Masuk「承知しました、時正さん!すぐに調べ、何か情報が入り次第、連絡します!」忍野は真剣な口調で言った。「頼む」時正は淡々と応じた。「ここには来るな。あと、誰にも気づかれるな。何かわかり次第、連絡をくれ」「はい!」電話が切れた。診療室は再び静まり返った。麗蘭は少し離れたところから、「山口社長」という名前をはっきりと聞いた。彼女は静かに、拳を握りしめた。やはりあの闇は、決して消えたわけではなかったのだ。彼女が再出発した裏側で、依然として激しい波が渦巻いていたのだ。時正は携帯を置き、麗蘭を見つめた。彼女は、柔らかな照明の下、医者らしい輝きに満ちた瞳をしていた。しかし、自分は全身血まみれで、両手は汚れ、穢れているような気がした。後ろめたさの理由は、あの一夜の屈辱だけではない。本来、彼女が生きるべきだった、穏やかな人生を奪ってしまったことだった。-窓の外、夜はさらに更けていった。クリニックは優しい明かりに照らされていたが、その明かりは、二人の過去と傷痕には届かなかった。麗蘭は目を逸らして言った。「それじゃあ、ゆっくり休んでね。夜明け前に、ここを出て行って。これからは、互いの道を進みましょう。もう……互いに借りはないわ」時正は黙って、彼女を見つめた。-翌朝。麗蘭は、微かなドアの閉まる音で目を覚ました。彼女は目を閉じたまま、診察室の隣の休憩用ソファに横たわっていた。一晩中、時正に付き添い。彼女はほとんど眠っていなかった。部屋には、もう時正の気配はなかった。部屋には、ほのかな消毒液のにおいが漂っていた。彼女は、脈打つこめかみを揉みながら、彼が横たわっていたソファを見つめた。彼が使っていたクッションにはシワ一つなく、まるで誰もいなかったようだった。脇腹の傷、荒い息遣い、重苦しい眼差し。彼がかすれた声で言った「ありがとう」という言葉……そのすべてが、夢のように思えた。麗蘭は唇を噛みしめ、言葉にできない虚しさを無理やり押し殺した。これでいい。これで終わり。もう、互いに干渉することもなくなる。麗蘭は立ち上がり、さっと身支度を整え、鏡に映った青白い顔を見つめた。琴美の策略、昨夜の出来事、時正の傷だらけの身体、そして未だ繋ぎ合わさせられない記憶の断片……そのす
縫合中、麗蘭の指先が時折、時正の腰に微かに触れた。彼女の吐息は軽く暖かく、彼の痛みさえも、優しさで覆われるようだった。数分が、一世紀のように長く感じられた。縫合を終え、糸を切ると、麗蘭は安堵の息をついた。彼女は滅菌ガーゼを取り、傷口に注意深く当て、テープでそっと固定した。「これでいいわ」麗蘭はかすれた声で言った。「一時的に止血できた。薬は時間通りに替えて、激しい運動は避け、傷口を引っ張らないように。一週間ほどでひとまず落ち着くはずよ」麗蘭は立ち上がり、器具を片付けようとしたが、ふいに手首を掴まれた。時正は彼女をじっと見つめて言った。「ありがとう」麗蘭は高鳴る胸を抑え、背を向けて淡々と言った。「医者として、当然のことをしたまでよ」部屋の中は静まり返り、二人の呼吸音だけが静かに響いた。しばらくして、時正が言った。「シャワーを浴びたい」麗蘭は手を止め、眉をひそめて言った。「やめておいた方がいいわ。今縫合したばかりだし、傷口が水に触れると感染しやすいから」「血と汗まみれで、眠れない」彼は頑なに言った。「せめて、身体を拭くだけでもいいんだ」麗蘭は彼を見つめた。時正は上半身裸で、腰には包帯が巻かれている。また、今回の傷とは別に、昔受けたのであろう、古傷もあった。麗蘭は沈黙した後、落ち着いた声で言った。「どうしてもと言うなら、私が拭いてあげる」時正は、少し驚いた表情を見せた。「あなたが動くと、傷口に負担がかかるから」麗蘭の口調はあくまで自然だった。「私が、傷口を避けて、他の汚れた部分を拭くわ」彼女は、時正の驚いた表情を見て、わずかに口元を緩め、皮肉っぽく言った。「なあに?今まで散々、人の弱みにつけこんでおいて、私に身体を拭かれることが怖いの?」時正は、眉をひそめた。彼はそれ以上、その話をしなかった。自分に、そんなことを言う資格はない。麗蘭は、時正の顔をじっと見つめた。彼女は目を逸らし、温かいお茶を彼に手渡して言った。「お茶を飲んで、少し休んで。具合がよくなったら、帰って構わないわ」時正は湯呑みを受け取ると、指先から温もりが伝わってきた。彼は携帯を取り出し、側近の忍野(おしの)に電話をかけた。電話はすぐに通じ、受話器から忍野の声が聞こえた。「時正さん!今、どちらに?ずっと
「服を脱いで」麗蘭は救急箱を開けながら言った。時正は手を止めた。「傷口は脇腹にある。服を脱がなきゃ、治療ができないでしょう」麗蘭は顔を上げず、冷静な口調で話した。「時間を無駄にしないで。もうかなりの血を流しているんだから」その冷静さに、彼はなぜかほっとした。時正はためらわず、片手でソファを支えて身体を起こし、もう一方の手でゆっくりと上着を脱いだ。しかし、中に着ていたシャツは血でべったりと肌に張り付いており、さすがの彼も、剥がす時に思わずうめき声を上げた。服を脱ぐと、脇腹にある、長さ七、八センチほどの傷が露になった。傷口からはまだ血が滲み出ており、その深さから、鋭利な刃物で刺されたことがわかった。傷はかなり深く、放っておけば感染して炎症を起こし、より深刻な問題を起こしかねない。麗蘭の指先が、わずかに震えた。彼女は深く息を吸い、余計な感情をすべて押し殺した。「これから患部を洗浄する。かなり痛いと思うけど、少し我慢してね」麗蘭は手袋をはめ、生理食塩水を取り出し、傷口の血や汚れを洗い流した。生理食塩水が傷口に触れると、時正は身体をこわばらせ、額には冷や汗が滲んだが、彼は終始うめき声を上げずに耐えていた。麗蘭は真剣な眼差しで、落ち着いて、的確な処置をした。洗浄が終わると、彼女は消毒薬と綿棒を使って、時正ができるだけ痛みを感じないように、傷口の内部を少しずつ消毒した。「痛かったらこれを掴んで」麗蘭はそう言いながら、清潔なタオルを差し出した。時正はタオルを受け取らず、じっと麗蘭を見つめた。照明が彼女のまつげに落ち、柔らかく小さな影を作っていた。時正は、麗蘭の真剣な表情から目が離せずにいた。「麗蘭さん……」時正はかすれた声で、口を開いた。「話さないで」彼女は彼の言葉を遮った。「気が散ると、治療に集中できないから」時正は何も言わず、ただ静かに彼女を見つめた。雰囲気が少しずつ曖昧になっていった。もはや敵でも、もつれ合うかつての恋人同士でも、屈辱的な一夜を共にした男女でもない。今だけは、医者と患者でいられた。彼女は一心に治療し、彼は彼女に応じた。消毒を終えると、麗蘭は縫合針と縫合糸を手に取った。「今から縫合する。さっきより痛いと思うわ」彼女は続けた。「我慢できなかったら、私
夜風に吹かれ、辺りに血のにおいが漂っていた。時正は麗蘭に背を向けた。脇腹からはなお、鮮血が流れ、血に染まった衣服が、彼の肌にべったりと張り付いていた。息をするたびに、身が引き裂かれるような激痛が走ったが、彼は痛みを堪えながら、一歩一歩足を踏み出した。絶対に、彼女を巻き込んではいけない。心配ない。この程度の傷で、死ぬことはない。部下が駆けつけるまで持ちこたえ、適切な処置をすれば問題はないはずだ。時正は麗蘭に同情されることや、たとえ彼女が医者でも、今の惨めな状態の自分を救ってほしいとは思わなかった。麗蘭は、ふらつく足取りで、その場を立ち去ろうとする時正の背中を見つめ、胸が締め付けられるように痛んだ。彼への恨みや憎しみ、今まで受けた数々の屈辱は、苦しそうな彼の背中を前に、一瞬のうちに、心の片隅に忘れ去られてしまった。麗蘭はためらわず、もう一度駆け寄り、時正の腕を掴んだ。生温かく、湿ったような感触に、麗蘭の胸は再び締め付けられるように痛んだ。「私は離れない」麗蘭は、落ち着いた声で呟くように言った。彼女は顔を上げて続けた。「私は医者よ。傷ついた人を助けるのは、私の天職なの。あなたがどう思おうと構わない。でも、このままあなたを放ってはおけない。どうしても来ないと言うなら、私もここを離れないわ。あなたの身体は、手当をしなきゃ持ち堪えられない」時正の胸に、怒りや動揺、無力感、そして彼自身も認めたくないような不思議な感情が、激しく渦巻いていた。彼はもう一度彼女を怒鳴りつけ、冷酷な言葉で彼女を追い払おうとしたが、彼女の頑なな瞳を見て、言葉を呑み込んでしまった。時正はこの瞳をよく知っている。頑なで潔い麗蘭の瞳。決して譲らない、医者としてのプライド。彼は逆らえなかった。結局、受け入れるしかできなかった。時正は目を閉じ、ため息を吐いた。もはや、彼女を拒絶することも、再び「失せろ」と言うこともできなかった。彼はただ、沈黙した。麗蘭は安堵の息をつき、時正の肩を支えながら、ゆっくりと歩き出した。力の入らない時正の身体を支えるのは大変だったが、首筋に彼の温かい吐息を感じ、麗蘭はなぜか安心感を覚えた。道中、二人は一言も話さなかった。ただ、二人の足音と、息遣いだけが静かに響いていた。十分後
麗蘭だった。時正の全身が硬直した。全身から血の気が引いた。彼は、身体中が血まみれの、これほど惨めな状態で、まさか今、麗蘭に出会うとは想像もしていなかった。麗蘭も呆然としていた。彼女は夜中眠れず、買い物に出かけたのだが、まさか帰りに、時正に出会うとは思っていなかった。時正の顔は紙のように青白く、彼は片手で必死に脇腹を押さえていた。街灯の下、彼の衣服は血で真っ赤に染まっており、手のひらからは血が滴り落ちてきていた。また、彼の身体からは血のにおいに混じって、火薬のにおいもしていた。普段の冷徹非常な時正とは、まるで別人のようだった。麗蘭は胸が高鳴り、その場に立ち尽くした。彼女は、ぼんやりと彼を見つめた。反応することも、憎しみも、彼を打ったことも、屈辱や絶望も、その瞬間にすべて忘れてしまった。ただ――全身傷だらけで、今にも倒れそうなのに、それでもなおこちらを見つめている男を見つめた。深い夜の闇の中、路地は静まり返っていた。血が一滴、また一滴と、地面に落ちていく。ポタ、ポタと音を立てながら。まるで、二人の鼓動のように響いていた。時正の脇腹からは、生温かい血が絶えず滴っていた。時正は、はっきりと目の前の人物が麗蘭だと認識した。そして、彼は決意した。彼女を巻き込んではならない。つい先ほどまで、この近くで乱闘騒ぎがあった。まだ追手が近くにいるかもしれない。自分と関われば、彼女までトラブルに巻き込んでしまうかもしれない。次の瞬間、時正は振り返り、必死に痛みを堪えながら、反対方向へ歩き出した。一歩足を踏み出すたびに、激痛が走った。しかし、彼は立ち止まれなかった。ただ、一刻も早く麗蘭から離れたかった。時正は、元々身体が丈夫だ。この程度の傷ではまず死なないだろう。安全な場所まで持ちこたえ、後で医者に処置させればいい。彼女に構わせる必要はない。いや、構わせてはならない。麗蘭は、無理をしてその場を立ち去ろうとする時正の背中を見て、胸が痛んだ。夜の闇、冷たい風、血痕、青ざめた彼の横顔……それらのすべてが、彼女の恨みや、もう彼に会わないという決意を吹き飛ばしてしまった。麗蘭はほとんど無意識に駆け寄り、時正の腕を掴んで言った。「ついて来て」時正は身体をこわばらせた。
運転手は、すぐに車を発進させ、黒いセダンは音もなく埠頭を離れた。パトカーが到着した頃、埠頭には焼け跡の荒れ果てた光景と、人気のない海しかなかった。黒いセダンは、街灯もまばらな道を走っていた。時正は目を閉じたまま、座席にもたれていた。爆破で証拠を消すことには成功したが、同時に、陰で彼を監視していた者たちの注意を引いてしまった。時正に資金源を断たれ、恨みを持ち、彼の弱みを握ろうとしていた組織に、その機会を与えてしまったのだ。「時正さん、後を尾けられているようです」運転手は張り詰めた声で言った。「警察ではないようですが、正体は不明です」時正は、ゆっくりと目を開けた。バックミラーを覗くと、ナンバープレートのない黒い車両が二台、後ろにぴったりとついてきている。「振り切れ」時正は落ち着いた声で言った。「はい」運転手は、尾行を振り切ろうと、アクセルを踏み込んだ。車は瞬時に加速し、猛スピードで深夜の街路を駆け抜けた。しかし、運転手が必死で振り切ろうとしても、相手は執拗に追跡し続けた。間もなく、相手は加速して接近し、そのまま突進してきた。「ドンッ――」大きな音が響き、後部に激突され、車体が激しく揺れた。運転手が青ざめた顔で言った。「時正さん、相手は我々の命を狙っているようです!」「狭い路地に停車しろ」時正は冷静に指示を出した。「急げ」彼の傍にいたボディガードは身構えた。車は急カーブを曲がり、狭い路地に入った。この辺りは地形が複雑で、守りやすく攻めにくい。厄介な相手を始末するには最適の場所だった。車が停まると、後続車も路地に入り、車から鉄パイプや刃物を持った十数人の男たちが下りて来て、時正の車を取り囲んだ。彼らは前置きなく、すぐに手を出してきた。深夜の路地裏に、激しい打撃音やうめき声、鈍い金属音が響いた。時正は、ドアを開けて車から降りた。若い頃から何度も生死を分ける場面を経験してきた時正の身のこなしは、以前と変わらず鋭く、彼は相手の急所を的確に狙った。だが、相手は数が多く、しかもすべてが無法者で、彼らは卑怯な手を使ってきた。混乱の中、突然、冷たい光が走った。鋭利なナイフが、彼の脇腹に向かってきた。時正は身を躱そうとしたが、ほんの一瞬遅かった。「ズブッ――」ナイフが
菜摘はもともと真衣に対して不満を抱いていた。今となっては、さらに理不尽な言葉を浴びせてくるようになっていた。「家に用事があるなら、片付けてから出てくればいい。ここで恥を晒して足を引っ張らないで」その時、チームメンバーの石岡咲喜(いしおか さき)が口を挟んだ。「もういい、会議室でミーティングだわ」一度会社に入ってチームの一員になった以上、どれだけ排斥しようが意味はない。入社したという事実は変わらないのだ。菜摘は冷ややかに鼻で笑い、踵を返して会議室へと歩いていった。咲喜は真衣を見て、少し気の毒に思いながら声をかけた。「菜摘はああいう性格なんだ。優秀でプライドも高いから、あな
礼央は無表情のまま真衣に目を向けたが、その眼差しの奥にはどこか可笑しさを含んでいるようだった。きっと礼央自身も、こんな茶番を続けることに嫌気が差しているのだろう。だが、真衣はそんな礼央の態度など気にも留めなかった。すっと立ち上がり、千咲の手を取って、その場を後にする。事前に手配しておいたタクシーがすでに待っていた。礼央と同じ車で帰るなんて、真衣にとっては屈辱以外の何物でもなかった。「ママ、どうしちゃったの?そんなに怒っていて……」翔太はきょとんとした顔で、去っていく真衣の背中を見つめながら首を傾げた。礼央は何も答えず、淡々と視線を逸らしただけだった。「パパ、放課後に萌寧
真衣はこの本宅にも、ちゃんと着替えを置いていた。ドアを閉めた瞬間、庭先を通りかかる雪乃と鉢合わせる。「真衣」大きな雨傘を差した雪乃が、門のほうへと歩み寄ってきた。「礼央は?一緒じゃないの?」真衣は、その口ぶりがわざとらしいからかいと挑発であることをすぐに察した。「礼央のことなら、直接電話すれば?」皮肉な笑みを浮かべてそう返すと、雪乃の目に映ったのは、まるで別人のように変わった真衣の姿だった。以前の真衣は、まるで腰巾着のように高瀬家の人間に気を遣い、媚びるような態度だった。それが今では、人が変わったかのように、どこか距離を置き、見下ろすような冷ややかさを漂わせている。
「君は間違っている」礼央は言った。「俺と君は、同じ種類の人間ではない」礼央が求めてきたものは、名誉や地位、権力などではなかった。彼が望んだのは、真衣と千咲の無事と、かつて埋もれていた真実、そして高瀬グループが正しい道を歩み続けることだけだった。宗一郎の表情が険しくなった。「つまり、私の申し出を断るということか?」「ああ」礼央はきっぱりと言った。「君と手を組むことはない」宗一郎は礼央の言った言葉の真偽を探るように、彼の顔をじっと見つめた。やがて、彼は口角を吊り上げ、冷笑して言った。「そうか、それはいい選択だ」「さすがは高瀬社長、やはりガッツのある男だ」宗一郎は小銭







