Share

第0475話

Auteur: 十六子
交通事故が起きたことで、多くの通行人が足を止めて集まり始めた。

車が突っ込んできたあの一瞬、瑠璃はもう逃げられないと覚悟した。

だが、その刹那、強い力に引き寄せられるようにして抱きしめられた。

その一瞬の感覚は、これまでに感じたことのないほどの安心だった。

呆然としていると、誰かに肩をぐっと掴まれた。

「千璃、大丈夫?どこかケガしてない?」

その聞き慣れた、そして心配に満ちた声に、瑠璃はようやく目の前の人物に気がついた。

――彼女を救ったのは、夏美だった。

目の前の気品あふれる顔には、濃い不安の色が広がっており、彼女の目は必死に瑠璃の体を上から下まで確認していた。

瑠璃は数秒ほど呆然とした後、淡々と口を開いた。

「大丈夫です、ありがとうございます。……碓氷夫人」

その呼び方を耳にした途端、夏美の目にはまた涙が滲んだ。だが、彼女は何も言えなかった。

――母親として、彼女にはすでに娘と呼ぶ資格がなかったから。

瑠璃が視線を移すと、さっき自分に突っ込んできそうになった車は、道路脇の大木に衝突してボンネットが大きくへこんでいた。

だが、運転手に大きなケガはなかったようで、今は必死に電話をかけてレッカーを呼んでいるところだった。

「さっきのは本当に危なかった……あの美女が吹き飛ばされるかと思ったよ」

「貴婦人が引き寄せなかったら、今頃どうなってたか……」

「二人、顔が似てたし、たぶん母娘じゃない?娘を助けたのって、本能なんだよ。見てよ、あのお母さん、泣きそうじゃん」

周囲の人々の声を聞いて、瑠璃は思わず足を止め、振り返った。

そこには、立ち尽くしながらも必死に感情を抑えようとしている夏美の姿があった。けれど、溢れ出る涙を止めることはできなかった。

そのとき、瑠璃は初めて気がついた。

夏美の右足のすねには大きな擦り傷があり、血が筋を描いて流れていた。

彼女は思わず駆け寄り、眉をひそめた。

「怪我してるじゃない、なんで黙ってるんですか?」

夏美は涙を浮かべたまま、微笑んで首を振った。

「あなたさえ無事なら、それでいいのよ」

その言葉に、瑠璃は言葉を失い、一瞬の沈黙の後、周囲を見回した。

「一人で来たんですか?」

夏美は彼女を見つめながら、静かに頷いた。

「ここで待ってて。車、取ってきます」

瑠璃はそう言い残して足早にその
Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Chapitre verrouillé

Latest chapter

  • 目黒様に囚われた新婚妻   第0746話

    この間、瞬から何度か連絡が来ていたが、瑠璃は一度も返信しなかった。一方で、隼人からは一切の連絡が途絶えた。まるで彼女の望みを汲み取ったかのように——二度と彼女の静寂を乱すことはなかった。その数日間、瑠璃は仕事の整理をして、数枚の書類にサインを済ませ、小切手を一枚用意してから瞬の別荘へと向かった。その時、瞬は家にいなかったようで、瑠璃が屋敷に入ると、リビングのソファに遥が魂の抜けたような顔で座っているのが見えた。顔色は悪く、どこか心ここにあらずといった様子だった。「遥、大丈夫?」瑠璃が近づいて声をかけると、遥はハッと我に返り、ようやく彼女に気づいた。「お義姉さん……どうしてここに?瞬兄さんは、出かけてますよ」「遥、これからは千璃さんって呼んで」瑠璃が優しくそう言うと、遥の表情が一変し、困惑した目で彼女を見つめた。「どうしてですか?」瑠璃は微笑みながら首を振った。「遥、あなたのことよ。何があったの?そんなに辛そうな顔して」「なんでもないですよ」遥は無理に笑顔を作って見せた。でも、本当は誰かに打ち明けたかった。ずっと胸に抱えている苦しみを話したかった。けれど、瑠璃はそれを話せる相手ではなかった。瞬に妊娠のことが知られてから——しかも彼が中絶だと誤解してからというもの、彼は毎晩荒ぶる怒りを彼女にぶつけるようになった。遥の体はまだ流産後のダメージから回復していなかった。「何もない」と言う遥に対し、瑠璃はやはり納得がいかなかった。「もしかして……お腹の赤ちゃん、何かあったの?どこか調子が悪いところがあったら、言ってね。もしかしたら、私にできることがあるかもしれないから」心配そうに尋ねた彼女に、遥は目元を赤くしながら答えた。「赤ちゃん……もういないの」その言葉に、瑠璃は一瞬、動きを止めた。「……どうして、そんなことに?」「きっと、私とこの子には縁がなかったのよ」そう言いながら、遥は目尻に浮かんだ涙をそっと拭い、突然瑠璃の手をぎゅっと握った。その目は切実だった。「お義姉さん……何があったのか、私は知らないけど、どうか瞬兄さんを責めないであげてください。彼は、本当にあなたのことを愛してるんです、信じて!」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、瞬が視界の端に現れた。遥は慌て

  • 目黒様に囚われた新婚妻   第0745話

    どういうわけか、瑠璃の感情を一切感じさせないその整った顔を見ていると、隼人の胸に不安が芽生えた。彼は、彼女の瞳の中にかつての愛情や未練を探し求めていたが、そこにあったのはただ穏やかで冷静な光だけだった。沈黙の中、瑠璃が口を開いた。「目黒さんが私のせいで視力を失ったから、あの日、景市大学の通りであなたが危ない目に遭いそうになったとき、私はあなたを助けたの。そして、あの島で私が海に落ちて溺れそうになったとき、あなたが私を助けてくれた。だから、今回も危険なあなたを見たとき、助けたのよ」瑠璃は、命がけで隼人を救った二度の理由を淡々と語った。「今なら分かるでしょ?あなたを愛していたわけじゃない。ただ、あなたに借りを作りたくなかっただけ」隼人はその言葉をぼんやりと聞いていたが、受け入れられるはずもなかった。「違う、千璃ちゃん……そんなはずない」彼は必死に否定した。「違う?じゃあ目黒さんはどうあってほしかったの?」瑠璃は薄く微笑みながら問い返した。「まだあの頃の、あなたを愛していた馬鹿な瑠璃でいてほしかったの?」「千璃ちゃん……」隼人は、目の前にいる彼女を切なそうに見つめた。「俺たち、本当にやり直せないのか?」「やり直す?」瑠璃はその四文字を口の中で転がし、しばらく沈黙した後、ふと笑みを浮かべた。だがその目尻には、再び涙が滲んでいた。「千璃ちゃん、お願いだ、そんな簡単に俺を否定しないでくれ。お前が昔を思い出せば、きっと、どれほど俺を愛してくれていたか思い出すはずだ」隼人の瞳に浮かぶ強い願いと切なる期待を見て、瑠璃はゆっくりと口を開いた。「そうね、もしかしたら、昔の私は本当にあなたを深く愛していたかもしれない。自分を失うほどに、どれだけ苦しめられても、それでも喜んであなたのそばにいた……」隼人の胸が締めつけられた。後悔と罪悪感が彼を覆い尽くした。「千璃ちゃん……」「でも、ごめんなさい、目黒さん。あなたが言ったその『昔』のことは、私はもう全部忘れたの。思い出したくもない」瑠璃は、記憶を取り戻していたことをあえて隠し、静かに続けた。「陽菜はいなくなった。過去のことはもう戻らない。あなたと私がやり直すなんて、ありえない。だから……目黒さん、これで終わりにしましょう」そう言って、瑠璃は静

  • 目黒様に囚われた新婚妻   第0744話

    「千璃、ちょうどよかったわね。昨日あなたのお父さんが言ってたのよ、家族みんなで旅行に行って、嫌なことを全部忘れてリフレッシュしようって」そう言って夏美はふとため息をつき、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。「千璃……あなたがどれほどつらいか分かってる。でも、陽ちゃんはもういないの。どうしようもないことなのよ……」瑠璃が何も言わないまま俯いていると、夏美は優しく彼女の手を取った。目には深い愛情が宿っていた。「ね、まずは中に入って話しましょう?」夏美はそう言うと、そのまま瑠璃の手を取って家の中へ連れて行こうとした。陽ちゃんの名前が出た瞬間、瑠璃の目元にわずかに湿り気が浮かんだ。彼女は足を動かさず、静かに口を開いた。「……過去のこと、全部思い出したの」その一言に、夏美は歩みを止め、驚きに身体をこわばらせた。瑠璃はすぐに、彼女の手の温度が一気に冷たくなったのを感じ取った。——怯えている。それがはっきりと伝わってきた。夏美はゆっくりと振り向き、不安と期待が入り混じった目で瑠璃を見つめた。「千璃……記憶が戻ったの?」瑠璃は小さくうなずいた。「うん、全部思い出したわ」「それは……本当によかった……」夏美は心から安堵したように微笑んだが、すぐ申し訳そうにその手をそっと離した。彼女には分かっていた。記憶を失う前の瑠璃は、自分たちを心の底から憎んでいたことを。この間、瑠璃が「お父さん」「お母さん」と呼んでくれたことだけで、夏美は十分に満たされていた。だからこそ、今はもう、それ以上を望む気持ちも持てず、胸に広がるのは寂しさと申し訳なさだった。「千璃……本当に、全部思い出したの?」「そう。あの時、あなたたちが蛍のために私を殴って、怒鳴って、罵ったことも思い出した」瑠璃の目には、どこか微笑が浮かんでいるようにも見えた。「彼女の悪事をかばうために、事実をねじ曲げて、私が悪いと言い張ったあなたたちのことも、全部思い出した」夏美はその言葉に耐えられず、瑠璃の目を直視できなくなった。顔を伏せ、罪悪感に打ちひしがれた。「千璃、ごめんなさい……父さんも母さんも、本当にあなたにひどいことをしたわ……」夏美は心からの謝罪を口にした。だが、返ってくる言葉などないと思っていたそのとき——「ええ。過去のことは全部

  • 目黒様に囚われた新婚妻   第0743話

    検査結果の用紙が瞬の足元に落ちるのを見た瞬間、遥の全身から血の気が引いた。彼女は慌ててしゃがみ込み、検査結果を拾い上げたが、立ち上がった途端、その用紙は瞬の手に奪われてしまった。瞬は紙に書かれた文字をじっと見つめ、その瞳の色が次第に暗く沈んでいった。その様子をそばで見ていた遥は、緊張のあまり呼吸すら苦しくなった。さっきまで彼女は、まだ一度も検査結果の中身を見ていなかった。ただ、瞬の存在に圧倒され、体がこわばってしまったのだ。——彼に妊娠のことを知られたくなかった。でも、今となっては……そのとき、不意に瞬が冷たい笑い声を漏らした。「どうりで、あの日吐きそうな顔してたわけだ。妊娠してたんだな」その言葉を聞いた瞬間、遥の顔色が見る見るうちに灰色に変わった。だが、わずか一秒も経たないうちに、さらに冷ややかな声が彼女の耳を貫いた。「やることはやって、妊娠したらすぐ中絶か。大したもんだな」——え?その一言に、遥の心臓が大きく跳ね上がった。中絶……って、つまり……赤ちゃんはもういないの?無意識のうちに腹に手を添えた彼女は、その虚ろな感覚に全身を突き抜ける空虚を感じた。だが、悲しみに浸る暇もなく、瞬が突然彼女の腕を強く引っ張った。その力はあまりにも強く、遥には抗うことができなかった。まだ身体が本調子ではない彼女は、少し走っただけでもすぐに息が上がり、足元に力が入らなかった。瞬が激しく怒っているのが伝わってきた。全身から冷気を放ち、彼女に触れる手からも怒りが滲んでいた。だが、それでも遥の胸の奥には、どこか喜びがあった。だって、また彼に触れることができたから。どれだけ強く握られても、どれだけ痛くても、彼女にとっては痛みさえも幸せだった。遥は、瞬がこのまま彼女を家に引き戻し、再び厳しく叱責すると思っていた。しかし、意外にも彼は彼女を車に押し込むと、まるで悪魔のような態度を見せた。その冷ややかな嘲笑と、低く押し殺した声が耳元に滑り込んできた。「遥……これが、お前の俺への愛ってやつか?」彼は彼女の尖った顎を指先で強く持ち上げ、鋭い目で見つめながら言った。「千璃は、隼人のために命を懸けてでも子どもを守ろうとした。だが、お前はどうだ?妊娠した途端、さっさと中絶しやがって……結局、お前も俺のことなん

  • 目黒様に囚われた新婚妻   第0742話

    だが、そんなとき——遥の目の前に、バラの花束を抱えた瞬が現れた。あの日とは違い、今の瞬はいつものように高貴で優雅な立ち姿をしていた。その姿に、多くの若い女たちが思わず見惚れ、彼の容姿にうっとりしていた。遥もまた、そんな女たちと同じだった。こういう時、彼女はいつも思った——たとえ彼の愛を得られなくても、彼という存在を傍に置けるだけで、自分はきっと幸運なのだと。そうやって自分を慰めていたそのとき、瞬が入院棟へと向かっていくのを目にした。その時になってようやく、彼がバラの花束を持っていたのは、瑠璃を見舞うためだったのだと気づいた。——でも、瑠璃がどうして入院なんかしてるの?遥はすぐに、あの日瑠璃に送ったメッセージのことを思い出した。瞬が隼人と二人きりで会うと聞き、不安を感じた遥は、瑠璃に連絡をして、そのことを伝えていた。二人の衝突を止めてほしい、そんな思いで。けれど、どうやらその日、本当に何かが起こり、瑠璃も巻き込まれて怪我をしたのかもしれない。そのころ、瑠璃はちょうど目を覚ましたばかりだった。彼女は隼人がずっと付き添ってくれていることに気づいていたが、彼とは話したくなくて、ずっと眠ったふりをしていた。隼人は、彼女の拒絶を感じ取ったのか、ついさっき部屋を出て行ったばかりだった。まさか、その直後に瞬がやって来るとは——彼はバラの花をテーブルに置き、優しげな目を伏せながら、申し訳なさそうに言った。「千璃……君を傷つけようなんて、思ったこともなかった」瞬は窓の外を見つめる瑠璃に向かって語りかけた。「信じてもらえないかもしれないけど、陽菜には何もしていない。あの子は血のつながりはないけど、ずっと自分の子どもみたいに思ってた。君を愛してるから、陽菜のことも大切だったんだ」瑠璃はかすかに微笑み、青白い唇をゆっくり開いた。「あなたのそれは愛なんかじゃない。ただの支配欲よ。隼人に負けたくないっていう、男のプライドが生み出したもの」その言葉に、瞬の眉が徐々に険しくなった。「君は、俺のことをそう見ていたのか?」瑠璃はゆっくりと顔を彼に向け、冷淡な声で言った。「以前は違った。私の中のあなたは、いつも優しくて礼儀正しくて、高貴な紳士だった。不幸ばかりの人生で、ようやく巡り会えた幸運だと思ってた。命を救

  • 目黒様に囚われた新婚妻   第0741話

    彼女は息を殺しながら、ズボンに湿った感触が染み込んでくるのを感じた。瞬の冷たい背中を見つめながら、遥は服を強く握りしめ、痛みをこらえてゆっくりと足を動かした。彼の名前すら呼ぶ資格がない自分に、彼の情けなど期待できるはずもなかった。遥は痛みに耐えながらその場を離れ、壁に手を添えて自分の部屋へと向かった。ちょうど部屋の掃除を終えて出てきた家政婦の張媽は、顔面蒼白の遥を見て、思わず驚きの声を上げた。「お嬢様、どうなさったんですか?」「瞬兄さんには言わないで……」遥は苦しそうに言い、「張本さん、ごめんね。部屋まで連れて行ってもらえる?」主人の事情には深入りできない張本さんは、それ以上何も聞かず、すぐに遥を支えて部屋へと連れて行った。床に点々と続く血の跡を見て、張本さんは次第に事情を察していった。血の跡をきれいに拭き取った張本さんが遥の部屋に戻ると、ちょうど洗面所から出てきた彼女がふらつきながらベッドに倒れ込むのが見えた。「お嬢様、病院には行かれないんですか?瞬様に本当に伝えなくていいんですか?お医者さんを呼びましょうか?」遥は首を振り、力なく目を閉じた。「ありがとう、張本さん。少し休みたいだけ……」張本さんはそれ以上何も言えず、黙って部屋を後にした。天井を見つめる遥の顔に表情はなかったが、目尻からは静かに涙が流れ落ちていた。彼女の脳裏には、瞬との最初の出会いがぼんやりと蘇った。彼は魂が抜けたように海を見つめ、ゆっくりと海へと歩いていた。彼女は駆け寄って笑顔で手を引きながら言った。「お兄ちゃん、貝殻が好き?一つあげようか?」当時の彼は冷たい表情だったが、その時の一瞥が彼女の心に深く残った。彼女は四月山村の出身で、両親は海の近くに小さな別荘を持っていた。裕福ではなかったが、平穏な家庭で幸せに暮らしていた。幼い頃は何も不安がなく、毎日笑顔で海辺の近くを仲間たちと駆け回っていた。そして、ある日——彼女は瞬と出会った。他の子供たちには皆遊び仲間がいたが、瞬だけはひとりぼっちだった。無邪気な彼女は、その姿に惹かれて近づいていった。彼の遊び相手になって、少しでも孤独を和らげてあげたかった。けれど、それも長くは続かなかった。せっかく友達になれたと思った矢先、彼はすぐに去ってしまった。別れの前、彼は彼

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status