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第7話

作者: 一匹の金魚
男の冷ややかな声が耳に届き、その響きはひときわ耳障りだった。

真衣が振り返ると、彼の漆黒の瞳と視線が合った。冷たく、感情のかけらもないその眼差し。

彼は相変わらずだった。何の事情も理解しようとせず、彼女と娘が悪いと決めつけ、無条件で萌寧と翔太の側に立つ。

礼央は彼女が何か言うよりも早く、視線を萌寧に移し、少しだけ声の調子を和らげて言った。「中に入って朝食を食べよう」

彼は千咲に一瞥もくれず、そのままあの二人について病室へ入り、扉を閉めた。

閉ざされた扉を見つめながら、真衣は拳を固く握り締めた。爪が食い込み、手のひらが痛むほどに。

礼央の冷たい態度を前に、彼女の瞳はさらに深く、冷え切った色を帯びていく。

どうして、あんな無関心な態度に耐えて、これまで何年も過ごしてこられたのか。

思えば思うほど、笑ってしまうくらい滑稽だった。

もし彼女が礼央の愛を執拗に求めず、もっと早く娘を連れて離れていたら。前世で、あんな悲劇は起きなかったかもしれない。

「ママ、もうだいぶ良くなったから、今日退院しよう」

真衣はその素直で従順な娘を見つめ、心の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。「これからは誰かにいじめられても、我慢しなくていいの。いい?」

「わかった」千咲は素直に頷いた。

-

真衣は千咲の退院手続きを済ませると、その足で実母に会いに向かった。

母は郊外の別荘に住んでいた。市内から少し離れていたが、空気もよく、景色も穏やかだった。

両親は長い間、離婚問題で揉めていた。だが父親の方がなかなか同意せず、母はついに自ら家を出て、ここに移り住んでいたのだった。

真衣はよく千咲を連れて、母のもとで心の内を語るのが好きだった。

千咲は祖母の顔を見ると嬉しそうに駆け寄り、その腕の中で甘えた。

寺原慧美(てらばら さとみ、旧姓青木(あおき))は笑みを浮かべながら、千咲を抱き上げた。「まあまあ、千咲、また背が伸びたんじゃない?今日はおばあちゃんのところへ来て、何が食べたいの?おばあちゃんが作ってあげるよ」

「ステーキが食べたい!」

「はいはい、作ってあげるよ」

慧美はしばらく千咲をあやしてから、「テレビでも見てなさい」と2階へ行かせた。

それから、真衣の方を見た。「今日は水曜よね?どうして来れたの?」

真衣は椅子に腰を下ろしながら尋ねた。「最近、ビジネスの方は順調?」

慧美は自分の事業を切り盛りしていたが、最近は状況が芳しくなかった。売り上げは右肩下がりで、ほとんどが赤字続きだった。

その事業のせいで、寺原景司(てらばら けいじ)は離婚に首を縦に振らなかった。二人は長年連れ添っていた分、財産の分割を巡る対立も大きく、利益の絡みも深かった。離婚は、そう簡単に済ませられる話ではなかった。

景司はとっくに外に愛人を囲っており、その愛人とのあいだに一男一女をもうけていた。だからこそ、景司は真衣のことをずっと疎ましく思っていた。

真衣が礼央と結婚した後、景司は意図的に接近を図り、礼央の人脈を利用して商売をしようと目論んでいた。

だが、礼央は真衣を好いておらず、当然、彼女の家族のことなど気にかけるはずもなかった。

そのため景司は激怒し、慧美に「こんな金食い虫を産みやがって」と罵声を浴びせた。

慧美は、「相変わらずね」とつぶやいた。

真衣はわずかに眉を伏せた。ここ数年、余裕のあるときには母に送金していたが、母の事業の詳細までは深く関心を寄せてこなかった。

前の人生では、彼女はすべてを礼央に捧げていた。娘が亡くなる二日前、ようやく母の事業が破産を宣告されたのだった。

「しばらくしたら、またお金を振り込むつもり。そのときに会社の運営モデルを見直してみて。今のやり方はもう古すぎて時代に合ってないわ。新エネルギー系の新興産業に投資するのもいいし、会社の中で考え方が古い幹部たちは、必要なら思い切って入れ替えたほうがいい」

慧美は眉をひそめて真衣を見つめた。「どこからそんなお金が出るの?まさか礼央が……」

「違うわ」真衣はきっぱりと遮った。「彼とは離婚するつもりよ」

礼央と結婚してからというもの、彼は寺原家のことに一切関わろうとしなかった。寺原家が破産寸前だったときでさえ、見向きもしなかった。

それなのに、萌寧が海外留学中にお金に困ると、彼は何のためらいもなく数千万円を送金していた。

あのとき、叔父が手を差し伸べてくれなかったら、母はとうに億単位の借金を抱えていたはずだ。

慧美は真衣を見つめ、胸が痛んだ。

彼女はため息をついた。「お母さんが悪かったわ、何の力もなくて……もしあんたの実家に支えてくれる人がいたら、高瀬家であんなにつらい思いをせずに済んだのに……」

慧美は顔をそむけ、涙を浮かべながらつぶやいた。「今まで我慢させてしまって、ようやく離婚を切り出すなんて……」

「もう昔のことよ」

自分は最初から、無理に礼央と結婚すべきではなかった。

恋に落ちた女は、家庭に入り、夫を支えて子どもを育てていれば、いつか自分を好きになってくれると思い込んでしまうものだ。

-

真衣は娘を慧美のもとに預けた。

退職申請が下りたので、これから高瀬グループに退職手続きをしに行くところだった。

会社のロビーで、彼女はばったり礼央と鉢合わせた。

黒いスーツを着た彼は、何か急用でもあるかのように、大股で外へと向かっていた。

真衣は表情を変えず、端に寄って道を譲った。

礼央はいつも通り、真衣の存在などまるで見えていないかのように、無関心に通り過ぎた。

彼女がどんなに挨拶をしても、どんなに存在をアピールしても、彼はまるで見えていないかのように無視し続けた。

「礼央、こっちよ!」

玄関の外では、萌寧が笑顔で礼央に手を振っていた。

「わざわざ迎えに来てくれたの?自分で上がればよかったのに」

真衣はふと思い出した。かつてどんなに雨が降ろうが風が吹こうが、礼央がこんなふうに自分に気を遣ってくれたことは一度もなかったことを。相手が違えば、彼の態度もまるで違うのだ。

彼女はそっと視線をそらし、もうあの二人が何をしようと気にするのはやめようと思った。

背を向けて、エレベーターに乗り込み、五階の人事部へ退職申請を提出しに向かった。

人事部の佐藤(さとう)は、少し驚いた様子で言った。「本当に退職しちゃうの?冗談かと思ってたわ」

社内では誰もが知っている。真衣はただのアシスタントで、大きな業務は任されていなかった。日々の仕事といえば、会議室にお茶を運んだりする程度。子どもを育てるために早く帰る必要もあり、複雑なプロジェクトに関わる余地はなかった。

高瀬社長が彼女を相手にしないのは周知の事実だったが、それでも彼女は楽しげにいつもその後をついて回っていた。それが今になって、なんの前触れもなく退職だなんて、まるで太陽が西から昇るような話だった。

真衣はそれ以上何も言いたくなかった。ただ無表情で、「ええ」とだけ答えた。

その態度を見た佐藤は、内心で毒づいた。

ちっぽけなアシスタントのくせに、何を偉そうにしてるのよ。今日ちょうど、高瀬社長の恋人が会社に顔を出したことで、社内のグループチャットは大騒ぎだった。颯爽とした雰囲気の持ち主で、海外の大学に留学経験があり、しかも金融技術と航空宇宙工学のダブルドクターだという。

高瀬社長と並べば、まさに才色兼備の理想的なカップル。

たぶんこの子は、その本命彼女のすごさを目の当たりにして、自分なんてその髪の毛一本にも及ばないと感じたのだろう。それで自信を失って、退職を決めたんじゃないか。

「退職手続きは済んだわ」佐藤は真衣をじっと見つめ、思い含んだ口調で言った。「寺原、一つ忠告しておくけど、これからどこで働くにしても、惚れてはいけない人に惚れるようなことはしないことね」

真衣はその言葉を聞きながら、自分がかつてどれほど惨めだったのかを思い知った。

あれほど彼を愛していたことが、他人の目にはただの一方的な執着と愚かな妄想にしか映っていなかったのだ。

周りはとっくに分かっていたのに、目が覚めたのは今になってから。前の人生でのあの苦しみは、きっと天が与えた罰だったのだろう。

彼女は静かに、深く息を吸い込んだ。

そして、佐藤に淡々と視線を向けた。「ご心配ありがとうございます。でも、私のキャリアプランにご助言は要りません」

真衣は人事部を出て、ロビーへと降りてきた。礼央と萌寧はまだそこにいた。

かつては毎日でも礼央に会えたらと思っていたのに、今ではその顔を見るだけで気分が悪くなる。

彼女は足を進め、立ち去ろうとした。

だが、礼央がゆったりとした口調で声をかけてきた。「真衣、萌寧にコーヒーを一杯、オフィスまで持ってきてくれ」

すかさず萌寧が口を開いた。「礼央から聞いたわ、真衣さんの淹れるコーヒーがとっても美味しいって。礼央は、真衣さんにはこういう家事がぴったりだって褒めていたよ。本当に良妻賢母って感じ。私には到底無理だわ、女らしい細かいことなんて。

あ、コーヒーは手挽きでお願いね。インスタントはどうも口に合わなくて」

真衣は足を止め、振り返って萌寧を見た。「礼央のオフィスにはコピ・ルアクがあるわ。外山さんと同じルーツのものだから、きっとお口に合うと思う」

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コメント (1)
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侑眞
てかなんで旦那は離婚協議書捨てたんだ? さっさと手続きすればよかったのに
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