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第0539話

作者: 十六子
瑠璃のその一言に、病室にいた全員が言葉を失った。

「ち、千璃……私よ、ママよ……」

夏美は自分を指差し、動揺を隠せず、目にはすでに涙が溢れていた。

隼人は目の前の少女のような、しかしどこか警戒と困惑に満ちたその顔を信じられない思いで見つめていた。

どうして?

こんなことがあり得るのか?

かつてあれほど自分を愛し、愛憎を抱いていた彼女が、自分のことをまったく覚えていないなんて——。

瞬も一瞬驚きを見せたが、すぐに冷静さを取り戻し、柔らかい笑みを浮かべながら瑠璃の傍へ歩み寄った。

「ヴィオラ、大丈夫だよ。何があっても、俺は君のそばにいる。まずは医師に診てもらおう」

その言葉を素直に受け取った瑠璃は、瞬の言うとおり、おとなしく診察を受け入れた。

隼人は、その様子をただ呆然と見つめていた。

瑠璃は、自分のことも、夏美のことも思い出せないのに——

瞬のことは、まるで信頼しきっているかのように、迷いなく従っていた。

心に何本もの冷たい矢が突き刺さったように、隼人の身体は凍りついたまま動けなかった。

彼女の検査が終わるまで、ずっとその場から動けなかった。

医師のオフィスで、隼人は眉間に深い皺を寄せながら、医師の説明を黙って聞いていた。

「CTの結果を見る限り、脳内の出血はほとんど吸収されていて、問題ありません。ただし、彼女の記憶障害は心理的な原因によるものと思われます。

もしかすると、過去の非常に辛い出来事や人を無意識に忘れようとして、解離性健忘が発症した可能性があります。

彼女は嫌な記憶を避け、今は楽しかった記憶だけを残そうとしている状態です。

できるだけ精神的ショックを与えないようにしてください。この状態が続くかどうか、もう少し様子を見ないといけません」

隼人と夏美は、その説明を聞いた瞬間、理解すると同時に、胸が裂けそうなほどの痛みを感じた。

彼らには分かっていた。

瑠璃に与えた傷、かつてどれほど残酷で、彼女を追い詰めていたのか。

思い出したくないのは当然だった。

誰だって、心を引き裂かれるような記憶より、幸せで温かい記憶だけを抱いて生きたいと願う。

だが、彼女が最も助けを求め、愛を必要としていた時に、自分たちが与えたのは——冷たさと拒絶だけだった。

その事実が、隼人の心を容赦なく締めつけた。

この痛みは、誰にも理解できな
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