しかし、腹部の痛みは次第に強くなっていき、瑠璃の視界は徐々にぼやけていった。そして、今にも倒れそうになったその瞬間——視界の隅に、黒い影が勢いよく近づいてくるのが見えた。次の瞬間、その腕にしっかりと抱きとめられたのだった。「……隼人、隼人……」瑠璃は朦朧とした意識の中で、何度も隼人の名前を呟いていた。微かに誰かが心配そうに自分の名を呼ぶ声が聞こえた。「千璃……千璃、目を覚まして。大丈夫?」瑠璃はハッと目を開けた。目に映ったのは、心配そうな表情の夏美だった。辺りを見回すと、ここが病院の病室だと気づいた。「千璃……無事でよかった……」夏美は深く息をついて安堵しながらも、動揺を隠せない様子だった。「どうして突然、そんなにお腹が痛くなったの?お母さん、本当に心配したのよ……」瑠璃は倒れる前の出来事を思い出し、胸の奥が再び熱くなった。「……隼人を見たの」「……えっ?ちょっと待って……何んだって?」夏美は驚きのあまり目を見開いた。「千璃、今なんて?……隼人を見たって?」「うん。確かに見たの……」瑠璃はゆっくりとうなずいた。目尻には、温かい涙が一筋流れ落ちていた。「……彼は生きてる、母さん。生きてるのよ……私の元を離れてなんかいなかったの」その言葉を語る彼女の目には、明るい光が宿っていた。胸の奥には、言葉にできないほどの希望が溢れていた。——隼人、あなたが生きていてくれるなら、たとえ私を忘れていてもいい。——私が思い出させる、必ず。だが、瑠璃は倒れる直前に見たあの黒い影が隼人だったと信じていたが、夏美の説明によって、それが彰だったと知った。彼女はその後、彰にお礼の電話をかけた。退院後、瑠璃はすぐに勤に隼人のことを調査するよう依頼した。しかし、調べた結果では、「佐々木光」という男には一切の不審な点が見つからなかった。まるで恋華が言った通り、整形手術で隼人の顔に似せた、まったく別人のように。だが、それでも瑠璃は信じられなかった。——過去に瞬が彼女に完璧な偽の身分を作ったことがある。ならば恋華にだって、それができないはずがない。瑠璃は何とかしてもう一度隼人に近づき、彼の今の状態や記憶を失った理由を突き止めたいと思っていたが、その機会はなかなか訪れなかった。あの日以降、
瑠璃が振り上げた手は、男の強い力によって空中で押さえつけられたまま、動けなくなった。彼女の目の前で、恋華が悪意に満ちた笑みを浮かべたかと思えば、すぐに今度は隼人に向かって、涙ぐんだような目で訴えた。「光……この女、私を叩いたの」その言葉と同時に、隼人の掌から伝わる圧がさらに強くなったのを、瑠璃ははっきりと感じた。彼女は痛みに眉をひそめながらも、この男の記憶を呼び戻したいと願った。だが、返ってきたのは、あまりにも冷酷で鋭い隼人のまなざしだった。彼がこんな残酷な眼差しで自分を見つめるのは、いったい何年ぶりだろう。いや、今まで一度も、こんなふうに彼に見られたことはなかった。——彼は、完全に自分のことを忘れてしまった。「俺の女を叩くとは……死にたいのか?」隼人は瑠璃の手首を強く握りしめたまま、冷たく言い放った。だが、その手の痛みよりも、この言葉のほうがずっとずっと心に刺さった。俺の女。その言葉の主が、恋華を指していたということに。泣き出しそうな思いをぐっと堪え、瑠璃はそれでも真っすぐな眼差しを彼に向けた。「あなたの女は、私だけよ」彼の冷たい瞳を真っ向から見つめながら、毅然と、まっすぐに言い切った。「隼人、あなたはずっと私を忘れたままじゃいられない。いつか、絶対に思い出すはず」隼人は、その瞳に映る彼女のまなざしをしばらく見つめた。そして一瞬だけ、彼の握る力が緩んだように感じた。それに気づいた恋華が、すかさず寄ってきた。「光……私の頬、まだすごく痛いの」明らかに隼人の怒りを煽るための一言だったが、瑠璃はまさか本当に彼がその一言に反応するとは思っていなかった。だが、隼人の瞳が鋭くなり、彼女の手首に食い込む力が一気に強まった。まるで骨が砕けそうなほどの力だった。それでも、瑠璃は痛いと叫びもしなかったし、助けを求めることもなかった。ただ、殺気すら帯びた男の視線をしっかりと受け止めていた。「女に手を出す趣味はないが……妊婦ってことを考えて今回は見逃してやる。だが次、俺の女に手を出したら——タダでは済まさない」隼人はそう冷たく警告すると、手を振りほどいた。その力は容赦がなく、まるで彼女に一片の情もないかのようだった。瑠璃はよろけて背後の壁にぶつかった。その瞬間、腹部に強い鈍痛が
男は不快げに美しい眉をひそめた。瑠璃がその手をますます強く握ってくるのを見て、彼は力を込めて手を振りほどいた。その低く響く声は、どこまでも冷たかった。「こんな手で俺の気を引こうとしてるのか?妊婦に興味はない。もうついてくるな」その手が離れた瞬間、瑠璃の胸の中までぽっかりと空洞ができたようだった。目の前の男が自分をまったく覚えておらず、むしろ拒絶してくる――その事実が信じられなかった。けれど、自分が喜ぶべきなのか、それとももっと苦しむべきなのか――分からなかった。でも、喜ぶべきなのかもしれない。だって――彼は、生きているのだから。この世界に、彼がまだ生きて存在していること以上に、大切なことなんてない。瑠璃は自分にそう言い聞かせた。そして再び男を追いかけた。「隼人、行かないで!」またもや彼の前に立ちはだかると、男の整った顔に不快な感情が露わになった。「これ以上しつこくするなら、本当に後悔させるぞ」そう警告されても、瑠璃は哀しみと愛しさが入り混じった眼差しで彼を見つめた。「隼人……何か理由があるはずよ。あなたがこんなふうになったのは、きっと何かあったの。私と一緒に来て、きっと思い出せるわ。私たちがどういう関係か、証明してみせる」そう言って、彼の手をもう一度取り、歩き出そうとしたそのとき――目の前に恋華が現れた。瑠璃はそのまま隼人の手をぎゅっと握りしめながら、鋭い視線でゆっくり近づいてくる恋華を睨みつけた。恋華はセクシーなミニスカート姿。髪型は短く、カラーもブルーグレーに染め変えていたが、相変わらずその派手な見た目は健在だった。「碓氷、うちの彼氏の手を離してくれない?」恋華がそう言い終わると同時に、瑠璃の手は男によって振りほどかれた。彼はそのまま恋華の隣へと歩いて行き、先ほどまでの冷たい表情が、恋華を見た瞬間に少しだけ柔らいだ。「どこから現れたのか知らない女が、俺を連れて行こうとしててさ」瑠璃は耳を疑い、その言葉に呆然とするしかなかった。恋華は唇を吊り上げ、笑みを深めた。「恋華……」瑠璃は気づいた。「やっぱり、あれはあなたの仕業だったのね。クルーザーの襲撃事件、あなたが仕組んだんでしょ?目的は隼人……」恋華は艶やかに笑いながら男の腕に寄り添った。「目黒夫人、紹介してあげるわ。こち
彼女は少し離れた場所にいる、あの凛々しく整った後ろ姿をじっと見つめていた。前に立つ人々を慌ててかき分けながら、必死にその姿へと近づこうとした。もし妊娠していなければ、瑠璃はきっと駆け出していたことだろう。だが今は、一歩一歩ゆっくりとしか進めない。その分だけ、まるで二人の距離がどんどん遠ざかっていくようだった。「……隼人!」彼女は男の背中に向かって呼びかけた。高鳴る心臓はもう落ち着きを失っていた。遠くにいるその男が振り返ってくれることを願った。けれど、彼はまったく反応を見せなかった。いつの間にか、瑠璃は宴会場の外まで出てきていた。しかし角を曲がった先の長い廊下には、すでに誰の姿もなかった。先ほど目に飛び込んできたあのシルエットは、まるで幻だったかのように、跡形もなく消えていた。瑠璃は廊下の中央で呆然と立ち尽くした。——自分は、想いが強すぎて、ついに幻覚を見始めてしまったのだろうか。そう思った彼女は、視線を落とし、寂しげに苦笑した。——碓氷千璃、彼はもうあなたの元から去ったのよ。——永遠に、戻ってこない……——あのぬくもりにもう二度と触れられない。あの優しさを、もう手に入れることはできない。気を失いそうなほど打ちひしがれた瑠璃は、踵を返し、ゆっくりと元の場所へ戻ろうとした。——だがその瞬間、彼女は気づいた。自分のすぐ背後に、人が立っていたことに。ほんの一瞬、視界の端に映ったその姿に、瑠璃の心臓は大きく脈打ち、呼吸が止まりそうになった。勢いよく振り返ると、そこには、はっきりと見覚えのある、彫りの深い美しい顔立ちの男が立っていた。瑠璃は目を大きく見開き、完全に動きを止めた。「……隼人……」彼女はそっと名前を呼んだ。自分が見ているのが現実なのか、それともまた幻なのか、もはや区別がつかない。けれど、目の前の彼との距離はほんの数歩。そして、あの懐かしい冷たい香りが、かすかに鼻先をかすめた。あまりにもリアルだった。心臓が胸を突き破りそうなほど高鳴り、瑠璃は震える手をそっと彼の顔に伸ばした。——だが、その手が彼の頬に触れようとしたその瞬間、手首を強く掴まれた。その力の強さと、その手のひらの熱が、彼女の意識を一気に現実へと引き戻した。——違う。——これは幻じゃない!——この手
周囲から飛んでくるますます悪意ある言葉に、瑠璃の瞳が一瞬で鋭さを増した。「じゃあ、あなたの望み通り、真実と証拠をその顔面に叩きつけてあげるわ!」その言葉と共に、彼女は手にしていたUSBメモリを、先ほど暴言を吐いた男の記者の顔めがけて思いきり投げつけた。「な、何するんだ!暴力を振るうなんて!」「暴力?私は人を叩いたんじゃない。ただ、口から毒しか吐かない、醜い害虫を叩いただけよ!」「……」「これは、さっきレストランから手に入れた監視カメラの映像よ。私と景浦彰が一緒にいた時の状況が、はっきり映ってる。拾って、自分の目でよく見なさい。そして、見終わったら、私に公に謝罪して。さもなければ、あなたたち全員、この業界でやっていけなくなると思いなさい!」「……」言い切ると、瑠璃はきっぱりと背を向けた。一方その場に残った人々は、急いでUSBの中身を確認した。そこには、レストランで瑠璃が立ち上がった際に、足元の水たまりで滑って転びかけた場面が映っていた。彼女がテーブルに手を伸ばそうとしたところ、彰が咄嗟に駆け寄り、倒れそうな彼女を支えていた。直後、店員が慌てて謝罪に駆けつけてくる姿も映っていた。——これは、明らかにただの事故だった。「抱き合っていた」などというのは、彰の思いやりから来た行動を、悪意あるパパラッチが勝手に誇張したものに過ぎなかった。先ほどまで瑠璃を責め立てていた記者たちは、今や顔を真っ赤にし、恥ずかしそうに黙り込んでいた。焦った記者たちは、すぐに謝罪し始めたが、同時に内心では瑠璃がこのまま訴訟に踏み切るのではないかと不安に怯えていた。彼女が本気で追及すれば、自分たちではどうしようもないことは分かっていたのだ。その様子を人混みの中から見ていたある女が、瑠璃の背中を睨みながら、不機嫌そうに鼻を鳴らした。その後、オフィスへ戻った瑠璃は、すぐにネット上で噂に対する明確な説明と、各種公式メディアからの謝罪文が掲載されているのを目にした。それを見て、瑠璃は何とも言えない皮肉な気持ちになった。ちょうどその時、彰から電話がかかってきた。彼は何も悪くないにも関わらず、丁寧に謝罪の言葉を口にした。「まさか、目黒夫人を支えただけで、こんな誤解を招いてしまうとは思いませんでした。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳あ
車の窓越しに、瑠璃は夢にまで見た顔を目にした。彼女は慌てて窓を下げ、呆然と隣の車の助手席に座っている男性を見つめた。幾重にも重なる雨のカーテンの向こうに、その男の凛々しく美しい横顔が浮かび上がった。瑠璃は信じられない思いで凝視し、鼓動がどんどん速くなった。「……隼人……」彼女がそっと名を呼んだそのとき、車内の男が何かを感じたのか、ゆっくりと顔をこちらへ向けた。だがその瞬間、ちょうど信号が青に変わり、車は「ブンッ」と彼女の目の前を走り去っていった。まるでほんの一瞬の出来事が、幻だったかのように。瑠璃は茫然とその場に固まった。後ろの車がクラクションを鳴らすまで、彼女はようやくアクセルを踏み込んだ。だがさっきの車はすでに行方知れず、車のナンバーすら覚えていなかった。瑠璃はすぐに人脈を使って調べたが、何の手がかりも得られなかった。——隼人、これは私があなたを会いたすぎたせいで見た幻なの?彼女はそう自問したが、答えてくれる人は誰もいなかった。翌日、瑠璃が会社に到着した瞬間、玄関前にはゴシップ記者の群れが待ち構えており、容赦ない質問の嵐を浴びせてきた。「目黒夫人、景浦さんとプライベートに交際しているという噂がありますが、本当ですか?」「あなたはまだ目黒夫人という立場を忘れていないんですか?」「ある情報筋によると、あなたは目黒さんに対して真心なんて一切なかったとか。お腹の子も目黒家の後継権を得るための道具だという声もあります」「景浦彰さんには婚約者がいますよね?あなたの行動は略奪者の介入では?目黒夫人、あなたにとっては愛が評判よりも大事なんですか?」非難や軽蔑の色を帯びた視線を前に、瑠璃は落ち着いた微笑を浮かべ、冷静にカメラの前で語った。「私の価値観では、真実を追求するという名目で人の不幸を食い物にするあなたたちのような害虫こそ、一番嫌いな存在です」「……」記者たちは一瞬顔色を変え、不満げな様子を見せた。「目黒夫人、それはいくらなんでも言いすぎでは?どうして私たちが人の不幸を食い物にしてるなんてことになるんですか?」瑠璃は静かに笑った。「言いすぎ?あなたたちも言いすぎと感じることがあるんですね?なら、あなたたちが次から次へと私にこういう侮辱的な質問をぶつけてきたとき、自分たちの言葉がどれだ