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破談前夜、偽装婚約者と一夜限りの愛を交わし
破談前夜、偽装婚約者と一夜限りの愛を交わし
Auteur: 水守恵蓮

第 1 話

Auteur: 水守恵蓮
last update Date de publication: 2026-02-10 13:37:18
暦の上ではとっくに秋とは言え、まだまだ残暑厳しい八月下旬。

私、深見ふかみ恵麻えまは、三ヵ月前から婚約者と同棲中の四つ年上の姉に呼び出され、東京の一等地に建つデパートの屋上にやってきた。ここは、夏季限定でビアガーデンを営業している。

店員に「待ち合わせです」と告げると、すぐに案内してもらえた。

午後七時ですでに盛り上がっている先客たちのテーブルの間を縫うように進むと、奥まったテーブルに、艶々の黒髪ロングストレートヘアの女性を見つけた。

姉の礼奈れなだ。妹の私は猫っ毛で、肩甲骨に毛先がかかる長さのゆるふわの髪を、茶色くカラーリングしている。

髪質の違いと同様、人見知りが強くて内向的な私とは性格も真逆で、姉は溌剌とした美人。

両親の期待を一身に背負って育った完璧な姉。

同じ親を持って生まれた姉妹でも、私とはあまりにも違う。

昔から目標にするのもおこがましい、憧れの存在だ。

「お姉ちゃん、お待たせ。急に呼び出すなんて、どうし……」

背後から近付く格好で呼びかける途中で、私は声をのんで固まった。

姉の対面に、男性が一人座っていた。

男性が姉より先に反応して、視線を上げる。

「お、来たか」

目が合った瞬間、私の胸がドキンと大きく跳ね上がった。

ヒラヒラと手を振って合図する彼につられたように、姉も私を振り返った。

「あ、恵麻。お疲れ様。ごめんね、仕事帰りに」

その場で足を竦ませて立ち尽くす私に、『おいでおいで』と手招きする。

私はその仕草で我に返り、胸元の服を握りしめた。

一歩ずつ慎重に近付き、テーブルの傍らまで行ったものの、席に着いていいものか躊躇ってしまう。

姉は、私が男性を警戒していると思ったのか、

「恵麻、これ、剣崎けんざきしゅん。覚えてない?」

ケロッとした顔で紹介してくれるけれど。

「久しぶり、恵麻」

「どっ……どうして、お姉ちゃんっ」

軽い調子で挨拶してくる彼を無視して、私は姉の隣の椅子に勢いよく腰を下ろした。

「ん?」

「ん?じゃないよ。なんでこの人と一緒にいるの?」

彼が私たちに注ぐ視線を気にして、姉に身を寄せながら小声で問い質す。

「そもそも、お姉ちゃんが覚えておく価値もないって言ったのに。覚えてる?ってなによ」

「そうだっけ?」

「忘れたの!? お姉ちゃん、言ったじゃない。『あの男に、有限の記憶領域を割く必要ないわよ。あんなやりチ……』」

十年ほど前、姉が言ったままを口にしようとして、その当時高校生だった私にはドギツすぎたワードを、辛うじてのみ込んだ。

真夏の金曜日、アフターファイブ。

星空の下のビアガーデンは、私と同じ仕事帰りのサラリーマンやOLのグループ客で、満席状態。週末を迎える開放感も手伝って、どの席も盛り上がっていて騒々しい。

他の席の会話なんか、耳に入りはしないだろうけど。

「酷いな、礼奈。そんな言い方してたの」

斜め前の彼には、のみ込んだ部分までしっかりはっきり聞こえたようだ。

「なにも恵麻に、そんな下品な言葉教えなくていいのに」

端整な小顔を引き攣らせて、姉を睨む。

「だって真実だもの。あ、すみません。生一つ追加で」

姉は軽く受け流し、通りがかったウェイターを呼び止め、勝手に私に生ビールを注文してから、

「私というものがありながら、他の女に目を眩ませたのは確かでしょ」

腕組みをして、真っ向から彼を見据える。

「…………」

彼は反論せず、口を噤んでひょいと肩を竦めた。

私は堪らない居心地悪さに身を縮め、平然と際どいやり取りをする二人を上目遣いで窺う。

剣崎瞬……姉の大学時代の元カレだ。

その当時、私たち家族は父の仕事の都合でロンドンで生活していて、彼は姉と同じ大学に留学中だった。

私と違い、華やかな見た目で社交的、それ故恋愛経験も豊富な姉が、『私が出会った中では史上最高のイケメン』と言い切ったほどのイケメン。

色素が薄く、茶色く癖のない髪はサラッとしていて、百八十センチ近い長身でスリムな体型。

世界のトップモデル並みの恵まれたスタイルで、本場ロンドンっ子顔負けの王子様のような人だった。姉がよくうちの夕食に連れてきていて、私も彼とは知り合いだ。

当然ながら、姉が彼と別れると同時に縁は途絶えた。

だから、私が彼と会うのはかれこれ十年ぶり。

現在三十歳の彼は男っぽさを増し、精悍な印象になった。

真夏でノーネクタイでもしっかりスーツを着ているせいか、大人の男の色香が漂う。

見知っている男性なのに初めて会う人のようで、人見知りの私は落ち着かない。

まっすぐ見られず、こっそり窺っていたのに気付かれたのか、彼が私の方を向いた。

意図せず正面から目が合ってしまい、私は反射的に身体を強張らせた。

「恵麻、綺麗になったね」

どうしてだか眩しそうに目を細められ、お世辞だとわかっていてもドキッとする。

私は慌てて彼から顔を背けた。

「お姉ちゃん、なんの用?」

彼には返事をせず姉に詰め寄り、今日の呼び出しの説明を急かす。

姉は、「ああ、うん」と相槌を打ち、

「とりあえず、乾杯しない?」

私の分の生ビールが運ばれてきたのを見て、呑気な提案をした。

二人がグラスを手に取るのを見て、私も仕方なく彼らに倣う。

「では、久しぶりの再会を祝して、乾杯っ」

姉の音頭で、申し訳程度にグラスを掲げた。

なにが『祝して』なんだか――。

私は豪快にグラスを傾ける姉に半分呆れながら、チビチビとグラスに口をつけた。すると。

「恵麻が酒飲んでる。新鮮だな」

斜め前からしみじみとした声が聞こえて、ぴたりと手を止める。

私は警戒心を露わに、彼に視線を向けた。

「ああ、ほら。恵麻はクリスマスも、シャンパンをちょっと舐める程度だったろ?」

「……いつの話よ」

懐かしそうに昔話なんかする彼への反発心がムクムクと湧いて、悔し紛れにグラスを呷る。

「あの時は高校生だっただけで。私も冬には二十七歳。立派な大人……」

「そうだな。もう恵麻も立派な大人だ」

からかうでもなく、しんみりした顔をされ、不覚にも口ごもった。

「十年前は、恵麻と酒飲める日が来るなんて、思えなかったからさ」

目を細めて感慨深げに言われると、ちょっと調子が狂う。

黙って俯く私の横で、姉がグラスを置いて頬杖をついた。

「恵麻」

名を呼ばれ、ハッと我に返る。

「お姉ちゃん。いい加減……」

「瞬と、同棲してみない?」

逸れた話題を元に戻そうと切り出したところに直球で返され、私は目を点にした。

「……は?」

「瞬と同棲してみない?って言ったの」

たっぷり二拍分の間を置いて聞き返すと、姉が律儀に繰り返す。

「……は?」

「俺と婚約してくれない? 恵麻」

二度言われても同じ反応の私に、彼が割って入った。

あまりに意味不明で、異次元の言語を耳にした気分。

私は放心して、彼に機械的に視線を流した。

彼は長い足を組み上げ、私の返事を小首を傾げて待っている。

斜めの角度から探る瞳が居心地悪くて、私は縋る思いで姉に視線を逃がした。

なのに、姉も彼と同じように、私の反応を探っているだけで――。

「ちょ……ちょっと待って」

混乱の局地に追い詰められ、私は顔に手を当てた。

「二人ともなに言ってるの? いったいなにを企んでそんなこと……」

二人揃って私をからかってるとしか思えない。

こんな悪い冗談のために、会社帰りに呼び出してきたのかと思うと、姉に対して怒りすら込み上げてくる。

「悪ふざけなら、私帰る」

ダンとテーブルに手をつき、立ち上がろうとすると。

「恵麻」

姉が手を重ねて私を止めた。

「悪ふざけでも冗談でもないの。ちゃんと説明するから座って」

「え……?」

私を見上げる姉の瞳が思いのほか真剣だったから、虚を衝かれた。

中途半端に腰を浮かせた体勢で固まり、おずおずと目線だけ動かすと、私をジッと見ている彼と視線が交差した。

目が合うのを待っていたかのように、彼はニコッと優雅に微笑み……。

「俺が日本にいる間。俺のフィアンセになってくれませんか?」

あの頃と変わらない王子様のようなスマイルで告げられた言葉は、ますます私を不可解な気分にさせた。
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