LOGIN湊さんの動きがぴたりと止まった。
その瞳に一瞬だけ深い悲しみの色が浮かんだのを、私は気づいた。気づいてしまった。けれど湊さんはすぐにいつもの優しい表情に戻ると、私を抱きしめる腕の力を緩めて言った。
「すみません。少し、焦りすぎましたね」
暖炉の炎の明かりが、彼の長いまつ毛に陰影を落としていた。
「夏帆さんが、本当に僕を受け入れてもいいと思えるようになるまで、僕もがんばりますから。……ずっと、待っています」
その優しい言葉が、逆に私の胸を締め付けた。
「ごめんなさい……。もう、寝ますね」
私は立ち上がる。もうそれ以上ここに居られなくて、寝室へ戻った。
ドア一枚を隔てた場所に彼がいるのに、私は触れることができない。(どうして……)
どうしてあの夜、あんなにも幸せな思い出を作ってしまったのだろう。
どうして私は、恋を諦めると決めたのに、こんなに心を残しているのだろう。「うぐ……」
涙がこぼれた。嗚咽(おえつ)が漏れそうになって、枕に顔を埋めてこらえる。
遠く聞こえる潮騒が、夜の暗闇が、私を包み込んでくれた。◇【湊視点】逃げ去ってしまった夏帆さんの部屋のドアを見つめて、僕は小さくため息をついた。
(焦ってしまったか。傷ついていないといいが……)
この2日間、夏帆さんと過ごした2人きりの時間は、僕にとって何よりも幸せなものだった。
食事を作ったり、海辺を散歩したり。そんな何気ない時間がこれほど温かいとは、知らなかったのだ。穏やかに過ごすことで、彼女も心を開いてくれたように思う。自然な笑顔が増えて、嬉しかった。
やはり疲れはかなり溜まっていたようで、ふとすると眠ってしまっている。 彼女の寝顔は無防備で、いっそあどけなくて、いつもの誇り高いデザイナーとのギャップがマルタの道は石畳の敷かれた細い路地。その両側を太陽の光を浴びて輝く蜂蜜色の建物が、どこまでも続いている。街全体が同じ石材で、同じ色調で統一されているのだ。圧倒的なまでの統一感と、歴史の重み。 だが統一感の中に、鮮やかな個性が宝石のように散りばめられていた。建物のファサードに取り付けられた、赤や青や緑の、木製のバルコニー。同じ形は一つとしてない。それぞれがそこに住む人々の暮らしを、物語っている。 街全体という一つの巨大なコンセプト。その中に、無数の小さな物語が息づいている。 私はデザイナーとして、町全体の調和にただただ心を奪われていた。◇ ヴァレッタの街は、どこまでも続く急な坂道でできていた。 石畳の道を帆波は楽しそうに歩いていたが、足取りが少しずつ重くなっていく。「ママ、だっこ……」 私の手を小さな力で、きゅっと引っぱる。私が「もう少しよ」と言い聞かせようとした時のこと。 一歩先を歩いていた湊さんが、立ち止まって振り返った。彼はにこりと笑うと、帆波の前に屈みこむ。「おいで、帆波ちゃん。パパの特等席が空いたよ」 彼は娘を抱き上げた。急に視界が高くなった帆波は、きゃっきゃと嬉しそうな声を上げる。 湊さんの腕の中からなら、街の景色がよく見えるのだろう。帆波はすぐに新しい発見をした。「パパ! あかい、まど!」 彼女が指差す先には、蜂蜜色の建物の壁から突き出た木製の出窓があった。窓は鮮やかな赤色に塗られている。「本当だ。きれいだね。あっちには、緑の窓もあるよ」「ほんとだー!」 私たちの横をカッポ、カッポと軽快な蹄の音を立てて、観光用の馬車が通り過ぎていった。「おうまさん!」 帆波が小さな手を振る。私はその二人の後ろを、少しだけ離れて歩いていた。 夫の広い背中と、その腕の中で揺れる小さな娘。蜂蜜色の壁に落ちる二つで一つの影。その光景が私の胸を満たした。 私たちは広場に面した、赤いパラソルの立つカフェで休憩する
「見てごらん、帆波ちゃん。お砂はね、こうやって遊ぶんだ。サラサラ……って、ほら、お山ができた」 湊さんは小さな砂の山を作る。帆波は彼の足の後ろから、おそるおそる覗き込んでいた。「おやま?」「そうだよ。帆波ちゃんも、触ってみるかい? ほんのちょっとだけ。パパの手の上で、どうかな?」 湊さんが手のひらに乗せた砂を、娘の目の前に差し出す。 帆波はしばらく迷っていたが、小さな人差し指をそろりと伸ばした。ちょんと砂に触れる。自分の指先を不思議そうに見つめた。「あったかい」「うん、少し温かいね。気持ちいいだろう?」 今度は帆波自身の小さな手で、砂を掴んでみる。指の間から砂がこぼれ落ちていく。その感触が面白かったのだろう。帆波の顔にぱあっと、花が咲くような笑顔が広がった。「きゃっきゃっ」 楽しそうな笑い声が、静かな入り江に響いていった。 砂遊びに飽きた帆波が、今度は海を指差した。「パパ、ママ、あっちいこ!」 私たちは三人で手をつなぎ、波打ち際へと歩いていった。 寄せては返す、穏やかなさざ波。白いレースのような波の縁が、私たちの足元までやってきては、また遠ざかっていく。「きゃっ!」 波が足に触れるたびに、帆波は驚きと喜びが混じった高い声を上げた。「ほら、帆波ちゃん、波が逃げていくぞ。追いかけよう」「まてまてー!」 帆波はと叫びながら、小さい足を一生懸命に動かして引いていく波を追いかける。「おっと、転ばないようにね」 私と湊さんも、小さな体に引っぱられるようにして一緒に砂浜を走った。 太陽の光が湊さんの髪をきらきらと輝かせて、帆波の弾けるような笑顔を照らし出している。 私の右手には、この世で何よりも大切な娘の小さな手の感触。この子の向こう側には、愛する夫がいる。 寄せては返す波の音と、みんなの笑い声。 幸せな一瞬を、私は強く心に焼き付けた。◇
翌朝、私が目を覚ましたのは、ごくわずかな、ゆりかごのような揺れのせいだった。 一瞬、まだ夢の中にいるのかと思う。だが穏やかでどこまでも続くリズムは、紛れもない現実のもの。都会の喧騒も、車の音も聞こえない。静かな波の音と、船が水を切る微かな音だけが部屋を満たしていた。(そうだった。昨日から、クルーズ船に乗っているんだった) 私はベッドから身を起こして、厚手のカーテンへと歩み寄った。一気に引き開ける。 目に飛び込んできたのは、昨日までのローマとは全く違う鮮やかな光景だった。 突き抜けるような青空。目の前に広がる、深い深い紺碧の海。その海の向こうには、緑豊かな丘の斜面にテラコッタや黄色、白といったカラフルな家々が、まるで宝石箱をひっくり返したように密集して立ち並んでいた。シチリア島、メッシーナの港だ。 眠っている間に私たちは海を渡ったのだ。昨夜見たローマの夜景が、もう遠い昔のことのように思える。全く違う港町で、こうして新しい朝を迎える。船旅ならではの魔法のような体験だった。「ママ、パパ、うみー!」 帆波も目を覚まして、パジャマのままバルコニーへと駆け出していく。「帆波ちゃん、夏帆さん。おはよう」 湊さんはそんな娘を優しく抱き上げると、その小さな頬に朝のキスをした。◇ メッシーナの港に入った日の午前中。湊さんが手配してくれた専用車は、メッシーナの市街地を抜けて海岸沿いの道を走っていた。車窓からはレモンやオリーブの木が茂る丘と、キラキラと輝くイオニア海が見える。 私たちは観光客の喧騒から離れた、小さな入り江に面した砂浜にたどり着いた。 どこまでも続く青い空と、エメラルドグリーンから深い藍色へとグラデーションを描く透き通った海。寄せては返すさざ波の音だけが、静かに響いている。「わあ……! きれいな海」 湊さんと私は靴を脱いで、きめ細かい砂の感触を楽しんだ。秋とはいえ、南国シチリアの気温は高い。砂は温かく、海の水も心地よい。 だが帆波は違った。「ママ。おすな
その様子を見て、湊さんがくすくすと笑い声を漏らす。「帆波ちゃん、お口の周りが、大変なことになってるよ」 彼は帆波の前に膝をつく。きれいにアイロンのかかったハンカチで、小さな口元を拭ってやる。 私はそんな微笑ましい父と娘の姿から、目が離せなかった。 ローマの強い日差しの下、娘を見下ろす彼の眼差し。父親の顔をした、私の愛する人。 そして私たちの娘である、誰よりも大事な帆波。 私はその一瞬を永遠に残しておきたくて、スマートフォンのカメラを向けて夢中でシャッターを切った。◇ ローマから車で移動し、チビタベッキアの港が近づく。港の建物の向こうに、信じられないほど巨大な真っ白な壁が見え始めた。 それは壁ではなかった。何層にも、何十層にも重なった客室のバルコニー。空へと伸びる巨大な船体。停泊しているというのに、今にも動き出しそうな流線形の美しい船首。 車が港の埠頭に完全に着いた時、私たちはその船のあまりにも巨大な真下にいた。「ママ? おっきい、おうち……」 隣では帆波が、口をぽかんと開けたままその光景に釘付けになっている。「そうね、すごく大きいわね……」 私も頷くしかなかった。ビルというよりは、一つの街がそのまま海に浮かんでいるような印象を受ける。圧倒的なスケールと機能美の集合体である姿に、私はデザイナーとしてではなく、ただ純粋に心を奪われていた。 ここでも湊さんが手配してくれた優先乗船で、私たちは長い列に並ぶことなくスムーズに船内へと進む。専属のバトラーだという品の良い初老の男性が、恭しく私たちを出迎えてくれた。 案内されたのは、最上階にある、特等客室。ドアが開いた瞬間、私は息をのんだ。 広々としたリビングと、独立したベッドルーム。さらには夕日に染まる地中海を見渡せる、プライベートバルコニー。洗練された空間は、まるで海に浮かぶスイートルームそのもの。 リビングのテーブルには、ウェルカムシャンパンと帆波のためのおもちゃが用意されている。バルコ
帆波はぽかんと大きく口を開けて、窓の外を見入っている。 ローマのピラミッドは、エジプトのものよりもずっと小さい。二階建ての民家と同じくらいだ。それでも存在感があって、帆波はずっとその三角錐の遺跡を眺めていた。 私はそんな二人の横顔を見つめていた。湊さんがこうして私たちの娘に、世界の広さと歴史を教えていく。その光景がどうしようもなく幸せだった。◇ その日の昼下がり、私たちは石畳の道が続くローマの古い市街地を歩いていた。 道の両脇には、テラコッタや黄土色の歴史を重ねた美しい建物が、陽気に立ち並んでいる。世界中から集まった観光客の話し声や笑い声、カフェのテラス席でエスプレッソをすする地元の人々の会話、遠くで聞こえるアコーディオンの音色。その全てが混じり合い、街全体が一つの生命体のように活気に満ちていた。 帆波は最初こそ賑やかさに目を輝かせていたが、大人たちの足に視界をさえぎられて、私の手を強く握りしめてきた。「ママ、みえないよう」 小さな呟きを聞き逃さなかった湊さんが、立ち止まる。彼はにこりと笑うと、帆波の前に屈みこんだ。「よし、帆波ちゃん。パパがもっといい景色が見える、魔法をかけてあげよう」 彼は娘の体を軽々と持ち上げて、自分の肩の上に乗せた。「わー! ぱーぱ、たかーい!」 世界で一番の特等席を手に入れた帆波は、きゃっきゃと嬉しそうな声を上げた。湊さんの頭の上で、小さな足が楽しそうに揺れている。 やがて私たちの目の前に、壮麗なトレビの泉が現れる。泉の大きさと勢いよく流れる水の音に、帆波は目を丸くしていた。 湊さんはポケットからコインを三枚取り出すと、私と帆波に一枚ずつ渡した。「泉に背を向けてコインを投げると、またローマに戻ってこられる、という言い伝えがあるんだ」 彼は私の手を握って、帆波をしっかりと抱きかかえた。三人で一緒に、コインを泉へと投げ入れる。チャポンという小さな音が、水しぶきの音に紛れて消える。湊さんは私の耳元でささやいた。「また三人で必ずここへ戻ってくる、という約束だよ」
長いフライトを終えて私たちが降り立ったローマの空気は、秋の日本とは違う乾いた日差しに満ちていた。 ターミナルビルに足を踏み入れた瞬間、耳に飛び込んできたのは、音楽のように流れるイタリア語の響きだった。天井のスピーカーから流れるアナウンスも行き交う人々の話し声も、全てが知らない言葉のシャワーとなって私たちに降り注ぐ。『Benvenuti a Roma(ローマへようこそ)』 通路に掲げられた歓迎の文字が、私たちが今本当にローマにいるのだと教えてくれた。 少し眠そうに目をこすっていた帆波も、初めて見る外国の風景に目をぱちくりさせている。私の足にぎゅっとしがみつきながら、大きな瞳で物珍しそうに周りを見渡していた。 空港を少し進む。その先には『Mr. Kurose』と書かれたプレートを持った空港のVIPサービスのスタッフが、にこやかに立っていた。 普通なら、ここから入国審査の長い列に並ばなければならないはずだ。だが私たちは、一般の乗客とは違う専用通路へと案内された。そこには私たちのための専用カウンターが設けられている。(ええっ。こんなに簡単でいいの?) 湊さんが差し出した三人のパスポートは、すぐにスタンプが押されて返却された。「荷物は、先に車へ運んであります」(えっ。手荷物受け取りの、あのレーンに並ばなくていいの?) スタッフのその言葉に、私はもう驚くことさえ忘れていた。 湊さんはその全てをごく自然に受け入れている。帆波の手を引きながら、彼は私にだけ聞こえる声で尋ねた。「疲れたかい?」「いいえ。だって、飛行機はファーストクラスで横になれたし、空港についてからも人混みを歩いたり、重いスーツケースを持ったりしていないもの。疲れるはずないわ」 私は苦笑した。「むしろ湊さんのエスコートが完璧すぎて、ちょっと気後れしちゃうくらい」「あはは。夏帆さんはいつも遠慮深いなあ」 湊さんは朗らかに笑う。 空港の出口では、黒いセダンが私たちを待っていた。私たちはその車に乗り込んだ。 専用車が、ロ







