LOGIN「あなたの夫を買います。離婚してください」 女性社長が提示した金額は5億円。35歳の真帆は、夫の裏切りと8歳の娘の反対に揺れる。それでも奪われた仕事と家族の未来を守るため、自ら離婚条件を書き換えていく。
View More【あなたの夫を買います。離婚してください】
夫の水城啓介(みずき けいすけ)が送ったメールに、そう書かれていた。
すぐ下には、【妻には、この通り伝えてください】とあった。
仕立てのいい黒いジャケットを着た女性が、印刷したメールを私に向けた。慣れた手つきで紙の端をそろえ、私を見た。
向かいに座るのは、高井加奈(たかい かな)。高井生活デザインの社長で、42歳だという。彼女の会社は、夫が創業したミナモリンクの買収を検討していた。
私は夫の取引先に会うつもりで、このホテルへ来た。
買収の審査で、私が昔作った画面や文章について聞きたいのだという。ラウンジで名刺を受け取り、まだコーヒーに口もつけていなかった。
「私たちが離婚するって、夫が言ったんですか」
「ご主人は、奥様とは話し合い済みだと説明しています。ただ、私にこんな言葉を言わせるよう求められて、そのまま引き受けるわけにはいきません。水城さんは、離婚のお話を聞いていらっしゃいますか」
「聞いていません。ひと言も」
「買収資料の説明をご主人だけに任せ、直接の確認が遅くなりました。申し訳ありません。まず、私が伺っていた話と違うことを記録します」
啓介は、私との結婚を取引先への頼み事で終わらせようとしていた。妻に金額を示せば、夫を手放すはずだとでも思っているのだろうか。
朝は同じ食卓についていた。私が娘の水筒を用意する横で、夫はいつもどおりコーヒーを飲んでいた。
私だけが何も知らずに、取引先に失礼のない服を選んで来た。
「こちらも、ご主人から届いた条件案です」
加奈がメールに添えられていた書類を出した。上段には、大きな数字があった。
【離婚解決金 5億円】
その下には、私と娘が今の家に住み続けること、娘を転校させないこと、連絡は代理人を通すことが並んでいた。
在宅で会社案内を作る仕事を何年続けても、届きそうにない金額だった。けれど、何より怖かったのは、夫と離婚したあとの暮らしが、こんなに細かく決められていることだった。
「夫は娘のことまで、私に聞かずに決めたつもりなんですね」
「あくまでご主人が示した案です。水城さんが同意したことにはなりません」
学校は変わらなくても、一緒に暮らす家族は変わる。8歳の娘に誰がそれを伝えるのか。
父親が帰ってこない夜、何と言って寝かせるのか。
書類には、何も書いていなかった。
「買収に、私たちの離婚が必要なんですか」
「いいえ。弊社が離婚を条件にしたことはありません」
「だったら、夫が自分で私に話すべきでしょう」
「おっしゃるとおりです。この案に、今お返事をいただく必要はありません。持ち帰って、弁護士に確認してください」
私は書類に触れないまま尋ねた。
「夫は、いつからこの話をしていたんですか」
加奈が裏面を開いた。
【上記条件を前提として、離婚協議の開始に同意します】
その下に啓介の署名があった。右上がりの、見慣れた字だった。
婚姻届にも、娘の水城ひより(みずき ひより)の出生届にも、啓介はこの字を書いた。
日付は2週間前だった。その3日後は、私の誕生日だった。
啓介は白い花束を買って帰ってきた。
「来年は3人で旅行しよう。ひよりの行きたいところに連れていこう」
その夜、私は旅行先を検索した。啓介も隣で画面を見ていたし、ひよりは私たちの間に割り込んできた。
「朝ごはんも3人で食べるんだよね」
「そうだよ」
啓介が笑って答えると、ひよりは宿の写真を次々に指さした。私も、娘と一緒になって画面を見ていた。
遠くへ行けなくてもよかった。朝から夜まで、仕事の電話で席を立つことなく、3人で過ごしたかった。
数日後に花がしおれ始めても、私は捨てられなかった。茎を切り、水を替え、まだ開きそうなつぼみを残した。久しぶりに啓介からもらった花だったから。
花を買った時も、旅行を約束した時も、啓介はもう署名していた。
あんなに喜んでいた私とひよりを、どんなつもりで見ていたのだろう。
「持ち帰ります。夫に直接聞きます」
書類を封筒へしまった。最後の角が引っかかり、何度か押して、ようやく入った。
会計は済んでいると言われたが、私はコーヒー代に1000円札を置いた。
加奈に何かをしてもらうたび、まだ知らないことまで承諾した気になりそうだった。
エレベーターの鏡に、薄いベージュのブラウスを着た私が映った。
汚れても家で洗える服。低く束ねただけの髪。身だしなみは整えてきたけれど、華やかさはなかった。
水城真帆(みずき まほ)、35歳。結婚して11年。
娘が生まれてからは、仕事の名刺より学校の保護者証を出すことのほうが多くなった。
その私の鞄に、5億円の離婚条件が入っていた。
スマートフォンに、啓介から連絡が届いた。
【今夜は遅くなる。ひよりの宿題、よろしく】
すぐあとに、ひよりからも来た。
【ママ、牛乳ないよ】
5億円で離婚を持ちかけられた帰りにも、牛乳は要った。
家へ向かう途中、スーパーに寄った。牛乳と卵、ひよりが朝に食べる小さなヨーグルト。昨日と同じものをかごに入れ、レジで1000円札を2枚出した。
これでは5億円の端にもならない。そんな比べ方をした自分が嫌だった。
運河沿いのマンションに帰ると、ひよりが玄関へ走ってきた。
「遅い。ココア作れなかった」
「ごめんね。今作る」
「パパは?」
「仕事だって」
ひよりは牛乳を両腕で抱えて冷蔵庫まで運んだ。ダイニングには、授業参観で発表する家族カードが広げてあった。
大きな赤い屋根の下に、紺色のネクタイをした啓介と、茶色い髪の私がいた。ひよりは真ん中に自分を描き、両側の手をつないだ。
「パパの好きなところは、会社を作ったところ。ママは……ココアがおいしいところにしようかな」
ミナモリンクの「わが家帳」は、家事や予定を家族で共有するアプリだ。その最初の画面も、使い方の文章や案内も、私が作った。
今請け負っている会社案内の仕事とは違う。ひよりを抱きながら、台所で始めた仕事だった。
ゴミ袋を替える。予防接種を予約する。麦茶を作る。気づいたひとりが全部抱え込まないように、ノートに書き、画面の形にしていった。
でも、ひよりは知らない。啓介が会社を作った話をするたび、私は娘の前で言い争うのを避けてきた。
私の作ったものを会社がどう使うかも、いつか正式に契約しようと言われ、そのままになっていた。
「ココアでいいよ」
鍋に牛乳を注いで火にかけると、玄関の鍵が開いた。遅くなるはずの啓介だった。
「パパ、発表に来る?」
「もちろん。うちの会社も家族を大事にしてるからな」
啓介はひよりの頭をなで、取引先でもらったという焼き菓子の缶を渡した。娘に家族カードを見せられると、自分の似顔絵に笑った。
「ネクタイまで同じだ。よく見てるな」
「ママの好きなところ、ココアでいいかな」
「いいんじゃないか。真帆は家のことをしてるのが一番向いてるよ」
優しい声だった。ひよりは安心したように、ココア、と書き始めた。
私は夫を呼んだ。
「啓介」
顔を上げた夫に封筒を見せかけて、やめた。ひよりのカードが目に入った。せめて、この子がいないところで聞きたかった。
鞄を椅子の下へ移そうとすると、啓介が先に持ち上げた。
「ここに置くと邪魔だろ」
鞄の口から、封筒が落ちた。白い書類が半分滑り出した。
啓介の笑顔が消えた。
私が拾うより先に、ひよりが家族カードを読み上げた。
「りこん、かいけつきん?」
ひよりは私と啓介を見比べた。
「ママ、パパを売るの?」
4月の朝、ひよりは椀に残ったわかめを箸で集めていた。小学4年生になって、1週間がたっていた。「そろそろ出ないと、遅れるよ」「あとひと口」「わかめは逃げないから」「学校は逃げる」そんなことを言いながら、ひよりは最後まで味噌汁を飲んだ。椀を流しへ運び、ランドセルを背負った。「今日、家族カード返ってくる」3年生の授業で作ったものではなかった。新しい担任が、【わたしが帰りたい場所】という題で書かせたカードだった。「見せてくれる?」「考えとく」私はうなずき、玄関まで一緒に行った。「いってらっしゃい」「いってきます」エレベーターの扉が閉まるまで見送り、それから食卓を片づけた。書斎の窓際には、私の作業机があった。灰色の保存箱は、鍵のかかる棚に収めていた。7冊のノートはスキャンしても、原本を会社に預けてはいなかった。机の上には、介護する家族へ聞き取りをしたシートが広がっていた。誰が何を担当するか。それだけでなく、すぐには返事ができない日も書き込める冊子を作っていた。私は答えを読み返しながら、図解の横に入れる文章を整えた。まだ書き終わっていない箇所に印をつけ、続いて見積書を開いた。原稿と図解、修正の回数、使える範囲。依頼されている仕事と食い違いがないか、順に確かめた。最後に、自分の名前を入れた。高井生活デザインとの打合せへ出かける前に、紙をまとめた。机の外に
10月15日、律子から入金の連絡が来た。買収が成立し、高井側から、律子の事務所が管理する私のための口座へ5億円が直接送られていた。啓介へ渡す代金から、離婚の合意どおりに支払われたのだった。私は送られてきた明細を開いた。「これで、5億円の支払いは完了です」「ありがとうございます」電話を切ってからも、しばらく画面を見ていた。数字の桁を数え直した。これだけのお金が入ったことを、すぐには自分の暮らしと結びつけられなかった。夕飯の時間になると、ひよりはいつもの椅子に座った。「ママ、食べないの?」「食べるよ」私はスマートフォンを伏せ、向かいに座った。ひよりは手を合わせ、椀を持ち上げた。啓介がいた頃と同じ木のテーブルだった。娘はいつもどおり夕飯を食べていた。今日、入金があったと教えても、科学館のあの日が別の日になるわけではなかった。桁の多い数字を気にしていたのは、私だけだった。自宅の名義の手続きも済ませた。空いた書斎には、私の作業机を置いた。ひよりが学校から帰ってくると、どこまで終わったの、と入口からのぞくようになった。科学館でのことがあって、親子交流はいったん2か月休むことにした。冬になっても、ひよりの気持ちは揺れていた。学校から持ち帰ったプリントを見ながら、パパにも見せたかったと言う日があった。「また、会いたい?」私が聞くと、ひよりは紙を見たまま、うなずいた。「でも、またお仕事って言うかもしれない」
10月8日、律子の事務所で、私は条件変更案を読んだ。啓介への支払いから、条件付きだった2億円が外されていた。買収後の役員候補にも、啓介の名前は残らなかった。「監査に正しい情報を出さなかったことが、理由です」律子は、次のページを私に向けた。「成立すれば、啓介さんが受け取るのは8億円。そこから真帆さんへの5億円と、写真の削除や訂正などにかかる費用が引かれます」「私への支払いを減らすという話には、なっていませんね」「なっていません。合意した支払いは残っています」私はその欄をもう一度読んだ。その日の午後、啓介が変更条件を受け入れ、署名したと律子へ連絡が入った。ミナモリンクは、会社の名前で訂正を出した。私とひよりの写真や名前を同意なく使ったことを認め、削除して謝罪する。初期の制作物から私の名前を外し、使う範囲をきちんと決めなかったことも正すとあった。私は画面を下へ送った。元妻が会社へ過大な要求をしたという以前の発表は、事実ではなかった。先に離婚条件を提示したのは啓介で、その後、夫婦の間で離婚に合意した。その部分まで確かめてから、律子へ返事をした。ひよりが父親を求めて泣いたことも、私に話した言葉も、そこには載せなかった。学校の先生が訂正のリンクを共有し、記事を回していた保護者から、私に謝罪が届いた。家でそのことを伝えると、ひよりは黙って聞いていた。「5億円の子って言った人、明日忘れるかな」「すぐ
「娘に、もう会社の宣伝をさせないでください」10月5日、月曜日。高井生活デザインの審査室で、私は向かいに座る啓介へ言った。土曜の科学館で、啓介は嫌がるひよりに台詞カードを持たせ、会社向けの撮影をしていた。父親と遊びに行った日にまで、会社の都合を押しつけられた。その繰り返しを止めるために、私はここへ来た。隣には律子がいた。加奈と法務責任者、外部会計士、ミナモリンクの株主代表も席に着き、沙耶は手元の端末を開いていた。啓介は私を見ずに、加奈へ話しかけた。「元妻が、金額を増やすために騒いでいるんです。娘のことまで持ち出して」「ひよりを撮影に連れていったのは、あなたでしょう。私が断ったあとも、娘の顔を使っていた。なぜ止めなかったの?」「だから、それは広報の確認ミスだ」私は写真の同意書を机に置いた。隣に、ひよりの学童申込書の写しを並べた。「この署名は、学童の申込みに書いたものよ。広告に使っていいと署名したことはない」法務責任者が、会社で保全した保存履歴を画面に出した。同意書は広報担当のアカウントで作られ、学校へ出す書類から署名を転用したと記録されていた。啓介はようやく画面を見た。「俺は、署名を写せとは言ってない。急げと言っただけです」科学館に来ていた広報担当が、席を立った。「使える署名があるか社長に確認しました。家庭内の同意だから、以前のものでいいというお返事でした。やり取りも提出しています」「言い方の問題だろう。家族なんだから、いちいち書類を作り直さなくても――」「私が嫌だと言っ
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