LOGIN「沙綺」
平手打ちを与えられたような感覚。
「……すいません」
微かに自分に向けた苛立ちに似た思いが腹の底で渦巻く。彼女の存在がこんなにも自分を乱しているなんて。
「今日は一段と苦しそうに叩くのね」
心臓を直接叩かれたような気持ち。明峯さんはときどきメンバー間の心内を見透かされるような言動を投げるが、その言葉が動かしがたい岩のように胸にのしかかってくる。
いつの間にか意識していないと呼吸が上手く出来なくなっていた。集中しないと吸ったり吐いたりすることが叶わない。きっと演奏中息をすることも忘れてしまうくらい、目の前のドラムに集中していたのだろう。私はドラムを叩いていないと呼吸できないのに、叩き続けるとこの身は息継ぎができないとはなんという矛盾か。やがて待ち構えていたものが逆流するように肺になだれ込んでくると、ようやく呼吸が安定した。
「沙綺ちゃん、なんかあったの?」
深谷さんが心の底を覗き込むように、私の瞳に視線を縫い付ける。
暮れかかった空が、墨が滲みゆくように夕闇を去来させていく。やがて宵闇は翼を広げるように浸食していき、一切を黒へと変えていくのだろう。 久々に帰った実家はとても広く思えた。家は一軒家で大豪邸というほど大きい造りでないはずなのだが、この部屋に両親二人で住んでいるのだと考えると、私と姉が暮らしていた部屋がとても大きな穴のように感じられる。 これから会う母が燈を見てどんな反応をするかなんてわかりきっていた。きっと私と同じように姉の面影を見るのだろう。そう思いながら、がちゃりという重低音と共に玄関の扉を開けた。「ただいま」 そう言うと少ししてから母が居間から生首だけを覗かせる。「あぁ、お帰り。病院には」 行ったか。そう軽口を叩こうとしたのだろうが、その視線が私の後ろにいる燈を捉えたことで発せられることはなかった。驚きのあまり声が出ないようだ。母がそう思うほどに、燈の相貌は姉とそっくりなのだと改めて知覚する。「……夕」 ようやく出た言葉は、私が一言一句そうだろうと予想した通りの言葉で思わず笑いそうになってしまう。髪の色など問題ではない。その顔が、纏う空気そのものが私は火原夕の娘なのだと主張しているのだから。「白幡燈と言います」 燈がそう名乗っても、まだ夢から帰ることが出来ないようだった。母が空返事することから脱したのは、それから五分も後のことだ。埒が明かないので奥にいるであろう父を呼ぶと、そこからさらに十分もの時間を重ねることなり、燈が自分の事情を話し始める頃には既に薄暮時など塗り潰されてしまってからだった。 単刀直入に言えば、燈は私の家に住まうことになった。 両親は是非家に来てほしいという主張だったのだが、通う高校が私のマンションからのほうが近いということと、何より燈自身がそれを望んでいたこと。これからは隣にいてくれるんですよね、とは私への殺し文句。後々考えてみれば、燈からしてみれば告白のように感じてもおかしくない言葉だったと思う。 きっとこれからは燈と生きていくことになるのだろう。姉と同じ顔をもつ女性と。も
面倒なことを何も考えずに叩いた昨日のドラムに、初めて朝を清々しいと感じた。まるで清涼剤でも飲んだかのように胸のつかえを透かしている。だからこそ、先ほどから何度もバイブしているスマホを手に取りたくなかった。宮原さんから二日連続で朝早く電話が来る可能性は低いので、恐らく明峯さんがライブイベントの話の旨を読んだのだろう。起きたらいきなり明日の昼歌えと連絡が入っているなんて、不機嫌に決まっている。 宮原さんは電話に出なかったのだろうな、なんて思いながら私はスマホを手に取った。「沙綺」 声色が内包する、明らかな不機嫌さ。いつもなら私以外明らかにまだ眠っている時間に電話を掛けてきたことを鑑みるに、ふと目が覚めてしまってスマホを手に取った際気づいたのだろう。何より睡眠時間を優先する明峯さんがこうして早朝に電話してくるなど、まさに晴天の霹靂だ。「何故貴女がいながら勝手にライブイベントに出る事が決まっているの」「すいません」 明峯さんの喉のコンディションのことを主張しつつ、特に抵抗らしい抵抗をしなかったため素直に謝罪する。さらに言うならセットリストを作成したのはほとんど私のため、助長した可能性があることを否定出来ない。厄介なことになりそうなので私が作製したということは言わないが。「まぁいいわ、どうせ由良が勝手に何も考えずに引き受けたんでしょ」「オーナーに出てくれないかと頼まれたと言っていましたが」「オーナーに? あぁ、それは確かに無下には出来ないわね」 その意見だけは四人とも同意見だった。「喉のほうは大丈夫でしょうか」「いつも通り。いけなくはない」「そうですか」「もう何時間も寝られないわ、どうしてくれるの」 まったく、という言葉を残して電話は切られた。普段冷静な明峯さんだが、睡眠に関してだけは少ないと途端に不機嫌になるのは昔からだ。普段四時間程度の私としては昨日丸一日眠ったのだからもう充分だろうなんて思うのだが、明峯さん曰く休日であれば最低十二時間は必要らしい。そんな明峯さんだが、ライブの日やバンド練習だけは五分前には待っているのだから不思
魂まで一緒に吐き出す勢いで、静かに吐息を肺量の底を傾けて吐き出す。「あの」 燈が口を開く。 話し合いをしている間、気まずそうにベッドの上へ移動させてしまったので申し訳ないと思っていた。「悪いわね、騒がしくして」「そんな」と何か言いづらそうに目を伏せる。次の一言を言い出そうか迷っているようで、ここではあちらから口を開くのを待つのが正しい様な気がして、私は口をつぐむ。厳かに何秒か過ぎ、その間燈は瞬きすらしようとしない。「出ていきますから、ちゃんと」 力なく貼りつけられた笑みには、強がりの気持ちがこれでもかというほど含まれていた。「……居ていいのよ、別に」 後ろめたさが波状のように湧き上がってくる。 違う。 そんなことを言わせたかったわけじゃない。「でも、困ってたんですよね? 皆さんに相談するくらいに」 小鳥のようなか細さで。 発言した燈は居心地が悪そうに俯いてしまう。それは宮原さんの言葉からだろう。困っていた、宮原さんが何の悪げなく言った言葉に燈は彼女達がいた一、二時間程度の間息の詰まる思いをしていたのだろうか。いいや、悪いのは私だ。 訝しむのは仕方ないじゃないか、いきなり姪ですと言われすぐに信じられるほうが難しい。だが彼女が姉の娘なのだと受け入れた時点で、私は全てしくじっていた。 彼女は姉ではないのに。 いきなり押しかけてきて、明らかに申し訳なさそうにしているのに。彼女の境遇のほうが、目に見えて苦しいというのに。私の迷惑にならないように耐え忍んでいたというのに。 それでも私は、姉の面影を重ねて意識して遠ざけるようにしていた。「それは……」 言葉に詰まる。 間違っていないからだ。 そもそもバンドメンバーに相談なんて、ほとんどすることがなかった。呑み込んでいるつもりだったが、誤魔化せず吐露してしまったくらいに重荷になっていたのだ。
時間の存在を忘れてしまうくらいドラムを叩いていると、起動していたメトロノームのアプリが一瞬止まり、何度かバイブした。この部屋にいると時間がどれほど経過したか分からなくなることが多い。私がドラムで呼吸することも類似して、水中を走ることで呼吸をする回遊魚みたいだなんて自嘲する。 通知の元は宮原さんからのメッセージアプリだった。曰く、もう家に着く頃だという。きっと明峯さんはいないのだろうな、なんて思いながら洋室を出る。燈は部屋にいなかった。先ほどの反応から見れば当然だろう。ダイニングは朝食を食べたときと比べて変わりなく、唯一違うとすればレモンのような香りが漂っている。 ゆっくりと呼び出し用のベルが鳴った。宮原さんと深谷さんがやってきたのだろう、草のような息をひとつ吐いたあと、低い音を伴ってドアノブをゆっくりと回す。「いらっしゃい、宮原さんに深谷さん」 扉を開けると、幾人かのシルエットが視界に入り込む。長い茶髪を束ねた宮原さんを先頭に、風船のように膨らんだビニール袋を両手に持った深谷さんの姿がそこにはあった。しかし、やはり明峯さんの姿はない。「よっ。悪いな、急に」「本当に」 ちくりと刺したつもりの言葉は、しかし「はは」という適当な笑いで流される。「それと……」 そう言って視線を後ろへ向けると、私を鳥のように覗き込む燈が現れる。どうしてここに燈の姿があるのだろう。もしかすると外出したところを彼女達に捕まって、ここまで連れて来られたのだろうか。たしかに二人は私の実家にあるアルバムを見たことがあるため、姉の容姿を知っている。そのため可能性としてはあり得ることだ。「コンビニに寄るところで会ってさ、思わず捕まえた」「思わず、じゃないです」 アルバムで一度見た面影だけで声を掛けて連れてくる宮原さんもそうだが、そんな妙な声掛けに着いていく彼女も彼女だ。私の名前を出されて警戒心が緩くなったのだろうが、もう少し危機感を持ったほうがいいと思う。「いやぁ、コンビニでこんなに散財したの初めてだわ」「はぁ、とりあえず中へどうぞ」
スマホに宮原さんの名が映し出されたとき、時計はまだ七時にもなっていなかった。休日のこんな朝早くに電話してくる知り合いなど勤め先の者か宮原さんくらいなので、何事かと身構えてしまう。宮原さんが電話をしてくる時間は朝か深夜で、明峯さんと深谷さんは大体寝ているため私に掛かってくる場合が多い。特に明峯さんは仕事と音楽に関わる時間帯以外はほとんど電話に出ないため、少なくとも私から電話を掛けた記憶がない。 二回ほどバイブしたところで、充電ケーブルに差してあったスマホを手に取って電話に出る。「おはようございます」 耳にスマホを押し当てると、機械の中で少し音を変えてはいるが木の葉の戦ぐ音が潮騒のように聞こえた。恐らく樹の下にいるのだろう。宮原さんは朝にランニングをしていると聞いた覚えがあるので、そのコースの道中だろうか。「おはよう、やっぱり沙綺しか電話出ないな」 その口ぶりからすると、既に二人には電話をした後のようだ。社会人の休日なんてそんなものだろう、土日は一日中の大半眠っている明峰さんは例外として。好き好んで六時前から起きている物好きなど、私を除くと知り合いでは宮原さんくらいだ。「どうかしたんですか?」 ただ話したいからという理由で電話をしてくる相手でもないので、単刀直入に聞く。「いや実はさ。いつもお世話になってるライブハウスのオーナーが、イベントに出てくれないかって」「いつですか」「明日」 唐突過ぎて迷路にでも吸い込まれた気分だった。「それこそ二人に連絡を取らないと。深谷さんはともかく、明峯さんは今日中に連絡が取れるかどうか」 それに明日は私自身予定があるため、時間によっては断らなければならない。通常ライブハウスのイベントは夜に行われることが多いが、明日は日曜日なので昼に開催される場合もある。母は夕方頃に来ると言っていたため、即座に断るにはまだ早い。「真央にはぶっつけ本番で歌ってもらうしかない」「いえそれは……」 難しいだろう。通常はライブに向けて喉の調子を整えてくものだが、今回に限っては前日、もしすると明峯さんであれば当日にそれを知ることになるかもしれない。 だが確かに今回の依頼者であるライブハウスのオーナーには、私が高校生の時代から贔屓にしてもらっているため、無下には出来ないことも確かである。「とにかく昼頃、有香を連れて沙綺の家に行
スマホに宮原さんの名が映し出されたとき、時計はまだ七時にもなっていなかった。休日のこんな朝早くに電話してくる知り合いなど勤め先の者か宮原さんくらいなので、何事かと身構えてしまう。宮原さんが電話をしてくる時間は朝か深夜で、明峯さんと深谷さんは大体寝ているため私に掛かってくる場合が多い。特に明峯さんは仕事と音楽に関わる時間帯以外はほとんど電話に出ないため、少なくとも私から電話を掛けた記憶がない。 二回ほどバイブしたところで、充電ケーブルに差してあったスマホを手に取って電話に出る。「おはようございます」 耳にスマホを押し当てると、機械の中で少し音を変えてはいるが木の葉の戦ぐ音が潮騒のように聞こえた。恐らく樹の下にいるのだろう。宮原さんは朝にランニングをしていると聞いた覚えがあるので、そのコースの道中だろうか。「おはよう、やっぱり沙綺しか電話出ないな」 その口ぶりからすると、既に二人には電話をした後のようだ。社会人の休日なんてそんなものだろう、土日は一日中の大半眠っている明峰さんは例外として。好き好んで六時前から起きている物好きなど、私を除くと知り合いでは宮原さんくらいだ。「どうかしたんですか?」 ただ話したいからという理由で電話をしてくる相手でもないので、単刀直入に聞く。「いや実はさ。いつもお世話になってるライブハウスのオーナーが、イベントに出てくれないかって」「いつですか」「明日」 唐突過ぎて迷路にでも吸い込まれた気分だった。「それこそ二人に連絡を取らないと。深谷さんはともかく、明峯さんは今日中に連絡が取れるかどうか」 それに明日は私自身予定があるため、時間によっては断らなければならない。通常ライブハウスのイベントは夜に行われることが多いが、明日は日曜日なので昼に開催される場合もある。母は夕方頃に来ると言っていたため、即座に断るにはまだ早い。「真央にはぶっつけ本番で歌ってもらうしかない」「いえそれは……」 難しいだろう。通常はライブに向けて喉の調子を整えてくものだが、今回に限っては