ログイン【2016年1月1日(金) 昼】買ったばかりのベビーカーに蓮と菖蒲を乗せて、近所の小さな神社に参る。本当は浅草寺とか、もっと賑わってるところにも行きたいけれど、乳幼児を連れていきなりそんなところに行くのはハードルが高すぎる気がした。パンパン、と手を叩いて遥花と一緒にお祈り。「何を願ったの?」と、私。「……言わないよ。言ったら叶わないんじゃなかったっけ」と、遥花。「なにそれ! 高校生のときみたいなこと言って……」「ふふふ、覚えてたんだ。もう忘れてたかと思った」遥花が笑う。忘れるわけない。高校生の頃、一度だけ遥花と一緒に神社へ行ったことがある。育ての親が厳しくて、なかなか友達と外出なんて許してくれなかったのに、そのときはたまたま出られたのだ。何やら大きな取引があるとかで、養父母が共に出かけているタイミングだったような気がする。そんな日でも、友達と外出することに遥花は最初ためらっていたが、“良いじゃん、バレないって。バレたところで、もう高校生なんだから。友達と遊びに行くのだって変じゃないって、堂々としてれば良いのよ”そう言って、私が遥花を連れ出したのだ。「あの時も何をお祈りしたか教えてくれなかったけど、何だったの?」今なら答えが訊けるような気がして、ふと質問する。「それは……言っていいか、もう叶っちゃったんだし」「えっ、いいじゃんいいじゃん! 聞きたい!」「それは……ね。今みたいに、仲の良い、素敵な家族を持つこと」頬を染めて、遥花が言う。なんて可愛らしいんだろう。胸の奥がむずむずしてくる。「なにそれ、めっちゃ嬉しいんだけど……それってつまり、私が遥花の夢を叶えたってこと?」「うん、そうかな。半分は」えっ、半分? 一瞬、ドキッとした。「半分ってことは、もう半分は……」「ふふ、私自身、かな」プッ、つい笑ってしまう。「ああ、そういうことか、私はてっきり……」「ん? てっきり、って?」……と、ストップ。多分、ちょっと空気読めないこと言いそうになってる。「いや、まぁ、“半分”なんて言われて、私が力不足って思われてるのかなー……なんて、ね!」「えー、そんなことないよ。素敵なもう一人のママだよ、蓮と菖蒲の」「そ、それなら良かった」もう半分は、大道寺悠真――そんな風に答えられるんじゃないかと、正直、怖かった。先日のクリスマ
【2016年1月1日】朝の光がカーテンの隙間から差し込み、心が裂かれるように冷たく苦しい夢を溶かした。目を覚ますと、愛しい顔がそこにあった。香澄、私の恋人。そしてベビーベッドには、愛らしい双子の寝顔。こんなにも幸せな朝を――新年を迎えられるのに、見た夢の恐ろしさで心臓がドキドキ脈打っている。香澄と双子が何処かへ行ってしまう、恐ろしい夢だった。行かないでと声を張り上げるのに、みんな、私からどんどん遠ざかっていく。一人にしないで、置いていかないで……。大丈夫、みんな夢だ。まだ、クリスマスの恐ろしい出来事の記憶が残っている。脅迫犯となった神崎さんの、恐ろしい声。顔は見覚えがあるのに、全く別人のようだった。助けに来てくれた悠真も、ある意味では別人のようではあった。自分の身の危険も顧みず、あんな風に勇敢に挑むなんて。香澄は、あれは自作自演だと言ったけれど。それにしてはやり過ぎているようにしか思えない。神崎さんはあの後、警察に連行された。悠真も事情聴取のため同行することになった。私と香澄、奥野さんは、その場でいくつか質問されるだけで済んだ。前々から謎の脅迫状が届いていたこと、昼間も彼の車と思しきレクサスがマンションの近くに停まっていたことも。神崎さんの犯行理由については、まだ何もわかっていない。警察も取り調べ中だが、何も話さないのだそう。“とりあえず例のホテルまで向かいますが、それでよろしいですか?”2月に、悠真との離婚を決意して屋敷を飛び出した日も、何も言わない私にそう言い、屋敷から連れ出してくれた。あの屋敷で最後に触れた人の温かさが、神崎さんだったと思っている。香澄が探偵事務所で聞いた話によれば、妹の治療にお金が必要だったらしいが、そもそも神崎さんにそんな妹さんがいたのも知らなかった。思えば私は、あの屋敷にいた人たちのことを何も知らない。自分が悠真に愛されたいという気持ちでいっぱいで、とても周りの人たちのことを気に掛ける余裕はなかったのだと思う。そして悠真も。彼の当時の気持ちは? そして今の気持ちはどうなのだろうか。私自身、一方的に愛を押し付けるばかりになっていたのではないか。再びクリスマスの夜。警察に事情聴取を言い渡され、「じゃあ、ちょっと言ってくる」と行きかけた悠真を、私は呼び止めた。「待って……悠真、まだ、双子に会っていないでしょう? せめて
【2015年12月31日】屋敷のリビングは、暖炉の火も消えて冷えきっていた。俺は缶ビールを片手に、ソファに沈み込んでいる。もう紅白も終わり、NHKでは『ゆく年くる年』を放送している。あと10分で新年だそうだが、どうでもいい。缶ビールをもう一本開けようとしたとき、スマホが鳴った。画面に表示されたのは、末継阿左美のLINEだ。彼女の方から一体、何の用だ?ため息をつきながら、通話ボタンを押す。「悠真さん? 今一人ですか?」「ああ、一人だ」「よかったら一緒に初詣行きません?」「何で俺とお前が」「どうせ部屋でテレビでも見ながら、ビール飲んでたんでしょ」図星だ。俺は苦笑いしながら、ソファに深くもたれかかった。「わかった、付き合ってやる……と言いたいところだが、生憎、足が無いんだ。ドライバーは例の事件で捕まったし、秘書の佐伯もさすがに年末年始は休暇を取ってる」「えー、つまんない……あ、じゃあ、年明けまでダベってましょうよ」「何で俺が女子大生なんかと……」「あ、いま馬鹿にしましたけど、これでも一度、お見合いした仲ですよね。それに悠真さんだって、私のことをちょいちょい頼ってくるくせに」……そう言われたら、言い返せない。「わかったよ……ただ、一応、気になってることを聞いておくぞ。お前、前に言ったよな? お前に予知能力はない、霊感があるだけだって。どうして霊感でそこまで読めるようになった。それに……この間のクリスマスだって」「ああ、役に立ったでしょう? テニスボールとポリ袋。防刃手袋は……むしろ無くても困らなかったようですけど。まぁ、備えあれば憂いなしってやつですね」「確かに役に立ったが……もう未来予知レベルじゃないか。何なんだ」阿左美は、少し間を置いて、静かに言った。「それは私の力じゃありません。百合子さんですよ」……百合子。俺は缶ビールをテーブルに置いた。手が震えていた。「先日、ようやくニュースが出ましたよね。ほら、長野の……」クリスマスの夜の、あの事件の直後のことだ。長野の山奥で発見された、とある女性の遺体が、佐野百合子のものであることが判明したというニュースが流れた。“遭難事故”。……事件はそう処理されたが、俺にはそれが“組織”の口封じに見えて仕方ない。「本当に事故で死んだのか、それとも裏があるのか。悠真さんも薄々わかってるんでし
ポリ袋を頭にかぶったまま、抵抗を続ける神崎。 「ぐっ……あぁっ……!」 明らかに苦しそうな声を上げる。と、マンションの中からもう一人、見知らぬ男が出てきた。 「僕が手足を抑えます! あんまりやり過ぎない方がいいです、死んでしまいます!」 「……お前、誰だ⁉」 「奥野です! 遠藤先輩の、職場の後輩です!」 こんな状況でも礼儀正しく自己紹介する男、奥野。もちろん有言実行で、神崎の両手は抑えつけている。 「はいっ、これで縛り付けて!」 と、香澄から何かを渡された。結束バンドとビニールテープだ。なかなか用意周到……いや感心している場合ではない。俺と奥野で、テキパキと神崎を縛った。 やがて、ガックリと力を無くす神崎。 「えっ……死んだ⁉」 「いや、失神してるだけです。とりあえず、顔の袋は外しましょう」 奥野から言われるまま、恐る恐るポリ袋を外す。その下から出てきたのは、目が血走り、泡を吹いている神崎だ。予想が的中した。俺を裏切り、遥花たちを脅かしていたのは、やはり長年俺のすぐそばにいたこの男……やるせなさが胸を締めつける。間違いであって欲しかった。 「悠真……一体、どうやって入ってきたの?」 震える声で遥花が尋ねる。俺は言葉を濁した。 「それは……まぁ、いいじゃないか」 偶然やってきたテレビクルーに、テニスボールを渡すことで得られた鍵で……なんて、いま話しても信じてもらえないだろうし、混乱を与えるだけだ。 香澄は不満そうな顔をしながらも、震える声で言った。 「助けは要らないなんて言ったけど……助かったわ。ありがとう」 俺は首を振る。 「礼には及ばんさ。むしろ、俺のせいで君たちにこんな危険が及んでいるんだと思う。すまなかった」 俺の謝罪に、遥花は怯えた声で言った。 「やっぱり、大道寺家の子供を私が産んだから、こんなことになってるのね……? 神崎さんも、どうしてこんなことを?」 俺は、のびている神崎を見ながら答えた。 「俺もうまく説明できない……だが、俺をハメた女に言われたんだ。百合子さ。俺のことを狙っている“組織”がいると。少なくとも俺は……そしてステアリンググループは、そういう脅威にさらされている」 言葉を失っている遥花と香澄。俺は続けた。 「こいつの犯行も、こいつ単独じゃ
遥花から助けを求められていないことは、100%わかっていた。それでも俺は阿左美に背中を押される形で、遥花と香澄のマンションまで向かった。車の運転席に座る佐伯は無表情のままハンドルを握り、バックミラー越しに一度だけ俺を見た。「悠真様、本当によろしいのですか……あのような形でお別れになった元奥様と、このような形で会いに行かれるなど……」「黙って運転しろ」それ以上は佐伯も、何も言わなかった。普段通り、機械のように黙々と指示された仕事をこなす。マンションの前に着くと案の定、黒のレクサスが停まっていた。神崎の車……か? 確信は持てなかった。ナンバープレートを確認しようとしても、番号なんて覚えているわけがない。神崎の車になら何百回と乗っているはずなのに、一度も意識したことがなかったのだ。そもそも俺は神崎のことを、まるで知らなかった。名前すら、最近まで「ドライバー」としか呼んでいなかった男だ。反省している場合じゃない。俺は車を降り、マンションに近づいた。佐伯はエンジンをかけたまま待機してもらう。持っているのは、阿左美に言われた三種の神器――テニスボール、ポリ袋、防刃手袋。どれも意味がわからないが、持っているだけで少しだけ落ち着く。まるで子供がお守りを握りしめているような気分だ。オートロックのエントランスの前で立ち尽くす。インターホンを押す勇気はない。遥花が出たら、どう顔をすればいい? 香澄が出たら、もっと最悪だ。どうやって中に入るか……。考えてあぐねていると、突然、後ろからゾロゾロと人が押し寄せてきた。「さて、やって参りました! こちらの物件、お値段いくら!?」マイク、カメラ、三脚を抱えた十数人の集団が、まるでロケバスから吐き出されたようにマンションに雪崩れ込んでいく。テレビクルー? 俺は反射的に後ずさったが、「おお、買ってきてくれたかテニスボール! 早かったな。早く渡せ」突然、カメラマンに腕を掴まれる。抗議する間もなく、俺が持っていたテニスボールが奪い取られた。一瞬でカッターで切り裂かれ、中の空気も抜けてペシャンコになる。「にしても、いくら出演アイドルのスキャンダルが出たからって、わざわざこんな夜に撮り直すこともないのにな……」「まぁ、時期が時期ですしね……にしても、ディレクターの事務所があるマンションを借りるなんて! いくらロケ地が抑えられ
【2015年12月25日(金) 夕方】マンションに戻ると、部屋はすっかりクリスマスの匂いに包まれていた。奥野が張り切って焼いたローストビーフの香ばしい煙と、温め直したチキンソテーのバター香。生クリームたっぷりのケーキと、シャンパンの泡の音。蓮と菖蒲は小さなサンタ帽をかぶせられ、赤いクリスマススタイ(よだれかけ)を着て「うー!」「きゃー!」と大はしゃぎだ。「ただいまー! 遅くなってごめん!」玄関で靴を脱ぐなり、遥花が飛びついてきた。いつもより強く抱きしめ返し、耳元で囁く。「大丈夫? 怖かったよね」「……うん。でも香澄が帰ってきてくれたから、もう平気」遥花の震えが少しずつ収まっていくのを感じて、胸を撫で下ろす。奥野はキッチンで「先輩、おかえりっす!」と手を振ってくれたけど、まだ事情は話せていない。きっと遥花からも、何も説明できなかったに違いない。朝イチでT探偵事務所に乗り込んで得られた衝撃の事実……探偵に遥花の情報を横流しした神崎一二三は、大道寺悠真の専属ドライバーだった。しかも今日、遥花がマンション前で目撃したという黒のレクサスは、神崎が乗り回す車種とも一致していたそう。雇用主の悠真本人にも確認したが、神崎は休みを取っていて連絡が取れない。悠真のすぐそばにいる人間が私たちを監視していたのは事実。そして神崎が脅迫状を送ってきた本人である可能性が高い。 一応、遥花の元夫である悠真自身が脅迫犯ではないかという疑いもかけたが、電話で会話した限りではシロと見て良さそうだ。むしろ彼は子供の養育費などの工面まで考えていたが、そこは遥花の意向で断りを入れたところだ。別れた元夫になんて、助は乞わない。私も遥花も、彼とは今後も無関係でいくつもりだ。「それで、香澄……どうするの?」遥花が小声で聞いてくる。私はサンタ帽をかぶった蓮の頬をつつきながら、できるだけ明るい声で答えた。「今夜はまずパーティ楽しもう。奥野も来てくれてるし、犯人が本当に今夜動くなら、むしろチャンス。人数が多い方が安全でしょ?」「……でも、無関係な奥野さんまで巻きこんじゃって……」「それは私も申し訳なく思ってたけど……一先ず、できる限りの準備はしてあるから」私はバッグから、帰る途中でホームセンターで買い揃えたものをそっと取り出す。黒いビニールテープ、結束バンド、玄関ドア用の補助ロック(二重