LOGIN規則では、患者の如何なる情報も第三者に漏らすことは禁じられている。
将生もそれは理解しているが、幸せでいて欲しいと願っていた女性が不幸になる未来しか見えないことに落ち着かない。 優希が妊娠を伝えないよう言っていたのは、サプライズが理由じゃないのかもしれない。 将生はそう思い、背もたれに頭を預ける。 面識のない患者だったら彼も見なかったことにできたが優希はそうではない。学生当時、彼女には言わなかったが、いつか落ち着いたら結婚のことを話そうと思っていた。結局自分たちには縁がなかったとはいえ、放っておくことは出来なかった。 数回深呼吸をすると気持ちも若干落ち着いた。 落ち着いた頭に思い出すのは病室で見た優希の目。 10数年ぶりに見た優希の瞳は変わらず魅力的だと思った。元々綺麗な形は薄いながらも化粧で強調され、白と黒がはっきりした目は光が反射して輝いているようだった。眼鏡越しじゃないその瞳は、彼を高校3年生のあの中庭に引ベッドに戻ると、置いていた携帯の画面が光っており、見ると老夫人と和珠から返事が来ていた。 それにスタンプで返事を返した優希は、隆一のアイコンの横にも通知マークが着いていることに気づく。 受取拒否の郵便物を思い出して震える指でタップすると"良かった。"とだけの返信が目に入った。 拒絶じゃなくて良かったという安堵感と、短い返信に寂しく思う気持ちが混ざり、優希の表情は複雑なものになる。 しかし優希が返信するスタンプを選んでいると、隆一から再びメッセージが来た。 "都合が良ければ、会ってゆっくり話がしたい。" その文に優希は思わず両手で携帯を持ち直す。 何度も読み返して読み間違いじゃないことを確認すると、興奮で震える指で了承の返事を送った。 (赤ちゃんたち、出発前におじいちゃんに挨拶できるよ。) ベッドに横になるとお腹に両手を当て、小さな我が子に話しかける。 遠足前の子供の気分で胸は弾み、優希は嬉しさを噛み締めるように目を閉じた。 何を話そうか、どこから話そうかと考えているうちに優希の思考はぼやけ出し、休息を欲していた体はすぐに動かなくなっていった。 センサーが寝息を感知すると、部屋の電気は自動で暗くなり、空調は睡眠に快適な湿度や温度を作り出していく。 いい夢を見ているのか、眠り姫のように静かに眠る優希の口元には、時折小さな笑みが広がった。 -
熱いシャワーが頭皮を流れる気持ちよさに、優希は肺の中の淀んだ空気を全て吐き出した。 全身を洗い、しばらくシャワーのお湯を満喫した後、優希はようやく浴室から出て着替える。 爽やかなボディソープの匂いが気分を良くしてくれ、スキンケアも普段より丁寧になる。 部屋に戻り、清潔なシーツに交換されたベッドに横になると、優希の全身の力が抜けた。 目覚めてからまだ半日。 ずっと起きて動いていたのだから、体は既に疲れていた。 しかし疲れた体とは裏腹に頭は冴え渡っており、優希は眠気を感じなかった。 優希は体を起こすと、スーツケースに置かれた2つの携帯を手に取ってベッドボードに寄りかかる。 先ほど和珠から渡された新しい携帯の電源を入れ、暗証番号を入力した。 明るくなったホーム画面には、メッセージと通話、アドレス帳のアプリのアイコンがだけ表示されている。 アドレス帳を開くと、老夫人と和珠の他、嬉しいことに隆一と将生の連絡先も登録されていた。 優希は少し迷った後、最初に将生の名前をタップしてメッセージ画面を開く。 和珠は命に別状はないと言っていたが、どれだけ酷いのか、後遺症は残るのか、優希は祈る気持ちで"良くなるのを願っています。"と送った。 次に老夫人と和珠にそれぞれお礼のメッセージを送り、そして最後に隆一のメッセージ画面を開く。 老夫人の話を聞いて、この勢いで何かメッセージを送ろ
「ゆうちゃん、国際電話でお家に電話したでしょう?その電話を切った後に、お父さんすぐ私に連絡してきて着信番号を伝えてきたの。あなたを探せないかって。」 「え…でも…。」 想像もしていなかった話に、優希は当時のことを思い出す。 親子の縁は無いと冷たく言って電話を切られたのだ。 そんな自分を探すなんて…。 優希が戸惑いの声をあげると、老夫人は首を振って遮る。 「お父さんの心境は詳しく知らないわ。でも私がゆうちゃんに電話をしたことを知ると、あなたが産まれた時から貯めていたお金だって言って通帳とキャッシュカードを渡してきたの。私からのお金ということにしてって。」 「だから、毎月送っていたお金も進学費用も、結婚祝いも全部ゆうちゃんのお父さんがゆうちゃんのために用意したお金だったの。」 「毎回ゆうちゃんと電話した後、そわそわと私に連絡してきてたのよ。どうですか?って。彼氏が出来たみたいって言った時は複雑そうな声だったわ。」 老夫人が話す内容に優希は呆然とし、ただ一言「どうして…。」とだけ言った。 「父親だからって言ってたわ。」 酷いことを言ってばかりだった自分を、最後まで父親として支えてくれていたのだと知り、優希の目に涙が浮かぶ。 「ね、だから最後にゆっくり話してごらんなさい。ずっと昔から、お父さんはゆうちゃんのことを気にしてたわ。何を思って、何を経験して大きくなっ
「計画の準備もあるし、ゆうちゃんは荷物の整理もあるだろうから、決行は1ヶ月後にしましょう。」 優希は老夫人の言葉に頷く。 「そうですね。それまでにおば様のお見舞いに行きたいのですが…。」 暁春は悟に連絡させると言っていたが、それがいつになるのか分からず、優希はそれが心残りだった。 「あの男には任せておけないわね。いいわ、お婆さんと一緒に行きましょう。」 すぐに和珠がパソコンを見ながら、明日の検査結果が問題なければ明後日に退院できると伝えると、老夫人は嬉しそうに手を叩いた。 「3日以内に連絡するわね。あの子のことはもう気にしないで。何か言われたら、昔のお漏らしして泣いてた姿を思い出して、お漏らし野郎とでも呼ぶと良いわ。」 ウインクしながら言った老夫人の言葉に、優希と和珠は吹き出した。 優希の方が年上な分、暁春が3歳くらいまではよくお世話をしており、オムツ交換もしたこともあった。 オムツを卒業しした後も、お漏らしすれば片付けをしてあげたこともある。 その時の暁春は顔を真っ赤にして泣き、しばらく優希の前に姿を見せようとしなかったのだ。 「ありましたね、そんなこと。」 それを思い出した優希は、思わずオムツを履いた大人の暁春を想像してしまい、また吹き出す。
改めて真剣に考えた優希は、以前呼んだ小説を思い出した。 君の居場所は愛の力ですぐに分かる、とストーカー行為をする元交際相手に限界を迎えた主人公が、それなら死者の国に行ってもわかるのかと事故死を装った話だった。 「…死んだことにするのはどうでしょうか。車、暴漢、火事、水難、病気。死の原因は沢山あります。死んだと思わせれば、探そうとすら思いません。」 優希は真剣に提案していた。 死は絶対的な消滅であるから、一度認識させればいつ見つかるのかと心配する必要が無くなるのだ。 「方法としては効果的です。しかし現実的ではないと思います。一般人がどこまで完璧に騙せるか…。」 和珠の指摘は優希も理解している。 優希は和珠に頷いてみせると、険しい表情の老夫人のベッド横に膝をつく。 「なので、おばあさんとおじいさんの力を貸して欲しいです。」 本当は優希も自分自身の力で何とかしたかったが、相手が暁春では格闘家と赤子ほど全てに差があり、気持ちだけではどうにもできないことを知っている。 だから厚かましいことを承知で協力を仰ぐしか無かった。 老夫人は険しい表情を緩めると「もちろんよ。」と優しい声で言った。 すると和珠が遠慮がちに口を開く。 「…おじいさんは協力してくれるでしょうか。」 一見変わらないポーカーフェイスの中で目が僅かに泳いでいる。 「おじいさんには私から言うわ。…聞きたいこともあるから。」 そう言った老夫人の声が、いつもより固く思い詰めているようにも感じ、優希は心配から眉を寄せた。 そういえば都が得意げに老人との食事
20年前の事故は和珠も知っており、公式には発表されていないが、ネットが発達した今、井竜の長男の愛人が原因だったと暴露されている。 息子がいる身として、苦しみを耐えながら産んだ子の成長した姿が、そのような愚かな男だとしたらやるせなく思うだろう。 和珠はなんとも言えない気持ちになった。 - 優希は老夫人の顔に疲れが見えることに気づき、退出して休んでもらった方がいいかもしれないと思った。 「…暁春のこと、本当に申し訳ないわ。」 しかし優希が口を開く前に老夫人から話しかけられる。 老夫人の向こうにある大きな窓には鮮やかなオレンジ色の空が見え、射し込む夕日の光が彼女の小さな体の輪郭をぼやかしている。 その姿はとても儚く、太陽が沈むと同時に老夫人も消えてしまうのではないかと優希を不安にさせた。 優希はすぐに歩み寄り、確かめるように老夫人の手を握る。 「…おばあさんが謝ることでは無いです。彼は目的があって私に近づいた。私がそれを見抜けずに不相応な幸せを享受してしまった結果です。」 優希は老夫人がどこまで知っているのか気になった。 報道されたキス写真程度なのか、有美を家に連れ込んで来たことまでか、それとも先日の書斎での情交まで把握しているのか。 おそらくキス写真までだろうが、刺激が強いので詳細は語らないつもりだった。 「でも彼の本心を知ってしまった以上、このまま夫婦でいるのは難しいです。なにより産まれてくる子供たちをそんな環境で育てたくないです。」