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第0474話

Author: 十六子
「パパ」

そのとき、君秋が隼人にそう呼びかけた。

隼人は思わず嬉しそうに目をやった。凛々しい眉目の子供がにっこりと微笑みながら近づいてくる。澄んだその瞳は、見れば見るほど瑠璃に似ていた。

思えば、瑠璃が「亡くなった」という三年間、君秋はほとんど彼のことを「パパ」と呼んだことがなかった。たまに呼んでも、まるで口先だけで、無感情な声だった。

けれど今は違った。元気で、生き生きとしていた。

「パパもママのおうちにいるの?君ちゃんのお誕生日、ママと一緒にお祝いしてくれるの?」

――誕生日。

その言葉で、隼人はようやく思い出した。明日は君秋の誕生日だったのだ。

すでに五歳になったのに、彼はこれまで一度として、しっかりとこの子の誕生日を祝ってやったことがなかった。

「君ちゃん、パパはもうすぐ帰るの。また今度話そうね」

そこへ瑠璃が歩み寄り、やさしい笑みを浮かべながらも、言葉の裏には明確な追い出しの意図が含まれていた。

彼女が振り返って隼人に目を向けたとき、その視線は一瞬で冷たくなった。

「もう行って。これ以上ここにいないで」

隼人は苦笑した。

「もうすぐ帰るよ。でも……君ちゃんの誕生日だけは……」

「誕生日?『隼人様』って本当に素晴らしいお父さんなのね」

瑠璃は冷笑しながら、目元に鋭さを宿した。

「蛍が産んだ子は宝物みたいに可愛がって、自分の子にはどうだった?無視して、放り出して、あげくには刑務所で堕胎させて……その子を『野良』呼ばわりして、ゴミのように捨てた!

私は……この何年も、自分の子がどんな顔なのかすら知らなかった。目が見えなくなったときも、あの魔物のような蛍がくれた『写真』を、子供の姿だと信じて、大事に持ってた……でも結局それは、ただの風景写真だったのよ!」

そこまで聞いた隼人の胸にも、抑えきれない痛みが広がった。

彼の記憶に瑠璃が雨の中、涙に濡れて地面を這いながら写真を探していた姿がよみがえった――

そのときは理解できなかった。なぜそんなに一枚の写真に必死になっているのか。

今、その理由がすべてわかった。

蛍に騙されて、それを「我が子の写真」だと思い込んでいたのだ。

「隼人、教えてよ。私はいったい何を間違えたっていうの?どうしてこんな仕打ちを受けなきゃいけなかったの?私は一生あなたを許さない。今すぐ……出ていって!」

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