御堂社長、もう心は動かない

御堂社長、もう心は動かない

By:  栄子Updated just now
Language: Japanese
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再び小さな命を授かったと分かったその日。結城咲良(ゆうき さくら)は、愛する夫が別の女と「新しい家族」を築き上げている事実を知った。 相手はあろうことか、咲良自身が資金を援助してきた奨学生だった。 咲良が流産で我が子を失い、悲痛のあまり身を削るような思いで過ごしていたあの時期。 夫の御堂圭吾(みどう けいご)は、こともあろうに愛人との間にできた隠し子の誕生を盛大に祝っていたのだ。 咲良が心血を注いで築き上げた会社は、とうの昔にその愛人の手に落ちていた。 世界でたった一つだと信じて疑わなかった二人の愛の巣でさえ、圭吾はそっくり同じ家をあちらの家族のためにも建てていた。 それを知った瞬間、咲良の胸の内にあった愛はチリ一つ残らず消え失せ、胸いっぱいの憎悪だけが残った。 咲良は妊娠検査の結果を隠し、躊躇することなく離婚を突きつけた。 「咲良。今ここで泣いて謝るのなら、この離婚の話はなかったことにしてもいいんだぞ」 圭吾は傲慢な態度で言い放った。 咲良は振り返ることもなく、静かに背を向けた。「御堂さん。次は、役所で会おう」 それから、どれほどの時が流れただろうか。かつて妻を見下していた傲慢な男は、ついに屈服していた。 自立し、誰もが振り返るほど輝くばかりの美しさを手に入れた咲良を見上げ、圭吾は痛切な後悔とともに「どうかもう一度だけ俺を見てほしい」と哀願する。 だが、絵のように美しい咲良の顔には、ただ冷ややかな微笑みが浮かべるだけだった。「御堂さん。あなたのその言葉は、あまりにも遅すぎたわ。私の心が、もう二度とあなたではときめかない」

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Chapter 1

第1話

夏の夜。薄暗い主寝室で、二人の姿が大きなベッドに沈み込む。

レースのカーテンが白い月光を巻き込んでふわりと舞い上がり、また落ちる。絡み合う呼吸、揺れる二つの影。

酒の匂いを纏った男の動きに、優しさはなかった。むしろ、何かを罰するかのような荒々しささえ孕んでいる。

結城咲良(ゆうき さくら)は目を閉じ、ただその痛みに耐えていた。

「咲良、目を開けて俺を見ろ」

突然、顎をきつく掴まれる。痛みに顔を顰めると、頭上から微かな怒りを帯びた、低く掠れた声が響いた。

咲良はゆっくりと目を開いた。

一筋の月光が、彫刻のように整った男の横顔を冷たく照らし出している。咲良は少しの間、ぼんやりとその顔を見つめた。

一ヶ月前、二人は墓地で不愉快なまま別れた。

あの日――お腹の中で亡くなった男女の双子の命日。男は「忙しいんだ。お前の戯言に付き合っている暇はない」と冷酷に言い捨て、そのまま一ヶ月間、一度も家に帰ってこなかったのだ。

鎖骨に走った鋭い痛みに、咲良の意識が現実に引き戻される。見上げると、夫の御堂圭吾(みどう けいご)の漆黒の瞳が視線を絡え取る。

「集中しろ」圭吾の掠れた声には、先ほどよりも濃い苛立ちが滲んでいる。

咲良は長い睫毛を震わせた。ツンと鼻の奥が痛む。

「圭吾……」彼女はそっと手を伸ばし、氷のように冷たい指先で、彼の眉間に寄った皺をなぞった。

「もう一度、子供を作ろう……」震える声で、そう懇願した。

圭吾の動きがピタリと止まる。欲情を湛えていた黒い瞳が、探るように彼女を深く見据えた。

「咲良、本気で言っているのか?」

咲良は答えず、彼の首に腕を回すと、自ら口づけようとすがるように頭をもたげた。

圭吾は目を細め、長い指を彼女の髪に這わせると、その後頭部をきつく押さえつけた。

だが、咲良の唇が重なるその瞬間。圭吾の薄い唇が開いた。吐息は熱いのに、その声は凍りつくほど冷酷だった。

「お前はどれくらいの間、まともに鏡を見ていない?」

咲良は息を呑み、目を見開いた。

彼の漆黒の瞳に映っていたのは、枯れ枝のように痩せこけ、土気色になった自分の顔だった。

圭吾は突然体を離し、ベッドから起き上がった。傍らにあったバスローブを羽織り、背を向けたまま無造作に腰紐を結ぶ。「今のその体じゃ、産むどころか、妊娠すら無理だ」

咲良は呼吸を忘れ、ただ茫然と夫の背中を見つめた。

広い肩幅、引き締まった腰。だがその横顔はどこまでも冷徹だ。

「仮に妊娠したとしても、今のその状態では、母親が務まない」

彼は振り返りもしなかった。その氷のような言葉は鋭い刃となって、咲良がようやく振り絞った勇気を、無残にも切り刻んでいった。

咲良が反応する間もなく、圭吾はバスルームへ消えた。ドアが閉まる音に続いて、シャワーの音が無機質に響き始める。

咲良は魂を抜かれた抜け殻のように、ベッドの上に横たわったままピクリとも動けなかった。

彼女はただほんやりと天井を見つめていた。

しばらくして音が止み、バスルームのドアが開いた。タオルを腰に巻いた圭吾が出てくる。

彼はベッドの上の妻を一瞥することもなく、そのままウォークインクローゼットへと向かった。

そして完璧に服を着ると、一度も振り返ることなく部屋を出て行った。

やがて、階下から車のエンジン音が遠ざかっていくのが聞こえた。

――圭吾は、また行ってしまった。

静寂だけが取り残された部屋で、咲良はシーツを引き寄せ、自らの痩せ細った体を覆い隠した。

寝返りを打つと、背中に月明かりが降り注いだ。ゴツゴツと浮き出た背骨。確かにこれは、命を育めるような体ではない。

五年もの間、終わりのない悪夢に苛まれ、薬に依存する日々。毎日、食べる量よりも吐き出す量の方が多かった。身長170センチの彼女の体重は、今や40キロを切ろうとしている。

咲良はゆっくりとベッドに手をついて体を起こし、シーツを退けてクローゼットの全身鏡の前に立った。

適当に羽織った一番小さいサイズのルームウェアでさえ、今の彼女が着るとぶかぶかだった。頬はこけ、肌は黄ばみ、眼窩は深く窪み、瞳の光は完全に失われている。

震える指先で、パサパサに干からびた髪に触れる。

かつて、圭吾はこの長い髪が好きだと言ってくれた。シャンプーやトリートメントも、彼がわざわざ海外から取り寄せた特注品を使っていたのに。

あの頃、共通の友人たちは皆、彼女を羨んだ。「髪の毛一本一本にまで愛されている」と。

けれど、お腹の双子を失ってから、その美しい世界はすべて粉々に砕け散った。

微かに震える指が、窪んだ頬をなぞる。咲良はその場にしゃがみ込み、自らの痩せ細った体を抱きしめると、堪えきれずに声を上げて泣き崩れた。

その夜、咲良は突然の高熱にうなされた。そして夢の中で、再びあの子供たちに会った。

あと一週間で出産予定日だった双子の男女。あの悲惨な誘拐事件のせいで、二人は母の胎内で命を落とした。

夢の中の子供たちは、少しずつ成長し、今では五歳になっていた。

男の子は圭吾にそっくりで、女の子は咲良に似ている。

夢の中で、二人の子供は無邪気に笑いかけてきた。

「ママ、がんばって元気になってね。わたしたち、もう一回ママの子供になるのを待ってるんだから!」

再び目を覚ました時、咲良は病院のベッドの上にいた。住み込みの家政婦の麗(れい)さんが、倒れている彼女を見つけて救急車を呼んでくれたのだ。

一週間の入院中、圭吾が姿を見せることは一度もなかった。

咲良の脳裏に、夢の中の子供たちの言葉が蘇る。

退院後、彼女は再び墓地を訪れ、二人の子供に「最後のお別れ」を告げた。

その後の半月間、圭吾から連絡が来ることはなく、家にもほとんど帰ってこなかった。

一日に一度だけ咲良からの電話には出たが、返ってくるのは決まって「忙しい」「今日は帰らない」という氷のように冷たい言葉だけ。

分かっている。彼は意図的に自分を避けているのだ。

しかし、咲良はもう取り乱すことはなかった。睡眠薬をきっぱりと断ち、医師の勧めに従ってヨガを始め、体質改善に取り組んだ。

手つかずだった子供部屋を空っぽにし、双子のエコー写真を燃やし、もう二度と過去の子供たちの話題を口にすることはなかった。

適度な運動と規則正しい生活の効果は、目に見えて現れた。拒食の症状は和らぎ、体重も少しずつ増えていった。

圭吾も彼女の「変わろうとする決意」を感じ取ったのか、自ら名医のいる漢方クリニックへ彼女を連れて行き、本格的な体質改善をサポートしてくれた。

二ヶ月の治療の末、咲良の体重は四十五キロまで戻った。空っぽだったその瞳は今では光が戻りつつあり、まだ痩せて色白ではあるものの、以前と比べれば見違えるほどの回復ぶりだった。

生活は、少しずつ軌道に乗り始めていた。

以前のように、彼女は何事も夫を立て、従順に、そして深く彼を愛した。圭吾もまた良き夫として、彼女に対して温かく接し、望みはなんだって叶えてくれた。

三ヶ月後。生理は予定日を過ぎても来なかった。

圭吾は海外出張中で、まだ帰国していない。

咲良は一人で、産婦人科を受診することにした。

「おめでとうございます、御堂さん。検査の結果、現在妊娠七週と四日ですね。胎児は順調に育っています。エコーで心拍も確認できましたよ」

診察室から出てきた咲良は、片手にエコー写真を握りしめ、もう片方の手でバッグからスマホを取り出した。連絡先を開く指先が、微かに震えている。

発信ボタンを押し、無意識に息を詰める。

その時。聞き覚えのある着信音が、背後から聞こえてきたのだ。

咲良はハッとして動きを止めた。

次の瞬間、電話が繋がり、耳慣れた夫の声が響く。

「今忙しいんだ。用事なら帰国してからにしてくれ」

その声は、耳元のスマホからだけでなく――背後の廊下の角の向こう側からも、同時に聞こえてきた。

冷淡な口調。咲良が何かを言う隙も与えず、一方的に通話は切られた。

咲良は呆然と、その場に立ち尽くした。

あんなにも冷たく、あしらうような態度。この三ヶ月間の穏やかで温かい日々のすべてが、まるで幻だったかのように思えた。

「辰くん、パパと一緒に注射がんばろうな?」

角の向こうから、再び夫の声が聞こえてきた。さっきの電話のときの冷たい声とはまるで別人のように、優しく穏やかな声。

咲良はスマホをきつく握りしめ、ぎこちない動作で振り返ると、その角に向かって一歩、また一歩と歩みを進めた。

海外出張に行っているはずの夫が、そこにいた。

廊下の待合席に背を向けて座る彼。その腕の中には、額に冷却シートを貼った小さな男の子が、大切に抱きかかえられていた……

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第1話
夏の夜。薄暗い主寝室で、二人の姿が大きなベッドに沈み込む。レースのカーテンが白い月光を巻き込んでふわりと舞い上がり、また落ちる。絡み合う呼吸、揺れる二つの影。酒の匂いを纏った男の動きに、優しさはなかった。むしろ、何かを罰するかのような荒々しささえ孕んでいる。結城咲良(ゆうき さくら)は目を閉じ、ただその痛みに耐えていた。「咲良、目を開けて俺を見ろ」突然、顎をきつく掴まれる。痛みに顔を顰めると、頭上から微かな怒りを帯びた、低く掠れた声が響いた。咲良はゆっくりと目を開いた。一筋の月光が、彫刻のように整った男の横顔を冷たく照らし出している。咲良は少しの間、ぼんやりとその顔を見つめた。一ヶ月前、二人は墓地で不愉快なまま別れた。あの日――お腹の中で亡くなった男女の双子の命日。男は「忙しいんだ。お前の戯言に付き合っている暇はない」と冷酷に言い捨て、そのまま一ヶ月間、一度も家に帰ってこなかったのだ。鎖骨に走った鋭い痛みに、咲良の意識が現実に引き戻される。見上げると、夫の御堂圭吾(みどう けいご)の漆黒の瞳が視線を絡え取る。「集中しろ」圭吾の掠れた声には、先ほどよりも濃い苛立ちが滲んでいる。咲良は長い睫毛を震わせた。ツンと鼻の奥が痛む。「圭吾……」彼女はそっと手を伸ばし、氷のように冷たい指先で、彼の眉間に寄った皺をなぞった。「もう一度、子供を作ろう……」震える声で、そう懇願した。圭吾の動きがピタリと止まる。欲情を湛えていた黒い瞳が、探るように彼女を深く見据えた。「咲良、本気で言っているのか?」咲良は答えず、彼の首に腕を回すと、自ら口づけようとすがるように頭をもたげた。圭吾は目を細め、長い指を彼女の髪に這わせると、その後頭部をきつく押さえつけた。だが、咲良の唇が重なるその瞬間。圭吾の薄い唇が開いた。吐息は熱いのに、その声は凍りつくほど冷酷だった。「お前はどれくらいの間、まともに鏡を見ていない?」咲良は息を呑み、目を見開いた。彼の漆黒の瞳に映っていたのは、枯れ枝のように痩せこけ、土気色になった自分の顔だった。圭吾は突然体を離し、ベッドから起き上がった。傍らにあったバスローブを羽織り、背を向けたまま無造作に腰紐を結ぶ。「今のその体じゃ、産むどころか、妊娠すら無理だ」咲良は呼吸を忘れ、ただ茫然と
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第2話
「パパ、痛いの嫌だ、注射したくないよお……」男の子は涙声でそう言いながら、少し顎を上げて男を見上げた。その幼くも美しい顔立ちが、咲良の目に鮮明に飛び込んでくる。咲良は息を止めた。その小さな顔から、視線を外すことができない。その顔は――圭吾に、文字通り瓜二つだった。あの子は今、圭吾のことを「パパ」と呼んだ。まさか……圭吾が、浮気を?咲良の顔から、さあっと血の気が引いていく。心臓を引き裂かれるような激痛に襲われ、全身の震えが止まらなくなった。圭吾は、驚くほど忍耐強く子供をあやしていた。「辰くん、いい子だ。注射をしないと病気は治らないんだぞ。パパがずっとそばにいるから、少しだけ勇気を出せるか?」「……うん。辰くん、がんばって注射する。だからパパ、夜は一緒に寝てくれる? ママが、明日は辰くんの五歳の誕生日だって言ってた。朝起きたら、パパが隣にいてほしいの!」男の大きな手が、男の子の頭を優しく撫でる。「ああ。パパが約束しよう」「ありがとう、パパ! パパ大好き!」男の唇が、優しく弧を描く。「パパも、辰くんのことが大好きだぞ」子供の無邪気で甘えた声。男の忍耐強く、愛情に満ちた声。その一言一言が、咲良の心を引き裂く刃となった。五歳の誕生日。あの男の子は、もう五歳だというのか。見えない大きな手で心臓を握り潰され、引き裂かれるような感覚だった。胃の奥から強烈な吐き気が込み上げてきた。咲良は口を覆い、たまらず背を向けると、廊下の隅のゴミ箱に顔を突っ込んで激しくえずいた。「オエッ……! ゲホッ……」その激しい音に、男の子が反応した。角の方を振り返り、無邪気に指を差す。「パパ、あそこにいるおばちゃんも病気みたい。すごく苦しそうだよ」圭吾の眉間にシワが寄った。その苦しげにえずく音を聞いて、なぜか胸の奥がざわついたのだ。彼は男の子を抱き上げ、様子を見に行こうと立ち上がった。その時――背後から、慌ただしい足音が近づいてきた。「圭吾さん!」圭吾は足を止め、声の主を振り返った。ゴミ箱の陰でえずいていた咲良の動きも、ピタリと止まる。その声は――あまりにも、聞き覚えがありすぎた。ビジネススーツ姿の女が圭吾の前に駆け寄り、焦った様子で男の子の真っ赤な頬に触れた。「先生はなんて?」「体内に炎
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第3話
琴音は咲良の言葉を信じられず、自らの目で確かめるため一緒に『フォレストガーデン』へやって来た。 白いパナメーラは、昨日と同じ木陰に停められている。車内。助手席に座る琴音は、目の前の豪邸を指差して言った。「この外観……あなたと御堂さんの愛の巣に『似てる』なんてレベルじゃないわね。そっくりそのままじゃない!」言い終えてから、しまったというように口を覆い、恐る恐る咲良の横顔を窺う。咲良は無表情のまま、ただ窓の外をじっと見つめていた。「昨日、法律をいろいろと調べ直したわ。配偶者がいると知りながら同居し、夫婦同然の生活を送る。これは極めて悪質な不法行為よ。私は圭吾を一銭も渡さずに追い出すだけじゃない。紬も徹底的に訴えて、二人の社会的に抹殺するつもりよ」「ずいぶんと勉強したのね……」琴音は咲良の揺るぎない瞳を見て、小さく呟いた。「でも、咲良。それには二人が同居しているという、決定的な証拠が必要よ」「そんなの、難しいことじゃないわ。証拠なら目の前にあるじゃない」咲良の声は氷のように冷たかった。琴音はまだ困惑した顔をしている。「でも、何かの間違いじゃない? 御堂さんは確かに冷たいところはあるけれど、あなたには優しかったじゃない。あんな人が、そんな……」「琴音」咲良はゆっくりと視線を琴音に向けた。「実は昨日まで、私もあなたと全く同じ考えだったの。圭吾が冷淡な性格なのは知っていた。でも、私は彼を愛していた。自分で選んだ夫だから。この五年間、子供を失って情緒不安定だった私を彼が疎ましく思っていると気づいていても、一度も彼を恨んだことはなかったわ。すべては自分が悪いんだと言い聞かせて、必死に立ち直ろうと努力してきた。……でも、まさか私が双子を失って絶望のどん底にいたあの時期に、彼がすでに紬との間に子供を作っていたなんて、思いもしなかった」咲良の声は凪のように静かだった。愛も恨みも、すべては昨日のうちに死に絶えてしまったかのようだ。心が完全に死に絶えると、こんなにも冷徹になれる自分がまるで別人のように思えるほど、人間は自分でも恐ろしいほど冷静になれるらしい。琴音は言葉を失い、ただ呆然と咲良を見つめた。咲良は窓の外を指差す。「見て。あそこで今、お祝いをしているわ。今日はあの男の子の、五歳の誕生日なんだって」琴音はハッとして振り返っ
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第4話
「パパ、聞いてる?」辰は圭吾の手をぶんぶん振った。「辰くん、チョコレートケーキが食べたいの!」圭吾は咲良から視線を逸らし、足元の辰を見下ろして低く落ち着いた声で言った。「熱が下がったばかりだろう。まだチョコレートは駄目だ」辰はあからさまにしょんぼりして、唇を尖らせて黙り込んだ。圭吾はその小さな頭をポンポンと撫でる。「風邪が完全に治ったら、パパがまた買ってやるから」「……うん、わかった!」辰は素直に頷き、駄々をこねることはなかった。そしてすぐにショーケースを指差して声を弾ませた。「じゃあ今日は、ママが一番好きなイチゴのケーキを一つ買って帰ろうよ!」「ああ、そうだな」圭吾は短く応じると、店員にショートケーキのテイクアウトを頼み、スマホで会計を済ませた。その間、彼はただの一度も咲良の方へ視線を向けることはなかった。咲良は席に座ったまま、瞬きもせずにその光景を見つめていた。子供をなだめる圭吾の姿は、ひどく忍耐強く、優しさに満ちており、まさに非の打ち所のない「理想の父親」そのものだった。――もし私の子供たちが生きていたら、彼もあんな風に優しく微笑みかけてくれたのだろうか?以前の咲良なら、すぐに席を立ち上がって彼の前に飛び出し、問い詰めていたはずだ。しかし、今の彼女はそんな真似はしない。彼の「徹底した無視」こそが、咲良に対する最も残酷で明確な答えだったからだ。辰という名のあの小さな男の子が、圭吾の父親としての愛情をすべて独占している。彼はとっくに亡くなった双子のことなど忘れ去り、新しい家庭と新しい子供を手に入れ、もはや咲良の知る「良き夫・御堂圭吾」ではなくなってしまったのだ。二人の結婚は、すでに中身のない腐りきった残骸に過ぎない。今さら何を問い詰め、どれだけ罵り合ったところで、何の意味もない。ただ、あの子供をこれほどまでに慈しむ夫の姿を見せつけられて、恨まないでいられるはずがなかった。無念のうちにこの世を去った自分の子供たちを想うと、血の涙が流れるほど悔しかった。一体どうして、彼はあんなにも平然としていられるのか。咲良の胸中で渦巻く怨念に、圭吾は気づく素振りすら見せなかった。彼は片手にケーキの箱を提げ、もう片方の手で辰と手を繋いでカフェを後にした。すらりと背筋の伸びた長身の男の隣で、辰が
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第5話
小島紬は、ハイブランドの仕立ての良いパンツスーツに身を包んでいた。細身のスタイルに、アッシュブラウンの長い巻き髪を揺らし、ピンヒールを鳴らして悠然と歩いてくる。斜め後ろを歩く若い女性アシスタントに軽く首を傾けて何かを指示するその姿は、いかにも「やり手の女性経営者」といった風格を漂わせていた。確かに今の紬には、男を惹きつけるだけの十分な洗練と魅力が備わっている。指示を終えて前を向いた瞬間、紬の視線が大門の前に立つ咲良と不意に合った。ピタリと足が止まり、彼女の眉間に微かにシワが寄る。まさか咲良が直接会社に乗り込んでくるとは思わなかったのだろう。いや、これほど早く行動を起こすとは予想していなかったのかもしれない。だが、紬はすぐに冷静さを取り戻した。この五年間、咲良は子供を失った悲しみで完全に廃人となり、会社の経営など一切放置してきたのだ。『S&Kジュエリー』に、もはや結城咲良の居場所などない。そう高を括り、紬は優雅な足取りで大門へと歩み寄った。二人の警備員は紬の姿を認めるなり、露骨なまでに媚びへつらう笑みを浮かべ、深く頭を下げた。「小島副社長! お疲れ様です!」紬は警備員たちを一瞥した。「どうしたの?」一人の警備員が、手を揉みながら言い訳をする。「それが、こちらの女性が社内に入りたいと仰るのですが、どう見ても部外者なので、現在身元を確認しておりまして!」それを聞いた紬は、自らは直接言葉を発することなく、横に控えるアシスタントの小林にチラリと視線を送った。小林は紬の腹心であり、その一瞥だけで主の意図を完璧に察した。「そこのあなた、どう見ても業界関係者には見えないんだけど?」小林は一歩前に出ると、痩せこけて顔色の悪い咲良を上から下まで見下し、あからさまな嘲笑を浮かべた。「おばさん、ここは国内でもトップクラスのジュエリーブランドの本社よ。スーパーの特売会場と間違えてない?」咲良は冷ややかな目で小林を見据えた。――紬は、こんな下っ端の三文芝居で私の心を折ることができるとでも思っているのか?咲良は小林の挑発など完全に無視し、真っ直ぐに紬を見据えて、ふっと冷笑を漏らした。「小島紬。飼い犬に手を噛まれるのは心外だけれど、飼い主を噛んだ犬には、それ相応の痛い躾が必要みたいね」紬の顔色が一瞬、サッと
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第6話
以前の咲良なら、すぐに彼の前に飛び出して問い詰めていたはずだ。しかし、今の彼女はそんな真似はしない。彼女は『フォレストガーデン』で、圭吾がどれほど紬とあの隠し子を溺愛しているか、この目でしっかりと見てきた。圭吾は変わってしまった。いや、これが彼の本性なのだろう。仮にこの先、二人の間に再び子供ができたとしても、もう決してあの頃には戻れない。心も体も薄汚れた男など、こちらから願い下げだ。だが、ただ大人しく身を引いてやるつもりはない。紬とあの隠し子だけが得をするような結末は、絶対に許さない。咲良は氷のような顔で歩み寄り、圭吾の向かいの席に腰を下ろした。出されたスープには目もくれず、ただ冷ややかに圭吾を睨みつける。「圭吾。あの会社は、私が手塩にかけて創り上げたものよ。私の許可もなく、紬に株を渡すなんて絶対に認めない」彼女の声は、どこまでも冷酷だった。「無駄な言い争いをする気はないわ。有責配偶者はあなたよ。私たちは離婚する。御堂グループの元々の資産はともかく、私たちが結婚前、あるいは結婚後に共同で築き上げた資産は、一円残らずすべて私がもらうわ」一息にそこまで言い切った咲良の瞳には、かつてのビジネスの最前線で戦っていた頃の、鋭い光が宿っていた。圭吾はふと、商戦の泥沼で自分と肩を並べて戦ってくれていた、あの頃の妻の姿を思い浮かべた。だが、五年の歳月はあまりにも多くのものを変えてしまった。圭吾は表情一つ変えず、箸で牛肉の炒め物を一つ摘み、咲良の前の空の茶碗にコトリと置いた。「食事中に話すことではないな。お前が腹を立てているのは分かるが、漢方の先生も言っていただろう。三食は決まった時間に摂りなさいと。この数ヶ月の努力を無駄にする気か」茶碗の中の牛肉を一瞥し、咲良は鼻で笑った。「今のあなたの顔を見ているだけで吐き気がするの。とてもじゃないけど、喉を通らないわ」圭吾の手がピタリと止まり、ゆっくりと伏せていた目を上げた。視線が交差する。男の漆黒の瞳には、微かに苛立ちの色が滲んでいた。咲良は一歩も引かず、その視線を真っ向から受け止める。妥協や弱音など、微塵も見せない。真実を知ったその瞬間から、彼女はもう二度と妥協はしないと誓ったのだ。凍りついた空気の中、まともな食事ができるはずもなかった。圭吾は箸を置
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第7話
圭吾が家に帰ってこなかった三日間、咲良は決してただ泣き暮らしていたわけではない。彼女はこの家にある「自分のもの」を徹底的に整理し始めた。自分に属するものは、一つとしてこの家には残さない。すべてを丁寧に梱包し、引越し業者を手配して次々と運び出させた。その異常な光景を見て、家政婦の麗さんは、咲良が単なる夫婦喧嘩の腹いせでやっているのではないことを悟り、慌てて圭吾に電話をかけた。しかし、圭吾は電話に出ない。仕方なく麗さん自身が咲良を必死に説得しようとしたが、咲良の決意は鉄のように固く、聞く耳を持たなかった。四日目の朝。キャリーケースを引いて二階から降りてきた咲良を見て、麗さんは血相を変えて駆け寄った。「奥様、そ、そのお荷物は……どこかへお出かけになるのですか!?」「麗さん。この数年間、本当にお世話になりました」咲良はバッグから分厚い封筒を取り出し、麗さんの手に押し付けた。「私が心を病んで部屋に閉じこもってばかりいたせいで、あなたにはずいぶんと苦労をかけたわね。これはほんの気持ちで、受け取ってください」「と、とんでもございません!こんな大金、受け取れません!」麗さんは激しく手を振り、泣きそうな顔で訴えた。「奥様、夫婦ですから時にはぶつかることもあります。でも、旦那様は奥様を本当に大切に思っていらっしゃいます。どうか、一時的な感情で早まった真似はなさらないで……」「麗さん、これは当てつけなんかじゃないの。私は、もうこの家を出ることにしたの。あなたも、どうか元気でね」そう言い残し、咲良はキャリーケースを引いて振り返ることなく玄関へ向かった。「奥様! 奥様、お待ちください! このお金――」麗さんが封筒を握りしめて外へ飛び出した時には、すでに咲良は迎えに来ていた真っ白なスポーツカーの助手席に乗り込んでいた。甲高いエンジン音を響かせ、スポーツカーは猛スピードで走り去っていく。麗さんは震える手でスマホを取り出し、圭吾にメッセージを打った。『旦那様、大変です!奥様が、家を出ていかれました!』三十分後。白いスポーツカーは、都心の一等地にある超高級タワーマンション『グラン・エクリプス』の地下駐車場に滑り込んだ。ここは、咲良が結婚前に自分名義で購入していた不動産の一つだ。最上階のペントハウスで、専有面積は三百平
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第8話
紬が小林を引き連れてドアを押し開けたとき、ちょうど紗月が机の上にあった紬のネームプレートをごみ箱へ放り投げるところだった。咲良はデスクの後ろにある大きな窓の前に立ち、背を向けたまま、悠然と街の景色を見下ろしている。紗月はパンパンと手を払い、怒りを滲ませる紬の視線を受け止めた。「目障りなゴミがあったから、ついでに片付けてあげたわ。お礼はいいわよ」紬の顔が険しく沈む。「ここは会社です。あなたたちがふざけていい場所じゃありません!」咲良がゆっくりと振り返り、氷のような眼差しで紬を射抜いた。「紬。私は『お掃除』をしに来ただけよ。この会社にへばりついた不浄なゴミを、根こそぎね。このオフィスも、この椅子も、そしてこの会社そのものも、最初からあなたのものだったことなんて一度もない。私が戻ってきた以上、あなたはさっさと自分の身の丈に合った場所へ失せなさい」完璧にメイクされた紬の顔が、怒りのあまり微かに歪む。だが、彼女はすぐに冷静さを取り戻した。オフィスのドアは開いたままで、外では秘書課の社員たちが興味津々でこの修羅場を覗き見ている。紬は目を細め、わざと外に聞こえるような大きな声で咲良に語りかけた。「咲良さん、誤解しないでください。私はあなたから会社を奪おうなんて思ったことは一度もありません。でも、この五年の間に会社は大きく成長しました。圭吾さんからも、あなたがこの五年間ずっと薬を服用して療養中だと聞いています。私と圭吾さんは、今のあなたの精神状態で経営に携わるのは無理だと判断しただけです。たとえ私が病床に伏ていたとしても、それがあなたの恩を仇で返すような横取りや、居座りを正当化する理由にはなりません!」咲良はオフィスの外を一瞥し、冷たく鼻で笑った。「わざわざ圭吾の名を出して私を脅かそうとしなくていい。私にしてみれば、あなたもあいつも同じ。まとめて掃除されるべきゴミに過ぎないのよ」紬は眉をひそめた。「咲良さん。辰くんの存在がショックなのは分かります。私だってあなたのお気持ちを思えば胸が痛みます。でも、それはあくまで私的な問題でしょう。個人的な感情を会社に持ち込んで騒ぎ立てるのは、大人としてどうなのでしょうか。そんなことをしては、圭吾さんの立場もなくなってしまいます」「その通りです!」紬の後ろから小林が飛び出し、咲
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第9話
「誰が解雇するなんて言ったの?」咲良は冷たく微笑んだ。「五年前、あなたをチーフデザイナーから副社長に引き上げたのは私よ。私が戻ってきた以上、元のポジションにお戻りなさい」「納得できません!」紬は食い下がった。「この五年で私がどれだけの利益を会社にもたらしたと思っているんですか! 何の権限があって私を降格させるんです!」「私の決定に不服なら、自分から辞表を出しなさい」咲良は紗月にチラリと視線を送った。意図を察した紗月は、パンパンと手を叩いて紬と小林を追い払いにかかった。「はいはい、お帰りください。ここは結城社長のオフィスよ。次からは入る前にちゃんとノックしなさいよね!」「きゃっ!」紗月に乱暴に押し出され、紬はよろけた。足首が捻れ、走る痛みに息を呑む。「小島副社長、大丈夫ですか!?」小林は慌てて紬を支え、紗月に向かってヒステリックに怒鳴りつけた。「あなた、一体どういう神経してるの!? いきなり暴力を振るうなんて……」パァァンッ!強烈な平手打ちが、小林の頬にクリーンヒットした。小林は吹っ飛ぶように床に倒れ込んだ。口角が切れ、打たれた頬は瞬く間に赤く腫れ上がっていく。彼女は自分が殴られたことに気づくと、火がついたように痛む頬を押さえて泣き叫んだ。「副社長! あいつら完全に狂ってます! こんな野蛮な人たちに会社を任せたら、絶対に会社が潰されますよおぉぉ!」紬は怒りに顔を真っ赤にして紗月を睨みつけた。「どうしてこんな暴力的なことを!」「この女が『暴力を振るった』って濡れ衣を着せるから、望み通りに殴ってあげただけよ!」紗月は平手打ちをした方の手首をぐるぐると回し、鋭い眼光で紬を射抜いた。「どう?あんたも一発お見舞いしてほしい?」「あなた……!」紬は紗月の殺気立った目に怯え、思わず一歩後ずさった。紗月は身長172センチの長身で、さっき小林に食らわせたビンタも強烈だった。明らかに護身術か何かの心得がある。ここで正面からぶつかるのは得策ではない。紬は屈み込み、泣きじゃくる小林の肩を抱いた。「小林さん、大丈夫? まずは医務室へ行って手当てをしましょう」「ううっ、小島副社長……っ。あいつら酷すぎます!傷害罪で警察に訴えてやります!」「とにかく、今はここを出ましょう」紬は深くため息をつき、いか
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第10話
午前十一時。圭吾が会議を終えて出てくると、補佐の韮沢が足早に近づき、声を潜めて報告した。「社長、奥様がお見えです」圭吾の足が止まった。「……どこにいる?」「社長のオフィスでお待ちです」圭吾の端正な眉が、ピクリと動いた。あの日、家で大喧嘩をして以来、彼は頭を冷やすためにそのまま海外出張へ向かった。その間、咲良からの電話は一度もなかった。これまでの喧嘩なら、彼女は必ず家から電話をかけてきて「帰ってきて」と急かしたものだが、直接会社に乗り込んでくるのはこれが初めてだ。「……様子はどうだった?」少しの躊躇いの後、圭吾は低い声で尋ねた。韮沢は、今朝見た咲良の姿を思い返して答える。「とてもご機嫌がよろしいように見受けられました。髪型も変えられて、メイクもされていて……大変お綺麗でした」それを聞き、圭吾の眉間のシワが微かに緩んだ。どうやら、咲良もようやく頭を冷やし、考え直したらしい。彼女は「仲直り」をしに来たのだ。親の反対を押し切ってまで、当時何も持っていなかった自分を選んだ彼女だ。俺を愛していないはずがない。離婚など、本気でできるわけがないのだ。そう結論づけ、圭吾の薄い唇に微かな笑みが浮かんだ。「分かった」彼の声は低く、相変わらず淡々としていたが、その実、少し弾んでいた。「いつもの店で、妻の好物の塩キャラメルケーキを買ってこい」「かしこまりました」オフィスの重厚なドアが開かれ、完璧にスーツを着こなした圭吾が中へ入ってきた。ソファに座っていた咲良は、彼の姿を認めるなりゆっくりと立ち上がった。その目は赤く血走り、彼を真っ直ぐに睨みつけている。圭吾はまず、彼女の新しい髪型に少し驚いた。「髪、切ったのか?」咲良はその言葉を無視した。彼女の脳内では、先ほど紬から聞かされた衝撃的な言葉が、呪いのように木霊している。『咲良さん、あの時の誘拐事件で、双子の赤ちゃんはどうなったか知っていますか?』『遺体は戻ってこなかったんですよ。爆発に巻き込まれて、跡形もなく消し飛んだんです。圭吾さんがお墓に入れたのは、ただの石ころです』必死に保とうとしていた理性が、限界まで軋みを上げていた。「圭吾。あなたに聞きたいことがあるの」彼女の声はひどく掠れていた。言葉を発するたびに目頭が熱くなり、溢
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