Masuk喰う。 それが、生きるということだった。 深山に生まれた一頭のヒグマ。 母の匂い、兄弟の体温、そして消えていく命。 やがて山を知り、血を知り、支配を知る。 だがこの山には“王”がいた。 そして王は、人間によって消された。 空いた山。 残されたのは、次に王となる存在。 ――それは、この獣か。 人間の肉の匂いに引き寄せられながらも、 記憶がそれを拒む。 喰えば、山が騒ぐ。 それでも、牙は知っている。 これは、山の理。 弱肉強食の、その先へ。
Lihat lebih banyak山から、生き物が消えていた。 飢えは混乱を招き判断を誤らせる。 もはや長き眠りに入れぬ身体ではないか…。 毎日のように二本足たちが山へ入ってくる。 山を踏み荒らし、長い筒を抱え、黒い羽虫を空へ放ち、黒い鳥の羽ばたきは山の木々を薙ぎ倒す。 巣穴へ戻っても落ち着かない。 耳を閉じても、あの羽音が頭の奥に残っている。 腹が減っていた。 何日もまともに喰っていない。 身体が求めているものは、もう二本足のあのメス。 恐怖に震えながら逃げる姿。 汗と涙の匂い。 牙を立てる前から漂う、あの甘い匂い。 それだけが頭から離れない。 我は巣穴の奥で目を閉じた。 あの若いメスの姿が浮かぶ。 老いたオスの後ろで震えていた、あのメス。 あと少しだった。 老いたオスがいなければ、あの柔らかな首へ牙を沈めていた。 喰いたい…。 喰いたい…。 喰いたい…。 喰いたい…。 我はゆっくり立ち上がった。 もう山には喰うものがない。 二本足たちが山を壊す。 …ならば…。 最後に、あのメスだけは逃がさぬ。 それだけを考えながら、我は山の中を歩き始めた。 尾根を越え、沢を渡る。 脚は重い。 空腹で身体が軋む。 それでも止まれなかった。 風の奥から、微かにあの匂いが流れてくる。 若いメス。 忘れたことなど、一度もない。 山の土を踏みしめながら、二本足の匂いが流れる方へ歩き続けた。 第十六話 山の理 若いメスの匂いは、山の下から確かに流れていた。 近い。 木々の間を抜け、静かに木に囲われた巣へ向かう。 風は我の方へ流れている。 まだ気づかれてはいない。 あと少しだった。 その瞬間、 山が裂けた…。 轟音が響き、胸へ強い衝撃が走る。 何が起きたのか理解する前に、熱いものが身体から吹き出していた。 な、なんだ…。 次の瞬間、また轟音。 肩が砕け、脚がもつれる。 熱い…。 綿毛に身体が沈みかける。 木々の向こうには、何匹もの二本足が並んでいる。 なにをした…。 全員が長い筒を構えている。 その中央には、老いたオスが立っていた。 我は咆哮した。 だが三つ目の轟音が腹を貫く。 身体から力が抜けていく。 それでも前へ出ようとした。 若いメスの匂いが、まだ鼻先に残っていたからだ。 だが脚は動かなかった
山は、明らかに変わっていた。白い綿毛を踏む音だけが尾根に響く。以前なら、どこかで山の四本足が枝を鳴らし、小さな生き物たちが枯葉の下を走っていた。沢へ下りれば銀色が跳ね、水の匂いが流れていた。だが今は違う。静かすぎた。風が木々を揺らす音ばかりが耳に残る。その静けさは冬の眠りではない。山そのものが、生命を絶っている気配だった。鼻先へ流れてくる匂いも変わっていた。 煙、油、鉄。そして、濃くなり続ける二本足たちの臭気。老いたオスと出会ってから、山へ入る二本足は急に増えた。尾根にも沢にも足跡が残り、見慣れぬ匂いが木々へ染みついている。腹を満たす為、綿毛を踏みしめながら、慎重に尾根を進んだ。軽い羽虫の音?いや、山に無い空気を切り裂きながらが低く、頭上から響いた。山の空を飛ぶ生き物ではない。我は反射的に顔を上げた。木々の隙間の向こう、空を滑るように黒い影が浮かんでいた。羽ばたきもしない。風にも逆らい、ゆっくりと山を舐め回すように動いている。 …黒い羽虫…。腹の下には丸い目のようなものがぶら下がり、真っ直ぐこちらを向いていた。 見られている。その感覚が、背中の毛を逆立てた。 咄嗟に木の陰へ身を沈めた、だが黒い羽虫は我を舐め回す様に近づいてくる。低い羽音が、頭の奥を掻き回すように響いた。山を見渡すのは主である我だけだ。風を読み、匂いを追い、気配を探る。それは山に生きるものの役目だ。 なのに今は違う…。二本足たちが空から山を覗いている。黒い羽虫はさらに近づく。羽音が大きくなるにつれ、胸の奥のざわめきが怒りへ変わっていった。次の瞬間、巨木へ身体をぶつける。乾いた破裂音と共に木が軋み、傾いた幹が黒い羽虫へ叩きつけられた。硬い音が山へ響く。黒い羽虫は砕け散り、黒い破片を綿毛の上へ撒き散らしながら落ちた。羽音は止まり、静寂が戻る。だが、胸のざわめきは消えなかった…。 沢を渡り、尾根を越え、深い森へ入る。だが、どこへ逃げても同じだった。木には赤い目を持つ黒い箱が括り付けられている。近づけば小さな光が灯り、こちらを見つめてくる。 二本足たちは姿を隠したまま、見ている…。やがて遠くから声が響いた。「こっちだ!」「また壊されてるぞ!」綿毛を踏み荒らしながら、何匹もの二本足が山を登ってくる。長い筒を抱え、辺りを警戒しながら進んでいた。その匂いは、獲物を追う我
白い綿毛が山を覆ってから、生き物たちの気配は目に見えて減っていた。喰い物の4本足の群れは尾根の奥へ消え、水辺へ下りても銀色の生き物は薄い。小さな4本足たちまで、風の音に怯えるように姿を隠している。山が静かだった。だが、その静けさは以前とは違う。どこか落ち着かない。風の奥に、常に二本足の臭いが混ざっているからだ。煙の臭い。油の臭い。鉄の臭い。そして、山には存在しないはずの乾いた臭い。老いたオスと遭遇してから、その臭いは日に日に濃くなっていた。我は木々の間を歩きながら鼻を鳴らす。すると前方の木に、またあれがあった。細い紐で幹へ括り付けられた、小さな黒い箱。近づいた瞬間、箱の中央で赤い光が小さく灯る。我は足を止めた。丸い穴がこちらを向いている。生き物の目のようだった。だが、息遣いはない。体温もない。ただ、動かぬままこちらを見続けている。最初に見つけた時は、二本足の置き忘れだと思った。だが違った。箱を壊した山には、必ず後から二本足が増える。長い筒を持った者たちが何匹も山へ入り、雪を踏み荒らしながら歩き回る。木々へ触れ、地面を見つめ、まるで何かを追うように臭いを残していく。そして、その足跡は少しずつ我の縄張りへ近づいていた。我は低く唸りながら箱へ顔を寄せた。微かに、老いたオスと同じ臭いが混ざっている。煙、火薬。あの長い筒の臭い。腹の奥が熱を持つ。あの時、肩を裂かれた感覚が蘇った。我は前脚を振り抜く。箱は鈍い音を立てて砕け、硬い破片が白い綿毛の上へ散らばった。それでも胸のざわつきは消えなかった。我はその場を離れ、尾根を越え、沢を渡った。だが、どこへ行っても同じ臭いがある。木々へ括り付けられた黒い箱。こちらを向く丸い穴。近づけば灯る赤い光。まるで山そのものが、我を見ているようだった。その感覚が気に入らない。山を見るのは我だけでいい。匂いを辿り、獲物を探し、気配を読むのは山の主である我だけのはずだった。それなのに今は違う。二本足が山を覗いている。岩陰の奥まで。獣道の先まで。我が眠る場所の近くまで。知らぬ間に入り込み、姿を隠したままこちらを探している。我は木の幹へ身体を擦りつけながら、ゆっくり周囲を見回した。白い綿毛が静かに降っている。風は弱い、生き物の気配もない。それなのに、見られている。背の毛が逆立つ。不意に、遠くで乾いた音が響いた。二本足らの声。白い綿毛を踏み潰す足音。
巣穴へ戻っても、深い眠りは来なかった。肩の傷は浅い。舌で舐めれば血は止まり、肉もすぐ塞がる。それでも身体の奥が静まらない。目を閉じるたび、あの老いたオスの目が浮かぶ。小さく、老い、力も弱った二本足。喉へ牙を入れれば骨ごと砕けたはずだった。 それなのに、我は退いた…。白い綿毛が巣穴の外で音もなく降り続いている。山は静かだった。木々も、岩も、水の流れすら眠っているようだった。だが、我の内側だけが荒れていた。 腹の奥が熱い。 落ち着かぬ。 巣穴の中を歩き回り、壁へ身体を擦りつけても消えない。爪で土を掘り返し、唸り声を漏らしても静まらない。何故だ。何故、あの老いたオスから目を離せなかった。何故、我はあの場で飛びかからなかった。 思い返す。長い筒を向けたまま、一歩も退かなかった二本足。肩は震えていた。吐く息も乱れていた。畏れていたのだ。鼻先へ流れた匂いが、それを教えていた。だが、それだけではなかった。あの老いたオスの匂いには、別のものが混ざっていた。覚悟。そして、殺意。我を殺すという意思。喰い物が、牙を向けてきた。その記憶が、胸の奥を掻き乱している。低く唸りながら、我は巣穴の入口へ顔を向けた。白い綿毛の向こうに、暗い山が広がっている。この山は我の縄張りだ。縄張りへ入った生き物はすべて叩き潰した。四本足も、牙を持つ獣も、水辺の主さえ退けた。二本足も何匹も裂き、喰らった。逆らうものなど、もう居ないはずだった。それなのに。あの老いたオスだけは違った。身体の奥がざわつく。そして、不意に思い出した。まだ身体が小さかった頃。水辺の主と向かい合った時のことを。巨大な影。濁った息。睨まれただけで脚が動かなくなった。喉の奥が震え、逃げたいのに動けなかった。あの時の感覚。我はずっと忘れていた。だが今、同じものが胸の奥で蠢いている。違う。違う違う違う。 我は山の主だ。二本足など喰い物だ。 それなのに何故、胸がざわつく。何故、牙が疼く。若いメスの匂いが鼻の奥によみがえる。甘い匂いだった。まだ山の畏れを知らぬ肉。あの柔らかな首へ牙を沈める瞬間を想像しただけで、腹の奥が熱くなる。喰いたい。あの肉を喰いたい。だが同時に、老いたオスの目が浮かぶ。真っ直ぐ我を見ていた目。逃げぬ目。殺す覚悟を持った目。我は唸り声を漏らし、巣穴の奥へ爪を叩きつけた。土が弾け、乾いた石が転がる。それでも静まらない。眠れな