遥は唇をぎゅっと噛みしめ、意地でも涙を流すまいと目を見開き、その瞳に溢れかけた涙を無理やり押し戻した。「追い出さないで……あなたのそばにいられるなら、何でもします。命令なら、全力でやり遂げます」「へえ」瞬は鼻で笑った。「そんなに俺のことが好きか?自尊心も、自己価値も全部捨ててまで?」「好きだけじゃない」遥はまっすぐに彼の目を見つめ、はっきりと答えた。だが、瞬は鼻で笑い、冷たく彼女の手を振りほどいた。もはや彼女を一瞥すらせず、鋭い声で命じた。「出て行け。玄関の外で立ってろ。俺の命令を本当に全力で遂行してきたか、じっくり反省するんだな」遥は一瞬、言葉を失った。外は雪が降りしきり、気温は氷点下——今の彼女の体には、それに耐えうる力はなかった。「……まだか?」瞬の声に、再び冷気が宿る。遥は拳を握りしめ、これ以上自分を危険に晒すわけにはいかないと判断した。彼女は一度失っていたのだ。もう二度と、同じ失敗は許されない。「……嫌よ」彼女は震える声で、それでもはっきりと拒絶した。彼の命令に背いたのは、これが初めてだった。瞬は眉をひそめ、意外そうに問い返した。「今、なんて言った?」「行きたくないって言ったの。外は寒すぎるし、私は……」「さっき言ってたな?俺のそばにいられるなら、何でもするって」「……それは本心よ。でも……」遥は小さな拳を握り直し、勇気を振り絞って瞬の目の前まで駆け寄った。その澄んだ瞳でまっすぐに彼を見つめて言った。「瞬兄さん……私、またあなたの子を授かったの」その言葉を口にしたとき、遥の瞳にはかすかな期待の光が宿っていた。唇の端には微かな笑みさえ浮かんでいた。瞬の表情が明らかに変わった。目の奥に読めない光が走った。遥はそれを喜びだと勘違いした。だが次の瞬間——「それがどうした?」瞬の冷酷な声が、彼女の幻想を打ち砕いた。「俺の子を宿したからって、嫁の座につけるとでも思ったか?罰を免れると思ってるのか?」その言葉には、いささかの温情もなく、ただ冷たく突き放すだけだった。「今すぐ玄関に行って反省しろ。俺の許可があるまで、絶対に中に入るな」遥の瞳から、希望の光が一気に消えた。彼女は唇を噛みしめ、指先を震わせながら、それでもなお抗おうとした。「しゅん……」「二度
瑠璃は思いもしなかった。——自分からこの男にキスをする日がまた来るなんて。けれど、それは抗えない感情の引力だった。隼人もまた同じだった。脳内では「この女を知らない」「この女を愛していない」と警告する声が響いていた。それでも、彼の体は本能的に彼女に近づきたがり、もっと深く——彼女のすべてを欲していた。部屋の灯りが消え、ただ窓の外から射す、冷たい月の光がほのかに差し込んでいた。外では雪がしんしんと降り積もり、氷のように冷たい世界。だが、瑠璃と隼人の心は——燃えるように熱かった。ただ、彼のこの穏やかな優しさが、逆に瑠璃の記憶を呼び起こしていた。——かつて彼は、どれほど荒々しく、冷酷に彼女を扱ったことか。その頃の彼には、今のような優しさは少しもなかった。隼人が瑠璃に口づけを交わすうち、ふと彼の唇が彼女の目元に触れ、しょっぱい涙の味を感じた。「どうした?」低くて柔らかな声が、静かな夜の風のように耳元をくすぐった。瑠璃は目を開け、闇の中でも彼の情のこもった瞳をしっかりと捉えた。「隼人……お願い、早く思い出して」隼人は少し戸惑ったように間を置き、そしてそっと額に口づけを落とした。「思い出すよ」彼はそう約束し、抱きしめる腕にさらに力を込めた。瑠璃は彼の胸にそっと身を寄せた。もう、彼を拒絶する気持ちはどこにもなかった。むしろ、こうして彼の胸に抱かれていることで——何とも言えない安らぎを感じていた。隼人は、本当はこのまま彼女を抱きしめるだけではなく、もっと深く求めたいという衝動に駆られていた。だが、彼の腕の中で瑠璃が穏やかに眠りに落ちたのを見て、その衝動を抑えた。ただ彼女を抱きしめたまま、静かに眠りに落ちていった。一方その頃。瞬は苛立ちに満ちた気配を全身に纏い、別荘へと戻ってきた。彼は部下に命じて、連絡の取れない蛍を探させた。ほんの少し前の結婚式会場での出来事を、彼はどうしても受け入れることができなかった。書斎の前に立つ遥は、瞬の身にまとう冷気を感じて戸惑っていた。彼女は無意識に自分の下腹に手を当てた。——あの日、瞬に突き飛ばされて、机の角に腹を打ちつけた。そのせいで、お腹の子は……今も怒りに満ちている彼のところへ入っていくのは、またしても自滅ではないか?でも、それで
だが瞬は、どうしても想定できなかった。隼人の新婦が瑠璃にすり替わっていたこと、そしてその瑠璃が、あっさりと目黒家の本邸の権利書を受け取ったという事実。あの鋭く確かな目つきを見るにつけ、瞬はこれ以上場を台無しにする気はなかった。何より理解できなかったのは、隼人の態度だった。催眠されているはずの彼が、瑠璃を見る目に柔らかい光が宿っていた。それは、まるで恋する男の目だった。瞬の苛立ちは増していった。昨日、蛍はあれほど自信満々に「今回は間違いなく成功する」と言い切っていた。だが、今の状況はむしろ、瞬自身が瑠璃にしてやられた格好だった。瞬は宴会場を後にすると、すぐさま蛍に電話をかけたが——通じなかった。その間、瑠璃と隼人はゲストたちに見守られながら、落ち着いて婚礼の儀式を進めていた。ふたりは指輪を交換し、「誓います」と互いに言葉を交わし、最後には彼がそっと唇を彼女に重ねた。式が終わると、瑠璃はイブニングドレスに着替えるため、メイクルームに戻った。部屋に入った瞬間、試着スペースの方から微かな物音が聞こえてきた。瑠璃がカーテンを引くと、そこには意識を取り戻した蛍がいて、必死に縄を解こうとし、口に詰められたタオルを外そうともがいていた。その苦しげな姿を見ても、瑠璃の心はむしろ痛快だった。「どう?苦しい?つらい?でもあなたが私にしてきたことを思い出して。これはただのお返しよ」瑠璃は歩み寄り、蛍の口からタオルを外した。「早く私を解放しなさい!」「解放してほしいなら——お願いしなさい」「……」「なに?今のあなたに、私と交渉する資格があるとでも思ってるの?」瑠璃は身をかがめ、その美しい手で蛍の顎を強く掴んだ。「いい?蛍、もう私は昔のように馬鹿で無力な瑠璃じゃない。たとえ湖に突き落とされても、今の私は自分の力で這い上がれるのよ。あなたたちが私に与えた痛みと傷、それが私を強くした。覚えておきなさい。私は今、碓氷家の正式な令嬢で、隼人ただ一人の妻——目黒夫人なの。もう二度と、あなたのような女に蹂躙される存在じゃない。そして——私の娘の命。その血の代償、いつか必ず払わせる。覚悟しておいて」そう言い放つと、瑠璃は再びタオルを彼女の口に詰め込んだ。「んんんっ!」蛍は目を大きく見開き、不満げに暴れ、足をばたつ
瑠璃はちょうど手を伸ばし、隼人から婚約指輪を受け取ろうとした瞬間、瞬が正面から歩いてきた。その姿勢からして、祝福を届けに来た様子ではないことは一目瞭然だった。——彼が、自分と隼人の結婚を祝うはずなどない。ベールを被ったまま、瑠璃は遠くから静かに祭壇に立っていたが、瞬は彼女の正体に気づくことはなかった。彼は当然、彼女が蛍だと思い込んでいた。瞬が祭壇に近づくと、祖父が険しい顔で睨んでいたが、彼は意に介さず、余裕の笑みを浮かべた。「伯父さん、そんな顔をしないでくださいよ。今日は隼人の結婚式だよ?喜ばしい日じゃないか」「喜ばしい?瞬、お前が現れて喜べるわけがないだろう!」青葉が苛立ちを隠さずに口を挟んだ。邦夫は彼女を軽く引き留め、代わりに落ち着いた声で瞬に言った。「瞬、お前の贈り物なんて要らん。この場にお前の居場所はない。さっさと帰れ」瞬はクスリと笑い、手にしていた書類を差し出した。「贈り物はこれ——目黒家の本邸の所有権証書。本当に要らない?」その言葉に、青葉の目が一気に輝いた。「それ、本当に目黒家の本邸の権利書なの?」「本物だとしても、受け取らん。今すぐ出て行け!」邦夫はきっぱりと拒絶し、欲を見せた青葉を止めた。「お前、本気で彼が祝福だけを目的に来たと思ってるのか?裏があるに決まってる」その言葉に、青葉は瑠璃を睨みつけ、口の中で小さく文句を呟いた。「全部あの女のせいよ。あのとき、瞬と手を組んで目黒家の邸宅とグループを奪わなければ、今ごろ私は毎週スパ通いできてたのに!隼人だって、あの女に何を飲まされたのか知らないけど、いまだに夢中なんだから!」邦夫は眉をひそめたが、いまさら彼女を咎める気にはなれなかった。瞬はそのまま祖父を無視し、隼人の前へと歩み寄った。笑顔は温和だったが、その目には明らかな敵意が宿っていた。「隼人、今日は君と万成明日香さんの大切な日だよ。叔父として、何も贈らないわけにはいかない。君は祖父が最も信頼を寄せる後継者だ。この目黒家の本邸の権利証書、君に託すよ」隼人は冷たい目で瞬を見返した。「その権利書は受け取らない。それに……新婦の名前を間違えている。彼女は万成明日香じゃない」その言葉に、瞬の眉がピクリと動いた。彼は疑いの眼差しで新婦を見た。そのとき、隣にいた瑠璃が手
瑠璃は化粧台の前に腰を下ろし、淡いメイクを自分で整えた。両側の長い髪を後ろでふわりと結い上げ、最後にウェディングドレスに袖を通した。「ママ、すごく綺麗……今まで見た中でいちばん美しい女の人だよ」君秋はガラスのように澄んだ大きな目を輝かせながら、感嘆と愛しさをいっぱいに込めて見つめた。瑠璃は微笑みながら、君秋の鼻先を指でちょんと突いた。「あなたこそ、ママが今まで出会った中で、いちばんおしゃべり上手なおまんじゅうちゃんよ」「ぼく、おまんじゅうじゃないもん。パパとママの宝物だよ」君秋は真剣な顔で訂正した。その愛らしく無垢な顔を見て、瑠璃の心はじんわりと痛んだ。——陽菜、もし今日あなたもここにいてくれたら、私たち四人の家族は本当に完璧だったのに。瑠璃はふと立ち上がり、部屋のドアを開けた。スタイリストは瑠璃のヘアスタイルとメイクがすっかり変わっているのに驚いた。「碓氷さん、どうしてスタイルとメイクが……」「さっきドレスを試着してみたら、以前のスタイルが合わない気がして、自分で少し直してみました」スタイリストは納得してうなずき、それ以上何も言わなかった。ただ瑠璃の顔をじっと見つめ、思わず感嘆の表情を浮かべた。「碓氷さん……今のスタイルの方がずっと素敵です。さっきより何倍も綺麗ですよ」「ありがとうございます」瑠璃は穏やかに礼を言った。スタイリストも丁寧にウェディングドレスを整え、ベールをつけて仕上げた。鏡の中に映る自分を見つめながら、瑠璃はふと懐かしさを覚えた。彼女は、かつて隼人と結婚した時の情景を思い出していた。あの頃の自分は、ただ彼と素朴で穏やかな愛を育み、平凡な幸せを願っていた。でもその願いは、どうしてこんなにも遠いのだろう。今になっても、まだ届かない。「できたか?」隼人が扉から顔を覗かせた。待ちくたびれたのか、少し落ち着きのない様子だった。瑠璃は振り向き、彼に向かって一歩踏み出した。その瞬間、隼人の目はまるで時が止まったかのように、彼女の顔に完全に釘付けになった。夢のようなベールの奥から見えるその顔立ちは、あまりにも美しく、完璧だった。彼の心は、その美しさに静かに揺さぶられた。瑠璃はブーケを手に取り、彼の元へ歩いて行った。「隼人、準備できたわ。一緒に行きましょう
蛍はウェディングドレスを手にしたまま、激しく震えた!鏡の中に現れたもう一人の影を見て、彼女は信じられないというように首を回した。「碓氷千璃!」彼女は恐怖に顔を歪め、大きな目を見開いて後ずさりした。純白のワンピースに身を包み、長い髪をなびかせる瑠璃を指さして、震える声で言った。「あんた……あんたは人間なの?それとも幽霊なの?どうして、どうしてここにいるの!」瑠璃はにこやかに微笑みながら、ゆっくりと返した。「さあ、どう思う?私は人?それとも……幽霊?」「……」「水の中って、本当に寒いのよね。ねえ、お姉ちゃん、私と一緒に行ってみない?」「きゃあああああ!!」蛍は悲鳴をあげ、手にしていたウェディングドレスを投げ捨て、部屋から逃げ出そうとした。だがその瞬間、瑠璃が彼女の手首をしっかりとつかんだ。「何をそんなに慌ててるの?焦らないで。ちゃんと連れてってあげるから」手首に感じたその氷のような冷たさに、蛍の顔色はさらに真っ青になった。——これは、死んだ人間の手!そんなわけない!彼女は恐怖に震えながら、足の力が抜け、床に崩れ落ちた。「コンコン」「千璃、大丈夫か?」ドアの向こうから、隼人の心配そうな声が響いた。瑠璃はゆったりとした調子で応えた。「平気よ。ちょっと緊張しちゃって、隼人と誓いを交わすと思ったら、うっかり転んじゃったの」「……」隼人は少し黙ったあと、「それなら気をつけろよ。何かあったら呼んでくれ」「うん」瑠璃は従順に返事をしながら、足元で自分に口を塞がれ、怖気づいている蛍を見下ろした。その瞬間、さっきまでの冗談めいた笑顔は完全に消え、眼差しには鋭い光が宿っていた。「ねえ、お姉ちゃん……驚いた?うれしい?それとも怖い?」声はもう以前のような冗談交じりではなく、凛とした響きを帯びていた。蛍は顔面蒼白のまま、徐々に正気を取り戻しながら口を開いた。「……あんた、碓氷千璃、本当に……死んでなかったのね!」「当然でしょ?私が、あなたみたいな人間のせいで死ぬはずがないじゃない」瑠璃は赤い唇を優雅に持ち上げた。その言葉に、蛍は激怒した。「このクズ女め!あたしをそんなふうに脅すなんて……碓氷千璃、あんた——!」「ママをいじめるな、この悪い女!」蛍が手を