Chapter: 第22章:対峙の炎*香澄【2015年10月】マンションの部屋で独り、PCに向かって密かに作業を進める私。まだ入院中の遥花は帝王切開の痛みに相当苦しんでいたし、早産でNICUに運ばれた双子の様子も心配だった。また医者から「安静に、ストレスを避けて」と念を押されたが、養父母がまたいつ訪ねてくるかという不安が最も大きなストレスとして私たちにのしかかっていた。遥花がいない、久しぶりに独りきりの部屋で、私はルミナスのネットワークにハッキングを仕掛けた。その道の専門家としては簡単だったけど、心はざわついた。画面に広がるデータの中から、私たちの個人情報が流出したことさえわかればよかったが、潜れば潜るほどルミナスが隠していた不正が次々と出てきた。顧客の個人情報が闇市場に流れるログ、税務署への虚偽報告。叩き上げで地位を築いてきた会社の蔵は真っ黒に染まっていた。やがて私は、最も厳重になっている扉にたどり着く。パスワードは、5回間違うと完全にネットワークからシャットアウトされるばかりか、彼らにハッキングの通知が飛んでしまう。開けるか、開けまいか。私たちの個人情報が流出していたという事実がつかめなくても。彼らを訴えるには十分すぎるほどの材料がある。何もこんな危ない橋まで渡らなくていいだろう。そんな気もして、一旦は離れたのだが。「私……そのパスワード、わかるかもしれない」翌日、遥花を見舞いに行ったときに、彼女はそう言った。「養父がある日、呪文のように変な言葉を唱えていたの。確か、“ルミナスの心臓、誕生日……ルミナスの心臓、19500825”って。何を言ってるかと思ってこっそり部屋を覗き込んだら、パソコン画面に表示された小さなダイアログに、何か文字を入力していて。それを打ち込むと、一気に画面の中に、データの波が広がっていったの」“ルミナスの心臓、誕生日”がパスワードに紐づく情報? それを口にしていたというなら何とも間抜けだが、彼ほどの老人ならありえる話だ。「でもそれ、いつの話?」「私が結婚する直前だったから、2年半くらい前になるわ」2年半くらい前のパスワード。そんなものをいまだに使っているだろうか。いや、老いた人々には、パスワードを頻繁に変える習慣はない。システムから変えるように警告されて一度変えても、次に警告されたときにもとに戻してしまう人間だっている。どんなにシステムを刷新したところで
Last Updated: 2025-10-07
Chapter: 第21章:幼き日の檻*遥花【1993年~2000年】養父母の影は、私の人生の始まりからずっと付きまとっている。6歳より前のことは何も覚えていない。物心ついたのがいつだったかさえ、ぼんやりしている。目が覚めたら、6歳の道仲遥花としてそこにいた、という感覚だ。白い壁の部屋、知らない大人たちの声。そして偽りの家族。すでに言葉も話せるし、自分が「遥花」という名前なのも理解している。ただ「道仲」という苗字がどうも馴染めなかった。他所の家から間違えてそこに連れてこられたような感覚は、その頃からあった。家族との記憶の最初は、養母の膝の上に座らされ、冷たい紅茶を飲まされる場面。砂糖も入れてもらえず、苦みだけが口に広がって、思わず吐いてしまった。「ちょっと、なんてこと! カーペットが汚れたじゃない!」養母はそんな私の頬を反射的に叩いた。躾ではなく、単純な怒りで叩いたという感じだった。重厚な本棚が並ぶ養父の書斎はビジネス系の書籍で埋め尽くされ、革の椅子には煙草の匂いが染みついている。当時ルミナスコーポレーションは、まだ小さな会社だった。養父は夜遅くまで机に向かい、数字を睨み、電話で怒鳴っていた。「この契約が取れれば、俺たちは大物だ。ステアリンググループとの提携だって夢じゃない」そんな養父が私を見る目は、いつも計算高かった。「遥花、お前は親戚から預けられた仮の存在だ。本当のお父さんとお母さんは、事故で死んだ。もう会えない。だから、俺たちを大事にしろよ」6歳の私にそんな残酷な言葉を突きつけるなんて。夜はいつも、布団の中で泣きじゃくった。両親が死んだのは何の事故? 顔も、声も、何ひとつ思い出せない。ただ、胸にぽっかり空いた穴が痛かった。養母は慰めもせず、ため息を吐いてはいつもこう言い聞かせた。「泣くんじゃないよ。女の子は強くないと。ルミナスの娘として、恥をかかせてもらっちゃ困るの」“娘”? そんなときばかり“娘”なんて言葉を使う。大人は卑怯だ。いつもは“仮の存在”だ、“駒”だと言うくせに。会社が成長途中の頃、養父はよく豪語した。「遥花、やがてお前は大企業の経営者の元へ、妻として嫁ぐことになる。お前は会社と会社をつなぐ大事な駒だ。そのために、あらゆるマナーや作法を叩きこむ。それらを身に付けて、“上流階級の娘”として恥じない振る舞いをしろ」毎日のレッスンは地獄だった。朝からドレスを着せら
Last Updated: 2025-10-05
Chapter: 第20章:反逆の始まり*香澄11月の朝、マンションの窓から差し込む柔らかな光がリビングを照らす。秋の空気がカーテンを揺らし、外では街路樹の葉が赤く染まり始めている。遥花が双子より先に退院して1週間。お腹の傷はまだ疼くようで、私も最初のころはあまり笑わせないようにと気遣っていたが、「もう無理して真面目ぶらなくても大丈夫だよ。いつもの香澄じゃないみたいだし。また前みたいに、いっぱい冗談言って笑わせてよ」と、数日前に許可も下りた。ただ、それで私が調子に乗り「よぉし、じゃあ私が遥花を笑顔120点満点にしてやるぞぉ~!」と思いっきり変顔をしてみたら、遥花のツボに入ってしまったのか大笑いさせ、「イタッ、イタタタタタッ……やばっ、しぬ!」とまた苦しめてしまって猛省したりもした。そして今、日曜日に至る。リビングで二人、ハムとチーズを挟んだマフィンを食べながら、「今日も双子、元気にしてるかな」と言う私。NICUですくすくと育つ双子は、徐々に体重も2,000g前後まで増えていった。もちろん今日も、これから二人で面会に行く予定だ。「このまま順調だったら、今日で退院時期も決まるって言ってたね」と遥花。そのセリフには少し不安も見え隠れしているよう。「大丈夫だって! 昨日もいっぱいほぎゃあ、ほぎゃあって元気に泣いてたじゃない」と励ました。支度をしてマンションを出、電車に乗って2駅先の産婦人科へ向かう。前に遥花が住んでいたアパートからは徒歩で行ける距離だったが、遠くなってしまったのは私のマンションで一緒に暮らし始めたことの弊害だ。「姫……出産直後の大事な体に無理をさせて、申し訳ございませぬ……」時代劇っぽく詫びを入れる私。今さらというか、毎回のルーチンになっている気がする。「いいよ気にしなくて。どうせ歩いていくのと負担は変わらないし。それに、香澄とデートしてるみたいで楽しいじゃん」と、遥花。食卓にいたときの不安も薄れたのだろうか、「デート」だなんて可愛いことまで言ってくれる。やばっ、惚れ直しちゃうじゃん。産婦人科に到着し、NICUに通される。「|蓮《れん》くんも、|菖蒲《あやめ》ちゃんも元気ですよ」と、案内しながら言う看護師。双子に名付けたのは遥花だ。ちなみに私の「レッドとピンクにしようよ! じゃなかったら、アクアとルビー!」といった案は、ことごとく没にされた。NICUのガラス越しに、双子が
Last Updated: 2025-10-04
Chapter: 第19章:予言と霊感*悠真「悠真さん、こんな私でも、興味ありますか?」 阿左美の声が低く響く。帯を緩めたまま、身を寄せる。胸の谷間が深く、息が熱くなる。父親の企みか、それとも彼女自身の誘惑か? 頭が混乱する。感情の無い女だと思っていたのに、とんだトラップだ。 しかし長らく俺が手も出せず縮こまっているのを見て、阿左美はスッと身を引き、帯を直した。 「……なんて、冗談ですけど」 そして何事もなかったかのように、再びお茶をすする。 冗談? 俺は今、単におちょくられただけなのか? 思わずヘタり込んでしまう。これだから女は、何を考えているのかわからない。 一方で阿左美は、こんなセリフを口にする。 「まぁ、今のでハッキリしました。これだから男の方って、何を考えているのかわかりやすいですね。あなたは私の誘惑に応じない。別に女にだらしがない性格ってわけでもなさそう。私との縁談を断る気なんでしょう」 いきなり核心をつかれ、ますます言葉に詰まる。彼女の瞳は静かだ。 「別に気にしなくていいですよ。私もまだ、結婚する気なんてさらさらないし」 言われて、ようやく俺の心もほどけた。 「なんだ、そうなのか……俺はてっきり……」 「でも、あなたには興味がある」 俺のセリフにかぶせるように、彼女は言う。“俺はてっきり”……なんだ? 何を言おうとした? また言葉が出なくなる。完全に阿左美のペースだ。彼女は続けて、思いもよらぬことを口にし出した。 「あなたは、自分の運命がまだ見えていないようね。フラフラした性格のせいで、間違った方向に傾いている。せっかく私の誘惑も回避できたのに、もったいない」 馬鹿にしているのか。初めて会った人間に対してここまで失礼なセリフもないだろう。怒ってもよさそうだったが、できなかった。すべて彼女の言う通りに感じたからだ。 「俺の運命、だって?」 ただ、俺も言われっぱなしのままではいられない。男としてのプライドがある。言い返すべきことは言い返させてもらう。 「はは、他人の運命が君にはわかるのか。一体、どうやって? 未来が見えるとでも?」 「未来なんて見えるわけじゃいじゃないですか」 ハッ。お笑いだ。そりゃそうだ。そんなSFがあるわけ……。 「けど私には、霊感があるんです」 「はっ、えっ、れ、霊感?」 彼女はコクリとうなずき、続ける。 「あなたの背後に、4つの
Last Updated: 2025-10-03
Chapter: 第18章:酒と誘惑*悠真【2015年11月】秋の深まりを感じさせる11月の東京・目黒。料亭の庭園に落ち葉が舞い、風が枯れ木を揺らす。老舗料亭「月見亭」の個室で、俺は父に強いられたお見合いの場にいた。向かいに座る|末継阿左美《すえつぐあざみ》は、着物を身に付け、写真通り日本人形のように美しい。長い黒髪、黒目がちな瞳は愛らしさも感じさせるが、口は真一文字に結ばれ感情が読めない。緊張していると言うより、元から感情を出さないような性格に思えた。その隣に座る末継|信孝《のぶたか》社長は、太った体躯をスーツに詰め込み、酒を煽りながら笑っている。俺の隣に座る人物に対し、「お父さん、えらい若かごたっばってん」と九州の訛りが強い口調で話しかけた。「いえ、私は悠真様の秘書をしております、佐伯敏夫と申します」話しかけられた人物が返す。末継社長はキョトンとしているが、無理もない。何で親父じゃなくて秘書のお前が同席してるんだと、俺自身も散々問い詰めた後だった。「本来であれば総帥……お父様もご出席される予定でしたが、お仕事がお忙しいとのことで。無礼をお詫び申し上げます」淡々と返す佐伯に、末継社長は酒を煽り、太い声で笑って返した。「まぁ、よかよか。太か会社ば動かしよんしゃっとやけん、こがん場所に顔出さんばらんとも、やぐらしか(※煩わしい)とやろ。そもそも、この縁談ば決むっかどうかは本人たちの意思やけん、そがん意味ではオイも邪魔もんかもしれんばってん。わっはっはっは!」太い笑いが個室を震わせる。仮に俺がこの縁談に乗り気だったとしても、こいつが義理の父親になるのは勘弁だ。自然に嫌悪感が湧く。「初めて目にする苗字でしたが、スエツグ様、で正しいでしょうか。大変珍しいですね」敏夫が社長に視線を向け、再び口を開く。社長は酒を傾け、こう返した。「そがんね? うちの両親は佐賀出身で、九州ではそがん珍しか苗字でんなかごたっけど。福岡にもどっさいおるごたっばってんね」「なるほど、勉強になりました」佐伯は淡々とうなずく。時候の挨拶のようなものだとしても、もう少し感情を乗せて言えるだろうに。人選ミスも甚だしい。親父は今回の縁談を何だと思ってるんだ、そっちが乗り気じゃなかったのか?「末継社長が経営なさるユナイトコーポレーションは、IT分野で急成長中です。ステアリンググループと提携できれば、両社に利益をもたらすでし
Last Updated: 2025-10-02
Chapter: 第17章:ヒーローとヴィラン*遥花目を開けると、白い天井と消毒液の匂い。病院のベッドだ。記憶がぼやける。タクシーの中で鋭い陣痛がきて、意識が遠のいたのだ。今、体は重く、お腹にはズキズキとした痛みもあるが、子宮の中は軽くなっている感覚がある。もう胎動も感じない。双子……生まれたんだ。肩の荷が降りたような安堵と、無事に生まれたのかという不安、そして今までずっとそこにあると思っていたものがもう無いことへの妙な喪失感が一度に押し寄せ、生ぬるい涙が自然と一筋こぼれた。病室の窓からは朝日が差し込んでいた。あれから、何時間経ったのだろう。ふとベッドの隅に、香澄が眠っていた。その柔らかい栗色の髪を撫でると、「うぅん……」と頭を数回横に揺らしたあとで、彼女は顔を上げた。「あ……遥花、良かった……意識、戻ったんだね」その笑顔にホッとする。場所も状況もまったく違うが、それだけいつもの朝と変わらぬことに安心感が湧いた。「香澄、双子は?」声がかすれる。喉がカラカラだ。「ごめん、先に赤ちゃん見てきちゃった! ほら、遥花ジュニア1号・2号!」香澄がスマホを取り出し、動画を見せてくれる。画面には、NICUの保育器にいる小さな二人が映っていた。男の子と女の子、細い腕に点滴、チューブで呼吸を助けられている。小さいけれどしっかり手足を動かし、元気な様子に、今度は熱い涙がこぼれる。「良かった……ありがとう、香澄」震える声でそう告げた。「そうだ、ちゃんと産声も録音してあるの。先生からもらったよ」と、香澄は小さなカード状のレコーダーを取り出す。ボタンを押すと、二つ、競い合うようにほぎゃぁ、ほぎゃあと泣く声が聴こえた。「8ヶ月でよく育ったって。産声を上げたのも良い兆候だって言ってたよ。男の子1,535g、女の子1,465g、ピッタリ3,000g! めっちゃ強いヒーローだよ!」いつものまぶしい笑顔で香澄は言う。「ヒーローって、またそんな呼び方……」とツッコミを入れるけど、涙が止まらない。香澄が頭を撫でる。「遥花、めっちゃ頑張ったね。偉い、偉い!」「香澄、ありがとう……」互いに手を合わせ、指を絡め合う。彼女の手の温もりに、胸が熱くなってきた。「ありがとう、なんて言われる資格あるかなぁ……遥花、帝王切開、私が決めちゃった。ごめんね、遥花が意識なかったから……」香澄の声が少し震える。「でもね、先生に『ご家族で
Last Updated: 2025-10-01
Chapter: エピローグ:香の鍵“香りとは檻である”かの詩人がその言葉を呟いたとき、そこにはどんな思いが込められていたのか。もう抜け出せない絶望感からか、あるいは自我を失くすほどの甘美な悦びに酔いしれてか。香りは時として人の心を捕らえる。そして一度囚われると、決して逃れることはできない――鍵を手に入れさえしなければ。果たして詩人は、その先の人生で鍵を得ることはできたのだろうか。春の始まり。2DKの簡素な集合住宅の一室で、情事にふける若い男女の声が響く。若い――と言っても、20代半ば。8年の年月を経て、成熟した大人の体となった、香織と拓海だった。長年スポーツに勤しんでいた拓海の体はすっかり引き締まり、盛り上がった筋肉にぷつぷつと汗が浮き上がっている。一方、香織の体は女性らしい丸みを帯び、柔らかで形の良い乳房も熟れた果実のような膨らみとなっていた。拓海が、香織のポツッと硬くなった乳首にキスをすると、彼女は「ひゃうっ……」と可愛らしい声を上げてのけ反る。その反応に興奮したのか、拓海はますます情熱的に香織の乳首を吸い上げる。「拓海……もうっ、相変わらず赤ちゃんみたいなことする……」「へへ、男の本能ってやつかな。目の前にあると、吸いたくてたまらなくなる」「私達に赤ちゃんができても、同じことするつもりなの?」そ
Last Updated: 2025-07-27
Chapter: 第18話:決戦と解放夏の日差しを浴びながら、香織は彩花と再び観客席に座っていた。しかし学園のグラウンドではない。より広く、青々とした芝生が広がる区営のグラウンドだった。学園のサッカー部が最も注力していた、「夏の試合」が今から始まろうとしていた。春の終わりのあの日、退学した瀬野らから誘われた時は、まったく行く気にもなれなかったこの試合。まさか自ら望んで観戦することになろうとは、香織自身も思ってもみなかった。いまフィールドに堂々と立つのは、例の試合結果からレギュラーに選ばれた拓海だ。そして彩花が応援していた新入部員もレギュラー入りし、今は拓海の味方として隣で肩を並べていた。香織は彼の汗と土の匂いを想像し、心で祈った。試合開始のホイッスルが鳴り、拓海は動き出す。相手チームは強豪で、序盤から圧倒的な攻勢を仕掛けてきた。拓海の動きにはまだぎこちなさが残り、ボールを奪われるたびに観客席からため息が漏れる。(拓海、頑張って……!)祈るように、香織は心の中で叫んだ。試合の開始前、コーチは拓海にこう戦略を伝えていた。「相手は前線が強い。拓海、お前は中盤で守備を固めつつ、隙を見たら一気に前へ出ろ。チームの逆転はタイミングが命だ」観客には圧されているように見えたが、拓海はほぼコーチの指示通り中盤で守備に徹し、相手の猛攻を食い止めていた。
Last Updated: 2025-07-26
Chapter: 第17話:幸せで神聖な営み香織と拓海は、直に肌と肌を重ねながら、舌と舌を絡めあいながら、強く求めあった。あの体育館の裏で、瀬野から無理矢理唇を奪われ、口腔を犯されたときとは全然違う。激しいだけでなく、優しさが込もった求め合うキス。どれほど長く重なっていただろうか。やがて唇を離し、互いに見つめ合う。「香織……この先に進んでもいい? 初めてで、うまくできるかわからないけど……」彼の真面目な言葉に、再び香織は頬を赤らめながら、こくんと頷く。だがその時、拓海が動きを止め、慌てたように呟いた。「待てよ……僕、アレ持ってない。まずいよね?」香織が目を上げると、拓海が困った顔でこちらを見ている。彼女がキョトンとする中、彼は「何か……ないかな」と言いながら物置の隅を見回す。ふと、古い棚の埃っぽい角に拓海は目を留めた。そこには、誰かが捨てたらしい未開封のゴムのパッケージが転がっていた。それを拾い上げ、驚いた声を上げる。「何だこれ……こんなとこに置いてあるなんて……一体、誰が?」香織も顔を赤らめながら呟く。「誰かが……使わなかったのかしら。でも、封が切れてないなら……」
Last Updated: 2025-07-25
Chapter: 第16話:もっと近くにテスト試合の前日、香織は図書室で彩花と話していた。彩花は頬を染め、興奮気味に切り出した。「香織、聞いて! サッカー部の新入部員に、めっちゃかっこいい子がいるの! 明日のテスト試合、絶対応援したいんだけど……一人じゃ恥ずかしくて。ね、付き合ってよ!」香織の心臓がドキンと鳴った。拓海も出る試合だ――彼の試練を近くで見たいが、内緒の恋愛は守らねば。香織は微笑み、彩花の熱意に押される形で答えた。「ふふ、そこまで言うなら付き合うわ。応援、楽しそうね」彩花が目を輝かせ、抱きつく。「やった! 香織と一緒なら、絶対楽しいよ!」香織自身も心の中では楽しみすぎて叫び出したい衝動に駆られながら、努めて冷静なお嬢様を装った。試合当日、香織は彩花と共に観客席に座った。夏の陽射しがグラウンドを照らし、拓海の姿が遠くに見える。彼は緊張した顔でフィールドに立ち、補欠ゆえの不慣れな動きが目立つ。「やっぱりあの新入部員、かっこいい!」彩花がそう興奮して叫ぶ中、香織は拓海の匂いを想像し、心で応援した。試合は拓海のチームが劣勢だった。ライバルの新入部員がドリブルで突破し、ゴールをキメる。守備で追われるばかりの拓海に
Last Updated: 2025-07-24
Chapter: 第15話:“おっぱい”の魔法数日後、香織は庭園のベンチで拓海を待っていた。夏の陽射しが薔薇の香りを濃くし、彼女の胸は微かな緊張で高鳴っていた。テスト試合を目前に控え、拓海が日に日に押しつぶされそうになっていることを、香織も感じ取っていた。(拓海の頑張りを、ただ待つだけじゃ足りない。私が彼を支えなきゃ……)拓海が現れた。汗で濡れた体操服が小太りな体に貼り付き、疲れ切った顔に無理やり笑みを浮かべている。香織を見つけ、ベンチに腰を下ろした。「香織……今日もこうして会えて、嬉しいよ……」“嬉しい”と言いながらも、彼の声は力なく、汗と土の匂いが濃密に漂う。香織は水筒を差し出し、穏やかに尋ねた。「練習、きつかったでしょ? テスト試合、近づいてるものね」拓海は苦笑し、俯いた。「うん……コーチに『今のお前じゃ無理だ』って言われてさ。ライバル連中も僕のことバカにして……僕、ほんとにレギュラーなんてなれるのかな……」彼の弱音と、匂い――汗と土、疲れ果てて決意が揺らぐようなニュアンス――が、彼女の心を揺さぶる。言葉だけでは足りない。もっと近くで、彼を支えたい。「拓海……ちょっと、こっちに来て」香織は立ち上がり、拓海の手を引い
Last Updated: 2025-07-23
Chapter: 第14話:友情と試練「彩花、私……恋人が出来ちゃった」ある日の昼休み、学園のカフェスペースの隅で、二人だけで昼食を取っている最中だった。香織の突然の告白に彩花は目を丸くし、持っていたサンドイッチをポロリと床に落とす。「あーっ! 最後に残しておいたタマゴサンドが……!」「わ、大丈夫!?」「うぅっ……埃まみれ……大丈夫じゃないよ! もったいない……」恨みがましい目で彩花は香織を見る。落としたのは自分なのに、香織のせいだとでも言いたげだ。「まさか……今日二人でご飯行こうって言ったのも、それを言うためだったの?」「いや、そういうわけ……でも、あるのかな……」たどたどしく答えながら、「あ、お詫びにこれ食べる?」と言って、弁当箱の中のふっくらとした卵焼きを箸で彩花に差し出す香織。「食べるっ」と言い、彩花は直接食いついた。まるで池に撒かれたエサを頬張るコイのように。「ん~、おいしい! 香織の家の卵焼き、最高~!」「良かった。実は今朝、自分で焼いてみたの」「へぇ、メイドさんが作ってくれたんじゃないんだ!」
Last Updated: 2025-07-22
Chapter: 第14報:終幕の謝罪文<strong>2016年某月某日 編集済み</strong>半年ほどFacebookを不在にしておりました。不在の間に皆様から書き込まれたエントリに目を通すと「雲隠れでは」との指摘もあります。まさしく、その通りです。心配して電話をかけてくださった皆様。中にはLINEなどで厳しい言葉を投げかけられた方もいらっしゃいましたが、改めて身が引き締まる思いでした。本当にありがとうございました。事情をご存じでない方に向けて、改めてご説明いたします。実は私、クロカワテツヤは、半年前まで、シロカネマユラという高校時代の元恋人と不倫しておりました。誘ってきたのは彼女の方です。もちろん、それで私の罪が軽くなるとは思っておりません。私自身もシロカネさんをいいように利用し、彼女の心を弄んでしまったのだと思います。そのことを彼女自身に暴露されたのが、まさに半年前のこと。当時の私とシロカネさんの友人・知人、のべ1,300人以上の方の前に大変下品でお恥ずかしい写真を晒してしまいましたこと、今更ながら深くお詫び申し上げます。そちらの投稿は、現在すでにシロカネさんのアカウントごと削除されております。削除は私から依頼したものではありましたが、まさかアカウントごととは思いませんでした。以来、彼女とは一切連絡が取れておりません。もちろん、慰謝料を要求されればお支払いするつもりで、こちらから直接家を訪ねたりもしま
Last Updated: 2025-08-19
Chapter: 第13報:恋のアップデート10年前に俺を振ったマユラは、最後のメールに「あなたの幸せを願っている」と書いていた。その言葉は、ぜんぜんフェアじゃなかった。ヤツには新しい恋人がいる。俺には、マユラと別れて付き合える女なんていない。大学に行けば、新たな出会いはいくらでもある。けれどどんな女を見ても、そこにマユラの影を探してしまう。「女の恋は上書き保存」とはよく言ったものだ。男の恋など、いくら上書きしようとしてもムリだ。以前のデータの保護がどうやったって解除できず、新規インストールには失敗ばかり。男にとって恋なんて言えるのは、初恋の相手だけかもしれない。その後ユキノと出会ったのは恋じゃなかった。妹ができたような感覚が近い。やがて仲が深まるうち、「恋人」をすっとばして「妻」とフォルダをリネームしたにすぎない。いまだに俺の「恋人」フォルダには、マユラが存在していた。もう二度と開けてはいけないフォルダだ。永遠にアップデートされないまま、忘れ去られていくべきものだった。10年越しにそれがアップデートされたいま。状況は最悪でしかない。マユラと交わりながら妻の名を呼んでしまった俺は、ヤツのiPhoneで写真を撮られている。局部丸出しの恥ずかしい格好で。「これ、ぜんぶFacebookにアップするから」「やめてくれ……
Last Updated: 2025-08-17
Chapter: 第12報:愛しのレッグカットきしむベッドの音、悲鳴に近いあえぎ声。香水のニオイ、それに混じるオスとメスのクサさ。汗のしょっぱさに、唾液の甘さ。目に映るマユラの裸体、泣き出しそうな表情。肉と肉が擦れる感触と、体全体を包む熱気――否、熱は体の奥底からこみ上げてくる。俺とマユラの命を燃やし、溢れ、また外から内側を温める。五感すべてが、ヤツに釘付けになる。狂っている。俺もマユラも既におかしくなっている。いや、10年前からそうだ。どうしてこんな女を抱いたんだろう。「じつは俺さ、シロカネのことが気になってて」高校のころ、よく俺やマユラと一緒につるんでいた男友達に告げると、こう返された。「え……やめといたほうがいいんじゃねえの……」決してマユラは嫌われていたわけじゃない。誰とでも仲よく付き合えた。一緒にいて気兼ねしない女。しかしそれゆえに、深いところでつながりあえない存在。誰もがシロカネマユラの存在を知っていたが、誰もヤツの心の奥底の闇を知らないし、知ろうとしなかった。俺だけが興味を持った。そして知った。裸のマユラを。その股に刻まれた無数の傷、リストカットならぬレッグカットの跡を。見て率直に、キモチワルイと思った。自分でそんなところに傷をつくるなんて、アタマおかしいんじゃないか。けれ
Last Updated: 2025-08-15
Chapter: 第11報:ふたりだけのプリズン珍しいことに、空には雨雲ではなく星空が広がっている。この街で雨が降らない日もあると、ようやく証明された。思い返せば今までも、この街で雨が降らない日もあったろう。ただの曇りの日も、星が出ている日も。ちゃんと見上げず、気づかなかっただけでは。言葉に記したことが、いつも真実とは限らない。むしろ嘘だらけだ。俺が不倫したことも、そうだったらいいと思う。マユラなんて元カノ、最初から存在しなかった。そうであれば、気分だってどれほど晴れるか。マユラの家に着いてインターホンを押す。が、返事はない。Facebookのメッセージで行くと伝えておいたハズ。「既読」も確認した。仕方なく家の前で待つことにする。スマホはカバンにしまってある。見たくもない。ネットの炎上は激しさを増している。投稿の公開範囲が俺とマユラの知人のみの設定になっていたことと、俺が会社の人間とは誰とも「友達」になっていなかったのは救いだ。が、バレるのも時間の問題かもしれない。俺より交友関係の広いマユラの「友達」に、俺と仕事上で付き合いのある人間がいないという保証はない。このスキャンダルが表に出たらおおごとだ。ひょっとしたら、会社もクビになるかもしれない。プロジェクトが頓挫してブルーになっていたことが、ここまで波及するとは……改
Last Updated: 2025-08-13
Chapter: 第10報:終わりからの始まり「これで最後だ」というセリフを、いったい何度叫んだことだろう。「もう辞めよう」と言って突き放そうとするたび、マユラは俺にからみついてきた。逆にマユラからふりほどこうとするなら、今度は俺の方が放せなくなった。綱引きのようなセックス。疲労困憊で、文字通り精も根も尽きた。射精したのも何回だろう。ヤツと抱き合うと、下半身も思春期に戻ってしまう。妻とはいつも1回。2回以上はとてもできないのに。またも中央線の車内、脳みそが綿でくるまれたような眠気に、吊革を何度も手放しそうになった。アルコールも入っていないのに、周りの乗客にはタチの悪い酔っぱらいと思われたことだろう。辛うじて寝過ごさず中野駅のホームに降り立ったときも、フラフラでしばらくマトモに歩けなかった。ベンチに腰掛け、少しだけ休む。目を閉じると、マユラの肌色の肉体が――腹が、背中が、太股が、乳房が、そして毛で覆われた股間が、ぐるぐると回っていた。股間のものはヒリヒリと痛みながらも、また勃とうとしている。だめだ、だめだ。激しく頭を振り、睡魔と性欲を振り払う。立ち上がり、家路に戻る。途中、飯を何も食べてないことに気づき、駅前の通りの「なか卯」に寄る。出されたうどんの白さを見て、またマユラの肌を連想してしまい、慌ててかき込んだ。店を出て約10分、なんとかぶじマン
Last Updated: 2025-08-11
Chapter: 第9報:忘却のための射精「ひぁっ……ま、待って……ここでしたら、泡で染みちゃう……」湯船の中で俺と股間を重ね合わせながらも、マユラは抗議する。バカな心配だ。泡風呂の泡が浮いているのは水面だけ、中の湯に混じっていることはない。「だいじょうぶだよ、激しくしなければ。ちゃんと、気持ちいいだろ?」「う、うんっ……、き、きもちいい……」ヤツの甘えた声に、俺の股間のものがビクビクと反応し、硬度を増す。そのたびまた、ひゃあん、という声が響く。もっと深くつながりたい。「いったん、手を離すぞ」と、マユラの上体を支えるのを、ヤツの背後に延びた自身の両手に任せ、俺の腰を挟むようなポジションにあるマユの両足をつかむ。その二本を持ち上げ、俺の肩に載せる。「わわっ……ちょっ……何するの、怖いっ……あっ」おびえた声を出す一方で、さきほどより一層甘い声がマユラの喉の奥からもれる。俺の先端が、ズブ、と深く入ったのを感じる。ここほど広い
Last Updated: 2025-08-09