【湊視点】
きらびやかなシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床を照らし出す。
大手銀行主催の懇親パーティーが開かれているのは、自社であるインペリアル・クラウン・ホテルの大宴会場「鳳凰の間」だ。 耳に心地よいはずのクラシックの生演奏も、目の前で繰り広げられる社交辞令の応酬の前では、ただの騒音にしか聞こえなかった。「黒瀬副社長、こんばんは。いつも雑誌で拝見しておりますわ」
甲高い声と共に、ふわりと甘い香りが鼻をかすめる。
振り向くと、大手建設会社の社長令嬢が笑みを浮かべて立っていた。 計算され尽くした上目遣いと、ドレスから覗く華奢な鎖骨。「ありがとうございます」
僕もまた、完璧な「王子様」の笑みを顔に貼り付ける。
彼女が差し出すグラスを、指先が触れないように細心の注意を払って受け取った。「インペリアル・クラウン、一度でいいから泊まってみたいですぅ。今度、ご招待してくださらない?」
(また、同じか……)
この甘ったるい瞳は、僕個人を見ているんじゃない。
僕の背景にある金と権力と、ホテルのスイートルームの鍵を見ているだけだ。 うんざりするほど繰り返されてきた光景に、僕は内心で深くため息をついた。当たり障りのない返事を二、三交わしてその場を離れると、僕は逃げるようにホテルの最上階にあるバーへ向かった。
ここなら、少しは静かに過ごせる。 いつもの席でバーボンを傾けていると、カウンターの隅で一人、自暴自棄に酒をあおる女性が目に入った。(また、傷心のご令嬢か……面倒だな)
最初はそう思った。
この場所には時折、親の決めた婚約に絶望しただの恋人に裏切られただのと、お決まりの悲劇を演じる女たちが現れる。 僕のお気に入りの場所であると知っていて、わざわざ姿を見せるのだ。 自意識過剰かもしれないが、彼女もその一人だろうと思った。でも、何かが違った。
彼女の横顔に浮かぶ絶望の色は、これ彼女……夏帆さんがぽつりぽつりと語る言葉は、不器用でまとまりがない。 だがその一つ一つに、彼女の純粋さがにじんでいた。 深く傷つきながらも、相手をなじる言葉はほとんどない。ただ自分の信じていたものが崩れ去ってしまった悲しみを、一人で受け入れようとしている。 彼女は僕の肩書きを知らない。 ただの一人の男として、その柔らかな心の内を無防備にさらけ出してくれる。 その事実に、これまで感じたことのない不思議な安らぎと解放感を覚えた。 だからだろうか。 僕も思わず本音を漏らしてしまった。今まで誰にも言わなかった本心を。「僕も時々、人の真心というものが分からなくなるんです」 僕の孤独を打ち明けた時、彼女が見せたのは憐れみや同情ではなかった。 それは同じ痛みを分かち合う者だけが持つ、深くて澄んだ共感の眼差しだった。(ああ、この人だ) 心が震えた。 僕がずっと探し続けていたのは、この瞳を持つ人だったんだ。 彼女の瞳から涙がこぼれ落ちたのを見た瞬間、激しい衝動に駆られた。(この人を、守りたい) 打算も計算もない、魂からの叫びだった。 この人を守りたい。離したくない。 卑怯なやり口だと分かっていたが、自分を抑えられなかった。「――落ち着ける場所に行こうか。ここは少し騒がしいから」「ん……」 彼女はかなり酔っていたけれど、僕を見上げる視線にはどこかすがるような色があった。 その切ない瞳に、胸が締め付けられる。 スイートルームを確保して、部屋に行く。二人きりの空間で深く抱きしめれば、彼女の体温と鼓動が伝わってくる。 壊れてしまいそうなほど儚い彼女の温もりが、僕の凍り付いた孤独をゆっくりと溶かしていくのを感じていた。 深まる口づけが、絡まる吐息が理性を壊していく。 こんなやり方で彼女に手を出していいのか? という思いと、ここで必ず手に入れて、二度と手放さないという決意
【湊視点】 きらびやかなシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床を照らし出す。 大手銀行主催の懇親パーティーが開かれているのは、自社であるインペリアル・クラウン・ホテルの大宴会場「鳳凰の間」だ。 耳に心地よいはずのクラシックの生演奏も、目の前で繰り広げられる社交辞令の応酬の前では、ただの騒音にしか聞こえなかった。「黒瀬副社長、こんばんは。いつも雑誌で拝見しておりますわ」 甲高い声と共に、ふわりと甘い香りが鼻をかすめる。 振り向くと、大手建設会社の社長令嬢が笑みを浮かべて立っていた。 計算され尽くした上目遣いと、ドレスから覗く華奢な鎖骨。「ありがとうございます」 僕もまた、完璧な「王子様」の笑みを顔に貼り付ける。 彼女が差し出すグラスを、指先が触れないように細心の注意を払って受け取った。「インペリアル・クラウン、一度でいいから泊まってみたいですぅ。今度、ご招待してくださらない?」(また、同じか……) この甘ったるい瞳は、僕個人を見ているんじゃない。 僕の背景にある金と権力と、ホテルのスイートルームの鍵を見ているだけだ。 うんざりするほど繰り返されてきた光景に、僕は内心で深くため息をついた。 当たり障りのない返事を二、三交わしてその場を離れると、僕は逃げるようにホテルの最上階にあるバーへ向かった。 ここなら、少しは静かに過ごせる。 いつもの席でバーボンを傾けていると、カウンターの隅で一人、自暴自棄に酒をあおる女性が目に入った。(また、傷心のご令嬢か……面倒だな) 最初はそう思った。 この場所には時折、親の決めた婚約に絶望しただの恋人に裏切られただのと、お決まりの悲劇を演じる女たちが現れる。 僕のお気に入りの場所であると知っていて、わざわざ姿を見せるのだ。 自意識過剰かもしれないが、彼女もその一人だろうと思った。 でも、何かが違った。 彼女の横顔に浮かぶ絶望の色は、これ
圭介が去った後、湊さんは「念のため、今夜はホテルに泊まった方がいい」と言って、半ば強引に私を車に乗せた。 静まり返った高級車の車内は、上質な革の匂いがする。 運転手は壮年の男性。私と湊さんは後部座席に座った。 当然のように行われたエスコートに、私は抵抗することすらできなかった。 車内に戻った彼は、先ほどの冷たい表情が嘘のように、いつもの穏やかな「王子様」に戻っている。 その横顔はいつも通り上品な美しさを保っていて、ついさっきの冷酷さは少しも残っていなかった。「なぜ、あそこにいたんですか?」 かろうじて、それだけを尋ねた。「近くで会食がありまして。あなたが心配で、少し様子を見に来たんです」 湊さんはにっこりと笑った。 出来すぎた偶然だ。 本当は、私を見張っていたんじゃないだろうか。 そんな恐ろしい疑念が胸をよぎるが、問い詰める勇気はなかった。 この静かで豪華な密室で、私は彼の存在を嫌でも強く意識させられる。 まるで彼が作った見えない檻に、閉じ込められてしまったみたいだった。「そんなに僕が怖いですか?」 緊張を見透かしたように、彼が言った。 声は優しいのに、私にはすべての逃げ道を塞ぐ響きに聞こえた。◇ 彼が手配してくれたのはスイートルームではなかったけれど、それでも十分に上質で落ち着いた部屋だった。 ドアの前で彼は立ち止まり、まっすぐに私を見つめた。「今夜はゆっくり休んでください。あなたが安心できるまで、僕が必ず守りますから」 その言葉はクライアントとしての親切を、明らかに逸脱していた。 でも圭介の出現と今日の恐怖で心も体も弱りきっていた私にとって、その力強い響きは抗いがたいほど甘く、心に染み渡った。 彼が去った後、一人部屋に残された私は、その場に崩れるように座り込んだ。(怖い。あの人は、怖い人だ……) けれど。「守ってくれる」なんて。
その日の仕事帰り。 滞在中のビジネスホテルのエントランスに、見慣れた人影が立っていた。「夏帆」 元夫の圭介だった。「話があるんだ。よりを戻さないか? 俺、やっぱりお前がいないとダメなんだ……」 私は舌打ちしたい気持ちになった。書類のやり取りがあるので、現住所は知らせている。それがこんな形で裏目に出るなんて。 情けない顔で、彼が私の腕にすがりついてくる。「やめて、圭介。私たちもう終わったの。あなたは『真実の愛』を見つけたんでしょ?」「夏帆! そんな冷たいことを言わないで、俺を助けてくれ」 振り払おうとした、その時だった。「彼女が、嫌がっているようですが」 静かだけど、有無を言わせぬ声。 振り返ると、そこに立っていたのは穏やかな笑みを浮かべた湊さんだった。(湊さん? どうしてここに……?) でも瞳の奥には氷のように冷たい光が宿っていて、私は思わず身震いした。◇「湊さん……ど、どうして、ここに……?」 私の声は、かすかに震えてしまっていた。「誰だてめぇ!」 圭介が、私を盾にするようにして凄む。 でも湊さんは、まるで道端の石ころでも見るように、圭介を完全に無視した。 その視線はただまっすぐに、私にだけ向けられている。「相沢さん、大丈夫ですか? 顔色が悪い」 その声色は、いつものように優しい。 私だけを気遣うその態度が、圭介のちっぽけなプライドをいたく刺激したらしい。「こいつは俺の妻だ! 関係ない奴は引っ込んでろ!」 その言葉を聞いた瞬間、湊さんの表情から笑みが消えた。 彼は、温度というものが一切感じられない視線を圭介に向ける。 なまじ整った美しい顔だからこそ、凄みが増していた。
その夜。 一人で事務所に残って代わりの椅子を探していると、私のデスクの電話が鳴った。「……はい、アトリエ・ブルームです」『夜分にすみません、黒瀬です』 彼の声だと分かった瞬間、心臓が凍り付いた。『例の椅子の件、聞きました。少し、お話できませんか』 クライアントに迷惑をかけた。 その罪悪感で、私は彼の誘いを断ることができなかった。◇ 深夜のホテルのラウンジは、静まり返っていた。 彼と二人きり。 何を言われるんだろう。あれほど大見得を切った説明をしたのに、肝心の椅子を手に入れられなかった。責められるのかもしれない。 それともやはり、あの夜のことだろうか。 私は固く拳を握りしめ、彼の言葉を待った。「あなたのデザインコンセプトを、諦めてほしくないんです」 予想外の言葉に、私は顔を上げた。「あの椅子でなければならない理由を、もう一度僕にプレゼンしてくれませんか」 彼の瞳は、どこまでも真摯だった。 その眼差しに吸い込まれるように、私は必死に言葉を紡いだ。 あの椅子にしかない歴史、デザインに込めた想い、スイートルームで過ごすお客様に感じてほしい温もり。 私の話を黙って聞いていた彼は、静かに頷くとスマホを取り出した。 そして流暢な外国語で――英語ではない――どこかに電話をかけ始めた。 相手は、ヨーロッパのアンティークディーラーらしかった。「相沢さんの情熱が、僕を動かしたんですよ」 電話の向こうの相手と交渉しながら、彼は私にだけ聞こえる声で、そう囁いた。 その声に心臓が大きく音を立てる。頬が、熱い。 彼の整った鼻筋の下で、形の唇が一瞬だけ笑みを刻み、またビジネスの交渉の真剣さに戻った。 夜が白み始める頃、彼の交渉は成立した。 彼が見つけ出したのは、元の椅子よりもさらに希少で、美しい一脚だった。「…&
「相沢さん」 背後から穏やかな声がかかる。 振り返ると、湊さんが静かな笑みを浮かべて立っていた。「素晴らしいプレゼンでした。あなたのデザインにかける情熱が、伝わってきましたよ」「……ありがとうございます」 私は、貼り付けたようなビジネススマイルで応える。「クライアントのご期待に沿えるよう、全力を尽くしますので」 それだけ言って、私は逃げるように会議室を後にした。 彼の瞳に宿る色があまりにも優しくて、それ以上、見ていられなかった。◇ 私のデザインコンセプト『ヘリテージ・モダン』の核は、ただ一つ。 長い時間を旅してきた、本物のアンティークチェアである。 それは単なる家具じゃない。空間の魂であり、物語そのものだ。 最新のデザインと最高の素材で満たされた部屋に、たった一つだけ、本物の歴史を置く。その古びた木の温もりが、張り詰めたモダンな空間に、人間らしい安らぎと深みを与えてくれる。 お客様が部屋の扉を開けた瞬間、まるで旧知の友人に迎えられたような、そんな感覚を覚えてほしい。それが私の狙いだった。 そのための椅子探しは、困難を極めた。 何週間も、国内外のオークションカタログを読み漁り、アンティークディーラーに片っ端から連絡を取った。休日は埃っぽい倉庫街を歩き回り、来る日も来る日も、理想の一脚を探し続けた。 そして、ようやく見つけたのだ。 有名なディーラーでも、高級なアンティークショップでもない。郊外にある、忘れ去られたような個人倉庫の片隅で。 それはまるで私を待っていたように、静かにそこに佇んでいた。 ひやりとした空気が漂う倉庫に足を踏み入れれば、埃っぽい匂いの中に、古い木の香りが混じっていた。「……あった。あれだわ」 私は祈るような気持ちで、倉庫の奥へと進む。 布を被せられたシルエットに、心臓が高鳴る。 布を取り払うと、優美な曲線を描く椅子が現れた