LOGIN「あなたの夫を買います。離婚してください」 女性社長が提示した金額は5億円。35歳の真帆は、夫の裏切りと8歳の娘の反対に揺れる。それでも奪われた仕事と家族の未来を守るため、自ら離婚条件を書き換えていく。
View More離婚の翌日、マンションの集会室に灰色の箱が届いた。運んできたのは、加奈と高井生活デザインの法務担当だった。加奈は私がふたを開けるのを待った。青、緑、黄色。見覚えのある大学ノートが、7冊重なっていた。1冊目には、ミルクをこぼした丸い染みがあった。開くと、夜中の授乳時刻の横に、眠気で曲がった私の字が残っていた。【やったことではなく、まだ誰も気づいていないことを共有する】冷蔵庫の牛乳、保育園の着替え、予防接種の予約。その次のページには、用事を家族ごとの色で分けた画面が描かれていた。「わが家帳」に今も使われている並びだった。端に、小さな黄色い手形があった。かぼちゃの離乳食をつけたひよりの手を、拭く前に押した跡だ。「これを、啓介は自分が作った資料として出したんですか」「はい。会社の資産として申告していました」私は表紙を開いてみせた。裏には、水城真帆と書いてあった。「私の名前、ここにあるのに」「原本は、水城さんにお返しします」「真帆と呼んでもらえますか」加奈が顔を上げた。ひよりと同じ姓でいるために、私は離婚後も水城を名乗ることにした。けれど、この箱の前では、啓介の妻としてではなく、ノートを書いた本人として話したかった。「真帆さん。全部そろっていますか」私は順に表紙を開き、7冊を確かめた。育児日誌の間に、画面の案があった。娘の食べた物の記録の隣に、利用者へ渡す説明文があった。仕事だけ抜き取ろうとしたら、ひよりの手形のあるページまで外さなけれ
駅で広告を見た夜、私は律子にもう一度、掲載を止めてほしいと頼んだ。同意していないと会社へ知らせてあったのに、ひよりの顔は大勢の前に出された。その夜のうちに、啓介にも写真の使用には同意していないことと娘が学校で傷ついたことを伝え、改めて広告の停止を求めた。数日後、駅の広告は消えた。けれど、ネットへ転載された写真も、娘が学校で言われたことも、消えなかった。私は啓介に、改めて電話をかけた。「まず、あの子に謝って。もう写真を使わないって、あなたから約束して」「広告は下げただろ。買収前に騒ぎを大きくするなよ」「下がったから、ひよりも平気になると思ってるの?」「お前が会社を悪者にしなければ、娘も気にしない。離婚の話を先に片づけてくれ」娘の様子を聞こうともしなかった。この人と夫婦でいれば、ひよりを守れる。まだどこかに残っていたその期待が、なくなった。「離婚する。でも、あなたの都合で娘を使うことは、もう認めない」返事を待たずに電話を切り、律子へ連絡した。……9月24日の朝、法律事務所で啓介は離婚届を机へ置いた。夫の欄は埋まり、妻の欄だけが空いていた。「ここに書けば済むんだろ」律子が書類を脇へよけた。「先に、おふたりが守る約束を確認します」私は用意した7ページを啓介の前へ置いた。ひよりの親権は私が持ち、娘と今の家に住む。学校も変えない。養育費は月30万円、教育や医療の臨時の支出は別に相談する。啓介と会う日は月1回を目安に、娘の気持ちと学校生活を優先する。
9月18日、私は城戸法律事務所の相談室にいた。ホテルでもらった書類、啓介のタブレットを撮った画像、私の署名が使われた同意書。日付順に並べると、律子はひとつずつ確かめた。相談を申し込んでから、面談までの間に資料を送ってきた。律子はすでにミナモリンクへ、私は写真利用に同意しておらず、掲載しないよう求める通知を出していた。「ご主人の書類には、私が確認するまで署名しないでください。仕事の原本も渡さないで。離婚のお金で、作った画面や文章、写真の問題まで終わらせることには同意しないでくださいね」「離婚するかどうかは、まだ決めていません」「それでいいんです。今日は条件を確かめましょう」律子は高井側に照会した資料を広げた。「5億円を送るのは高井側ですが、負担するのはご主人です」私はペンを止めた。「高井さんが、自分のお金で私に払うんじゃないんですか」「会社全体の買収額が50億円。そのうち、ご主人が受け取る予定の代金が10億円です。買収が成立する日に、その代金から5億円を、こちらの管理口座へ直接送る案です」「夫の取り分から出るんですね」「はい。最初の提案は1億円でした。高井側が、婚姻中の貢献と娘さんの生活を踏まえて5億円の案を出すよう求め、ご主人が署名しています」啓介は自分の受取額を知っていた。そのうえで私には、5億も受け取るのにまだ足りないのかと言った。私から要求したお金でもないのに。「私は株を持っていません。初期の画面や文章を作りましたが、それが5億円だと決まるわけではないですよね」「ええ、法律で決まった額ではありません。今ある
土曜の教室で、私は後ろの壁に貼られた家族カードを見つけた。ひよりの絵には、私の顔が戻っていた。消しゴムで毛羽立ったところに描き直したせいで、髪の色がむらになっていた。細くなった腕は、それでも真ん中のひよりとつながっていた。好きなところの欄には、【話を最後まで聞く】とあった。保健室から帰って以来、ひよりは私と一緒に眠らなくなった。話しかければ返事はした。でも、靴を履く時に私の手をつかむことも、帰宅するとランドセルを預けることもなくなった。その娘が、私をもう一度、赤い屋根の下に描いてくれた。授業が始まっても、啓介は来なかった。私は隣を空けて立っていた。「次は、水城さん」ひよりが教壇に出た。「私の家族は、3人です」廊下から足音がした。紺色のスーツを着た啓介が入り、ほかの保護者に頭を下げた。ひよりの顔が、ぱっと明るくなった。「パパは、家族が便利になる会社を作りました。忙しいけど、今日は来てくれました」啓介はスマートフォンを構えた。先生に撮影を注意されると、すぐに下ろした。「ママは、話を最後まで聞いてくれます」ひよりは私を見なかった。私は拍手をしながら、あの絵を大切に持ち帰りたいと思った。パパのところに行くと言われたことも、消された顔を見た時の悲しさも忘れてはいなかった。それでも、描き直してくれたのがうれしかった。休み時間、啓介は先生に名刺を渡していた。「家族の会話を増やすのが、うちの理念なんです」ひよりは父親の隣で、話し終わるのを待っていた。私もそのそばに立った。こうして並んで