2
その後、私は彼……瞬君ではなく、姉から説明を受けた。
瞬君は仕事で急な呼び出しが入り、「悪い、礼奈。あと頼む」と、この場を姉に託して職場に戻ってしまったからだ。
彼の職場は、霞が関にある外務省。
ロンドンの名門大学を卒業後、日本で外交官になったそうだ。
三年前からロンドンの日本大使館に駐在していて、今は仕事で半月ほど前に一時帰国したところだという。
姉をも虜にしたあのルックスで、超難関のキャリア外交官が独身ときたら、周りが黙っちゃいない。
帰国して早々、上司から熱心に『是非娘の婿に』と口説かれたそうで――。
「上司だし無下にもできずに困り果てて、そろそろロンドンに呼び寄せたい女性がいて、この帰国中に同居開始するんですって言っちゃったんだって」
「言っちゃった、って……」
チョリソーをフォークに刺し、あっけらかんと話す姉に、私は頬を引き攣らせた。
姉の仕事は、フリーの通訳だ。
普段から外務省に出入りしていて、先日偶然彼と鉢合わせたという。
最低な別れ方をした相手なのに、『久しぶりにランチでも』と誘ったのは姉の方。
そうして、瞬君が抱える切実な問題を聞いたそうだ。
外交官は、各国の要人をもてなすレセプションやパーティーに出席するのも、職務のうち。ヨーロッパの社交会の流れを汲み、公式な場では男女同伴がマナーだそうで、瞬君が出席する機会もある。
その時一人では、嘘がバレる。
二人は彼の上司を穏便に欺くために、『ロンドンでの新婚生活前提の婚約者』を捏造して、実際に同居するしかないという結論に達した。
いろいろツッコミどころ満載だけど、ここまでは私も百歩譲って理解できる。
だけど。
「瞬君の偽物婚約者に自分の妹を差し出そうなんて、どうして考えられたかな、お姉ちゃん」
私は精一杯の嫌味を言って、二杯目のビールに口をつけた。
そう……聞くだけで目眩がする、とんでもない提案をしたのも姉の方だとか。
勝手にコマにされた妹としては、皮肉りたくもなる。
「自分史上最高のイケメンだろうがエリート外交官だろうが、その彼に浮気されてボロクソに振ったの、お姉ちゃんじゃない。なのに……」
「お互い三十代になったことだし。昔話に囚われて雁字搦めにされてちゃ、生産性ないってことよ」
パリッと小気味いい音を立ててチョリソーを齧る姉はやっぱり飄々としていて、私はツッコミを諦めて肩を竦めた。
まあ、当の本人がもう割り切ってるなら、妹の私がくどくど言うことでもない。
「それで? 話を聞く限り、上司の前でパートナーを装うだけでよさそう」
私はグラスをテーブルに戻し、枝豆を一つ摘まんだ。
「それなら、私じゃなくても。瞬君なら引く手数多だろうし、そのくらいの相手、簡単に見つけられるんじゃないの?」
口に咥えながら問うと、姉は立てた人差し指を左右に揺らして、小さく舌を鳴らす。
「相手は瞬の上司だよ? 付け焼き刃で騙されてくれるわけがない。嘘の通りに婚約者として一緒に暮らして、職場でも結婚秒読み段階を匂わせないと。それで、恵麻が適任だと判断したのよ」
勢い込んで身を乗り出して来られ、私は思わず背を引いた。
「だから、どうして……」
「恵麻なら、そう簡単に瞬になびかない」
「え?」
「普通の女じゃ、コロッと堕とされちゃうもの。それじゃダメなのよ。瞬はクリスマスにはロンドンに戻るんだから」
「あー……」
――そういうこと。
瞬君は日本にいる短い間、上司の目を誤魔化したいだけで、本当に結婚する気はないのだろう。
彼に心を乱さず惑わされず、約束の期日にすんなり清算できる相手ということなら……姉が私を適任と考えて当然だ。
どんなに見てくれがよくても、旦那様として申し分なくても、姉という恋人がありながら浮気した最低男だと知っている私なら、たとえ彼と一緒に暮らしても好きになったりしない――。
口車に乗せられて納得しかけて、私はブルッと頭を振った。
「でもっ……」
「それに、恵麻。お見合い結婚なんかしたくないでしょ?」
「っ、え?」
気を取り直して反論を再開しようとしたところに、突拍子もなく話題転換され、私は声をのんだ。
姉は悪戯っぽく目を細めて、頬杖をつく。
「この間、お母さんに相談されたんだけど。まだ聞いてない?」
「相談?」
なにか不吉な空気が漂い、怖々と聞き返した私に、「そ」とウインクした。
「恵麻、昔っから男っ気ないじゃない。やっと私が婚約して、お母さんも本気で心配になったみたいよ? 恵麻は結婚できるのかって」
「は……」
「お父さんの知り合いにいい人がいないか聞いてみるって言ってたから、そのうち話が来るんじゃないかなあ」
「なっ……」
唇に指を当て、目線を上げてうそぶく姉に、私は口をパクパクさせて絶句した。
確かに仰る通り、私は今まで彼氏というものがいたことがない。
大抵の男性は、姉と私が並ぶとまず姉に目を惹かれる。
わかりきっていても、一瞬の視線の動きに少なからずがっかりするし、瞬君と別れた後の姉を見ていてトラウマというか……恋や結婚に夢を抱けなくなったからだ。
確かに、こんな娘じゃ親は心配だろうな、とは思う。
だけどまさか、そんな強硬手段に出るとは――。
驚愕する私に、姉はクスッと笑った。
「話が来てからじゃ断りづらいでしょ? お母さんたちだって、恵麻自身が決めた相手と幸せになってほしいっていうのが本音なんだし」
「そりゃそうだろうけど……」
諭すように言われて、私は溜め息をついてから背筋を伸ばした。
「でも、瞬君の出張の間だけなんでしょ? あっという間に破談じゃ、むしろ心配させる」
「恵麻の場合、親に介入させないことが先決でしょ。安心させようだなんてまだ早い。一度でも結婚を考える人ができたってことにしておけば、婚約破棄して出戻っても、今後は余計なお節介はしないはず。偽装婚約の目的はそこ」
「う。そうかもしれないけど……相手が瞬君じゃ」
自信満々な姉に一応の同意をしながら、ぎこちなく目を逸らす。
「お父さんもお母さんも、瞬君がお姉ちゃんの元カレなのは覚えてる。別れた経緯だって……」
古傷を抉る話題は言いづらくて声を尻すぼみにすると、姉はしれっと「ああ」と相槌を打った。
「二人とも、瞬自身のことは気に入ってたから、そこは心配いらないと思うわよ? もう昔のことだし、当人の私が後押ししたって言えば、細かいことは気にしないわよ」
「……そうかなあ」
姉はどこまでも軽い調子だけど、私は疑わしく返事を濁した。
難しく眉をひそめる私に、姉が困ったように目尻を下げた。
「まあ……私の罪滅ぼしに恵麻を付き合わせるのは、心苦しくもある。本気でダメなら、無理は言えないんだけど」
「罪滅ぼし?」
私は、繊細なニュアンスを感じた言葉を反芻した。
「……うん」
姉はなにか含むように頷き、半分ほどビールが残ったグラスを持ち上げた。
どこか惰性的にゆらゆらと揺らすと。
「あの当時、家だけじゃなく大学でも、瞬のこと最低男って吹聴して回ったしね。その甲斐あって、残りの大学生活、瞬は新しい彼女作れなかった」
皮肉げに口角を歪め、ふんと鼻を鳴らす。
「……その時の浮気相手とは?」
姉らしくない自嘲的な表情に怯みながらも、私は好奇心で訊ねてみた。
姉は黙ってグラスを見つめ、ぐいと一気に呷ってから、
「さあ。一緒にいるの見かけなかったから、それきりだったんじゃない?」
気のない様子でそっぽを向く。
横恋慕された形の姉は、その相手に興味なんか持ちたくもないのだろう。
「……そう」
私は自己解釈して、それ以上追及せずに俯いた。
二人が別れた後……残りの大学生活で新しい恋人を作らなかったのは、姉も同じだ。
姉が大学、私がハイスクールを卒業するのとほぼ同時に、私たちは家族で日本に戻った。
それからしばらくして姉は他の男性と付き合い始めたけど、瞬君の時のように家に連れてくることはなかったし、私に話を聞かせてくれることもなかった。
姉は本当に瞬君のことを好きだったから、吹っ切れるまでに相当な時間がかかったはず。
結婚を控えた今になって、長いこと忘れられなかった元カレと再会して、一体どんな心境だったんだろう。
彼の婚約者偽装計画に協力するくらいなら、私が気にかける必要はないと考えていいのかな――。
私は自分の中で答えを探しながら、手元に目を落とした。
そこには、瞬君の名刺が置いてある。
『外務省二等書記官 剣崎瞬
Ministry of Foreign Affairs of Japan
Second secretary Syun Kenzaki』
日本語と英語で表記された外務省のロゴ入りの名刺には、彼のプライベートの電話番号とメールアドレスが手書きで記されている。
ついさっき、瞬君が去り際に走り書きしていったものだ。
確かに私にも、姉が目論む通りのメリットがある。
親に勧められるがままお見合い結婚なんて嫌だし、瞬君は姉の恋人だった人だ。
姉と私が並んでも姉に目を奪われて当然だから、がっかりもしなくて済む。
「ちょっと……考えていい?」
姉は私の視線を追うように、私の手を見遣った。
「いいけど、そんなに長い時間は……」
「わかってる。瞬君が日本にいる間、長くてクリスマスまでなんだもんね」
私は名刺の上に手を置き、きゅっと握りしめた。