深山の王

深山の王

last updateTerakhir Diperbarui : 2026-07-21
Oleh:  森村征爾Ongoing
Bahasa: Japanese
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喰う。 それが、生きるということだった。 深山に生まれた一頭のヒグマ。 母の匂い、兄弟の体温、そして消えていく命。 やがて山を知り、血を知り、支配を知る。 だがこの山には“王”がいた。 そして王は、人間によって消された。 空いた山。 残されたのは、次に王となる存在。 ――それは、この獣か。 人間の肉の匂いに引き寄せられながらも、 記憶がそれを拒む。 喰えば、山が騒ぐ。 それでも、牙は知っている。 これは、山の理。 弱肉強食の、その先へ。

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Bab 1

プロローグ

エゾヒクマの個体数は令和8年現在で11500頭。

近年、人里に降り家畜や人間を襲うのは自然界では縄張りを追い出された弱者たち。

山の王、山の主と呼べるべきヒグマは確固たる縄張りで肥沃な深い山で暮らしている。

序章 生命

何かが割れた。

それが“開く”という形なのかどうかは、まだどこにもない。

ただ、黒いものがある。

重く、途切れず、どこまでも続く。

その中に、わずかに差し込むものがある。

触れてくる。

同じ場所を、何度もゆっくり通る。

冷たくない。

でも自分ではない。

それが近づくたび、黒いものの中に少しだけ揺れが生まれる。

口のようなものが触れている。

しかしそれが何かはまだ分からない。

ただ、そこにある。

そして離れない。

最初に残ったものは、匂いでも音でもなく、

黒の中に沈まない残り方だった。

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第一話 兄弟
腹が減ると、すぐ側に満ちるものがあった。温かい大きな身体から流れる白い汁。押せば途切れず、飲めば腹の中が静かになる。その身体は動かないとき、壁のようだった。近くには、同じ匂いの小さな塊がいくつもいた。高く割れる音を出し、押し合い、鳴き合い、白い汁へ群がる。うるさい。だが同じ匂いがした。匂いには違いがあった。近いもの。遠いもの。弱いもの。強いもの。白い汁は、待てばまた満ちた。争わずとも腹は満たされた。身体がそれを覚えていった。この穴の中には、温かい大きな身体と、同じ匂いの小さな塊たちがいた。それが当たり前だった。眠れば重なり、起きれば散る。押し合い、鳴き合い、白い汁へ集まる。あるとき、ひとつが静かだった。鳴かない、押してこない。白い汁の近くへも来ない。同じはずの中に、知らない冷たさが混じっていた。鼻先で押す、転がるだけだった。もう一度押す、返してこない。温かい大きな身体が近づき、その塊を口で持ち上げた。いつもより乱暴だった。穴の外へ消えた、戻らなかった。腹は満ちた、だが何か足りなかった。眠るとき、ぶつかってくる重さが減った。耳元で割れる音も減った。暗さが広くなった。その後、もうひとつ消えた。今度は先に匂いで分かった。弱く、薄く、遠くなる匂い。身体は覚えた。近くにあるものでも、なくなる。満ちている場所にも、空くところができる。
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第二話 生きる術
身体の先が思うままに動くようになっていた。踏めば進み、跳ねれば浮いた。転んでも、すぐ起きられた。温かい大きな身体が、鼻先で背を押した。眩しい先に出ろ。いわんばかりに。暗い穴の縁を越える。その先で、世界が弾けた。強烈な光が襲う。熱い。閉じてもまだ刺さる。目の奥まで入り込み、黒かった世界を砕いていく。地面は柔らかかった。濡れた土、細いもの、尖ったもの、崩れるもの。穴の中にはなかった匂いが、そこら中に満ちていた。古い水の匂い、青い匂い。小さく走るものの匂い。遠くで腐るものの匂い。身体が勝手に動いた。駆ける、跳ぶ、転がる、叫ぶ。胸の奥まで熱くなった。だが少し離れたとき、身体が止まった。振り向く、そこに温かい大きな身体がいた。その匂いに触れるまで、胸のざわつきは消えなかった。鼻先が触れる。腹が満ちるのとは違うものが、全身へ広がった。この匂いからは離れられない。親は歩き、私は追った。止まれば匂いがあり、掘れば腹が満ちた。近づけば怒られるものもあった。離れれば呼び戻された。鮮やかな丸いものが木にぶら下がっていた。噛む、酸い、甘い。夢中でいくつも喉へ落とした。土の上に転がる長くうねる生き物。爪を伸ばしたとき、親が身体をぶつけてきた。見たことのない唸り。逆立つ毛。親はそのうねるものから距離を取った。近づいてはならないものだと、身体が覚えた。暑さが来た。大きな水は喉を潤し、身体を冷やした。やがて山の匂いが変わった。葉は枯れ、風は軽くなった。だが地には固い実がいくつも落ちていた。小さい、硬い。だがいくらでも喉へ落ちた。腹が重くなる。もっと欲しくなる。理由は分からない。身体が急かした。親はさらに大きく見えた。私は夢中で食べた。そのとき…。落雷の様な轟音が空気を裂いた。反響した轟音は谷を走り、頭の奥まで響く。親が立ち上がった。首から背まで毛が逆立ち、口から泡をこぼし辺りを警戒している。怒りを超えた親のその姿に、身体の奥が崩れた。脚が震え、腹の下が濡れた。親は藪へ入った。振り返りもせず進む。私は追った。尾根の向こうに、二本足がいた。四本足の生き物が横たわり、長い棒を4本足の胸に押し当てている。するとまたあの衝撃音が山々をこだまする。ピクリとも動かない姿は産まれた頃に見たことがある。もはや生命ではない。二本足は鈍く光る長いもので、肉を切り分けていく。風が流れてきた。血の匂い、
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第三話 畏れ
暖かい日差しが、やがて暑さへ変わる頃。ようやく一人でも喰い物を捕らえることが出来た。もう待っていた親は穴には帰らなかった。一人で生き抜く。そう決めてからは喰えるものなら何でも食べた。果実や木の実を食べ、時には腐敗した4本足の生き物も食べた。飢えから解放されるには喰らうこと、自分の血肉に変えるためだ。喉の乾きは水場で補える。大地を流れる水場で、親によく似た生き物と出会った。大きく重い、四つ足。だが匂いが違った。あの温かい匂いではない。胸の奥を満たす匂いでもない。冷たく、尖り、乾いた匂いだった。離れていても、そいつはこちらを見ていた。じっと、動かず、瞬きも少なく。目を離してはならない。身体の奥がそう叫んでいた。鼻息が荒くなる。肩が上がる。毛が逆立つ。私は水辺の石のように固まり、そいつを見返した。そいつはゆっくりと水へ入った。流れの中央で止まり、腕と口で水の生き物を挟み込む。跳ねる銀をそのまま咥え、振り返らず去っていった。しばらく身体は動かなかった。やがて強ばりがほどける。私は元の道を引き返した。恐れということを始めて理解した。喰われる。存在が消える…。私は理解した。その途中、木々がそいつの匂いを放っていた。幹には深い爪跡。樹皮は剥がれ、毛がいくつも残っている。ここは我が場所。そう刻みつけているようだった。私は匂いを嗅ぎ、黙って通り過ぎた。私の身体はまだ小さい。まだ足りない。身体がそれを知っていた。それでも、この山を離れはしなかった。生まれ、育ち、眠った場所。木の根の匂いも、岩の冷たさも、風の通り道も知っている。奪われたままにはしたくなかった。だが今の身体では、そいつに牙を向けても風に散るだけだった。悔しさは腹より長く残った。山の葉が枯れ始めた頃。二本足たちが山へ入り始めた。一匹、二匹、時には三匹。危ないものたち。私は気配を殺し、藪の中で通り過ぎるのを待った。山はいつも声に満ちている。空を飛ぶものの声。木を渡る長い手足のものの声。土を掘るものの低い声。だが、その日聞いた声は違った。裂ける声だった。「ぎゃーーっ!」「くるな!」意味は分からない。だが恐れだけは、風より速く伝わった。やがて静かになった。山は何事もなかったように戻った。私は寝床へ戻り、身体を丸めた。だが翌朝。目が覚めたときから、鼻先が騒いでいた。濃い匂い。木の実ではない。果実でもない。魚でもな
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第四話 山が騒ぐ
巣穴へ戻る前。私は水の流れへ入り、身体についた匂いを落とした。赤い体液、肉の脂。腐りかけた甘い肉の匂い。そして、奴の匂い。流れに身体をこすりつける。冷たい水が毛の奥へ入り、赤黒いものを剥がしていく。岸へ上がると、匂いの強い草へ身体を押しつけた。葉を折り、茎を潰し、汁を毛へ擦り込む。土にも転がった。消したかった。あの喰い場へ、自分の匂いを置いてきた。足跡を刻み、毛まで落としてきた。踏み込んではならない領域に踏み込んでしまった。私が肉塊になる理由はそれだけで十分だった。私は巣穴へ潜り込み、耳を澄ませた。いつ匂いを辿りこの穴に襲いかかるのか…。恐怖はやがて諦めにも変わった。だが奴は来なかった。日が昇り日が沈む。二回目の日が昇り日が沈んだ。…まだ来ない。代わりに、山には違う音が響いていた。チリン。チリン。乾いた、硬い音。野山にはない音だった。鼻先へ流れてきたのは、二本足の匂いだ。二本足特有の身体から染み出ている匂い。だがそれとは別の…あの嫌な匂いもする…。長い筒を持ちいくつもの二本足が歩いていた。頭や胸に、丸い果実の皮のような色のものを付けている。派手で、浮いていて、森の色ではなかった。叫びながら歩いていた。「おーい!」「助けに来たぞー!」「返事してくれー!」意味は分からない。だが落ち着きのない声だった。二本足たちのそばには、四本足の吠えるものもいた。細く長い鼻先。速い脚。忙しく揺れる尾。そいつらは地面を嗅ぎ、藪へ顔を突っ込み、突然こちらへ向いて吠えた。「ワン! ワン!」身体が固まる。鼻が利く。耳も利く。厄介なものだった。ならばと風上には回らず観ていた。そして二本足の手には、あの棒。鼻を刺す匂いを吐き、山を裂く音を出す棒。今、外へ出るな。身体の奥で、親の記憶が唸った。危ないものが満ちたときは、籠れ、距離を取れ、動くな。私は巣穴の暗さへ沈み、時が過ぎるのを待った。遠くで吠え声が走った。「ワンワン!」「ワンワン!」次の瞬間。山が裂けた。あの叫びは水辺の奴の咆哮だった。腹の底を揺らす、怒りと痛みの混ざった叫び。水辺の主。あの大きな影。吠えるものたちの声。二本足の怒鳴り声。枝の折れる音。土を蹴る音。山中がざわめいた。いつもの山ではなかった。一つ目の轟音で木々からは空を飛ぶ動物たちが一斉に羽ばたき、また空気が震える。「まだや!次撃て」二本足の叫びが轟いた瞬間
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第五話 我は主なり
水辺の主が山から消えてから、季節はいくつか巡った。我の身体は大きく、厚くなった。肩は張り、前脚は石を砕くほど重くなり、立ち上がれば木の枝へ鼻先が届いた。毛は深く密になり、爪は黒く湾曲していた。木々には爪跡を残した。高く、深く、何度も。ここは我の場所だと、森へ刻みつけた。この山の生き物たちは知っている。誰が主たるか?を。腹を満たすには、もう果実も木の実だけも足りない。肉が必要だった。四本足で跳ねるもの。牙を持つ4本足。水辺で生息する生き物。追い、倒し、裂き、喰った。熱い血が喉を通る。骨を砕けば髄が舌へ絡む。それでも。満たされぬものがあった。あの二本足の血肉の匂いを忘れられない。だが二本足に手をだしてはならない、二本足を襲えば大量の二本足が山に入り襲いかかるのを知っている。水辺のに主はあれだけ大きな身体だあったがもうこの山には居ない。今日も腐った木に生えた植物でも喰べるかと起き上がった瞬間。巣穴の崖下からあの嫌な音が聴こえた。チリン。チリン。耳が立つ。あの音。我は反射のまま藪へ沈んだ。風下へ回る。音を殺す。息を細くする。二本足だった。ひとつ。山へ一匹で入ってきた。小さい、細い、身体の線は丸く、脚は軽い。オスとは違う匂い。だが頭から放つあの鼻を刺す臭いは同じだった。花の様な匂いだが二本足のメスは毛に匂いをつけている。だが、草でも花でもない。二本足だけが好む、濃く湿った臭い。私は藪の奥から見ていた。「綺麗な景色。この辺りなら、たくさんキノコが採れそうね」小さく鳴きながら、だが甲高くはない。山へ響かせる吠え方でもない。柔らかく、流れる声だった。この二本足は叫べぬのか。それとも、まだ危険を知らぬのか。そいつはしゃがみ込み、倒木から私の食べ物を採り始めた。我の縄張りで我の食べ物を採るというのか?このまま襲ってはどうだろう?4本足たちの様に周囲への警戒すらしていない。背を向けている。首が見える。細い。毛はなく、肉は剥き出しなままではないか。甘美な体臭が口中からよだれがあふれでる。ああ…喰いたい…汗、体臭…あの甘い肉の下にある、メスの肉の匂い。胸が熱くなった。首から背へ毛が逆立つ。耳は立ち、鼻先が震える。脚へ力が集まる。飛び出したい。押さえつけ、倒し、腹を裂きたい。いや、尻から引き裂き温かいハラワタを引き摺りたい。単純に身体が目の前にいる肉塊を欲した。だ
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第六話 成長
木々の葉が紅々と色付き始めた頃、いつもより飢えがまとわりつく。身体が要求している。もっと、もっとだと。幸い、縄張りの中にはまだ喰い物がある。また喰わねばならぬと、巣穴から這い出した。ん…?水辺の主とは違うが、間違いなく同じ生き物が縄張りにいる。匂いは、複数いると警告していた。この縄張りに立ち入ることは許されない。この山は、我のものだ。探せ、嗅げ、逃がすな。痕跡にはすぐに辿り着いた。水場に、小さな親に似た生き物が二つ、そして親と同じ姿が一つ。匂いは…我は観察もせず、一直線に走り出していた。いつもなら、生きる術としてまず観る、そして捕らえる。だが今は違う。あの親に似た生き物は、飢えを満たすのとは違う、何か特別な匂いを放っている。こちらの走り出す音に、水音が一瞬、親に似た生き物の反応を遅らせた。小さなものが我に気付いて逃げる。だが眼中にはない。踏み潰すと同時に頭が割れ、眼球が飛び出した。地面にのめり込んだまま動かない。もう一つの小さなものの前に、親に似た生き物が立ちはだかり、叫んだ。来るな、と言いたいのか。爪を振るう。一撃で親は倒れた。すぐに起き上がったが、その時には小さなものはすでに我が爪で胴と首を分かれていた。縄張りに入れば容赦はしない。小さなものの頭を咥え、親の前で噛み砕いた。まだだ。まだ何かが満たされない。飢えとは違う疼きが、腹の奥で暴れている、名づけようのない衝動だった。倒れた生き物の傍らに留まり、我はただそれに従った。何をしたのか、自分でも分からない。ただ、終わった後には妙な静けさがあった。この親に似た生き物には満足した。その後も、小さなものを心ゆくまで喰った。喰い続ける間、ずっと見ていたはずのそれは、いつの間にかいなくなっていた。満足だ。縄張りを守り、飢えをしのいだ。それだけではない。今日の行為を、また繰り返さねばならない。またこの満足を味わいたい――それだけではない。頭の奥から響く。「もっとだ」と。
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第七話 奪い合い
この山の縄張りに何度も我と同じ生き物が入ってきたが、振り下ろす前脚でなぎ払うことができた。骨は簡単に折れ、肉は裂け、そのまま動かなくなる。中には倒してから喰ったものも居た。何度か戦いを繰り返すうちに、この縄張りを奪おうとするものは居なくなった。だが、この縄張りだけでは足りない。もっと喰い物が必要だ。縄張りを広げ争いは起こったが、すべてなぎ払った。気がつけば、この山に我と同じ生き物は居なくなっていた。飢えは満たされ続けた。あの特別な匂いを放つ同じ生き物には、幾度となく、我でも説明のつかない衝動に従った。理由はわからない。ただ身体が求めるがまま。この山の主は我。そう感じながらも、警戒だけは消えなかった。いつものように喰い物を探して山の中腹に来たとき、暴れている四つ足の生き物が目に入った。様子がおかしい。同じ場所で跳び跳ね、離れようとしているのに離れられない。鼻にまとわりつく嫌な匂いと、濃い血の匂いが周囲に広がっていた。なんだこれは…。近寄ると、我の姿に気付き大きく跳ねた。だがすぐに同じ場所へ引き戻される。足に蔓のようなものが巻き付き、締め上げている。暴れるたびに肉が裂け、赤い体液が垂れ流れていた。喰える。だが違和感が残る。蔓は地面ではなく、木へ繋がっている。その匂いは、あの長い筒と同じだった。危険だと身体が告げる。だが、目の前の四つ足はすでに弱り、呼吸も浅い。逃げることも出来ず、その場に崩れかけている。蔓に触れなければいい。それだけだ。そう決めた瞬間、身体は動いていた。一気に間合いを詰め、叫ぶ暇も与えず喉元へ牙を立てる。骨が砕け、抵抗が消える。蔓の巻いた足を避け、残りを咥えて引きずった。重い肉が地面を擦り、血の跡が続く。穴から離れた場所まで運び、腹を裂いた。内側の熱が溢れ出る。半分ほど喰らい、残りは地面に埋める。土をかけ、匂いを隠す。後でまた喰えばいい。周囲には血や肉、骨片が飛び散っていたが、その上を踏み砕きながら寝床へ戻った。しばらくして…チリン、チリンと音が近づいていることに気付いた。耳が立つ。あの音だ。二本足。しかも複数。巣穴の奥でじっと様子をうかがう。風に乗って、二本足の体臭が流れてくる。その中に、もう一つの匂いが混じっていた。土と体液の混じるの匂い。我が埋めた喰い物だ。奪うのか、許せぬ。木々の間から様子を窺うと、二本足が我の埋めた場所を掘り返して
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第八話 野に放たれた本能
睨んだままの時間は長く感じたが主として喰い物も縄張りも守り抜いた。満足しながら喰い物を掘り返し喰った。腐敗は土にいれることで新鮮までではないが舌が喜ぶ肉である。何度も骨を牙でへし折り勝利の余韻に浸っていた。もはや二本足へ怖さはない。あるのは肉として喰い物としてあれを喰いたい。.....二本足のメス。水辺の主の襲った肉も以前首を噛み砕けなかったのもメスだった。オスにはない匂いが二本足のメスにはあり、肉がオスより大きい。喰いたい。喰いたい。欲求はやがて怒りとなり警戒を失っていた。我の山に入るならば喰らうべきもの。眼球は血走り口からは泡となったヨダレが垂れ下がっている。探せ、探せ追って、追って喰らえ。二本足との鬩ぎ合いに勝てた自信と我慢していた欲求が大きな咆哮となり山々にこだまする。どんなことがあってもその山はただ聴いているだけだった。第八.五話 食事歯を立てた瞬間、皮がぬるりと裂けた。濃い汁が舌の上へ溢れる。血の苦味、脂の甘さ、混ざり合う二つの味が喉の奥まで流れ込む。喉が勝手に鳴った。噛む。飲む。また噛む。これほど旨い肉を、我は他に知らない。前脚で押さえつけ、さらに引き裂く。皮が伸び、切れる。筋が一定の方向へ裂けていく感触が、口の中にまで伝わってくる。骨を拾う。噛み砕く。硬さの奥で、違う感触が崩れた。中から柔らかなものが溢れ出す。舌へ絡みつき、喉へ落ちる頃には、もう次を探している。腹は満ちていく。だが…。まだまだ求めている。脂は甘い。毛がなく、皮は薄い。裂けば、すぐ深いところまで牙が届く。山の四本足の肉とは違う。あれは筋が強く、毛が口にまとわりつき、土と獣の匂いが残る。空腹を黙らせるための肉でしかない。だが、これは違う。一口ごとに、味が変わる。脂の甘さ。肉の弾力。骨の中の柔らかさ。噛むたびに新しい旨さが現れ、飽きることがない。舌に残る、喉に残る、腹の奥に残る。この肉の味を知ってしまった。もう戻れない。骨にこびりついた肉を舐め取る。血を舐める。何度も、何度も。そのたびに、身体の奥がゆっくりと熱を帯びていく。満ちているはずなのに、足りない。満たされたはずなのに、終わらない。これが、身体が求めるということだ。我は喰らうために生まれ、喰らうために大きくなった。この山で、これほどの馳走を知る者は他にいない。腹を満たし、牙を研ぎ、また明日も喰らう。それだけ
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第九話 罠
親は生きる術を残し、水辺の主は消される理由を残し、そして二本足は簡単に生き物をとるやり方を山に置いていった。観た、そして覚えた。消されないやり方を。二本足のメスが好む植物があることも知っている。だがそれを喰わない。周囲に匂いを残し、幹に爪を入れて、ここが我の場所だと刻むだけでいい。そうすれば四本足は寄り付かず、小さきものも近づかない。山は静かになる。それでも二本足だけは違う。匂いを恐れず、境界を理解せず、平然と踏み込んでくる。だからこそ、すでにかかっている。目には見えないが、この場所そのものが捕える場所なのだ。チリン、チリンと下から音が這い上がってくる。……近い…。身を沈め、息を細くし、風の流れに身体を沿わせながら待つ。やがて現れたのは二つの影。二本足のメスが二匹、足元だけを見ながら歩き、手を伸ばしては植物を摘み取っている。警戒はない。視線も上がらない。採ることだけに意識が落ちている。一匹ずつ。「私、ちょっとトイレしたいわ」声が落ちる。何度も観てきた流れだ。動く前に鳴き、離れる前に鳴く。意味は分からないが、その後に起きることは分かる。一匹が離れた。匂いが変わる。排泄物の匂いが湿って広がる。縄張りを穢す意図はない、ただ出すだけの行為。だが距離が生まれる。風下へ回り、枝を踏まぬように土を選び、重さを逃がしながら背後へ入る。座り込んだ背は丸く、首は前へ落ち、何も見ていない。あまりにも無防備で、狙いは自然と一つに絞られる。叫ばせないように首へ入れる脚に溜めた力が解けて身体が滑り出し、前脚で押さえた瞬間に牙が肉へ沈み、骨に当たって鈍く砕けた。抵抗は一瞬で途切れる。重さが抜け、手応えだけが残る。周囲は変わらない。羽ばたきも、虫の音も、そのままだ。ただ、目の前のものだけが変わる。さっきまで動いていたものが、もう動かない。匂いが切り替わる。生きている匂いから、喰える匂いへ。我は口を離さない。まだ終わっていない。もう一つがいる。耳を立てる。遠くない。枝の擦れる音。土を踏む軽い足。そして、あの声。「ねえー?どこー?」戻ってきている。まだ動くな、まだだ…。肉塊となったそれを、そのまま地に落とした。鼻先を上げ、風向き、位置、距離。すべてが重なるのを待つ。藪の向こう、葉の隙間に色が揺れた。警戒もせず、一歩、また一歩。足音が止まった。「……?」メスが気づいた瞬間
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