Se connecter喰う。 それが、生きるということだった。 深山に生まれた一頭のヒグマ。 母の匂い、兄弟の体温、そして消えていく命。 やがて山を知り、血を知り、支配を知る。 だがこの山には“王”がいた。 そして王は、人間によって消された。 空いた山。 残されたのは、次に王となる存在。 ――それは、この獣か。 人間の肉の匂いに引き寄せられながらも、 記憶がそれを拒む。 喰えば、山が騒ぐ。 それでも、牙は知っている。 これは、山の理。 弱肉強食の、その先へ。
Voir plus若いメスの匂いは、山の下から確かに流れていた。近い。木々の間を抜け、静かに木に囲われた巣へ向かう。風は我の方へ流れている。まだ気づかれてはいない。あと少しだった。その瞬間、山が裂けた…。轟音が響き、胸へ強い衝撃が走る。何が起きたのか理解する前に、熱いものが身体から吹き出していた。な、なんだ…。次の瞬間、また轟音。肩が砕け、脚がもつれる。熱い…。綿毛に身体が沈みかける。木々の向こうには、何匹もの二本足が並んでいる。なにをした…。全員が長い筒を構えている。その中央には、老いたオスが立っていた。我は咆哮した。だが三つ目の轟音が腹を貫く。身体から力が抜けていく。それでも前へ出ようとした。若いメスの匂いが、まだ鼻先に残っていたからだ。だが脚は動かなかった。身体が崩れる…。我は岩肌へ身体を預けながら、ゆっくり呼吸を繰り返した。息が浅い。白い綿毛が視界へ落ちてくる。風の匂いが薄れていった。その時、不意に親の匂いを思い出した。暗い穴、温かい身体、白い汁。胸の奥が静かになっていく。もう寒くなかった。やがて呼吸は止まり、山は静けさを取り戻した。二本足たちはしばらく動かなかった。誰も言葉を出さず、綿毛へ沈んだ巨体を見つめている。やがて老いたオスが煙を吐き、白く霞む山を見上げた。「これだけ捜索隊や捜索ヘリを飛ばしたら、もう山に生き物はおらん…。」若い者たちは黙ったままだった。老人は静かな声で続ける。「鹿も戻らん。魚も戻らん。生き物は帰らぬな…。」風が吹き、雪が舞う。「このクマを追い詰めたつもりじゃったが…。」老人は足元の巨体を見下ろしながら呟く。「本当に追い詰められたのは……このクマか?、わしら人間か?」誰も答えない。ただ風だけが、ヒグマの毛を揺らしていた。老人は目を細め、小さく呟く。「山の理は、いつも正しい」長い沈黙のあと、老人は空を見上げた。「山に喰うか、喰われるか……次に喰われるのは…人間じゃな。」 完
山から、生き物が消えていた。飢えは混乱を招き判断を誤らせる。もはや長き眠りに入れぬ身体ではないか…。毎日のように二本足たちが山へ入ってくる。山を踏み荒らし、長い筒を抱え、黒い羽虫を空へ放ち、黒い鳥の羽ばたきは山の木々を薙ぎ倒す。巣穴へ戻っても落ち着かない。耳を閉じても、あの羽音が頭の奥に残っている。腹が減っていた。何日もまともに喰っていない。身体が求めているものは、もう二本足のあのメス。恐怖に震えながら逃げる姿。汗と涙の匂い。牙を立てる前から漂う、あの甘い匂い。それだけが頭から離れない。我は巣穴の奥で目を閉じた。あの若いメスの姿が浮かぶ。老いたオスの後ろで震えていた、あのメス。あと少しだった。老いたオスがいなければ、あの柔らかな首へ牙を沈めていた。喰いたい…。喰いたい…。喰いたい…。喰いたい…。我はゆっくり立ち上がった。もう山には喰うものがない。二本足たちが山を壊す。…ならば…。最後に、あのメスだけは逃がさぬ。それだけを考えながら、我は山の中を歩き始めた。尾根を越え、沢を渡る。脚は重い。空腹で身体が軋む。それでも止まれなかった。風の奥から、微かにあの匂いが流れてくる。若いメス。忘れたことなど、一度もない。山の土を踏みしめながら、二本足の匂いが流れる方へ歩き続けた。
山は、明らかに変わっていた。白い綿毛を踏む音だけが尾根に響く。以前なら、どこかで山の四本足が枝を鳴らし、小さな生き物たちが枯葉の下を走っていた。沢へ下りれば銀色が跳ね、水の匂いが流れていた。だが今は違う。静かすぎた。風が木々を揺らす音ばかりが耳に残る。その静けさは冬の眠りではない。山そのものが、生命を絶っている気配だった。鼻先へ流れてくる匂いも変わっていた。 煙、油、鉄。そして、濃くなり続ける二本足たちの臭気。老いたオスと出会ってから、山へ入る二本足は急に増えた。尾根にも沢にも足跡が残り、見慣れぬ匂いが木々へ染みついている。腹を満たす為、綿毛を踏みしめながら、慎重に尾根を進んだ。軽い羽虫の音?いや、山に無い空気を切り裂きながらが低く、頭上から響いた。山の空を飛ぶ生き物ではない。我は反射的に顔を上げた。木々の隙間の向こう、空を滑るように黒い影が浮かんでいた。羽ばたきもしない。風にも逆らい、ゆっくりと山を舐め回すように動いている。 …黒い羽虫…。腹の下には丸い目のようなものがぶら下がり、真っ直ぐこちらを向いていた。 見られている。その感覚が、背中の毛を逆立てた。 咄嗟に木の陰へ身を沈めた、だが黒い羽虫は我を舐め回す様に近づいてくる。低い羽音が、頭の奥を掻き回すように響いた。山を見渡すのは主である我だけだ。風を読み、匂いを追い、気配を探る。それは山に生きるものの役目だ。 なのに今は違う…。二本足たちが空から山を覗いている。黒い羽虫はさらに近づく。羽音が大きくなるにつれ、胸の奥のざわめきが怒りへ変わっていった。次の瞬間、巨木へ身体をぶつける。乾いた破裂音と共に木が軋み、傾いた幹が黒い羽虫へ叩きつけられた。硬い音が山へ響く。黒い羽虫は砕け散り、黒い破片を綿毛の上へ撒き散らしながら落ちた。羽音は止まり、静寂が戻る。だが、胸のざわめきは消えなかった…。 沢を渡り、尾根を越え、深い森へ入る。だが、どこへ逃げても同じだった。木には赤い目を持つ黒い箱が括り付けられている。近づけば小さな光が灯り、こちらを見つめてくる。 二本足たちは姿を隠したまま、見ている…。やがて遠くから声が響いた。「こっちだ!」「また壊されてるぞ!」綿毛を踏み荒らしながら、何匹もの二本足が山を登ってくる。長い筒を抱え、辺りを警戒しながら進んでいた。その匂いは、獲物を追う我
白い綿毛が山を覆ってから、生き物たちの気配は目に見えて減っていた。喰い物の4本足の群れは尾根の奥へ消え、水辺へ下りても銀色の生き物は薄い。小さな4本足たちまで、風の音に怯えるように姿を隠している。山が静かだった。だが、その静けさは以前とは違う。どこか落ち着かない。風の奥に、常に二本足の臭いが混ざっているからだ。煙の臭い。油の臭い。鉄の臭い。そして、山には存在しないはずの乾いた臭い。老いたオスと遭遇してから、その臭いは日に日に濃くなっていた。我は木々の間を歩きながら鼻を鳴らす。すると前方の木に、またあれがあった。細い紐で幹へ括り付けられた、小さな黒い箱。近づいた瞬間、箱の中央で赤い光が小さく灯る。我は足を止めた。丸い穴がこちらを向いている。生き物の目のようだった。だが、息遣いはない。体温もない。ただ、動かぬままこちらを見続けている。最初に見つけた時は、二本足の置き忘れだと思った。だが違った。箱を壊した山には、必ず後から二本足が増える。長い筒を持った者たちが何匹も山へ入り、雪を踏み荒らしながら歩き回る。木々へ触れ、地面を見つめ、まるで何かを追うように臭いを残していく。そして、その足跡は少しずつ我の縄張りへ近づいていた。我は低く唸りながら箱へ顔を寄せた。微かに、老いたオスと同じ臭いが混ざっている。煙、火薬。あの長い筒の臭い。腹の奥が熱を持つ。あの時、肩を裂かれた感覚が蘇った。我は前脚を振り抜く。箱は鈍い音を立てて砕け、硬い破片が白い綿毛の上へ散らばった。それでも胸のざわつきは消えなかった。我はその場を離れ、尾根を越え、沢を渡った。だが、どこへ行っても同じ臭いがある。木々へ括り付けられた黒い箱。こちらを向く丸い穴。近づけば灯る赤い光。まるで山そのものが、我を見ているようだった。その感覚が気に入らない。山を見るのは我だけでいい。匂いを辿り、獲物を探し、気配を読むのは山の主である我だけのはずだった。それなのに今は違う。二本足が山を覗いている。岩陰の奥まで。獣道の先まで。我が眠る場所の近くまで。知らぬ間に入り込み、姿を隠したままこちらを探している。我は木の幹へ身体を擦りつけながら、ゆっくり周囲を見回した。白い綿毛が静かに降っている。風は弱い、生き物の気配もない。それなのに、見られている。背の毛が逆立つ。不意に、遠くで乾いた音が響いた。二本足らの声。白い綿毛を踏み潰す足音。