフが料理を作ってくれる。お前に調理師免許でもあるのか? 俺に料理を出す資格などないだろう」直人は嘲笑うように言い放った。この数日、彼女は彼からの電話に出ず、メッセージも無視していた。ビデオ通話でさえも無視だった。彼は腹立たしくて仕方なかった。たかが手料理で機嫌を取れると思うなんて、ありえないだろう!「ならいいわ!」紗希は少し気まずそうで、顔色は真っ青だった。彼女はへりくだれば許してくれると思ったのに、こんな酷い言葉を返されるとは。確かに彼女の腕はプロのシェフほどではないが、自分の料理には自信があった。彼にそんな言葉を浴びせられて、彼女は恥ずかしさを覚えた。一方、拓海は直人の出現に一瞬たじろいだ。紗希と直人の関係は、一目で異常だと見て取れた。乃亜は知っているのか? もし彼女が知らないなら、彼は伝えるべきなのか?直人は桜華市でも有名なやり手で、簡単に敵に回していい相手ではない。彼と関わることが果たして幸か不幸かはわからない。直人は紗希の困惑した表情を見て、拓海の前で彼と自分の関係を隠したいのだと誤解した。彼女がそこまで拓海を気にすると考えただけで腹立たしさが込み上げ

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