تسجيل الدخول「父は、反対した理由を話していません」
電話の向こうが静かになった。
「だったら、今さら考えても仕方ないでしょう」
「でも、私は、お義母さんのことを何か言われたとは一言も――」
「言葉のあやよ」
美弥子は私の言葉を遮った。
「それより、今はあんたと拓真の話をしているの。昔のことまで持ち出さないでちょうだい」
「昔のこと?」
「結婚に反対された時の話よ。いちいち言葉尻を捉えないで」
「……分かりました」
「分かったなら、絵里さんを困らせるようなことはやめなさい」
「分かったのは、お義母さんがどう考えているかです」
社員寮で迎えた最初の朝、目を覚ましても、すぐには起き上がれなかった。知らない天井を見たまま、ここがどこなのかを思い出す。額の傷は脈を打ち、右肩を下にすると痛んだ。それでも、扉の向こうに誰の気配もないと分かると、もう一度だけ枕へ頭を戻せた。机の上には、管理人から受け取った鍵と、昨夜書いたメモがあった。仕事用の服。予備の眼鏡。通帳と印鑑。最後に丸で囲んだ、父の書類箱。スマートフォンの通知を戻すと、拓真からのメッセージが並んだ。【どこにいる】【迎えに行くから場所を送れ】【勝手なことをせず、まず俺と話せ】最後の一通は、午前1時を過ぎていた。【朝までに連絡しろ】私は返信せず、位置情報の共有が解除されていることだけを確かめた。旅行用の鞄ひとつでは、仕事へ戻るにも、これからの生活を考えるにも足りない。右肩が治るまで、自分で荷物を運ぶこともできなかった。荷物運搬サービスへ電話をかけ、作業員ふたりと車を手配した。来てもらうのは、拓真が会社にいる平日の午後にした。事前に知らせれば、また家から出るのを止められるかもしれない。持ち出すのは私の物だけだ。申し込みの途中で、立ち会う人を尋ねられた。「私です。けがをしているので、箱詰めからお願いしたいんです」そう答えると、電話の向こうの担当者は、持ち主が分かる物から順に確認し、判断できない物には触れないと説明した。誰の物
「どうして絵里さんがいるの?」「心配して、わざわざ来てくれたんだ。絵里だって昨日のことで参ってる。責めるようなことは言うなよ」絵里は助手席から降りることも、私を振り返ることもしなかった。胸元にネックレスを光らせたまま、何事もなかったように前を向いていた。「乗らない」拓真の手が、後部座席のドアに掛かったまま止まった。私は看護師から鞄を受け取り、病院のタクシー乗り場へ向かった。乗り込むと、運転手に昨夜予約していたホテルの名前を告げた。「空室を確認しますので、ひとまずそちらへ向かってください」車が走り出してからホテルへ電話をかけると、幸い、今夜は空いている部屋があった。……ホテルの部屋に入ると、真っ先にドアガードをかけた。金具の重なる音を聞いて、ようやく息を吐いた。鞄を床へ下ろそうとすると、右肩に痛みが走った。無理に持ち上げず、その場へそっと置き、ベッドへ腰を下ろした。上着を脱ぐだけでも額の傷が脈を打った。壁の鏡には、ガーゼを貼った青ざめた顔が映っていた。一晩なら、ここで過ごせる。これからのことは、今夜ひとりで考えればいい。充電器をつなぐと、スマートフォンに拓真からの着信履歴が並んだ。画面を伏せた直後、再び着信音が鳴った。迷った末、通話ボタンを押した。「澪、今どこにいる?」「ホテル」「どこのホテルだ。迎
朝になっても、頭を動かすと鈍い痛みが残った。窓から入る光がまぶしく、私はカーテンを半分閉めてもらった。右肩には湿布が貼られ、左腕の赤紫色の跡は、昨夜より濃くなっていた。診察に来た医師は、額の傷を確認したあと、検査画像を画面に表示した。「CTでは、頭の中に出血や骨折は見つかっていません。額の傷からの出血も止まっています。ただ、一時的に意識を失っているので、脳震盪の症状には注意が必要です」医師は画面から私へ目を戻した。「午前中に歩行と食事の状態を確認します。吐き気やめまいが強くならなければ、午後には退院できるでしょう。ただし、退院できることと、治ったことは別です。数日は無理をしないでください」「分かりました」「頭痛が急に強くなる、何度も吐く、意識がぼんやりするといった症状が出た場合は、すぐに救急外来を受診してください。症状が落ち着いていても、1週間後に外来で額の傷を確認します。その時に抜糸する予定です」医師はそう念を押してから、手元の記録へ目を落とした。「けがをした時の状況について、看護師から報告を受けています。玄関で転んだのではなく、ご主人に腕をつかまれ、引き戻された時に頭をぶつけた。それで間違いありませんか?」「はい。離してほしいと、何度も言いました」「左腕の跡も、その時につかまれたものですか?」「そうです」医師は左腕の跡をもう一度確認し、私の答えを記録へ書き加えた。「退院したあと、ご自宅へ戻ることに不安はありますか?」「家には戻らないつもりです」&nb
目を開けると、白い天井がぼやけて見えた。救急車の中で一度だけ目を開け、病院でも何度か名前を聞かれた記憶があった。傷の処置が終わってから、眠っていたらしい。まばたきをすると、額の奥が脈を打つように痛んだ。右肩にも重い痛みがあり、腕を動かそうとしただけで息が止まった。顔の横から、規則正しい電子音が聞こえた。カーテンの隙間の向こうは暗く、ベッドの正面にある時計は、午後7時を少し回っていた。カーテンが開き、看護師が入ってきた。「目が覚めましたか。気分はいかがですか?」「ここは……」「病院です。ご自宅から救急車で運ばれました。お名前を言えますか?」答えると、看護師は私の目へ小さな光を当て、日付とここがどこかを尋ねた。額には厚いガーゼが貼られていた。傷は縫合され、脳震盪の疑いがあるため、少なくとも今夜は経過を見るという。右肩は強い打撲で、骨に異常はなかった。「ご主人が救急外来の家族待機室にいますが、お会いになりますか?」すぐには答えられなかった。玄関の扉をふさぐ拓真。腕へ食い込んだ指。上がり框にぶつかった靴のかかと。伸びてきた手を思い出し、シーツの上で左手を握った。体を起こそうとすると、吐き気が込み上げた。「急に起きなくて大丈夫ですよ」看護師がベッドの背を少しだけ上げた。「私が……救急車を呼んだんですか?」「緊急通報の途中で意識を失われたようです。その
「どいて」「離婚したいなんて、二度と言わないと約束しろ」「約束しない」「お前ひとりで決めることじゃないだろ」「一緒に暮らせないという私の気持ちまで、あなたには決められない」取っ手へ手を伸ばすと、拓真は扉に背をつけたまま、鞄をつかんだ。「離して」「まず部屋へ戻れ。落ち着いてから話す」「私は落ち着いてる。今夜はここにいない」鞄を引き戻そうとしたが、拓真は手を離さなかった。「ホテルなんかに泊まって、俺を悪者にするつもりか?」「誰にも話してないよ」「だったら出ていく必要はないだろ。少し頭を冷やせば済む話を、離婚だのホテルだの、大げさにするな」「大げさにしてるんじゃない。私は何日も、あなたと話そうとした」「今は仕事が忙しいんだ。落ち着いたら話すと言ってるだろ」「その間も、絵里さんはこの家に住むの?」「また絵里のせいにするのか」「絵里さんと関係を持ったのは、あなた自身だよ」拓真の表情が変わった。鞄を引く力が急に強くなり、私の体が前へよろめいた。「拓真さん、危ない!」客間の入口で、絵里が目を見開いた。とっさに一歩踏み出したものの、伸ばしかけた手は途中で止まった。「絵里は黙ってろ」拓
「父は、反対した理由を話していません」電話の向こうが静かになった。「だったら、今さら考えても仕方ないでしょう」「でも、私は、お義母さんのことを何か言われたとは一言も――」「言葉のあやよ」美弥子は私の言葉を遮った。「それより、今はあんたと拓真の話をしているの。昔のことまで持ち出さないでちょうだい」「昔のこと?」「結婚に反対された時の話よ。いちいち言葉尻を捉えないで」「……分かりました」「分かったなら、絵里さんを困らせるようなことはやめなさい」「分かったのは、お義母さんがどう考えているかです」「あんたね――」「今日は、もう切ります」返事を待たず、通話を終えた。耳から離したスマートフォンを、しばらく見つめていた。――私のことを、何て言っていたの?美弥子が何を気にしていたのか、私には分からなかった。その言葉だけが引っかかったまま、答えは出なかった。けれど、今夜もこの家で眠れないこととは別の話だった。私は、開いたままになっていた宿の予約画面へ戻った。宿泊人数は、ひとり。日付と部屋を確かめ、氏名を入力した。これまで泊まる場所を選ぶ時は、拓真の車を停められるか、朝食が付いているか、







