「ここは私の家よ!なんで私が避けなきゃいけないのよ!」青葉は当然のように叫んだ。「私は何もやましいことなんてしていない。どうしてあなたに遠慮する必要があるの?」瑠璃はまっすぐに反論した。「この!」「ここは千璃ちゃんの家でもある。来たければ来ればいい。これ以上騒ぎを起こすな」隼人は不快げに青葉へ釘を刺した。「この女はもうあなたと離婚したのよ?妻じゃないなら、ここはもうこの女の家じゃないはずでしょ!」青葉は反論を返した。隼人は落ち着いた様子で瑠璃を一瞥し、薄く唇を開いた。「いや、彼女は今でも俺の正式な妻だ」「……えっ?」青葉と雪菜が同時に驚きの声を上げ、瑠璃自身も思わず目を見開いた。その時——「ここが傷害事件の現場で間違いないですか?」突然現れた二人の警察官の声が、その場の空気を断ち切った。瑠璃も思わず振り返った。青葉は急いで駆け寄り、身を乗り出すようにして訴えた。「そうです、警察の方!被害者は私です!そして加害者はこの女です!」彼女は瑠璃を指差して叫んだ。「この女が私を殴って、私の財布とジュエリーを盗んだんです!捕まえてください!」隼人の目元に瞬時に怒りの色が宿った。警察は瑠璃を一瞥し、確認するように言った。「あなたが四宮瑠璃さんですね?」瑠璃は落ち着いた声で返した。「本名は碓氷千璃です。四宮瑠璃は昔の名前です」警官は軽く頷いた。「では、事情を聞かせてもらうために、警察署まで同行願えますか?」「はい、構いません」「ふん!」青葉は鼻で笑った。「いつまで平然と装っていられるかしら!」その後ろで、雪菜は顔に出さずにほくそ笑んでいた。——よし、よし!瑠璃が有罪になれば、私は完全に無関係になる!警察は青葉を連れて、事件現場の確認へ向かった。雪菜も後を追い、階段の前を通りかかった時——女ヘルパーが祖父を車椅子に乗せて部屋から出てきたのを見かけた。「……瑠……璃……」祖父がかすれた声で、はっきりと瑠璃の名前を呼んだ。雪菜の足がピタリと止まる。祖父のその呼び方はたどたどしかったが、確かに明瞭で、聞き間違えるはずもなかった。——そして、次の瞬間。祖父は、彼女の方をじっと見ながら「雪……」と口にしたのだった。その言葉に
上着がはだけ、冷たい空気が肌を撫でた。瞬の持つ魅力にはどこか人を惑わせる力があったが、瑠璃の意識ははっきりしていた。彼女はその瞬間、瞬の近づいた手を強く握りしめた。「ごめんなさい、瞬……まだ、その心の準備ができてないの」決然とした口調だった。そう言うと彼女は迷いなく瞬の腕の中から抜け出し、距離をとった。身体が離れた途端、瑠璃の気持ちは少しだけ落ち着いた。瞬は無言のまますべての不満を飲み込み、穏やかな表情で立ち上がると、瑠璃に謝意を込めた視線を向けた。「すまない、千璃。無理をした」瑠璃は首を横に振った。「あなたのせいじゃない。悪いのは私。昔のことを思い出せないし……あなたといたときの感覚も戻ってこない。だから……」「気にしないで」瞬は穏やかに微笑み、彼女を慰めた。「無理することはないさ。いつか、思い出せる日がきっと来る」「ありがとう、瞬」「馬鹿だな。そんなことでありがとうなんて言わないでくれよ。俺たち、もう式は挙げたんだ。まだ籍は入れてないけど……俺の中では、もう君はとっくに俺の妻だよ。」瞬はそう言いながらそっと瑠璃を抱きしめ、彼女のさらさらとした長い髪を撫でた。「深く考えずに、今夜はゆっくり休むんだ」「あなたも、早く休んでね」瞬は静かに頷いた。「おやすみ」微笑みながら部屋を出て行ったが、その笑みはすでにどこか消えかかっていた。瑠璃の拒絶は、彼女がまだ隼人を愛していることを意味しているわけではない。だが少なくとも、彼に対しての想いがないということは証明された。瞬の目に、一瞬だけ鋭い光が走った。だがすぐに、それはまた穏やかに変わっていった。——千璃。君に俺を愛させてみせる。それは、君に出会ったあの日、初めて誓ったことだ。……夜が明けた。隼人は一晩中眠れなかった。ずっと、昨日の瑠璃と瞬のキスが頭から離れず、心の中をぐるぐると回っていた。あれこれ考えているうちに夜が明け、ようやく、瑠璃が再び姿を現した。隼人は内心の不安と心配を懸命に隠し、何事もなかったかのように微笑んで彼女に声をかけた。「千璃ちゃん、来てくれたんだ。ちょうどさっき、おじいちゃんがお前の名前を呼んでた」瑠璃は彼に目を向けた。「おじい様、ほかにも何か言ってた?」隼人は首を振
瑠璃はスマホを置いて、扉の方へと歩いた。扉を開けると、そこに立っていたのは瞬だった。白いルームローブを纏った彼の姿は、端正で高貴な印象を与え、うっすらと覗く鎖骨が色気を感じさせた。そんな瞬を目にした瑠璃は、なぜか少しだけ落ち着かない気分になった。けれど、あの日、隼人の傷を手当てするとき、彼のシャツを脱がせて露出した肌を見ても、まったくそんな気持ちにはならなかった。「瞬、もしかしておやすみを言いに来てくれたの?」瑠璃は微笑んで、自分の心がどこか遠くへ彷徨っていたのを引き戻した。瞬は優しく微笑みながら、静かに部屋の中へと一歩踏み出した。彼女は仕方なくドアノブから手を離した。瞬が部屋に入ると、彼は扉をそっと閉めた。その音が響いたとき、瑠璃の胸に一瞬、不安の影が差した。「瞬、何か話があるの?」彼女は微笑みながらそう聞いたが、体はその場から一歩も動かなかった。瞬は振り返り、彼女の美しい瞳にわずかな警戒の色が浮かんでいるのを見て、唇の端をゆるく上げた。そして、彼女の前に立ち、手を伸ばしてそっとその手を握った。「ヴィオラ……いや、今は千璃と呼ぶ方がいいか。君の本当の名前だしね」瞬の声は春の夜風のように優しくて柔らかく、その手が彼女の耳元の髪をそっとかき上げた。「昔、君が隼人と蛍に裏切られて、手術台の上で死にかけたとき——あの瞬間から、僕は決めたんだ。もう二度と、君を傷つけさせないって」その言葉に、瑠璃の瞳から警戒心が少しずつ消えていき、代わりに感謝と温かな想いが浮かんだ。「瞬、本当にありがとう。あなたはあのときだけじゃない、海辺で私が溺れたときも……あれがなかったら、私はもう生きてなかった」「君を失うなんて、絶対にありえない」瞬の瞳は深く澄んでいた。「子供の頃、四月山の海辺で初めて君に出会ったあの日から、俺は自分に誓ったんだ。君をずっと守るって」その言葉を聞いて、瑠璃は思わず顔を上げ、彼の顔をじっと見つめた。整った眉に切れ長の目、落ち着いた優しさを湛えたその表情は、どこか懐かしさを感じさせた。——なのに、なぜか彼女の脳裏には、隼人の顔がふと浮かんだ。その理由を考える暇もなく、彼女は瞬の腕の中に引き寄せられた。彼の体からは、ほのかに冷たく深い香木の香りが漂ってきて、どこか惹かれる匂いだった。
瞬の突然の行動に、瑠璃は驚きを覚えたが、すぐに彼の背後にいる隼人の存在を思い出した。——このキスは、隼人に見せつけるためのものだ。彼女はそんな予感を抱きながらも、何も言わずに黙って車へ乗り込んだ。瞬は冷え切った顔の隼人を横目で見て、唇に意味深な笑みを浮かべた。車に乗るとすぐに、瞬はアクセルを踏んだ。瑠璃は助手席に座っていたが、視線は無意識にバックミラーに映る隼人の姿を追っていた。月明かりの下で、彼の表情は墨よりも濃い寂しさと苦悩に染まっていた。彼は明らかに苦しんでいた。それを必死に押し殺しているようだった。瑠璃は、瞬が自分を碓氷家へ送っていくのだと思っていた。だが、車が止まったのは郊外にある彼の一軒家だった。彼女の記憶の中では、ここに泊まったことは一度もなかった。瞬は、あらかじめ用意していた部屋へと瑠璃を案内した。メイドが彼の指示通りに日用品とパジャマを届けてきた。「一日中あのじいさんの世話をしてたんだろ?疲れてるはずだ。先にシャワーでも浴びてきな」瞬はそう優しく言いながら、瑠璃の長い髪をそっと撫でた。「隼人に何かされなかった?」瑠璃は首を振った。「今の彼には、私に何かする勇気なんてないはずよ」「それならよかった」瞬は微笑んだ。「じゃあ、ゆっくりお風呂に入っておいで」彼はそう言って部屋を出て、扉をそっと閉めた。——扉が閉まった途端。彼の顔からは穏やかな笑みが消え去った。あの日、海辺で眠っていた瑠璃を隼人の腕から奪い取り、自分の元へ連れて帰った——彼女がその後目覚めたときから、何かが変わったと感じていた。あの二日間、島で何があったのかは知らない。だが、瑠璃の隼人に対する態度が、どこか前とは違って見えたのだった。夜は静かに更けていった。隼人は、祖父の部屋にひとり残っていた。睡魔はまったく訪れず、彼の手には瑠璃が使っていた毛布が握られていた。彼はその布を顔に近づけ、そっと香りを嗅いだ。彼女の体から移った淡い香りが、まだそこに残っていた。だが、次の瞬間に浮かんだのは、瞬が瑠璃の肩を抱き、彼女の眉間にキスを落としたあの光景だった。その場面がまるで針のように胸を刺した。——今、瑠璃は瞬と二人きりなのか?——もっと深い関係に進んでいたら?考えれば考えるほど息が詰まり、鼓
「君が関わっているはずがない、俺は信じているよ」邦夫は真剣な眼差しで瑠璃にそう言い、続けてヘルパーの方へと顔を向けた。「もう行っていい。警察に何か聞かれたら、見たままを話せばいい」ヘルパーはおずおずと隼人と瑠璃を一瞥し、こくりと頷いてからその場を離れた。部屋には瑠璃と隼人、二人だけが残された。そのときになって、隼人はようやく彼女の肩に回していた腕を静かに離し、柔らかな眼差しで語りかけた。「千璃ちゃん、俺も信じてる」瑠璃は穏やかに微笑んだ。「こういう証拠があるように見せかけた濡れ衣って、今までにも何度かあったわ。もう慣れてるの」——慣れてる。その言葉が、隼人の胸にひどく刺さった。慣れたということは、それだけ理不尽な中傷や罪を何度も背負わされてきたという証だった。隼人は彼女の瞳に浮かんだ痛みや寂しさを感じ取りながら、言葉もなくただその背中を見つめていた。隼人の目に浮かぶ痛みと後悔を感じ取った瑠璃は、何事もなかったかのようにくるりと背を向けた。隼人は、これ以上彼女を困らせたくなくて、ただ黙ってその背中を見つめていた。……その日の残りの時間、瑠璃はずっと祖父のそばにいた。夜が更けるまで付き添っていたのだった。一方、隼人は書斎での用事を終え、気持ちを整えてから瑠璃と話そうと祖父の部屋に向かった。だが中に入ると、彼の目に映ったのは机に突っ伏して眠る瑠璃の姿だった。彼女の手にはまだ本が握られており、まるで無防備な子供のように静かに寝息を立てていた。きっと、疲れていたのだ。隼人はそう思い、胸が締めつけられるような気持ちで一度部屋を出た。そして、戻ってきたときには一枚の毛布を手にしていた。彼は音を立てないよう慎重に彼女のそばへ近づき、そっとその身体に毛布をかけた。本当は、それだけしてすぐに部屋を出るつもりだった。彼女の休息を邪魔したくなかったのだ。——なのに。眠る彼女の顔を見つめるうちに、どうしても手を伸ばさずにはいられなかった。指先をそっと彼女の眉のあたりに触れ、静かになぞった。鼓動が少しずつ甘く、優しくなるのがわかった。なぜこんなにも心が温かいのか、彼にはもうわかっていた。だがその指が彼女の頬に触れた瞬間、胸がきゅっと痛んだ。あの年、蛍に顔を傷つけられた彼女。元は白くてなめ
この一言で、全員の視線が女のヘルパーに向けられた。雪菜の心臓が一瞬強く脈打ち、あのときの状況が頭をよぎった。彼女はこっそりと手に入れたジュエリーボックスと財布を抱え、慌ただしく階段を駆け下りたのだった。ちょうどそのとき、祖父が人に車椅子を押されながら一階のゲストルームから出てきたところだった。彼女は祖父と目が合い、お互いに相手の存在を確認した。しかしその瞬間、彼女はあまりの焦りで、祖父の後ろにいたこのヘルパーの存在にまったく気づかなかった。自分の行動を誰かに見られていたかもしれないと思うと、雪菜は怯えたように二歩後ずさった。「誰が私を殴ったのか見たの?」青葉がさらに詰め寄り、瑠璃を指差しながら言った。「この女に殴られたの?」隼人はその問いかけ方に不満を覚え、口を開こうとしたそのとき、ヘルパーが瑠璃を見てコクリと頷いた。「はい、間違いありません。このお嬢さんです」その答えを聞き、瑠璃と隼人は同じく驚いた表情を浮かべた。邦夫も驚いて一瞬固まり、瑠璃を指差して尋ねた。「本当に彼女なのか、ちゃんと顔を見たのか?」ヘルパーは瑠璃の顔を見つめながら、はっきりと答えた。「間違いありません。このお嬢さんはとても綺麗な顔立ちで、見間違えることはありません」ヘルパーは続けて説明した。「その時、私はお爺さんを車椅子で庭に連れて行こうとしていました。突然、誰かが階段を駆け下りてくる音がして、部屋のドアを出た瞬間、このお嬢さんがそこに立っているのを見ました」彼女は階段の近くの場所を指差した。この説明を聞いて、雪菜は頭が真っ白になったが、その後すぐに喜びの感情が湧いてきた。そう、あのとき逃げようとした際にちょうど瑠璃が部屋に入ろうとしていたのを見たのだ。まさか、こんな形で瑠璃が自分の身代わりになるなんて!これは本当に幸運だ!「皆さん、聞いたよね?私は彼女を冤罪で責めてるわけじゃないわ!」青葉はますます自信を得た様子で言った。「あのとき、彼女は私の部屋に先に入って、ジュエリーと財布を盗んだ。見つかるのが怖くて、先に私を殴ったに違いない。瑠璃、これでもまだ言い逃れできると思ってるの?」「千璃ちゃんは言い訳する必要はない。彼女はあんたが言っているようなことは一切していない」隼人は変わらず、瑠璃の潔白を主張した。その言葉に、瑠璃は