FAZER LOGIN翌朝、展示室でジェハと話していると、女性の声がした。「ジェハ、ここにいたの」展示室の向こうから、女性が歩いてきた。白いシャツに、細い紺のパンツ。彼女は手にした封筒をジェハへ渡し、その腕に掛かっていた上着を持ち上げた。「また袖、折ったまま。午後の打ち合わせまでに直してね」「分かってる」彼が笑わずに返した。聞き慣れた小言に答えるような、短い返事だった。女性はそこで、私に気づいた。「こちらが、昨日話していた方?」「槙原柚帆さん。日本側の展示に協力してくださってる」ジェハに紹介され、私は頭を下げた。「パク・ユリです。事業企画を担当しています」差し出された手は白く、柔らかかった。細い手首に光る時計まで、私よりずっとジェハの隣に似合って見えた。「京都の工房の方なんですね。着物、拝見しました」「祖母から譲られたものなんです。工房の仕事は、まだ少しずつで」「そう。今日は、日本での計画についてお話を聞いてくださると伺っています」彼女が打ち合わせ室へ向かった。ジェハも続くので、私も歩きだした。歩きながら、ユリがジェハを振り返った。「お母様から、ちゃんと食べているか見てきてって頼まれたわ。昨日、電話に出なかったでしょう」「あとでかけるよ」私は床へ目を落とした。彼の母親は、ユリにそんなことまで頼むのだ。……席へ着くと、ユリは日本の担当から届いた資料を開いた。聞き取りやすい韓国語だったが、仕事の話には知らない言葉が増えた。来月の訪問先や品物を絞る順番について、ジェハの質問に迷わず答えていく。建物の写真を見て、私が気になった暗い廊下のことにも、彼女は先に触れた。窓を増やすのでなく、照明を試す日を取ってあるという。意地悪な人だと思えたら、楽だった。彼は、この人と何度も一緒に働いてきたのだろう。そう思ううちに、建物を見る日付を聞き逃した。「すみません。建物を見に行くのは、いつですか」ユリが同じ頁を開き直し、日付を示した。ジェハは私が書き終えるのを待っていた。その沈黙まで、彼の時間を使っているように感じた。「槙原さんにお願いしたいのは、お客様が京都で着物を着て、どんな時間を過ごしたいのかを伺って、日本の担当者と一緒に案を考えることです」ユリはそう言って、次の資料を私の前へ置いた。日本での仕事は、まず3か月。給与のほかに交通費も出るという。詳しい
翌朝、展示室の入口で白い花を見つけた。青みのある灰色の背景に、私の訪問着が掛かっている。昨日、向きを変えた角の先を、スタッフが台車を押して通り抜けた。「これなら、大丈夫ですね」ホテルの担当者が頷いた。ジェハが図面へ書き込み、日本側の担当者が私を呼ぶ。袖の補修痕を写真と照らした。祖母が直した時のままだった。離れたところからも一枚撮って、祖母へ送る。【お花、見えるよ。ここに決まりました】返事を待つ間に、別の着物の包みを片づけた。ジェハはスタッフと話している。私の顔へ向いていた昨夜の目が、今は壁の照明を見上げていた。あの人の仕事には、私の知らない人が大勢いる。鞄の中で携帯が震えた。【見える。いいところに置いてもらったね】祖母も喜んでいると、彼に伝えたかった。ジェハが顔を上げる。私は携帯を少し持ち上げた。彼がこちらへ歩きだした時、日本側の担当者に呼ばれた。「槙原さん、すみません。明後日いらっしゃる方から、お電話で」差し出された携帯の向こうで、日本語の女性が話していた。入口まで車をつけられるか、長い階段はないか。膝を悪くしたばかりだという。私は担当者へ確かめ、車寄せから展示室までの道を伝えた。「到着したら、こちらの番号へお電話ください。お迎えに出ます」そう言ってから、隣の担当者を見た。明後日の午前は、私は記録の整理に入る予定だった。担当者が予定表を確かめ、頷いてくれる。「大丈夫です。その時間だけ、入口へ出てもらえますか」電話の女性は、松井と名乗った。「ホテルの仕事で伺うので、歩けませんとは言いにくくて。助かります」「ゆっくり見ていただけるようにしておきます」電話を切ったあと、手帳に到着時刻を書いた。近くに椅子を出せるか、あとで確かめようと思った。ジェハが、少し離れたところで待っていた。「日本のお客様ですか」「明後日、いらっしゃる松井さん。入口でお会いすることになりました」彼は頷き、私の携帯を見た。「さっきの、見せてください」祖母の返事を訳すと、彼は写真を大きくした。「お祖母さんにも、いつか来てもらいたいですね」「飛行機に乗る前に、工房の仕事を全部終わらせようとしそうです」「では、かなり前から誘わないと」当たり前のように、先の話をした。私は頷いた。祖母にこの人を紹介するところを想像すると、少し落ち着かなくなった。…
展示室を出て、ホテルから海の見える道へ入った。ふたりで向かったカフェは、その道の先にあった。ジェハが扉を開け、私が入るまで待ってくれた。一歩中へ入った途端、足が止まった。大きな窓いっぱいに、碧い海が広がっている。「わあ……」思わず漏れた声に、ジェハが隣で笑った。「せっかくなので窓側に座りましょうか」私は海から目を離せないまま、頷いた。窓際の席まで行くと、ジェハが椅子を引いてくれた。小さく礼を言って腰を下ろすと、彼も向かいに座った。窓の向こうには碧い海が広がっていた。穏やかな水面に陽の光がきらきらと散り、さざ波とともに揺れている。「……きれい。こんなに海が近いと、何時間でも座っていられそう」しばらく眺めてから、ジェハへ顔を向けた。「素敵なお店ですね。連れてきてくれて、ありがとうございます」「京都では、海を見る機会は少ないですか」「私が育ったところからは、海は遠くて。でも、京都の川沿いも素敵なんですよ。川を眺めながら、のんびりするのが好きで」ジェハも窓の外へ目を向けた。「僕は釜山で育ったから、見慣れているはずなのに、やっぱり好きです」「羨ましいです。こんな景色が身近にあるなんて」「今日は特に穏やかですね」そう言って、彼は私へ視線を戻した。「柚帆さんと来られて、よかった」まっすぐに言われると、返事に迷う。彼の笑顔から目を離せなかった。ジェハがメニューを開き、ふたりの間へ置いた。「何か頼みましょう。甘いものは好きですか」「はい」彼が指したチーズ入りの焼き菓子を頼み、飲み物は冷たいものにした。「緊張して、喉が渇きました」「僕に意見を言うの、そんなに大変でしたか」「少し。図面を見ているとき、怖い顔をしていたから」「そんな顔でした?」彼が眉を寄せたので、つい笑ってしまった。「今もちょっと」運ばれてきた焼き菓子を、私はひと口頬張った。思ったより熱く、慌てて水を飲む。「ケンチャナヨ?」ジェハはフォークを置くと、身を乗り出して私の顔を覗き込んだ。「おいしいです。でも、あつい……」ふたりで笑い、今度は冷ましてから食べた。チーズのまろやかな甘さが口に広がる。「京都にも、甘いものがおいしくて好きなお店があるんです」私が言うと、ジェハは顔を上げた。「行ってみたいです」返事がすぐに返ってきたので、私は菓子を切る手を止
「須藤さん」廊下へ出てきたジェハの声は、電話で聞くより少し遠かった。私が近づくと、彼も一歩こちらへ来た。薄い灰色の上着を腕へかけている。「先に、ひとつお話ししてもいいですか。これからは、槙原です。槙原柚帆でお願いします」彼の顔を見た。ここへ来る間は、何もかも話せる気がしていたのに、喉が狭くなった。「槙原さん。会えて、嬉しいです」声がやわらいだ。私もようやく笑えた。「私もです」「カフェで、そう言うつもりだったんですが」困ったように図面を見る彼がおかしくて、もう少し笑った。何か言おうとしていた彼が、部屋から呼ばれる。私はその横へ並び、展示室へ入った。入口には、白い背景が緩やかに続いていた。海に面した窓の光まで、その中へ流れ込んでいるようだった。日本側の担当者が、私の出品した訪問着を、仮の位置へ掛けていた。淡い灰色に白い花のある着物。京都では、肩から裾へ目を移すたび、その花を見つけた。ここでは、見えなかった。「もう少し色の強い着物に替えられませんか。こちらは脇の方へ置いて」ホテルの担当者が言った。私は着物から目を離せないまま、口を開いていた。「替えたくありません」思ったより大きな声が出た。ジェハがこちらを向く。私は資料の端を握った。会って最初にしたかったのは、こんな顔をさせることではなかった。「……祖母と、この花が見えるところを確かめてきたんです」白い花の下には、祖母が直した細い痕がある。その袖ごと、ここで見てもらいたいと決めてきた。彼は着物を見てから、入口へ視線を戻した。「近くなら見えますね。全体は、明るくつなげたいと思っていて。この白い背景は残したいんです」彼が選んだ場所は、きれいだった。頷けば、次の話へ進む。私もその方が楽だった。あとでカフェへ行って、彼と楽しく笑いたかった。けれど、祖母と包んだ布が、目の前で背景の一部になっていた。「近づけば見えます。でも、近づいてみようと思わないまま、通り過ぎてしまいそうで」途中で言葉に詰まった。韓国語で、この感じをうまく言えない。私は入口の方を指した。「ここから来た人に、最初に一度、立ち止まってほしいです。この着物の前で」ジェハはすぐには返事をしなかった。図面を見ている横顔から、さっきの笑みが消えていた。壁際のスタッフが時計を見た。「パネルの入れ替えなら、5時までに決めて
河合の説明を聞きながら、私は資料の写真を見ていた。祖母の工房で何度も広げた着物が、海の見えるホテルへ行く。「日常の韓国語なら話せます。ただ、専門の通訳はできません」「そこは現地に担当がいます。今回は、こちらの着物を記録と照らして、扱い方を伝えていただきたいんです」旅費と7泊分の宿は、展示の予算から出る。私は自分の貯金を確かめ、向こうで使う私費を手帳へ書き出した。行きたかった。それでも、返事は少し待ってもらった。叡司との話を終えずに、帰ってくる日の決まった旅へ出る気にはなれなかった。……内覧会から4週間後、私は家へ戻った。残していた服と本を鞄へまとめ、食卓についた。何度かやり取りして確かめた書面が、叡司の前に置かれている。今度は、汐奈の席はなかった。署名の済んだ離婚届を見ると、胃のあたりが重くなった。そうしてほしいと、自分で言った。けれど、この人が自分の名前を書いているところを想像してしまった。「これでいいんだな」「はい」財産の整理と支払う時期も、ひとつずつ確かめた。怒っていた夜より、声を荒らげる理由のない今日の方がつらかった。叡司が引き出しを開けた。「これで書くか」私が何年も使っていた、軸の細いペンだった。「ありがとう」受け取る時、指が触れた。私が先に手を引くと、叡司はペンから指を離した。少し前までは、肩が触れるだけでも嬉しかった。こんなふうに避けるために、長く一緒にいたわけではなかった。「そのペンも、持っていけばいい」私は頷いた。書き終え、蓋を閉める。その音がしても、叡司はまだ向かいにいた。今なら何か別のことを話せそうで、私はしばらく立てなかった。ふたりで届出に出かけ、受理を確かめた。建物を出ると、昼の光が眩しかった。隣を歩く人は、もう夫ではない。そう思った途端、何かを言おうとした口が閉じた。歩く速さは同じなのに、手を伸ばす理由がなくなっていた。家へ戻り、荷物を玄関へ運んだ。鍵を外して渡すと、叡司は小さな金属を指で挟んだまま、私を見た。「合鍵がないと、不便じゃないか」「残す物は、もう確認したから」廊下には、ふたりで選んだ小さな額が掛かっていた。持っていくか聞かれた時、ここへ置いていくと答えた物だった。「それも、お前が気に入ってたのに」「うん。好きだったよ」今も、嫌いにはなっていない。だから困った。どこへ掛けて
投稿を確かめ、汐奈は携帯を机へ置いた。撮影用の椅子の脇で袖を広げると、叡司が顔を上げた。「いいだろ、似合う。汐奈が着た方が、商品の雰囲気も出るよ」「でも、奥さんが」「試すくらいはいい。俺から話しておく」汐奈は笑い、白い花がよく見える方の腕を上げた。撮影担当者が器の位置を直す間、自分の携帯でも、もう一枚撮ってもらう。「こっちから。袖が広がった方が、きれいでしょう」椅子の背越しに振り返った時、袖が引かれた。汐奈は画面へ顔を向けたまま、腕をさらに伸ばした。乾いた音がした。振り向くと、椅子の背の金具に、袖が掛かっていた。引き抜こうとして手を止める。白い花のすぐ下で、生地が指の長さほど裂けていた。「……これ、もともと弱くなってたんじゃない?」叡司は裂け目を見て、唇を曲げた。「脱いでおけ。柚帆のお祖母さんなら直せるだろ」汐奈が袖を畳み込もうとすると、担当者が止めた。「いま引っかかったところですよね。そのままにしてください」さっきまで、自分が画面の中央で笑っていた携帯が、机に残っていた。……翌朝、撮影担当者から私の携帯へ電話が来た。「着物を傷めてしまいまして。返送先を確認したいのですが」祖母が針を置いた。私は携帯を耳に当てたまま、隣の椅子に座った。送られてきた写真では、灰色の袖から白い裏地が覗いていた。糸がほどけたのではない。花のすぐ下で、生地が裂けている。「その着物は、私のものです。撮影には貸していません」担当者は黙った。叡司からは、妻の了承を得た衣装だと聞いていたという。私は昨日、着用も撮影も認めないと送った文面を、担当者へ転送した。「汐奈さんが椅子に引っかけたところは、私も見ています。会社へ報告して、返送します」電話を切ると、叡司から連絡が来た。【着物は返す。それを直して、撮影の日までに戻せないか】白い花を見つめたまま、文章を読み返した。まだ、汐奈に着せるつもりなのだ。「おばあちゃん。あれ、私が着る時に、直してくれたのに」祖母は椅子を寄せた。膝へ置いた私の手に、そっと手を重ねた。私は担当者へ返送先を伝えた。送料と修繕費も、叡司たちに負担してもらうよう頼んだ。……午後の打合せで、汐奈は公開した写真を消そうとした。「投稿を下げれば、もう見られませんよね」「案内した相手にも、訂正が必要です」担当者が示した画面







