LOGIN「大丈夫だよ」安人は、一睡もできずに腰が痛くなったことには一切触れず、平然と答えた。桜は、安人の様子をじっと観察した。見たところ、大丈夫そう。じゃあ、ちゃんと眠れたんだ!そう思って、桜は少しほっとした。「康弘さんが朝ごはんを作ってくれてるよ」安人は桜のキャラクターもののパジャマに目をやった。「顔を洗って着替えておいで。ご飯を食べたら、薬を取りに市内の薬局まで行かないとだから」そっか、薬局に行くんだった。桜は頷いた。「じゃあ、下で待ってて。すぐ準備するから」安人はうなずくと、階下へおりていった。……そして桜は部屋に戻り、クローゼットを開けて、じっくりと服を選んだ。なんといっても、安人と初めて二人で出かけるのだ。桜は、少しはおしゃれをすべきだと思った。新年ということもあるから、彼女は少し明るめのタートルネックのウールのワンピースを選んだ。下はシンプルな裏起毛のチャコールグレーのレギンスに、同系色のムートンブーツを合わせた。最後に、彼女は軽くメイクをした。そして、空気が乾燥する季節だから、口紅ではなくリップグロスを選んだ。鏡に向かってグロスを塗りながら、桜の頭にはまたもや、昨夜の二人のキスシーンが自然と浮かび上がってきた……すると、彼女は手を止め、鏡の中の自分をじっと見つめた。もし本当に夢だったなら、どうしてキスの感触が、あんなにリアルだったんだろう?……それから、桜が階下に降りていくと、康弘がちょうど朝ごはんの準備を終えたところだった。この辺りでは、年の初めにはわんこそばを食べることになっている。このそばが、桜にとっては悪夢なのだ!康弘は、いつも自分がお腹を空かせているんじゃないかと心配して、必要以上の量を用意してくるのだ。その上、お雑煮までついてくるから、その量は驚くほどだ。でも、普段なら断れても、元日の朝ごはんだけは絶対に断れない。この地方では、元日の朝は揃ってごはんを食べるのが縁起が良いと言われ、康弘もその習わしをとても大切にしているのだ。そう思って、桜はリビングを見回したが、安人の姿はなかった。「碓氷さ……じゃなくて、安人さんはどこですか?」「お庭にいるんじゃないのか」康弘は朝食を置きながら言った。「早く呼んできておくれ。そばが伸びてしまうからね」桜は
翌朝、外から聞こえてくる賑やかな音で、桜は目を覚ました。あまり遮光性のないカーテンの隙間から、太陽の光が差し込んでいるにの気づき、桜は目をこすり、ぐっと伸びをする。そして、天井を見つめたまま、しばらくぼーっとしていた。窓の外からは、子供たちのはしゃぎ声が聞こえてくる。桜は数回まばたきをして、大きくあくびをすると、すっかり目が覚めた。彼女は上半身を起こし、頭を掻く。なんだか、すごく大事なことを忘れているような気がした……部屋を見渡すと、ふと、ある一点で視線が止まった。窓際の小さなソファに、大きなプレゼントの箱が置いてある。それは、安人がくれた新年のプレゼントだ!碓氷さん!「やばい、碓氷さんが泊まりに来てるんだった」そう言って、桜ははっと我に返ると、布団をめくりあげ、スリッパに足をつっこんで慌てて部屋を飛び出した。プレゼントの箱は、まだソファの上に置かれたままだった。もし、この時桜が先に箱を開けていたら、あとで安人にあんな言葉をかけることはなかっただろうに…………桜は慌ててゲストルームの前まで走っていった。すると、ゲストルームのドアは開いていたが、中には誰もいなかった。昨夜彼女が整えたベッドは綺麗にメイキングされていて、人が寝た形跡は全くなかった。桜は一瞬、戸惑った。「俺を探してるのか?」背後から、不意に男性の低い声がした。桜はきょとんとした顔になって、振り返った。安人は昨日と同じ服を着ていたが、それでも相変わらずかっこよくて気品があった。桜が彼を見つめていると、ふと、昨夜キスした光景が頭をよぎった……それで、その後はどうなったんだっけ?2度目のキスが1度目より激しかったことまでは覚えている……でも、そのあとは?桜は眉をひそめ、必死に思い出そうとしたが、どうしても思い出せない。でも、安人の腹筋をまた触ったような、おぼろげな記憶はある……いや、あれは絶対に夢だ!いや、待って……もしかしてキスも夢だったのか?あーーーっ、もう!いったいどこまでが本当なの?!桜は心底後悔した。昨夜、好奇心で甘いお酒なんて飲むんじゃなかった。おかげで酔っ払っちゃって、現実と夢の区別がつかないじゃない!安人は、コロコロと変わる桜の表情を見て、彼女がまた頭の中で色々考えているのが分
安人はその中から桜が一人で写っている写真を一枚取り出した。それは桜が小学校のお遊戯会で撮った写真のようだった。子供らしい舞台メイクをして、前歯が抜けた顔で笑っていて、とても可愛らしい。安人はその写真をスマホで撮ってから、元の場所に戻した。そして、ベッドでぐっすり眠っている彼女に視線を移した。桜はいつの間にか寝返りを打っていた。暑かったのか、布団を蹴飛ばしてしまっていた。安人はそばに寄って、屈んで布団を引っ張り、かけ直してあげた。「待たせて悪かったな。酔い覚ましの薬がなかなか見つからなくて」康弘は酔い覚ましの薬を手に部屋に入ってきて、ベッドの桜に目をやり、それから安人の方を見て言った。「起こせそうかい?」「やってみます」安人はベッドのそばに座り、桜の頬を優しく叩いた。「桜、桜」「ん……邪魔しないで」桜は鬱陶しそうに安人の手を振り払った。「もうちょっとで、数え終わるところなのに」安人は一瞬黙ったあと言った。「康弘さんが酔い覚ましの薬を持ってきてくれたんだ。起きて飲んでから寝たら?」「イヤッ」桜は寝返りを打つと、そばにあったぬいぐるみを撫でながら言った。「碓氷さんの腹筋を数えてるの……あれ?この手触り」それを聞いて、安人は一瞬言葉を失った。そして、そばで聞いていた康弘の顔も曇った。「桜、寝ぼけたこと言うんじゃない!女の子が、そんなはしたないことを」しかし、桜は手を振って、ぶつぶつ言った。「もう、うるさいなあ。まだ触り足りないのに」それには安人もこめかみを押さえた。「康弘さん、俺が面倒見ますから」安人は桜がこれ以上とんでもないことを言いだすのを恐れて言った。「もうお休みになってください」だが、康弘はまだ心配なようで、安人を見ながら、探るように尋ねた。「そ、それじゃあ、客間がどこかは分かるだろう?」「はい。桜に案内してもらいましたから」それを聞いて、康弘は少し安心したようだった。彼は昔気質なところがあって、結婚するまでは、いくら彼氏でも一緒に寝るのはやはり少し行き過ぎだと思ったのだ。とはいえ、安人の前で、それをはっきり言うのは気が引けた。だが、今安人の言葉を聞いて、康弘はようやく納得したかのようにうなずいた。「わかった。それじゃあ、俺は部屋に戻るから。何かあったら呼んでくれ」「
花火が咲く夜空の下、彼の腕の中は広くて暖かかった。桜のあごを支えていた手は、いつのまにか彼女の後頭部に回されていた。長くて綺麗な指が、彼女の豊かで柔らかい髪の間に差し込まれる。キスは優しいものから情熱的なものに変わり、彼女特有の甘い香りを少しずつ奪っていくのだった。彼女は慣れていなくて、まったく彼の相手にならなかった。激しい胸のときめきの中で、呼吸は少しずつ彼に奪われていき、抵抗することもできず、足は立っていられないほど力が抜けてしまった。でも、腰に回された彼の腕は、ずっとしっかりと彼女を支えてくれていた。長くて熱い口づけは、しばらく続いた。キスが止むと、彼女はだらしなく彼の腕の中にもたれかかり、少し開いた唇で、はあはあと息を切らしていた。この息苦しさは、息ができなくなるのとは全然違う。全身の血が沸き上がって、頭のてっぺんから足の先まで痺れ、くらくらするものだった。安人は、彼女の呼吸が落ち着くのを少し待ってから、そっと顔を覗き込み、指の腹で赤くなった頬を優しく撫でた。彼の薄い唇がかすかに弧を描く。口を開くと、その声は低く、少しセクシーにかすれていた。「教えてくれ。どう感じた?」彼女はぱちぱちと瞬きをした。彼が何を言っているのか、すぐに理解できなかったようだ。すると安人は、キスで濡れて艶っぽくなった彼女の唇を指の腹でそっと撫でた。「俺がお前にこんなことをして、嫌な気持ちになったか?」彼女は一瞬動きを止め、そっと下唇を噛んだ。少ししてから、うつむいて、正直に首を横に振った。安人は、くすっと笑った。「嫌じゃないのか。じゃあ、気持ちよかったか?」そう聞かれ、桜は、思わずかっと顔が熱くなるのを感じた。なんでそんなこと聞けるのよ!彼女はそう思った。そして、顔を赤らめたまま、桜は慌てて後ろに下がろうとした。しかし、手応えを感じた彼が、このまま彼女を逃すわけがなかった。それから彼女は再び彼の腕の中に閉じ込められた。彼の意図を察して、桜はまつ毛を激しく震わせて何かを言おうとした。「碓氷さん……ん……」だが、安人は再び唇を重ねてきて、キスをさらに深めていった。彼女は彼の胸の服をぎゅっと掴み、頭がくらくらした。今夜飲んだ甘いお酒が一気に頭に上ってきたみたいだ。息継ぎがうまくできないのと、お酒のせいで、最後には目の前が真っ
そして、静まり返った真夜中、彼は何度も書斎のパソコンの前に座っていた。その度にマウスを動かしながらツイッターやSNSを遡り、桜のデビュー以来十年間の活動を追った。桜は20歳の時、とある歌番組に出演した。透き通るような歌声で、一時は高い評価を得た。しかし、それも長くは続かず、彼女はたった3回の収録で他のタレントと交代させられてしまったのだ。安人が気にかけて調べてみると、彼女の代わりに番組に出たのは、所属事務所の別の女性タレントだった。その理由なんて、安人は調べるまでもなく察しがついた。事務所が桜を干したり、思い通りに操ろうとしたりし始めたのは、多分あの時からだっただろう。それ以来、桜のスキャンダルが次々と報じられるようになった。それに伴って、彼女の芸能活動は急降下し、だんだん仕事も減っていき、ついには完全に干されてしまった。人を好きになるということは、その人のことを知りたいと思うことから始まる。安人は、桜のことを調べれば調べるほど、彼女のことを知れば知るほど、その境遇に胸を痛めるようになった。本格的に行動を起こそうと決心したのは、優希からある話を聞いたからだ。悠翔が、桜に近づくために有名監督からの映画のオファーを断ったらしい。そして、桜が今レッスンを受けている劇団に、どうしても入りたいと言っているそうだ。安人は口では「悠翔が成功するはずがない」と言っていた。でも、心の中ではその知らせを無視できずにいた。現に、その知らせを聞いてから、彼がここに来るまでの丸三日間、心はずっと落ち着かなかった。優希は彼のいつもと違う様子に気づいて、わざわざ会社まで会いに来た。その時、優希はこう言っていた。「お兄ちゃん。女の私だからわかるんだ。桜は絶対あなたのことが好きだよ。でもあなたが言うように、彼女はまだ子供っぽいし、それに育った環境もあって自分に自信がないの。だからきっと、この気持ちをずっと隠しておくつもりなんだと思うわ。彼女は女の子でまだ若いから、自分から告白に踏み出せないのも当然でしょ。もしあなたも彼女が好きなら、男らしくぐずぐずしないで自分から行動しなきゃ。彼女が未熟かなんて気にしないで、好きならハッキリ教えてあげなきゃ。そういう『育んでいく恋愛』も、素敵じゃない!」その場で、安人は優希の言葉に何も答えなかった。しかし、優希
酔ってはいたけど、記憶がなくなるほどではなかった。ついさっき、安人を引きとめて色々話してしまったことを康弘は思い出した。後悔と同時に、自分の話が桜に悪い影響を与えないかと心配になったのだ。安人は彼の心配を察して、なだめるように言った。「そんなに気にしないでください。むしろ桜さんのことを話してくれて、感謝しています。おかげで、彼女をより深く知ることができましたから。安心してください、俺がいる限り、全力で桜さんを守ると約束します」康弘は康人の顔を見て、力強く頷いた。「うん、君のその言葉を聞けて、安心したよ」目頭が熱くなるのを感じた康弘は、また取り乱してはいけないと慌てて言った。「もうすぐ12時だ。そろそろ初詣に行く準備しないと」「はい、桜さんも起こさないとですね」「なら、いいや」康弘は慌てて手を振った。「毎年行ってるから、そんなに焦らなくても大丈夫だ」そう言われると、安人も無理に桜を起こすのは忍びないと思って言った。「じゃあ、桜さんが目覚めるのを少し待ちましょう」それを聞いて、康弘も彼の気遣いに感心したかのように、笑って頷いた。それから、二人は一旦桜が起きてくるのを待つことにした。そこで康弘は安人に言った。「桜は毎年、初詣に行くのを楽しみにしてるんだ。今年は君が一緒にいてくれるから、きっともっと喜ぶだろうな」安人は口角を上げた。「これからは毎年大晦日に、彼女を連れて帰ってきますよ。一緒に年を越しましょう」康弘は手を振った。「いや、それはいい。気持ちはすごく嬉しいけど、女の子は嫁いだら、嫁ぎ先の家を優先しなくちゃ。この辺りの嫁はみんな、大晦日には旦那さんの家で過ごすもんなんだ。実家に帰ってきたりしたら、周りに色々言われちまう」本来なら、安人はそんな保守的な考えには賛成できなかった。でも、地域ごとの考え方の違いは、自分一人でどうにかできるものではないことも分かっていた。それに、桜とはまだ結婚の話が出ているわけでもない。だから、この話題をこれ以上続けるのは適切ではないと思った。しばらくして、康弘は時間を確認した。「そろそろ時間だ。私はお焚き上げの札の準備とかがあるから、君は桜を起こして、先に行きなさい」安人は頷くと、桜に向かって歩いた。一方、桜はまだソファに丸まっていた。そして、いつの間にか、その小さな顔
綾はテーブルの上の空になった酒瓶に目をやった。かなりの量を飲んでいる。音々は酒に強いとはいえ、酒は体にいいものじゃない。ほどほどにしておくべきだ。本当に命に関わることになったら大変だ。綾は輝に言った。「そろそろ休もうと思うんだけど、輝、あなたも早く寝た方がいいよ」輝は綾の言葉を聞いて安心した。そして彼は明日の結婚式の迎えの件について再度念を押してから、電話を切った。そして、綾もスマホを置いて、音々の手からグラスを取り上げた。「もう部屋に戻って休んだ方がいいよ。寝不足だと明日のメイクのノリが悪くなるよ」そう言われて、音々は素直に引き下がった。「我妻監督、今夜は私の
休憩室で、ウェイターが魚介類の入ってない数種類のおかずとご飯を用意してくれていた。詩乃は一人で食べるのは少し気が引けて、浩平に一緒に食べないかと尋ねた。「気にするな、俺はさっきたくさん食べたからな」浩平は近くのソファに座り、足を組み、背もたれに体を預けながら気だるげに言った。「ゆっくり食べろよ、急がなくていい」詩乃は頷いた。「ええ」席に着き、目の前に並んだ料理を見て、詩乃は少し胸がときめいた。どれも彼女の好物だった。浩平はいつもこうだった。兄として、自分のことをいつも気にかけてくれていた。留学していた頃は、浩平から本当の家族愛を感じていた。しかし、詩乃はよく分かって
しかし、蛍は話が通じていないのか、あるいは分かっているけど、気に留めようとしない様子だった。彼女は人懐っこい笑顔を浮かべたまま、さらに言った。「浩平兄さんって、あんなに素敵な人なのに、奥さんが詩乃さんみたいな人だなんて、ちょっと予想外だった。あ、誤解しないでね。詩乃さんが悪いって言ってるわけじゃなくて、ただ浩平さんの隣に立つには、ちょっと地味だなって。それに、仕事の助けにもなれなさそうだし」「木下さん、失礼ですが、旦那様とはお知り合いになって長いのですか?」蛍は一瞬固まったが、花梨を見て、あっけらかんとした様子で首を横に振った。「いや、会ったのは数日前だけど。でも、昔からずっと知っ
一週間で曲が3曲売れて、たいした額じゃないけど、一人で暮らしていくには十分なお金にはなった。あと何曲か売れたら、この都市を出て暮らそうと詩乃は思っていた。しかし予想外に、その一週間後に咲玖から電話があって、浩平が帰ってきたから、実家でご飯を食べようと言われたのだ。詩乃は本当は帰りたくなかった。でも、浩平には会いたかった。彼ならきっと力になってくれるだろうと思ったからだ。こうして結局、彼女は実家に戻ることにした。まさか、それが罠だとも知らずに。あの日、浩平はひどく酔っていて、使用人に支えられて部屋に戻った。そしたら咲玖から彼に、酔い覚めのスープを持っていくようにと言われたのだ。







