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第0786話

Author: 十六子
彼女の胸の痛みは、言葉にできないほどの苦しみを伴っていた。

なぜ……ただ愛する人と平穏な生活を送りたいだけなのに、それがこんなにも難しいのか。

瞬は遥の部屋に戻り、フロア一面の窓のそばに立ち、去っていく瑠璃の背中を見つめていた。彼の関節がはっきりとした指には、再び遥の髪紐が巻きつけられており、その瞳は徐々に深みを増していった。

「千璃と隼人を応援してやれって言ったよな?でも、俺は嫌だ。もし止めたいなら、出てきて止めてみろ……聞こえてるのか?」

彼は髪紐を見つめながら命じるように呟いた。だが、返ってきたのは不安に鳴る自分の心音だけだった。

凍てつく冬の夜、再び雪が降り始めた。

瑠璃は風呂を終え、静かにベッドの上で横になっていた。

頭の中には瞬のところで見たリアルタイム映像と、彼の脅しの言葉ばかりが浮かんでいた。

目を閉じても、どうしても眠りに就くことができなかった。

瞬……どうして彼は、あんなふうに変わってしまったのだろう。

心の中は悲しみに満ちていて、隼人がいつの間にか隣に来ていたことにも気づかなかった。彼がそっと唇の端にキスを落とした時、ようやく彼女は驚いて目を開けた。

すぐ目の前にある男の瞳は、妖しくも魅力的な光を宿し、深い愛情を湛えていた。

瑠璃は何かを言いかけたが、結局何も言えず、ただ静かに隼人を見つめ返すだけだった。

どうすればいい……この男との関係を、完全に断ち切るなんて。

もう……彼女にはできなくなっていた。

静まり返った空気、交差する吐息、それらが少しずつ彼女の心拍を乱していった。

「何を考えてる?」隼人がふいに口を開き、低くて心地よい声が耳元をかすめた。

「別に……」瑠璃は何気ないふうに言った。「明日の朝は君ちゃんを学校に送らなきゃいけないし、早く寝ましょ」

彼女は顔をそらし、それ以上彼を見ようとはしなかった。

「明日の朝は俺が君ちゃんを送っていくよ。君は早起きしなくていい。それに……たぶん、起きられないと思うし」

瑠璃は不思議そうに目を開いた。「なんで起きられないの?」

「それは……」隼人は言葉を途中で切り、そして唇を瑠璃の唇に重ねた。

そのキスのあと、彼は次第に、深く、沈んでいった。

これまでの長い年月、彼女とこうして穏やかに同じベッドで過ごしたことは一度もなかった。それが彼の心に残った、唯一の後悔
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