Masuk礼央は、片手を真衣の腰に、もう片方の手を彼女の首筋を守るように当てながら、力強く自分の胸へと引き寄せた。「俺がついてる」礼央はうつむき、低くかすれた声で、真衣の耳元で囁いた。「大丈夫、心配ない」真衣は顔を礼央の首筋に埋め、彼の匂いを深く吸い込んだ。一晩中、張り詰めていた気持ちが、この瞬間に少しずつ崩れ落ちていった。残ったのは、恐怖と依存心だけだった。「どうしてここに……?」真衣は震える声で言った。「こんな危険な船に、乗り込んでくるなんて……」「心配だったから」礼央は言った。「お前がヨットに乗ってから、ずっと落ち着かなくて。怖くて、仕方なかったんだ」礼央は、「怖い」などという言葉を口にするような男ではなかった。しかし、真衣の前では、彼は飾らない、素直な自分でいられた。「海は陸地とは違って、何かあっても、助けを求める相手がいない。どれだけ人を手配しても、お前の傍にいられなければ、俺は安心できない」真衣は胸が熱くなり、そっと「うん」と呟いた。「心配しないで、私は大丈夫だから」真衣は言った。「ここは安全だし、あなたが手配してくれた人たちも、後藤さんだっていてくれる。エリアスさんとも、仕事の話をしただけよ」エリアスの名を聞いて、礼央は表情を曇らせた。「彼、焦ってたみたい」真衣は声を潜めた。「提携の話の後、長期的な提携や独占契約を急いで進めようとしてた。さらに、話題を技術の共有や海外市場、世界平和にまで広げて……スケールが大きすぎるし、焦りすぎている。普通の実業家とは思えないわ」礼央は眉をひそめた。「なぜそんなに急ぐ必要がある」彼は独り言のように呟いた。「わからない」真衣は首を振った。「でも感じるの。彼は、できるだけ早く、私たちと独占契約を結びたがってる。遅れを取れば、何かが起こりそうな気がするの」礼央は真衣の頬を撫でて言った。「よくやった。承諾せず、関係を維持できている」「ただ、違和感を感じるの」真衣は声を潜めた。「今回の旅に、何か裏があるような気がして」「確かに単純じゃなさそうだ」礼央も声を潜めた。「でも心配ない、俺がついてる。要所には俺の部下がいて、安全ルートや緊急時の対応策、避難経路も全て整っている」礼央は、真剣な眼差しで言った。「ドアに鍵をかけて、俺が戻るまで部屋にいろ
時正は、指先にわずかに力を込めた。彼は礼央の言う通りだと、認めざるを得なかった。今の状態では、戦うどころか、少し動くだけで傷口が裂け、出血する可能性がある。礼央は時正を見て、口調を和らげた。「海上では、逃げ場はほとんど確保されていない」「俺には、真衣と君の安全を守る責任がある。君は貨物船に残り、退路を守っていてくれ」そう言うと、礼央はゴムボートの操縦者に合図した。ゴムボートは影のように、音もなくヨットの方へ向かった。時正はその場に立ち尽くし、ゴムボートを静かに見つめた。彼はゆっくりと目を閉じ、心に渦巻く焦燥感を押し殺した。礼央を信じるしかない。信じなければならない。ヨット内部には、穏やかな空気が流れていた。柔らかな照明に照らされた船内には、BGMが静かに流れていた。礼央が手配したクルーたちは連携し、巡回の視線を逸らしながら、監視の死角を広げていた。ゴムボートがヨットの乗船口に停まった。礼央は、物音を立てることなく、ヨットのデッキに移った。彼は静かに廊下の影に身を潜めた。亮太が物影に気付き、こちらを見たが、それが礼央だと気づくと、彼はさりげなく視線を背けた。亮太以外、誰も礼央に気付かなかった。誰一人として。礼央は、真衣のいる部屋へ向かった。彼はすでに船内のレイアウトを把握していた。礼央は、真衣の部屋の前に来ると、周囲に誰もいないことを確認し、鍵をこじ開けた。鍵が「カチッ」と音を立て、ドアが開いた。礼央は部屋に入ると、そっと鍵をかけた。一連の動作は素早く、風のように静かだった。部屋には、小さなランプが一つ灯っているだけだった。真衣はベッドに横たわっていたが、熟睡してはいなかった。エリアスの過剰な親切や大袈裟な言葉が頭から離れず、不安が募るばかりで、浅い眠りからすぐに目が覚めてしまうのだ。ぼんやりとした意識の中、微かにドアの開く音が聞こえた。その瞬間、心臓が激しく鼓動した。誰かいる。真衣は身体をこわばらせ、そっと手を枕の下に伸ばした――彼女は、枕の下に礼央から渡されたナイフを忍ばせていた。真衣は、静かに横たわったまま、耳を澄ました。近づいて来る足音には、慌てた様子はなく、ゆっくりとした、落ち着きのある足取りだった。薄暗い部屋の中、見慣
「エリアスは、一体何者なんでしょう?」時正が言った。礼央は少し沈黙した後、淡々と言った。「表向きは海外の事業家だが、その素性は……まだ調査中だ。ただ、一つだけはっきりしていることがある――彼と山口社長には、面識がある」時正の表情が険しくなった。「それを知っていて、寺原さんを行かせたのですか?」「蛇をおびき寄せるためだ」礼央は時正を見て言った。「こちらから動かなければ、山口社長は決して姿を現さない。真衣を表舞台に立てば、彼はきっと本性を露にする」「彼女をおとりに?」「ああ」礼央はあっさりと認めた。「ただ、俺は命懸けで、そのおとりを連れ戻す」時正は、黙ったまま、礼央の瞳を見つめていた。彼は悟った。礼央は決して、動揺していないわけではない。彼は動揺を胸に押し込め、入念な計画や警戒、伏線に切り変えていたのだ。海の上、ヨットは穏やかに航路を進んでいた。しかし水面下では、一触即発の緊張感が渦巻いていた。真衣は静かに座り、指先でそっと携帯の画面を撫でていた。岸辺で礼央と時正が自分の身を案じていることや、この提携関係の背後に、どれほどの生死がかかっているのかを彼女は知らなかった。ただ分かっているのは――このヨットに乗ったことは、決して無駄ではなかった、ということだ。-次第に、空が暮れていった。空が暗くなるにつれ、海風は湿り気と冷たさを増し、船体に打ち寄せる波音が、海域全体をいっそう静寂に包み込んでいた。遠くには、数隻の貨物船がゆっくりと航行していた。貨物船の灯りは小さく、夜の闇に溶け込むように、微かに明滅していた。その中の一隻が、礼央の手配した貨物船であることなど、誰も想像できないだろう。彼は敢えて、護衛船を使って警戒するような、派手な手段を取らなかった。海上においては、目立たないことこそが最も安全な接近方法だといえる。礼央は着替えを済ませ、全身黒色の衣服を身に纏い、貨物船のデッキの暗がりから、鋭い目で遠くを航行するヨットを見つめた。礼央はまるで、獲物を待ち構えるように、微動だにせず、遠くから次第に近づいてくるヨットから目を離さなかった。「礼央さん、まもなくです」傍で部下が伝えた。「ヨットの速度は安定しており、警備の巡回ルートも把握済みです。三分後、死角が生じた隙に乗
真衣は向きを変えて会議室を出ると、ドアを静かに閉めた。浮かんでいた穏やかな笑みが、少しずつ薄れていった。彼女は左右にそっと目を走らせながら、静かな廊下を歩いた。廊下に、礼央が手配した人員を二、三人確認でき、彼らは何事もないように巡回していた。廊下の窓際にもたれていた亮太は、真衣を見ると頷き――安全であることを暗に知らせた。真衣は休憩室に入り、ドアに鍵をかけた。部屋は広くはないが、整然として居心地が良かった。真衣は、まずコンセント、スタンドライト、置物、電話を調べ、異常がないことを確認すると、ようやく少し安堵の息をついた。ベッドの傍に近づいた時、携帯が振動した。画面に名前が表示された。礼央。真衣の胸が痛んだ。彼女は、このような得たいの知れない場所で、決して気を緩めてはならないと心得ていた。盗聴、GPS、録音……一つでもミスがあれば、すべてを危険に巻き込む可能性がある。真衣は深呼吸し、努めて穏やかな声で電話に出た。「もしもし」「今どこにいる?」受話器から穏やかな礼央の声が聞こえた。「ヨットの上よ、さっき話し合いが終わったところ」真衣は続けた。「風も穏やかで、大きな揺れはないわ」風も穏やかで、大きな揺れはない。その言葉で、真衣は安全であることを暗に示し、礼央もそれを理解した。電話の向こうで礼央は少しの間沈黙し、淡々と言った。「疲れてないか?」「大丈夫、それほど疲れてないわ」真衣は続けた。「材料に問題もなく、すべて順調よ」貨物は正常、人員も自分も安全。「千咲は?」彼女は何気なく話題を変えた。「ちゃんとご飯を食べてる?」礼央はすぐに理解した。真衣は、周りに盗聴器はないため日常会話をしても支障はないが、宗一郎などについては口にすべきではないと暗に示している。「少し騒いでいたけど、もう寝かしつけたよ」彼の声は柔らかくなった。「君は自分のことに集中して。家のことは心配しなくていい」「ありがとう」真衣は頷いた。「また帰ってからゆっくり話そう」「ああ」礼央も頷いた。「道中気をつけて。何かあったら、すぐ連絡してくれ」「うん」真衣は声を潜めた。「じゃあ、そろそろ切るわね」「ああ」電話が切れた。真衣は携帯を握りしめ、ゆっくりとベッドにもたれ、長く息を吐いた。心は、落
穏やかに見えた提携関係の裏では、すでに激しい駆け引きが繰り広げられていた。海上では。白いヨットが紺碧の海を滑るように進んでいた。船内の会議室には、穏やかなBGMが静かに流れていた。エリアスは真衣の向かいに座っていた。彼は穏やかな笑みを浮かべ、紳士的に振る舞い、辺りには和やかな雰囲気が漂っていた。テーブルの上に置かれた書類は、すでに最後のページに達していた。「寺原さん」エリアスは言った。「こちらの材料についても、もう確認済みですよね。最初のロットが問題なく納品されれば、その後は長期的に安定した供給が可能となり、生産能力の拡大も見込めます」真衣は穏やかな表情で言った。「エリアスさんの誠意は、十分に伝わりました。短期間の提携関係であれば問題ありません。少しずつ擦り合わせていきましょう」「短期だけですか?」エリアスは笑顔で言った。「寺原さん、私はあなたと長期的に、排他的な提携関係を築きたいと思っています」真衣はすぐには返事をせず、ただ静かに彼を見つめた。「あなたが以前から海外市場の拡大を考えておられたことは、承知しています」エリアスは真衣の心中を見透かしたように言った。「あなたには技術も、リソースも、評判もある。足りないのは、安全で、安定した、頼れる海外拠点だけ。そして私が、その拠点を提供できる」エリアスは前のめりになり、声を落として、誘惑するように言った。「私と組めば、誰の顔色もうかがう必要はなく、地元の争いに巻き込まれることもない。共に技術を確立し、市場を拡大し、どこへ行っても、双方がウィンウィンの関係ですよ」真衣はわずかに指先を動かした。彼の話は、あまりにもできすぎている。単なるビジネスマンが口にする言葉とは思えない。「技術を共有し、ビジネスを拡大することは、皆にとっていいことです」エリアスは笑みを浮かべていたが、瞳にはどこか異様な確信が宿っていた。「さらに大きな視点で言えば――技術が通じ、情報が通じ、人心が通じれば、世界平和も決して不可能なことではない」真衣の表情が、微かにこわばった。海外の実業家が発する言葉としては、あまりにも唐突で、重みがあった。真衣は、変わらず微笑んで頷いたが、口を緩めることはなかった。「エリアスさんは、先見の明をお持ちなのですね。提携の件につい
車は高瀬家の実家を離れ、埠頭へ向かって疾走した。時正は助手席に座り、指先で無意識に眉間を押さえていた。脇腹の傷が疼いたが、そんなことを構っている余裕はなかった。真衣がヨットにいると思うと、胸にどうしようもなく焦燥感が込み上げてきた。宗一郎がどんな人物か、彼は誰よりもよく知っている。冷酷非情で、手段を選ばず、一度獲物を狙えば、決して簡単に手放したりしない。昨夜、埠頭で船が爆破されたばかりだ。今日は重要な取引相手が乗船している。相手が少しでも邪念を抱けば、船全体が地獄と化すだろう。時正は礼央の横顔を一瞥し、眉をひそめた。意外だったのは、わずか数分のうちに、礼央が平静を取り戻したことだった。彼は落ち着いた表情でハンドルを握り、普段よりも、冷静さを保っているように見えた。妻が危険に晒されている夫の顔には見えなかった。時正は、声を潜めて尋ねた。「寺原さんのこと、心配じゃないんですか?」礼央は変わらず、落ち着いた表情で、じっと前方を見つめ、運転に集中していた。彼はゆっくりと目を伏せ、携帯の画面を一瞥して言った。「心配だ」礼央は淡々と続けた。「だが今は、まだ慌てる段階ではない」時正は驚いた。「どういう意味ですか?山口社長が近くで……彼らを監視している可能性すらあるんですよ?」礼央は声を潜めて言った。「だが、彼はまだ手を出さないだろう」時正は眉をひそめた。「なぜ、そう言い切れるんです?」「前もって調べていたからだ」礼央は、淡々と言った。「埠頭で船が爆破され、君が襲われた翌日に、何の準備もせず、真衣を行かせると思うか?貨物やヨット、エリアスという男について、俺は三日前に調査し終えていた。ヨットのクルー、給仕、警備員の大半は、俺が送り込んだ人間だ。亮太はあくまで表向きの護衛だ。裏にはさらに五人の護衛がいて、彼らは二十四時間体制でヨット周辺の監視にあたっている」時正の瞳が微かに震えた。礼央が慎重であることは分かっていたが、ここまで徹底しているとは思わなかった。「船底、デッキ、休息室、会議室、倉庫を三度ずつ、徹底的に調べさせておいた。盗聴器、GPS、爆発物の痕跡、不審者……すべてをしらみつぶしに調査した」礼央はうつむいて言った。「今のところ、ヨットはほぼ安全だと考えていい」
これは礼央が果たすべき責任であり、文彦と富子への約束でもあった。延佳は彼が去っていく後ろ姿を見送った。彼の顔からは笑みが徐々に消え、目つきも険しくなっていった。彼は礼央の背中に向かって叫んだ。「礼央、俺に言いたいことは何かないのか?真衣のことについて、気にならないのか?」礼央の足が一瞬止まったが、彼は振り向かず淡々と言った。「知りたくもない」そう言うと、彼は会議室から立ち去った。延佳は一人蒼白な顔をしながらその場に立ち尽くしていた。礼央は高瀬グループのビルを出て、空を見上げた。日差しは眩しかったが、彼の心の陰鬱を照らすことはできなかった。彼は携帯を取り出し、湊に電話をか
-北城にて。礼央は病院で点滴を受けている。湊が彼のそばに歩み寄った。彼は深く息を吸った。「高瀬社長、公徳さんが寺原さんのところへ行かれました」礼央の瞳が冷たく光った。彼は何も言わず、点滴の針を抜いて立ち上がった。湊は、礼央の体調的に、絶対に安静する必要があると考えていた。しかし、湊は彼を止めることもできず、ただ付いていくしかなかった。外に出ると、礼央はすでに車に乗って行ってしまった。湊は歯を食いしばり、別の車で追った。礼央は運転席に座り、蒼白な顔をしていた。腕には針を抜いた後の跡が残っているが、彼は全く気にしていなかった。礼央は公徳の性格をよ
「俺たちはただ、君が翔太を自分の実の子として認めてくれて、安定した家庭を彼に与えられればそれでいいんだ。こんな大げさに騒ぐ必要はないんだ。それに、会社の財産は高瀬家の正統な後継者のためにあるものだ。こんなに簡単に分け与えるのは適切ではないと思うけどな」「正統な後継者?」礼央は鼻で笑った。「兄貴、その言葉はどういう意味だ?俺が高瀬家の後継者として、財産の分配を決める資格すらないとでも言うのか?」延佳は首を振った。「そういう意味ではない。ただ、この件は慎重に考えるべきだと思っただけだ」「慎重に?」礼央は詰め寄った。「翔太を連れて帰った時、どうして慎重に考えなかったんだ?今さら他人事
礼央は我に返り、「手配してくれ。山口社長が延佳に情報を伝えた証拠をまとめておくんだ。彼が動き次第、すぐにネットで公開する」「わかりました。すぐ手配します」湊は頷き、背を向けて勢いよく去っていった。オフィスは再び静寂に包まれ、礼央は窓の外の夜景を見つめながら、心の中はもやもやしていた。彼はわかっていた。明日の入札会は激戦になるだろうと。延佳は手段を選ばずプロジェクトを横取りしようとする。真衣と千咲を使って脅してくるかもしれない。万全の準備が必要だ。プロジェクト自体を守るだけでなく、守るべき人たちも守らなければならない。一方、真衣はベッドの中で寝返りを打っていた。明日はKJ







