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睫に降る雪
睫に降る雪
Author: イール

第1話

Author: イール
細川陽(ほそかわ よう)が最も貧しかった頃、四、五時間も歩いて私に会いに来た。

あの日はとても寒かった。

彼はほとんど凍えきっていて、まつげにまで雪が積もっていた。

その後、幾度となく喧嘩を重ねた夜、私はいつも彼のあの時のまつげを思い出した。

だから私は、喜んで仕事を辞め、遠くに嫁ぎ、妊活までしたのだ。

ついさっきまで。

私のブルートゥースイヤホンが、彼のスマホに繋がったまでは。

相手は言った。

「和泉楓(いずみ かえで)って、結構ピュアなんだね。

今でも知らないんでしょ?君があの夜彼女を選んだのは、汚れていないだったからか、それともただでできたからかなんて」

……

今年は雪の訪れが早い。

陽と最後に雪を一緒に見たのは、五年前だ。

街灯はぼんやりと黄色く光っている。

私が下に降りたとき、細かい雪が雨みたいに降っている。

あの時、陽は熱を出し、実家とも揉めていた。

真夜中に四、五時間も歩き、市の半分を越えて、ただ私に会うために。

雪は彼のまつげに落ち、すぐ溶けて小さな滴になった。

彼の頬は冷たく、全身が震えていた。

けれど、その抱擁は温かかった。

彼は今夜も残業で、夜更けになってもまだ帰ってこない。

私は手のひらに、陽性の妊娠検査薬を握りしめ、顔の笑みを抑えきれない。

イヤホンから雑音が聞こえる。

触ってみると、慌てて出てきた彼のものを間違えて持ってきたらしい。

「細川さん、もう家に着いた?

相当ヤバかったろ?けっこうやれるじゃん?家でずっと我慢してたんだろ?」

私が口を開こうとした瞬間、音はぱったりと止まった。

「和泉、なかなかピュアだよな、毎日せっせと滋養スープなんか煮てさ。

まったく、今でも知らないんだろ?君があの夜彼女を選んだのは、やる場所なくてムラムラしてただけだって。ただで汚れてないし、自分から来たんだから、やらない手はないってやつさ」

私は呆然とその場に立ち、イヤホンを抜き、指でこする。

この声にはとても覚えがある。

陽と知り合えたのも、林拓真(はやし たくま)のおかげだ。

結婚式では立会人まで頼んだ。

ここ数年、私たちが喧嘩するたびに、彼は双方をなだめ、陽をさんざんに罵ってくれたものだった。

胸の鼓動が激しく、立っているのもやっとだ。

それらの言葉は、真冬の骨まで凍る氷の破片のように、矢のように私の体を深く刺し貫いた。

何度か頭を強く叩いた後、私は背後から抱きしめられる。

ひんやりとした感触と、入浴後のヘアオイルの香りがする。

「楓、何ぼんやりしてるんだ」

陽は片手でスマホを持ち、もう片方で私をぐっと抱き寄せ、顎を私の肩にすり寄せる。

「外は風が強いのに、どうしてここに立ってるんだ」

彼は軽く笑った。

「もう若くもないくせに、まだ若い娘みたいに外で雪見してるのか?

聞きなよ、早く中に戻れよ」

彼のスマホ画面は明るいまま。

彼は私に隠し立てせず、私が見ていると、彼が見せつけるように振ってみせる。

「やきもち焼きさん、僕が毎日忙しい、君以外に連絡とってるのは、あいつだけよ。何を不安がってるんだ」

彼が拓真に付けた名は拓真だ。

ふと、私は思い出した。

私の欄には、番号だけ。

彼は当時、あまりにも慣れ親しんでいるから、メモがなくても番号は暗記していると言っていた。

しかし、彼は一度も私の電話に出たことはなかった。

いつだって、仕事で忙しいから。

またしばらく沈黙が続き、私は何を言えばいいのかわからない。

彼は私の手を握り、家へと歩き出し、私の手のひらに握りしめられたイヤホンを触る。

「これを持ってきてどうしたんだ?

そんな時間があるならしっかり休んで、ちゃんと体を整えて僕に子供を産んでくれよ」

妊娠検査薬は私の指先から落ち、かすかな音を立てる。

陽は気づかない。

彼はくるりと向きを変え、私に左側に来るよう合図する。

付き合って三年、結婚して五年、彼はいつも私を道の内側で歩かせてくれた。

いつも傾ける傘、料理の一口目、毎晩おやすみのキス。

彼が私を愛していない兆候には、まったく気づかなかった。

パキッ。

運悪く、彼はそれを踏みつけてしまった。

陽はちらりと見て、嫌そうに顔を歪め、妊娠検査薬を道端に蹴り飛ばす。
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