瞬はスマホを開き、その画面に瑠璃からの着信履歴があることに気づいた。彼女は別荘に残って陽菜と一緒にいたいと申し出てきたようだった。彼はそれを快く承諾した。帰路の途中、瞬は春奈の身辺資料を受け取った。どの情報も一見、何の問題もなさそうだった。だが、瞬の漆黒の瞳は、それを鵜呑みにしてはいなかった。かつて彼は、瑠璃のために新しい身分を作り上げた。ならば、今の隼人にだって遥のためにそれをやれるはずだった。だが納得がいかなかったのは、隼人と遥に一体どんな繋がりがあるのかということ。そもそも隼人が、遥を助ける理由などあるはずがない。けれど——もし、それが事実なら。彼は心から嬉しく思った。なぜなら、彼女がまだ生きているという証だから。瞬は手首に巻いていた髪ゴムを手に取ると、指に絡ませてじっと見つめた。唇には深い笑みが浮かんでいた。——遥、もうすぐ会える。別荘。瑠璃は焼きたてのケーキを眺めながら、嬉しそうに食べる陽菜を見守っていた。そんなとき、瞬が帰宅した。陽菜はぱっと顔を上げ、にっこりと笑って声を上げた。「パパ〜!」瞬は春の陽光のような微笑みを浮かべて近づき、陽菜の小さな頭を優しく撫でた。かつて瑠璃も、この光景を心から温かいと感じていた。だが瞬の本性を知った今となっては、この穏やかな情景さえもどこか偽りに見えた。瞬の表はいつも紳士的で優雅だが、その裏では冷酷非道で、誰よりも深い計算をめぐらせる男だった。「パパ〜、陽ちゃんね、ママと一緒にお出かけしたいの。ずっとここにいるのは嫌なの。誰も遊んでくれないし、君お兄ちゃんと遊びたいよ。パパ、いいでしょ?」陽菜は瞬の手を握り、大きなガラス玉のような澄んだ瞳でお願いした。瞬は、先日勤を車で連れ去った人物の顔を思い浮かべたあと、穏やかに微笑んだ。「もちろんいいよ。でも君お兄ちゃんはここにはいないから、ママと一緒に出かけようね」彼は優しく瑠璃に目を向けた。「千璃、明日は陽菜を連れて外に遊びに行ってあげて」瑠璃は一瞬、自分の耳を疑った。「本気で言ってるの?」「君にいつだって本気だよ」瞬は彼女の前まで来ると、静かに言葉を続けた。「もう君が陽菜に会うのを制限したりしない。君が俺と約束した通り——隼人の元へ戻らない限り、君はいつでも陽菜と
瑠璃は陽菜を抱き上げて家の中へ入ったが、お腹にはもう一人小さな命がいるため、長く抱いていることはできなかった。彼女は小さな頬にキスを落としながら言った。「陽菜、ママ、今からケーキ作るわ。陽菜もお手伝いしてくれる?」「うん、する〜!」小さな陽菜は水晶のように澄んだ大きな瞳をキラキラさせながら、瑠璃のあとをついてキッチンへと向かった。遠くの車の中で静かに座っていた隼人は、瑠璃が子供を抱き上げて家に入るのをはっきりと目にしていた。そして、瑠璃の顔に浮かぶあの穏やかな笑顔——それが心からの喜びに見えた。かつて、彼女は自分にもあんな笑顔を見せてくれていただろうか。隼人はハンドルを握る手に力を込め、指が一つ一つ強張っていく。瞳の奥では、嫉妬の炎が激しく燃え盛っていた。「……やっぱり、俺の勘違いだったんだな。自惚れてただけか。今、君が一番愛してるのは、あいつなんだな」――ブーッ、ブーッ。スマホが震えると、隼人はすぐに電話を取った。助手の勤の声が電話越しに響いた。「目黒社長、今さっき三号街の倉庫に着きました。目黒瞬も来てます。どうやら誰かに商品を渡すようです」「目を離すな。今すぐ向かう」隼人は電話を切り、鋭い眼差しで遠くの別荘をもう一度見つめた後、車のハンドルを切った。その頃、瞬は倉庫に到着し、商品を一つ一つ確認していた。「目黒様、黑江堂の奴ら、どんどん図に乗ってきてますよ。今度は裏市場の取り引きまで奪おうとしてる。こっちも一発、見せつけてやらないと!」部下のサイコロが怒りを滲ませながら口を開いた。「そうっすよ。目黒様が千璃さんと景市に戻ってた間に、南米の取引を横取りされて、10億も損しました!」「もう好き勝手はさせられませんよ。目黒様はしばらくここにいて、現場を締めてもらわないと。あの連中を抑えられるのは目黒様しかいません」瞬は黙って話を聞いた後、コンテナから銃を取り出してじっと眺め、やがて静かに口を開いた。「このロット、しっかりチェックして、警備を強化しろ」銃を置いた彼の顔には、普段の紳士的な雰囲気とは正反対の冷酷な表情が浮かんでいた。「10億の損失……取り返してやる。お前らは自分の仕事だけしっかりやれ」「了解しました、目黒様!」部下たちは一斉に返事をした。瞬はその場にいた、
「F国にいた数年で、彼はかなりの勢力と資産を築いてきた。その裏には表に出せない取引があるかもしれない」隼人の言葉に、春奈の顔色が一気に変わった。「そんなはずない……彼が違法なことをするなんて」「今になってもまだ信じてるのか?あいつが一線を越えたこと、これまで何度もあっただろ?」隼人の反問に、春奈は言葉を失った。彼女はぼんやりと立ち尽くし、目にじわじわと涙が滲んでいった。「一番ひどく傷つけた相手にこそ、一番輝く笑顔を向けるべきなんだ」そう言いながら、隼人は眉をわずかにひそめ、口を開いた。「碓氷千璃が俺にしたように……容赦なく復讐するんだ」……瞬はF国からの電話を受けた直後に、すぐ帰国の航空券を手配していた。もちろん、瑠璃を景市に一人残すことはせず、その夜のうちに彼女を連れてF国へ戻った。彼は部下に瑠璃を陽菜の元へ案内させ、自分は急ぎの用事でその場を離れた。瑠璃は小さな額に残る傷跡を見つめながら、胸が締めつけられるような思いだった。「ママ、陽ちゃん、君お兄ちゃんに会いたいな〜。あのカッコいいお兄ちゃんにも。毎日ここにいるの、飽きちゃったよ〜。ママ、いつ一緒にお出かけしてくれるの?」小さな陽菜は、純粋な瞳をぱちぱちさせながら、瑠璃を見上げた。「陽菜、いい子ね。ママ、今度時間を作って君お兄ちゃんと、かっこいいお兄ちゃんと一緒に遊ばせてあげる」「ほんと?」「ママが陽菜に嘘をつくわけないでしょ?」瑠璃は優しく見つめながら、陽菜のまるいほっぺに手を添えた。「でもね、陽菜、ママの言うことをちゃんと聞いてね。どんなことでも気をつけて。もう前みたいに転んじゃダメよ?」「うん!ちゃんと聞くよ!すっごくいい子になるから!」小さな体をぎゅっと抱きつけて、陽菜は瑠璃のほっぺにキスをした。「ママ、今夜もお話してくれる?」瑠璃はうなずいた。だが、今夜このまま泊まれるかどうかは、瞬次第だった。日はすっかり暮れ、瑠璃は瞬に電話をかけたが、誰も出なかった。「ママ〜、陽ちゃんね、ママの作ったケーキがすっごく食べたくなっちゃった〜。ママのケーキが世界で一番美味しいんだもん!」「じゃあ、ママすぐ材料買ってきて、陽菜のために作ってあげるね」「うんうんっ!」陽菜はにこにこと目を細めながら、瑠璃にしが
「一晩を共にした相手って……十分知り合いのうちに入ると思わないか?」瞬は意味深にそう問い返した。春奈は笑いながら首を振った。「一晩だけじゃ何も分かりませんわ。今の時代、一夜限りの関係なんて珍しくもないですよ?」「俺たちは一晩じゃない。何度も、夜を共に過ごした」瞬は声を低くしながら一歩前へと近づいた。その顔をじっと見つめるように視線を注いだその時、彼のスマホが鳴り響いた。着信を見た彼は、にこやかな笑顔を浮かべた。「宮本さん、ちょっと電話に出る。また話そう」「どうぞごゆっくり」春奈は彼の背中を見つめながら、笑顔を静かに消していった。礼拝堂の庭。瑠璃は壁に手をつきながら、止まらない吐き気に襲われていた。自分でも分からなかった。これは体調のせいなのか、それとも隼人と他の女が親しげにする姿を見た心理的な吐き気なのか。「俺たちの娘を死なせた男のために、そんなに苦労して妊娠までして……碓氷千璃、お前は一体何を求めてるんだ?」背後から隼人の冷えた非難の声が響き、瑠璃は彼が背後にいることに気づいた。彼女は拳を握りしめ、冷たく返した。「あなたには関係ない」「本当に関係ないなら、俺と他の女の婚約式なんか、見ていられないはずがない」「目黒さんって、本当におもしろい方ね。ただのつわりよ。空気を吸いに出てきただけ」瑠璃は淡々と否定した。「どうして目黒さんはいつも、私がまだあなたを気にしてると思い込んでるの?」「本当に気にしてない、悲しくもないっていうなら、こっちを向いて俺を見られるか?」「どうして、私が憎んでる最低な男の顔なんか見なきゃいけないの?」瑠璃は冷たく笑った。「あなたと婚約者の式も終わったことだし、私と瞬ももうここにいる必要はないわ」激しい吐き気に耐えながら、彼女は決然と礼堂の脇の扉へと歩いていった。彼の方を振り返るなんてできなかった。今、隼人と真正面から向き合ったら、彼女の目がすでに涙で濡れていることがバレてしまう。瑠璃はとにかく隼人の視界から一刻も早く出ようと急いだ。車が近づいてきたことにも、彼女は気づいていなかった。クラクションの音が聞こえた瞬間、彼女の腰に温かくて力強い腕が回された。隼人が彼女をしっかりと抱きしめ、安全な場所へ引き寄せたのだ。彼の腕はまるで、
「目黒夫人は、俺のキスを期待してたのか?」「……」「残念だけど、今の俺がキスするのは、心から愛してる女だけだ」その言葉には皮肉が混じっており、彼の目にはふざけたような軽い嘲りが浮かんでいた。瑠璃は胸が締めつけられる思いだったが、表情一つ変えずにふっと唇を上げた。「あなたのキスを期待してたって? ただ、あなたの芝居に合わせてあげただけよ。隼人、私がまだあなたを愛してるって、まだ忘れられないって言ってほしいんでしょう? 残念だけど、あの頃どれだけ愛してたか、今はそれ以上にあなたを憎んでるわ。分かった?」軽く笑って視線を逸らすと、彼を避けるようにしてきっぱりと背を向けた。隼人の宙に浮いたままの手はそのまま止まり、顔に浮かべていた微笑みも瞳の光も、徐々に色を失っていった。……時は静かに過ぎ、気づけば土曜日。瑠璃は上品で落ち着いたドレスに身を包み、瞬の腕に手を添えて、隼人と春奈の婚約式の会場を訪れた。盛大なパーティーを想像していた彼女だったが、思いのほか会場は人が少なかった。彼女と瞬以外に、来賓の姿は一人もなかったのだ。「私はあまり賑やかなのが好きじゃないんです。だから婚約式もシンプルに」春奈は微笑みながら説明した。「隼人が言ってくれたんです。彼の人生で一番大切な人は目黒さんと目黒夫人だって。だからこの婚約式にはお二人が必要だって」瞬は穏やかに笑みを浮かべた。「隼人がそう言うなら、千璃と一緒にしっかり見届けさせてもらうよ」彼がそう言い終えたとき、運転手が礼堂の入口から急ぎ足で入ってきた。その男が瞬の耳元で何かをささやくと、瞬の表情が少し変わった。「千璃、ちょっと電話しないといけない」「うん」瑠璃は愛想笑いを浮かべて頷き、一人で静かに席に座った。ウェディングドレス、ブーケ、そして彼——目の前の光景は、瑠璃の心に過去の記憶を呼び起こした。スーツ姿で颯爽とした彼は、かつて彼女と指を絡めながら「愛してるのは君だけだ」と言ってくれた人だった。だが今は、別の女性の手を愛しげに握り、その女性と婚約式を挙げている。互いに誓いを交わし、指輪を交換し、最後に彼の顔が彼女に近づいて、口づけをした。瑠璃は顔をそむけた。その瞬間を見たくなかった。そのせいか、あるいは感情の昂ぶりからか、彼
目の前の彼女が眉をひそめる様子を見て、隼人は口元を緩めた。「俺がおばさんをからかうなんて、そんなことするわけないだろ?」彼は彼女のそばに歩み寄った。「会議ならもうとっくに終わってるよ。ただ、おばさんが気持ちよさそうに寝てたから、邪魔しない方がいいかなと思って」「……」そう言われると、瑠璃はなんとなく自分が悪かったような気がしてきた。ぼんやりしている瑠璃を見て、隼人は彼女が抱えているブランケットに目をやった。「おばさん、誤解しないでね。このブランケット、俺がかけたわけじゃない。フロントの人が勝手にやったことだから、俺とは関係ない」彼はきっぱりと自分の関与を否定し、彼女への未練や気遣いなど微塵も見せなかった。瑠璃はブランケットの下で手をぎゅっと握りしめ、微笑んだ。「じゃあ、完全に私の誤解だったのね。それなら、目黒社長、お時間のご都合を教えてください。これ以上この案件で時間を無駄にしたくないので」「目黒グループには他にジュエリーデザイナーがいないの?なんで社長夫人が妊娠中なのに、こんなに忙しく動き回らなきゃいけないのか?」「会社のことは瞬のこと、そして瞬のことは妻である私のことでもあるの。夫のために頑張るのは、私にとって喜びよ」瑠璃は落ち着いた様子で答えた。その言葉に隼人の目がわずかに変化した。「おじさんがこんなにいい奥さんを持ってるなんて、羨ましいよ」そう言いながら、彼の整った顔がふいに彼女の近くに寄ってきて、低く響く声が瑠璃の耳元をかすめた。「ねぇ、もしあの時、俺がちゃんと大切にしてたら、今の君は俺のために走り回ってくれてたのかな?俺のこと、想ってくれたりしてた?」瑠璃の心は一瞬で揺れ動き、どう返していいか分からなくなった。「碓氷さん、明日の朝九時、俺のオフィスで待ってる」隼人はその一言だけを残して、振り返ることなく立ち去った。瑠璃は、自分でもなぜわざわざ苦しみに行ったのか分からなかった。翌日、彼女は時間通りに隼人のオフィスを訪れた。驚いたことに、そこには春奈もいた。隼人はすべての判断を春奈に任せ、瑠璃は彼女の好みに合わせて、その場でデザイン画を仕上げた。春奈はスケッチを見ながら、満面の笑みを浮かべた。「さすが目黒夫人、業界で有名なデザイナーだけありますね。このデザイン