LOGIN規則では、患者の如何なる情報も第三者に漏らすことは禁じられている。
将生もそれは理解しているが、幸せでいて欲しいと願っていた女性が不幸になる未来しか見えないことに落ち着かない。 優希が妊娠を伝えないよう言っていたのは、サプライズが理由じゃないのかもしれない。 将生はそう思い、背もたれに頭を預ける。 面識のない患者だったら彼も見なかったことにできたが優希はそうではない。学生当時、彼女には言わなかったが、いつか落ち着いたら結婚のことを話そうと思っていた。結局自分たちには縁がなかったとはいえ、放っておくことは出来なかった。 数回深呼吸をすると気持ちも若干落ち着いた。 落ち着いた頭に思い出すのは病室で見た優希の目。 10数年ぶりに見た優希の瞳は変わらず魅力的だと思った。元々綺麗な形は薄いながらも化粧で強調され、白と黒がはっきりした目は光が反射して輝いているようだった。眼鏡越しじゃないその瞳は、彼を高校3年生のあの中庭に引「なんて男なの!!」優希は子供たちを寝かし付けた後、リビングでくつろぐ老夫人に、暁春のことを伝えた。老夫人は思わず上げた大声に自分でも驚いたように口を押さえたが、すぐに携帯を取り出し、どこかへかけ始める。「どこまで性根が腐ってるのかしら!」優希は焦ってその手を止めた。「おばあさん落ち着いてください。とりあえず明日、校長先生にお話してみようと思います」校長に話して何とかなるかはわからないが、事情を知れば少し変わるかもしれない。優希はそう考え、暁春と直接交渉するのは様子見をすることにした。結局のところ、どうすべきか、考えがまとまっていないのだ。老夫人もその考えは理解したのか、渋々携帯を置くと、ため息をつく。「……とりあえず、あの子が次になにか言ってきたら教えてちょうだい。対抗策を考えましょう」優希は小さく頷いた。その時、子供部屋から泣き声が聞こえた。「夜泣きなんて珍しいわね」心配そうに言う老夫人と目を合わせると、優希は子供部屋に向かう。小さな間接照明が光る部屋で、凛と陽がベッドの上で泣いていた。凛と陽は滅多に夜泣きをせず、一度ベッドで寝入れば、大抵は朝まで寝てくれた。それが今日は、二人揃って目を覚ましている。優希は慌てて駆け寄り、二人を抱きしめる。「どうしたの?怖い夢でも見た?」落ち着かせるように優しく背中を叩くと、二人は泣きやみ、優希の胸に顔を擦り付けた。そのうち凛が顔を上げ「ママ、こあい?」と言った。「怖い?」「こあい?」優希が聞き返すと、凛はもう一度同じ言葉を言う。小さな舌をまだ上手に動かすことはできないが、凛が心配してくれていることがわかり、優希は頬を緩めて首を振った。「怖くないわ。凛と陽がママの傍に居てくれるから、ママに怖いものなんてないの」今度は陽が顔を上げ、へ
優希には、それなりに長く交際した男がいたことがわかった。 それが佐久間将生。 やはりその男も、優希が好む穏やかで優しいタイプだった。 彼女は相当その男に心を許していたというから、それを知った時の衝撃は凄まじかった。 なぜ。 約束したじゃないか。 嘘つき。 自分は有美との結婚を考えていたことを棚に上げ、その言葉が頭の中で次々浮かんだ。 (俺を見ないのなら、他の男も見させない) そう、暁春が優希に語ったような、母のためという大義が本当の動機ではない。 優希を自分の傍に縛りつけようとした根底にあったのは、彼の嫉妬心と独占欲だったのだ。 そこからは、裏切られたような身勝手な怒りに突き動かされ、どうしたら優希を自分の傍に置いておけるか、どうしたら彼女に後悔させられるかを考えた。 きっとそれを計画していた時の暁春の顔は、醜く歪んでいただろう。 最終的に色恋を利用する方法にしたのは、それが優希には一番効くと思ったからだ。 そして優希は暁春に捕まった。 彼女に好かれるための振る舞いは馬鹿らしく、時には腹立たしくさえあった。 それなのに、優希と一緒に過ごす時間そのものは心地良いものだった。 有美を愛しているはずなのに、と不安になれば、自分の愛を確かめるように有美を抱き、その都度体だけが満たされた。 そしてあの最悪な夜、優希の肩を抱く将生を見た瞬間、再び強い怒りが込み上げてきた。 それは優希が言った離婚の言葉で、さらに激しくなった。 (俺は馬鹿だ。答えに気づいていたのに、気づかないフリをした) だから、大切なものが全て手から零れ落ちてしまったのだ。 優希たちの車が走り去っ
暁春の一番古い記憶を遡った時、優希はすでに彼の日常にいた。ほぼ毎日遊びに来ては、美緒にくっついて甘え、老夫人には絵本をせがむ優希。おませな少女らしく、暁春の世話も率先してやりたがった。そして暁春もまた、温かく甘い匂いがする彼女に懐き、よくそばにくっついていた。彼女を間近で見ていたからこそ、暁春はその瞳がとても綺麗なことも知っていた。普段は黒く見えるその瞳も、光が差し込むと少し違って見えるのだ。まだ小さかった暁春に目線を合わせるため、優希はよくしゃがみ込んで彼の顔を覗き込んでいた。そうして光に照らされた瞳には、瞳孔を囲むように細い筋が浮かび上がり、それが幼い暁春には小さなひまわりのように見えた。光を受けて輝くその瞳を見ながら「宝石みたい」とそんなことを言った記憶もある。「よく遊びに来る近所のお姉さん」への意識が変わったのは、優希が小学校に上がってしばらく経った頃。その頃、優希はクラスの男の子に好きな子ができたと言ってきた。優しい子で、休み時間には静かに席で本を読んでいるような子なのだそうだ。「他の男子みたいに意地悪じゃないし、頭もいいの!喋り方も笑った顔も優しくて、なんかお日様みたいなの!」優希は目を輝かせ、頬を染めながらそう言った。それを聞いた時、暁春が第一に思ったのは(僕と違うタイプじゃないか)だった。暁春は同世代と比較しても落ち着いており、あまり笑わない子供だった。だから子供ながらに、優希が好きな男子のような温かいタイプとは正反対だと理解した。自分が一番長く一緒にいるのに、なぜ自分以外に心を奪われてしまうのか。その綺麗な目を他の人に見せないで。だから一度「僕が大人になるまで、他の人を見ないで」と言ったのだ。その時の優希はきょとんとした顔をした後、笑って了承した。そしてその独占欲は、優希が去った後に最悪な形で悪化した。優希がいなくなって数年後。その日は桜と一緒に庭で遊んでいた。傍らには
その余裕のある口調が、年上の将生に軽くあしらわれているように感じ、暁春の苛立ちはさらに強くなる。「……この学校に投資してやる。だがお前を解雇することが条件だ」「暁春!」「そして優希。お前は俺と一緒に国に帰るんだ。どうしても働きたいなら、井竜グループの受付でも秘書でも手配してやる。だが医療業界は駄目だ。もちろん子供たちも一緒にだ」「どうしてあなたに決められなきゃいけないの!?あなたと一緒に子育てなんて無理よ!私は絶対に帰らない!」暁春の言葉に優希が眉を釣り上げた。しかし将生はそれを手で遮り、暁春を真っ直ぐに見据える。「…あなたは何も変わっていない。そんなんじゃ、欲しいものは何も手に入らないでしょう」暁春の心の底を見透かすような目は、僅かに彼を動揺させた。しかしすぐに持ち直すと、鼻で笑う。握りしめた両手が小さく震えているのは気のせいだろう。「欲しいもの?俺は陽を返してほしい。わかるか?これは立派な誘拐だ。出るところが出れば、お前たちは仲良く牢屋行きだ。それはあの女の子にとっていいことか?」少し違う。本当はあの女の子も一緒に育てたい。陽と双子ということにしているのなら、あの子も同じくらいの年齢のはずだ。そして、あの優希によく似た顔。年齢から見ても、あの時優希が妊娠していた子供だろう。ならば暁春の子供で間違いない。だがもっと欲しいのは…暁春は優希に視線を移し「戻ってくるなら、今回の偽装は不問にしてやる」と言った。「嫌よ。私は帰らない」しかし優希ははっきりとそう言った。暁春を見る目に迷いはない。優希はそれだけを言うと、一瞬気押された暁春を睨みつけ、託児所に入っていく。そしてすぐに二人の子供を連れて出てくると、暁春に一瞥もくれずに足早に去っていった。「……彼女を愛しているなら、これ以上苦しめないで欲しい」
「……医者?」俺は医者ではない。思わず聞き返す暁春に、校長はにこやかに頷き、暁春の背後に目を動かした。「あ、あの先生が双子のお父さんですよ。まぁ、本当の父親じゃないらしいですが、三滝さんとは古い知り合いらしくて、仲もいいようですし、いつかはそうなるのでは、なんて密かに期待しているんですよー」他意などなく本当に楽しみなのだろう、人の良い顔で笑う校長は、そのまま手を振った。暁春の手が小さく痙攣する。優希に自分以外の夫。そして自分の子供が、他の男を父と呼ぶ。悪夢より最悪な事態に、息が苦しくなる。「またその話をしているんですか?僕たちはそんな関係じゃありませんよ」そして背後から聞こえた聞き覚えのある声に、心臓が一瞬止まった。困ったように笑う声は、低く優しい。優希の周りで、そんな柔らかい空気を持つ人物は限られている。隆一と……。 「でも三滝さんも、あなたには随分気を許しているじゃないですか。」「彼女にとって、僕は気兼ねなく頼れる友人なんですよ。誰だって頼られて悪い気はしませんよね」暁春はゆっくりと後ろを振り返る。薄々予想していた通り、そこには優希の元交際相手である男、将生が苦笑いを浮かべて立っていた。「貴様……」思わず出た言葉に、将生も暁春に視線を向けた。そして驚愕の顔で固まる。「あなたは…」「なぜお前がここにいる?」呆然と呟く将生を遮り、暁春は噛み付くように言った。優希のそばに、なぜお前がいる。それが一番強く湧き上がる思いだった。「あの…二人はお知り合いですか?」決して和やかではない二人の空気に、校長は戸惑いの声を出す。「……前にいた病院の経営者です」将生の声には明らかな警戒が滲んでいる。そして無事を確認する
そして数時間のフライトを終え、あのパンフレットの学校がある国にやってきた。空港を出ると、早々にパンフレットの学校に向かうべく、タクシーに乗り込む。流れる街の景色を見ていると、親子連れが多く目に入る。その中でも、一人で子供を連れている母親たちを無意識に目で追ってしまう。この国は福祉制度に力を入れており、特に母子家庭では手厚い支援が受けられるのだそうだ。(…俺が離婚を拒否したから、ここに来たんだな)暁春は優希が死を偽装した理由を何となく理解している。彼女は「あの夜」すでに暁春と離婚をしたがっていた。しかし暁春が離婚を拒否したために、国内で死を偽装して姿を消すしかなかったのだろう。(俺と離れるために…)その事実に、胸の奥を強く抉られるような痛みを覚えた。学校には、資金援助の件で視察に訪れることは前もって伝えていた。そのため暁春が身分証明書を見せると、問題なく学校内に入れた。校内を歩きながら、校長が学校の説明をしているが、暁春は自分の姿が変ではないかが気になってしょうがない。優希と会うのだから、少しでも良く見せたいのだ。「…少し休憩しましょうか?」暁春が遅れ始めたことに気づいた校長は気遣うように言った。しかし暁春は早く優希の姿を見たかったため、首を振る。「いや、大丈夫だ。それより、実習も手厚くしていると聞いた。その現場を見たいのだが」息が切れて話すのも苦しいが、それを悟られぬよう、拳を握る。「こちらへ」とにこやかに案内された病院は、学校と同じ敷地内にあった。この街で一番大きな病院らしく、とても立派な建物だった。「学生は各科をローテーションして実習を行なっています。」「この国は社会人の看護資格取得も支援していると聞いた。実際、社会人から入学した学生は何人くらいいる?」あくまでも視察なのだから、聞くべきことはきちんと聞く。しかしその中に私欲も含まれていた。