LOGIN彼女……夏帆さんがぽつりぽつりと語る言葉は、不器用でまとまりがない。
だがその一つ一つに、彼女の純粋さがにじんでいた。 深く傷つきながらも、相手をなじる言葉はほとんどない。ただ自分の信じていたものが崩れ去ってしまった悲しみを、一人で受け入れようとしている。彼女は僕の肩書きを知らない。
ただの一人の男として、その柔らかな心の内を無防備にさらけ出してくれる。 その事実に、これまで感じたことのない不思議な安らぎと解放感を覚えた。だからだろうか。
僕も思わず本音を漏らしてしまった。今まで誰にも言わなかった本心を。「僕も時々、人の真心というものが分からなくなるんです」
僕の孤独を打ち明けた時、彼女が見せたのは憐れみや同情ではなかった。
それは同じ痛みを分かち合う者だけが持つ、深くて澄んだ共感の眼差しだった。(ああ、この人だ)
心が震えた。
僕がずっと探し続けていたのは、この瞳を持つ人だったんだ。彼女の瞳から涙がこぼれ落ちたのを見た瞬間、激しい衝動に駆られた。
(この人を、守りたい)
打算も計算もない、魂からの叫びだった。
この人を守りたい。離したくない。 卑怯なやり口だと分かっていたが、自分を抑えられなかった。「――落ち着ける場所に行こうか。ここは少し騒がしいから」
「ん……」
彼女はかなり酔っていたけれど、僕を見上げる視線にはどこかすがるような色があった。
その切ない瞳に、胸が締め付けられる。スイートルームを確保して、部屋に行く。二人きりの空間で深く抱きしめれば、彼女の体温と鼓動が伝わってくる。
壊れてしまいそうなほど儚い彼女の温もりが、僕の凍り付いた孤独をゆっくりと溶かしていくのを感じていた。深まる口づけが、絡まる吐息が理性を壊していく。
こんなやり方で彼女に手を出していいのか? という思いと、ここで必ず手に入れて、二度と手放さないという決意真夜中の二時。私はふと、喉の渇きで目を覚ました。 同じベッドの隣では、湊さんが穏やかな寝息を立てている。その静かな寝顔を見ていると、私の心までが安らいでいく。(よく眠っているわ。起こさないようにしないと) そっとベッドを抜け出して、キッチンで水を一杯飲んだ。けれどどうにも、渇きは癒えない。何かがものが足りないような、不思議な物足りなさがあった。 その時。一つの強烈な欲求が湧き上がって、私の頭を支配した。(イチゴが食べたい!) それもただのイチゴではない。北海道の「さちのか」という品種の、完熟した大粒のイチゴである。宝石のような見た目と、甘酸っぱい香り。口いっぱいに広がる瑞々しい果汁。その記憶があまりにも鮮明に蘇ってきた。 今の季節は真夏。さちのかの旬は春で、もうとっくに終わっている。ましてや東京の、この真夜中に手に入るはずもなかった。 念のためにスマートフォンで検索してみるが、どのサイトでも「売り切れ」の表示が出ている。(はぁ……。諦めなければ) 妊娠中特有の理不尽な食欲なのだと、自分に言い聞かせる。隣で眠る彼を起こすのは、あまりにも申し訳ない。私はでベッドに戻ると、イチゴの衝動が過ぎ去るのを待った。◇ 私が何度目かの寝返りを打った時のこと。「……どうしたの、夏帆さん。どこか痛むのかい?」 隣から、ささやくような声がした。心配に満ちた声。私が身じろぎしたわずかな気配で、湊さんは目を覚ましたのだ。「ううん、何でもないの。ごめんなさい、起こしちゃって」 私がそう誤魔化そうとすると、彼は私の額にそっと手を当てた。熱がないことを確かめて、今度は私の頬を優しく撫でる。「何でもなくはない顔をしているよ。何か、我慢しているんだろう? 教えてほしい」 彼にかかれば何でもお見通しだ。下手に心配させるより、話してしまおう。私は観念して口を開いた。「あのね、馬鹿みたいなんだけど……」
湊さんの視線が、床に広げられた壁紙のサンプルへと落ちた。次に私のスケッチブックへ。最後は鉛筆を走らせる私の手に留まる。「君の手から世界が生まれる瞬間を、こうして見ていられるのが、好きなんだ。幸せな光景だな、と思って」 その声は、心からの満足に満ちていた。◇ ベビーベッドの最後のディテールをスケッチブックに描き込んだところで、私はペンを置いた。 からん、と。乾いた音が静かな部屋に響く。 いつの間にか、西の空は茜色に染まっていた。午後の柔らかな日差しは、今はもう蜂蜜を煮詰めたような濃いオレンジ色の光に変わっている。その光がまだ何もない部屋の床に、窓の形の四角形を描き出していた。 私たちの足元には、何枚ものデザイン画や壁紙のサンプルが散らばっている。 私たちは言葉もなく、床に広げられたそれらの紙を並んで眺めていた。まだ線と色でしかない未来の断片。 けれど私たちの目には、もう見えていた。 このがらんとした部屋に、あの白樺のベビーベッドが置かれる。壁には優しいクリーム色の壁紙が貼られて、柔らかな光の中で小さな命が笑う風景が。 湊さんが私の隣に座ると、そっと私のお腹に手を当てた。「よかったな。君の世界は、世界一のデザイナーが作ってくれるそうだ」 お腹の子に、誇らしげに語りかける。私は彼の手の上に自分の手を重ねた。「ううん。世界一のデザイナーと、世界一心配性で優しいパパと、二人で作るのよ」 湊さんの指先が、私の頬にかかった髪をそっと耳にかけてくれた。その優しい手つきに、私はゆっくりと目を閉じる。 唇に柔らかく温かいものが触れる。 全てを許し受け入れ合うような、慈しみと愛情に満ちたキス。 唇が離れた後も私たちはしばらくの間、互いの額を寄せ合ったままだった。 彼の息遣いを感じる。触れ合った額が温かい。 やがて私が目を開ける。目の前には夕日でオレンジ色に染まる、がらんとした部屋が広がっている。 けれどもう、その部屋は空っぽには見えなかった。 こ
私は果物ならだいたい好きだが、イチゴが特に好きなのだ。「わ、おいしそう」「糖分補給も、大事な仕事のうちだよ」 彼はそう言うと、小さなフォークでイチゴを一つ刺す。私の口元へと運んできた。「やあね。一人で食べられるって」「でも、今は手がふさがっているだろう。スケッチが汚れてしまうといけない」 湊さんに食べさせてもらう(食べさせられる)のは、あの山荘の食事を思い出して苦笑してしまう。 あの時の彼は正気を失っていたが、それでも本質は変わらなかった。 湊さんは私の世話を何くれと焼きたがるのだ。 手がふさがっているのは本当だった。私は諦めてぱくりと苺を食べる。 甘酸っぱい果汁が口の中にあふれてくる。思わず笑顔になった。「んっ。ありがとう、美味しい」「それはよかった」 彼は満足そうに微笑んでいる。 苺を食べ終わった私は立ち上がる。本棚の少し高い位置にあるサンプルブックを取ろうと手を伸ばすと、すぐに彼が代わりに取ってくれた。「無理はしないで。僕をもっと頼ってほしい」「十分頼っているわ。たくさん助けられているもの」 本を受け取りながら言うと、湊さんは少し困ったように眉尻を下げた。「君が自立心旺盛な強い人だと、分かっているんだけどね。今は身重の体だから。危ないことはしてほしくないんだ」「危ないこと? たとえば、山荘の三階からカーテンのロープで伝い降りたり?」 私が意地悪く言うと、彼はますます困った顔になった。「そうだよ! 閉じ込めたのは完全に僕が悪かったけど、夏帆さんも無茶しすぎだから」「うん。無茶したのは反省している」 たとえ正気に戻っても、過保護なところは変わらない。不器用で愛情に満ちているところも。 私は笑って、再びスケッチブックに向き合った。 スケッチブックにデザイン画を描いていると、ふと隣の気配が消えた。(湊さん、また私の飲み物でも取りに行ったのかしら) そう思っ
私たちは床に大きな画用紙を広げて、子供部屋のデザインについて話し始めた。世界で一番幸せな、デザインの打ち合わせだった。 私はサンプルの一つを指さした。「壁紙は、この天然素材のものがいいと思うの。子供の肌に触れても安全だし、このクリーム色が、光を柔らかく見せてくれるから」「いい考えだね。じゃあ、部屋の角は、全てこの丸いR巾木(はばき)で仕上げよう。万が一、転んで頭をぶつけても、怪我をしないように。そういう加工が得意な職人を知っているんだ」 私はスケッチブックに、柔らかなタッチでベビーベッドの絵を描いた。「ベッドは塗装をしていない、天然の木材がいいと思う。例えば、この白樺(しらかば)とか。角は全部丸くして。赤ちゃんが初めて触れる世界だから、どこを触っても優しくて温かいものがいい」 湊さんは、私のスケッチを真剣な表情で覗き込む。「いい考えだね。そのデザインなら、僕が知っている職人に頼もう。子供用の家具専門で、木材の角を滑らかに仕上げる技術は、日本一なんだ。塗料を使わずに、米ぬか由来の自然なワックスで仕上げてくれる」「へえ、いいわね。ぜひお願いするわ」 彼は私のアイデアを、さらに完璧なものへと引き上げてくれる。「それから壁際には、授乳の時に使える、ロッキングチェアを置きたいの。体を優しく包んでくれるような、座り心地の良いものを」「じゃあ、椅子の生地は、アレルギーテストで最高の評価を得ている、オーガニックコットンにしよう。汚れてもすぐに交換できるように、カバーは三色、夏帆さんの好きな色で用意させるよ」「わあ、楽しみ。何色にしようかしら。青と、水色と……オレンジがいいかな?」 二人の専門知識とお腹の子への愛情が、少しずつ一つの形になっていく。その共同作業に、私はこれ以上ないほどの幸福感を感じていた。◇ 私がデザイン画に没頭していると、ふと背後から人の気配がした。振り返るより先に、クーラーの冷気から私を守るように、ふわりと薄手のショールが肩にかけられる。「一度、休憩しないか
※ここからは番外編になります。 黒瀬家との和解から少しの時間が経った。目にまぶしいほどの若葉が萌える、春も終わりの頃である。 私たちの新しい住まいは、公園の深い緑を見下ろせる高層マンションの角部屋だった。 大きく開け放たれたリビングの窓からは、若葉の匂いを乗せた心地よい風が吹き抜けていく。子供たちの遊ぶ声が遠い喧騒として、かすかに響いている。 この明るく開かれた空間は、私が閉じ込められていた、あの静かすぎる山荘とは別世界だった。 まだ家具の少ないがらんとした部屋も多い。けれどここには、これから始まる暮らしと幸せがある。 湊さんと私と、お腹の子と。これからの未来を考えるとわくわくしてしまう。 ある週末の午後、ソファで一緒に本を読んでいた湊さんがふと顔を上げた。「夏帆さん、ちょっと来て」「なあに?」 彼は少し笑うと、私の手を引いて立ち上がらせた。二人で廊下を進んで、まだ何も置かれていない一番奥の部屋の前に立つ。 ドアを開けると、磨かれたばかりのフローリングに午後の柔らかな日差しがたっぷりと降り注いでいた。新しい木の匂いが部屋中に満ちている。南向きの大きな窓からは、公園の豊かな緑とどこまでも続く青い空が見えた。 湊さんはその部屋の真ん中で、私の手を握ったまま言った。「この部屋が、この家で一番明るい。だからここを、僕たちの子供の部屋にしたいんだ」 優しく告げると、湊さんは部屋に置いてあった箱のふたを開けた。 中に入っていたのは、スケッチブック。私がいつも仕事で愛用しているメーカーの、真新しいスケッチブックだった。 彼は少し照れたように、ふいと視線を逸らす。「君の才能を僕とこの子のために、貸してほしい。僕たちの最初の共同プロジェクトとして、この部屋のデザインを君と一緒にやらせてくれないかな?」 私は差し出されたスケッチブックと彼の顔を、交互に見つめた。 ただ私に仕事を依頼しているのではない。この子のための世界を作る。二人で対等なパートナーとして、ゼロから一緒に創り上げていこう。そう言
その夜。私たちは完成したスイートルームのソファに、二人並んで座っていた。 日が完全に沈んで、壁一面の窓の外には宝石のような東京の夜景が広がっている。部屋の中では私の『光の心臓』が、夜の光に呼応するように、静かで温かい光を放っていた。 私は湊さんの肩に頭を預ける。大きくなった自分のお腹を撫でていた。 ここに新しい命がある。私と彼の愛の結晶が。 この部屋が完成した時、「未来の礎」だと思った。その未来が今、ここで温かい鼓動を始めている。その実感が私の胸を幸福感で満たしていた。「ねえ、湊さん」 私は切り出した。「この子の名前、そろそろ本当に決めないとね」 この子は少し前の検診で、女の子だと判明している。性別が分かるまで保留にしていた名付けも、もう決めてもいい頃だ。 湊さんは私のお腹に手を重ねた。彼は一瞬、何かをためらうような表情を見せる。やがて意を決したように口を開いた。「僕はやはり『帆波(ほなみ)』という名前がいいと、思っているんだ」 私はその名前に息をのむ。それはあの山荘で、彼が狂気の中で口にした名前と同じだったからだ。私は彼の真意を確かめるようと、尋ねた。「その名前、覚えてるの?」 湊さんは私から視線を逸らさずに、こくりと頷く。「ああ。あの時の僕は、正気ではなかった。君を傷つけ、閉じ込めた。その記憶は、消えない罰だ。でもね、夏帆さん。あの狂気の中で、たった一つだけ、本物があったんだ。君を心の底から愛しているという想いと……『君の帆が、いつでも幸せな波に乗っていられるように』と願った、この名前だけは。――けれども、もし君が辛い記憶を思い出すなら、別の名前にしよう」 彼は自分の過ちから逃げずに、話してくれた。その愛情が本物なのだということが、よく分かる。 私は彼の言葉に頷いた。「ううん。それがいい。それが、この子の名前よ」 私は彼の過去の狂気ごと、その愛情を全て受け入れる。その覚悟はとうにできている。「帆波。素敵な名前ね」 私は幸せに満たされ







