沈黙が漂う中、隼人は耳元で瑠璃のかすかな笑い声を聞いた。「隼人、もう全てが手遅れなのよ。あなたが何を言おうと、私には何の感情も湧かない」瑠璃は冷ややかに言葉を紡いだ。その声音には、かつての未練も愛情も一切残っていなかった。「だって私は……もう、あなたを愛していないから」――彼女が自分をもう愛していない。その事実はとっくにわかっていたはずなのに、自らの耳でその言葉を聞いた瞬間、隼人の心はまるで千本の矢に貫かれたかのような痛みに襲われた。まるで見えない刃が上から降り注ぎ、彼の全身を斬り裂き、血の一滴すら残さず、白骨だけがそこに取り残されたような――そんな感覚だった。瑠璃はふいに腕を振り払い、隼人の力なく垂れた腕を勢いよく引き剥がした。彼の茫然とした姿を目にすると、彼女の瞳には冷ややかな侮蔑が浮かんだ。「隼人、あなたと私はもう完全に終わったの。あのとき、あなたが私の祖父のお墓を掘り起こしたその瞬間、私はあの冷酷で無情な男を愛したことを、心の底から後悔した」その一言が、隼人の心を氷のように凍りつかせた。周囲から吹き込む風がさらに冷たさを増し、彼の胸に深い寒さが突き刺さった。隼人が茫然と彼女を見つめていると、瑠璃はまたもや軽く笑った。しかし次の瞬間には、その表情は厳しく、瞳には鋭い怒りが浮かんでいた。「私があなたを一番愛していた頃、あなたは全力で私を傷つけた。踏みにじって、蔑んで……そして死にかけている私に、蛍のために離婚届にサインを強要した。あなた、わかってる?私、あのサインをして、あなたが部屋を出て行くその瞬間まで、まだ期待してたの。せめて一度だけでも、振り返ってくれるんじゃないかって。……でも、あなたは振り向かなかった。私は最後の希望を抱いたまま、床に倒れて、視力を失っていくのを、そして命が消えていくのを、ただ黙って待つしかなかったの。だから、いまさら『ごめん』なんて言わないで。あなたは悪くない。悪いのは――そんな人を愛してしまった、私の方よ!」その言葉が響き渡るたびに、隼人の目の奥はじんわりと熱くなっていった。彼は声もなく嗚咽し、赤く滲んだ瞳で、決然と、そして憎しみに満ちた瑠璃の視線を見つめた。その瞬間、自分がどれほど卑劣で恥ずべき存在かを痛感した。彼女をあれほど深く傷つけたというのに、たった一言の謝
男の声には、これまでにないほどの弱さと懇願が滲んでいた。目元は朦朧としていて、意識ははっきりしているようで、どこか酔っているようにも見える。瑠璃は表情を変えず、冷たい視線を彼に向けた。「あなたの話なんて、聞きたくもないわ。だって、顔を見ただけで嫌になるから」その嫌悪のこもった言葉に、隼人は呆然と立ち尽くした。まるで心が一瞬で深い奈落へと落ちていくような感覚に襲われ、冷たい風が胸元から全身を貫いた。彼は、本当に懐かしかった。かつての彼女の眼差し――自分を見上げ、憧れと愛情に満ちた、あのやわらかな光。けれど今、彼女の瞳にはそんな光は微塵もなく、他人よりも冷たく、無情に見下ろされていた。隼人が呆けたように彼女を見つめていると、瑠璃の態度はさらに冷たくなった。「隼人、まだ帰らないなら、警備員を呼ぶわよ」彼の体がふらつき、酔いの残る目を上げた。「……帰るよ。ほんの少しだけ、話をさせてくれ」その言葉が終わると同時に、外から刺すような冷風が吹き込んできた。瑠璃は彼の赤らんだ顔に一瞥をくれ、手をドアノブから離して室内へと戻った。その様子を見た隼人の目には、安堵の光がにじんだ。彼はすぐに後を追って中へ入り、そっとドアを閉めた。部屋の暖かい空気が彼の衣服についた冷気を和らげていく。しかし、隼人にとって本当に温かかったのは、彼女が自分の存在を完全には拒絶しなかった、その事実だった。「話があるなら、さっさと話して。時間を無駄にしないで」瑠璃は冷たく言い放った。隼人は彼女の横顔をじっと見つめ、その瞳に微かな情熱を宿しながら口を開いた。「瞬とはあまり親しくしないでほしい。ましてや、あいつと結婚なんて……あいつは、お前が思ってるような男じゃない」その言葉に、瑠璃は低く笑った。目元に浮かんだ笑みには、皮肉の色が混じっていた。「隼人、あなたに私の私生活に口出しする権利なんてある?私にとってあなたは何?何の関係もない、ただの過去よ」その語気には軽蔑と嘲笑が込められていた。「瞬がどんな人かなんて私には関係ない。彼が私を大切に思ってくれてる、それだけで十分なの。少なくとも、彼はあなたのように私を侮辱したり、傷つけたりしない。私に、人間としての最低限の尊厳と、信じられるという感覚を与えてくれる」瑠璃の一言一言が、
そんなことを考えていた矢先、マンションの灯りが突然すべて消えた。隼人の心臓が一瞬止まりそうになり、思考がぐちゃぐちゃに乱れた。彼はすでに空になったワインボトルをゴミ箱に投げ入れ、躊躇なくその場を立ち去ろうとした。だが、ちょうどそのとき、マンションの出入口から瞬が現れた。隼人はその姿を見て、胸につかえていた不快感が少しだけ晴れたような気がした。彼はその場に立ち止まり、瞬が無表情のまま車に乗って去っていくのを見届けてから、ようやく建物へと足を踏み入れた。慣れた足取りで瑠璃の部屋の前まで来た隼人は、ふとあの頃のことを思い出した。「千ヴィオラ」として彼の前に現れた彼女が、この部屋に招いてくれたことがあった。そのとき、彼は彼女が瞬とは同居していないことに気づいたのだ。今、隼人は静かにそのドアの前まで歩き、無言で立ち尽くした。窓の外から吹き込む雪混じりの風が肌を突き刺すように冷たくても、彼にとってはどうということはなかった。かつて自分が瑠璃に与えた痛みに比べれば、これしきの寒さなど何でもない。彼は壁に身を預け、片膝を立てて、ドアの前にある小さなベンチに腰を下ろした――そのころ、瑠璃は浅い眠りの中にいた。ぼんやりとした意識の中、「ドン」という音が玄関から聞こえてきた。まるで誰かがノックしたような音だったが、何かがぶつかったようにも聞こえた。不思議に思った瑠璃は上着を羽織り、用心深く玄関へと向かった。ドアの覗き窓から外を確認するが、誰の姿も見えなかった。しかし、確かに何かが外にいる気配がした。数秒間迷ったのち、彼女は意を決してドアを開けた。目の前に広がった光景に、瑠璃は思わず驚愕した。隼人が、ドアのすぐ脇の壁にもたれて座っていたのだ。彼はうつむいたまま眠っていた。長く濃い睫毛が、廊下の白い灯りの下にくっきりとした影を落としていた。その姿には、かつての冷酷で高圧的な雰囲気は一切なかった。ただ無防備で、まるで迷子になった少年のように、穏やかで静かに眠っていた。瑠璃はしばらく無言で彼を見つめたのち、静かに身を翻した。「……好きだ……」ドアを閉めようとしたその瞬間、隼人が寝言のように呟いた。彼女は一瞬足を止め、視線を落として彼を見つめた。「本当に……好きだったんだ……」はっきりと聞こえた
隼人が疑問を投げかけると、目黒家の祖父は霧がかった空を見上げ、どこか悲しげな色を帯びた目で呟いた。「この話は……二十三年前まで遡らなければならん」思いがけないほど過去に遡る話に、隼人は戸惑いつつも、直感的に瞬の両親に関係することだと察した。そして、祖父の回想を最後まで聞いた彼は、すべての答えを得た。それは同時に、瞬が非常に危険な存在であることを裏付けるものでもあった。――瑠璃をこれ以上瞬に近づけるわけにはいかない。隼人は決意を込めてその場を後にしようとしたが、祖父が声をかけた。「瑠璃は……おそらく、もうそのことを知っている。そして、あの最も辛い時期を瞬が支えてくれた。だからこそあの子は瞬を信頼している。反対に、お前には憎しみと警戒心しかない。お前の言葉なんて、あの子には届かないだろう」「彼女に信じてほしいなんて、最初から思っていません」隼人は眉をきつく寄せ、重く真剣なまなざしで言葉を続けた。「でも……瞬が彼女を騙すこと、そして将来、傷つけるようなことがあるなら、それだけは絶対に許さないんです」そう言って、再び出て行こうとした隼人の目に、書斎の机に飾られた一枚の写真が飛び込んできた。彼は足を止め、すぐにその前へと歩み寄った。写真立ての中には、地味な服装をした二人の中年男性が並び、軍礼の姿勢で海辺に立っていた。一人は目黒家の祖父で、もう一人の男――彼には見覚えがあった。だが、さらに隼人を驚かせたのは、その二人の背後にある浜辺で、満面の笑みを浮かべながら小さな男の子を追いかける少女の姿だった。その男の子こそ、幼い日の自分。そして、あの笑顔の女の子――あれは確かに、七色の貝殻をくれた、あのときの瑠璃だった。隼人はぼんやりと写真を見つめながら、思考が過去へと引き戻されていくのを感じていた。祖父が彼のそばに歩み寄り、写真を一瞥した。「わしがどうしてずっと瑠璃を庇ってきたのか、支持してきたのか……わかるか?彼女が『お祖父ちゃん』と呼んでいた人間は、わしの親友だった」「……」その言葉で、隼人はようやく気づいた。写真の中のもう一人の男――それはすでに亡くなった倫太郎だったのだ。「昔、お前の勉強が詰め込みすぎで息が詰まっていた時、リフレッシュさせようと海辺に連れて行ったんだ。そこで、たまたまわしの古い親
「もしそれで瑠璃の気が済むなら、俺にできないことなんて何もない」「な、なに言ってるの、隼人?」青葉は驚いたように目を見開き、彼を見つめた。「あんた、あの女のことをずっと憎んでたじゃない。なのに今になって……まさか、本当に瑠璃のことを……好きになったの?」隼人は何も答えなかった。しかし、ふと和らいだ彼の眼差しが、すでにすべてを語っていた。「そのうち新しい住まいを用意するから、しばらく俺の前に現れないでくれ」そう言って隼人が背を向けた瞬間、目の前に現れた人物に気づき、彼の足は止まった。そこには杖をついた目黒家の祖父が立っていた。痩せた顔には厳しさもあったが、その眼差しは変わらず穏やかで温かかった。「ついて来なさい」そう言うと、祖父はゆっくりと背を向けて歩き出した。隼人は一瞬ためらったが、すぐにその後ろを追った。――書斎。目黒家の祖父は床から天井まで広がる窓の外、どんよりとした空を眺めていた。数秒の静寂ののち、長く深い溜息をついた。「この状況まで来て……お前は、どうするつもりだ?」「心配しないでください。目黒グループを失ったのは俺ですが、必ず俺の手で取り戻してみせます」隼人は祖父の背中を見ながら、確固たる声で答えた。祖父は再び深いため息をつき、そしてゆっくりと振り返った。「爺さんが知りたいのは、そんなことじゃない。お前も本当はわかってるはずだ」祖父が聞いてるのは――瑠璃のことだ。隼人は言葉を詰まらせた。祖父の言葉の意味は、痛いほど理解していた。祖父は杖を支えにしながら、隼人に一歩ずつ近づいていった。「他の誰も知らないことが一つある。ただ、お前だけはよくわかっているはずだ。――あの時、瑠璃との結婚は、お前がわしのところに来て、どうしてもって頼んだんだろう?」六年前のその話が出た瞬間、隼人の心臓は一拍跳ね上がった。祖父の言葉は続いた。「周りの人間は、瑠璃も含めて、あの結婚はわしが無理やり決めたと思ってる。でも、実際はどうだ?お前が一番よく知ってるはずだ――なぜ、お前があの子と結婚したのかを」その問いに、隼人の目に動揺が走った。一瞬のうちに、彼はまるで過ちを犯した子供のように戸惑いの色を浮かべた。祖父は意味ありげな目つきで彼を見た。「お前はずっと前から瑠璃のことが好きだっ
隼人の突然の登場に、瑠璃は少し驚いた。だが、なぜか心のどこかで、ほっと安堵している自分にも気づいていた。一方で、プロポーズを遮られた瞬は、明らかに不快感を隠しきれていなかった。穏やかに見える漆黒の瞳に、怒りの色がわずかに滲んでいた。「隼人……何しに来た?ここはもう、君の居場所じゃない」隼人は細く切れ長の瞳で、瞬を淡々と見た後、静かに視線を瑠璃へと移した。彼女の冷えた目と視線が交わっても、隼人の目には柔らかな光が宿っていた。「お前が俺を恨んでるのはわかってる。俺が死ねばいいって思ってることも、全部受け入れる。復讐も、なんでも構わない。でも……お前がこの男と一緒になるのだけは、絶対に許さない。結婚なんてもってのほかだ」隼人の声音には一切の容赦がなく、その深い瞳には強い支配欲が渦巻いていた。瑠璃が何か言おうとしたその瞬間、隣の瞬が低く笑った。「許さないだって?」彼はあざけるように問い返した。「君にそんな資格あるのか?君が瑠璃にどう接してきたか、もう忘れたのか?彼女が病気で重傷だったとき、君は何をしていた?他の女と抱き合って、浮かれてたよな?彼女がたった一筋の信頼を欲しがってたとき、君は何を言った?『死ね』だ。隼人、自分の胸に手を当てて考えろ。今さら彼女の私事に口を出す権利なんて、君にはない。君はもう、彼女に何の価値もない男なんだよ」瞬が吐き出す言葉のひとつひとつが、隼人の心に鋭く突き刺さるようだった。彼の眉間は深く寄せられ、目の光が徐々に失われていく。瑠璃の顔を見ることさえ、怖くなっているようだった。その様子を見て、瞬は口元をわずかに吊り上げた。そして彼は瑠璃の肩を抱き寄せた。「ヴィオラ、行こう」瑠璃は黙って頷き、隼人の横顔を冷たい視線で一瞥した。彼女の視界に映ったのは、唇を固く引き結び、目に今までにない苦い色をにじませる隼人の姿だった。だが瑠璃は、彼が今何を考えているかを探ろうとはしなかった。ただ静かに、瞬と共にオフィスを後にした。残された隼人は、その場に立ち尽くしたまま、長い間一歩も動けなかった。やがて、完璧な顔に少しずつ感情が戻り始める――それは、果てしない痛みと後悔に満ちた表情だった。目黒グループを後にした隼人は、あてもなく車を走らせた。そして気づけば、車は四月山の海辺に辿り着いて
瑠璃は彼の抱く不満を理解していた。名誉も富も、壊れた家庭と失われた命の痛みを埋めるには、あまりにも無力すぎる。瞬は振り返り、瑠璃に向き直った。その目元にかすかに浮かんでいた冷たい色はすぐに消え、残ったのはただのやさしさだった。「ヴィオラ。これからここにあるすべては、俺たちのものだ」瑠璃は微笑んで首を横に振った。「それはあなたのものよ。もともと目黒家の資産だもの。私が手に入れるべきものじゃないし、最初から欲しいと思ったこともない。今、あなたの元に戻ったのなら、それで本来あるべき姿に戻っただけ」その言葉に、瞬は少し驚いたようだった。「全部いらないのか?」「隼人が落ちぶれて、何もかも失う。それが今の私にとって一番望んでいたことよ」そう言いながら、瑠璃は何かを思い出したように眉を寄せた。「でもね……あのとき、私が彼のパソコンに侵入して、彼名義の株や重要な情報を移したとき、妙にスムーズすぎた気がするの。まるで、彼がわざと許していたみたいに」「つまり……彼は最初から君がそうするって知っていて、止めなかったってことか?」瞬は眉をひそめた。瑠璃は沈黙した。脳裏には、あの日隼人が言ったあの言葉が浮かんできた。――「俺が愛してたのは、ずっとお前だけだ」「ヴィオラ、ヴィオラ?」「……え?」我に返った瑠璃は、視線を上げて瞬のやさしく潤んだ黒い瞳と目が合った。瞬は穏やかに尋ねた。「何を考えていたんだ?」「瞬……目黒家の本家、あの屋敷……壊さないでくれない?」瑠璃は、どこか願うような口調で言った。瞬の表情はすぐに険しくなり、彼女の肩をしっかりと握った。「ヴィオラ、あのジジィに騙されるな。俺の両親を死に追いやったのは、あいつなんだ。目黒家の全財産を奪うために、冷酷な計画を立てた男だ。そんな奴がいい人のはずがない」その言葉を聞きながら、瑠璃はしばらく黙り込んだ。本当に、あの祖父がそこまで非道な人だったのだろうか?もしそうなら、なぜあの人は外の人である自分に、あんなにも優しく接してくれたのか?復讐者である自分の正体を知っていたのに、それでもなお応援してくれたのに――「ヴィオラ」瞬の声が、春風のようにやさしく耳元をくすぐった。気づけば、彼の手が自分の手を優しく包み込んでいた。男は穏や
その言葉が落ちた瞬間、夏美はもう泣き止むことができず、賢もまた涙を堪えきれなかった。あの年、宝華が殺害された事件。その後、面会室で瑠璃と向き合った光景が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇った。あのときの、やつれた白い顔をした瑠璃の姿が、無意識に二人の脳裏に浮かび上がる。そして、その場面の中には、彼女に対して彼らが行ったあまりにも酷い仕打ちもあった。怒号と罵声。彼女の頬に何度も浴びせられた平手打ち。さらには、賢が蛍を守るため、弱りきった瑠璃に重たい一発を食らわせ、彼女はそのまま床に倒れ込んだ――胸が痛い。この瞬間の、後悔と痛みが入り混じる感情に、心が押し潰されそうだった。あんな地獄のような状況の中で、涙を堪えた彼女は、どれほど強く、どれほど必死だったのだろうか。夏美も賢も、想像することすらできなかった。そして今の瑠璃も、あのときと変わらず、毅然としていた。あまりにも深い傷を思い出しながらも、彼女は淡く微笑んだ。「全部、もう過ぎたことです。責める気はありません」彼女の口元に浮かぶ微笑みは穏やかだったが、その瞳には深い失望の色がにじんでいた。「蛍が仕組んだ罠に、あなたたちが騙されても、私は責めません。ただ、残念に思うんです――自分の実の両親が、善悪の区別もつかず、あんな非道なことをした蛍を、それでも庇い続けたなんて」「千璃……」「当時、あのペンダントが私の身から落ちたとき、私は病院からこっそり碓氷夫人の歯ブラシを持ち出して、DNA鑑定をしました。おそらく、私たちの関係は普通じゃないと感じたから。でも、あなたたちは私が蛍のペンダントを盗んだと決めつけました。それも運命なんでしょうね。きっと私と両親は、結ばれない運命だったんです」そう語る彼女の視線は、涙に濡れている夏美の顔を一瞥した後、深く悔やんでいる賢へと向かった。「たとえ、私は父と母の愛情をもう受けることができなくても……この世界に私を生んでくれたことだけは、感謝しています。人生で一番欲しかったもの――両親の愛も、心から愛したあの人も、きっと最初から私には縁がなかったんだと思います。もう昔みたいに、無理に求めたりはしません」それだけ言い終えると、瑠璃は一片の未練も見せず、背を向けた。「千璃!千璃!」夏美は泣きながら叫び、賢も必死で後を追ったが、瑠璃は一歩
瑠璃からの呼びかけを聞いた瞬間、夏美と賢は不安そうに、表情の乏しい彼女を見つめた。夏美は胸が張り裂けそうな思いで、そっと呼びかけた。「千璃……」瑠璃はうっすらと微笑み、涼しげな秋の湖を思わせる美しい瞳で周囲を見渡しながら、ゆっくりとヨーロッパ風のソファに歩み寄った。そして、長く細い指先でその表面をそっとなぞった。「以前、蛍のために、わざわざ私をここへ招いて食事に誘ったことがあったんですよね。あのとき、蛍のために、自分たちの『仇』である私を丁寧にもてなして……きっとあの場は、内心とても複雑だったんじゃないですか?」その言葉を聞いた夏美と賢の胸には、さらに深い苦しみが押し寄せた。それを気にも留めず、瑠璃は穏やかな笑みを浮かべたまま続けた。「そのとき、碓氷夫人、あなたは私に訊いたんですよね。『この何年もの間、両親を見つけられなかったのか』って」そう言いながら、瑠璃は夏美の深い謝罪の眼差しを見つめ返した。「碓氷夫人、私の答え……覚えてますか?」「千璃……」「私は言いましたわ。見つけたって。でも、一緒にはなれない。たとえ本当の両親の前に立っても、きっと彼らは私を認めないだろうって」夏美の目が真っ赤に腫れ上がり、涙をこぼしながら瑠璃の手を握った。「千璃……お願い、ママの話を聞いて……」瑠璃はふっと笑った。「説明なんて、いらないです。責めているわけじゃないです。ただ、言いたいだけ――私たちは血が繋がっていても、きっと縁がなかったんだと思います」「そんなことない、千璃……お願い、それだけは言わないで。全部、私たちが悪いの。あんな女、四宮蛍なんかに振り回されて……実の娘のことまで見失って……」「千璃、お願いだ。パパとママに、償わせてくれ」賢もそばに寄ってきた。いまだ凛々しさを感じさせるその顔に、深い哀しみと後悔が滲んでいた。「千璃……この何年、ずっとお前のことを忘れた日はなかった。蛍が現れる前、お母さんは毎晩お前のことを想っていた。お前が元気かどうか、幸せに暮らしているかを心配していた。この大きな屋敷の中にも、お前専用の部屋をずっと残してあったんだよ。お母さんは毎日その部屋を丁寧に掃除して、いつかお前が戻ってくる日のために……」「家?」瑠璃は笑った。「ここが私の家?……でも、なんだかすごくよそよそ